【8】
第24話
イーサンの乗った一番機が暴走した理由について、わたしは今でも正確な答えを知りません。あの後、何度が問いましたが、ミハイロワ先生は一度たりとも教えてはくれませんでした。
たぶん、ほんとうは誰も知らないのです。メディカルチェックにも異常はなく、機械の方にも問題はなかった。だとすればきっと原因は、イーサン自身にあったということになります。
メディカルチェックに引っかからないどこかの異常。高度な現代医学をもってしても、精神的なものごとを数値化することは、いまだ困難なのだそうです。
イーサンの死なんて、誰も気にしませんでした。だって、それどころではなかったのですから。セキレイ一番機が、
わたしはあの時のことを、ほとんど覚えていません。ただ間違いなく、わたしがイーサンを殺しました。いくら軍の命令とはいえ、生まれてからずっととなりにいたイーサンを、『心』がないなりに最愛の友人だったイーサンを、わたしは自分の手で、撃墜したのです。
虚脱状態、というのでしょうか。その後、わたしはしばらく、機能停止状態のまま過ごしました。『心』ある人間は、そのような症状を『抑うつ』とか『ショック』とか、そんな風に言うそうです。空腹は感じず、『調整』の後でもないのに常に強い吐き気がしました。全身に力が入らず、疲労感があるのにも関わらず、そのくせして夜は眠れませんでした。
現代医学は『精神』というものの数値を測ることはできなくても、身体の不良については、いくらでも数値化できます。わたしの体はボロボロでした。貧血と低栄養と疲労と不眠で、兵器としての機能を完璧に喪失していました。
医療技官に言わせると、わたしは『抑うつ状態』だというのです。それは『心』がある人間の話だろうと思いました。わたしには『心』がないはずなのに、『心』に『ショック』を受けているのだと、その技官は言いました。今思えば、ほんとうにおかしな話です。
わたしのないはずの『心』は、完全に均衡を失いました。イーサンの残した爪痕が深く残る基地の中で、わたしはしばらくの間、『稼働停止』を命じられました。出撃も待機も『調整』もなく、毎日をただひたすらに横になって過ごしました。
イーサンが死に、彼のせいでアンドリューが死に、寮はほんの少しだけ広くなった気がします。それから間もなく、グエン曹長にぶん殴られたヴィクトルも死にました。戦線が大きく崩れているのを、わたしは一度も出撃しないまま、手に取るように感じていました。わたしの分まで出撃し、次第に疲弊していくニコールを横目で見ながら、わたしは『稼働停止』という休暇に、大人しく甘んじました。
そうやって秋が終わり、冬が来ました。赤道近くの久我山基地にとっては、温暖でとても短い夏。雪なんて降るはずがないのに、わたしは毎朝外を見て、雪が降っているのを期待していました。雪が降っていれば、わたしは何だかヒナタに会えるような気がしていたのです。
ヒナタ。
わたしたちと彼女が出会ってからもう七年になります。別れて過ごした歳月の方が圧倒的に長いのに、わたしはあの時の記憶を黄金のように、胸の中にしまい込んでいました。イーサン亡き後、彼女を思い出す頻度は加速していました。
冬の中ごろになって、ようやくわたしは『稼働再開』を認められました。医療技術者はまだわたしには休養が必要だと言ってくれましたが、軍部はそれを跳ね除けました。戦えない兵器はゴミクズと一緒でした。わたしもその通りだと思います。だからわたしは戦線へと復帰しました。
久しぶりの出撃も訓練も『調整』も、ずいぶん過酷に感じました。よく昔はこんなものに平然と耐えてきたな、とすら思いました。
そんなある日のことです。もうほとんど冬は終わっていたころでしたが、わたしはやっぱり雪の気配を外に求めていました。
最初、音は空耳だと思ったのです。――そのころのわたしは、ひどい幻聴に悩まされていたので。でも耳を澄ませると、たしかに音がしました。ノックの音。あの寮の部屋に鍵はありません。ニコールなら、ふつうに入ってきたことでしょう。
「誰?」
「僕」
アイゼアの声でした。
彼はそっと扉を開けて、そのほんの細い隙間から、わたしの目を見つめてきました。まるで幽霊みたいな細面は、イーサンが死んでからますます細くなった気がします。
「……どうしたの?」
アイゼアがこうやって個人的に訪ねてくることなんて、今まで一度もありませんでした。
「……これ」
そう言って、彼はわたしにキラキラ光る何かを渡してきました。
「あ……」
お守りでした。
ヒナタがイーサンに贈った、キラキラ光る、ビーズのお守りでした。
わたしの目はきっと、大きく見開かれていたでしょう。アイゼアは暗く目を伏せて、
「ベッドの裏に、落ちていたんだ。……イーサンのだよね、それ」
「……うん」
非情な青空が窓に切り取られて、晴れの日の光が室内に落ちていました。それでもわたしたちふたりが立っている位置はとても薄暗くて、わたしにはまるでアイゼアが、暗闇から立ち上ってきた死神のように思えてなりませんでした。
「イーサン、いつもそれをつけて出撃していたよね」
「……うん」
「たぶん、あの時、見つからなかったんだと思うよ。ベッドの下に落として」
だからイーサンは、ヒナタのお守りを身につけないで出撃したのでしょう。代わりに、わたしのカーキ色の薄汚いミサンガをつけたまま。
「……アレクサ」
「……」
「元気、出して」
「……」
「それじゃ、僕、行くから」
アイゼアはそう言って、部屋を出て行きました。
彼がいなくなってからたっぷり十秒、わたしはヒナタのお守りを握りしめました。いざと言う時、ほんとうに肝心な時に、このお守りはイーサンを守ってはくれなかった。このお守りを持っていかなかったから、イーサンの一番機は暴走をはじめたのかもしれません。そして他でもないわたしのミサンガは、何の役にも立たなかったのです。
ヒナタが好きだったと言った、イーサンの横顔を思い出します。瞬間、口の中に、何かとてつもなく苦いものが、広がっていきました。
イーサンの死、ガブリエルの死。そしてわたしの目の前で昏倒して泡を吹いて死んだ、わたしより一個上の、わたしとはべつのアレクサの死。
『心』があるふつうの女の子のヒナタは、こんな死に方をしないでいいのでしょう。でもわたしは兵器だから。『心』がない人間だから。わたしの死もまたイーサンやガブリエルやもうひとりのアレクサと同じように、暗くて冷たくて、そして哀れなものになるのでしょう。
わたしのないはずの『心』が、沸々と熱くなりました。わたしはベッドに倒れ込み、枕の下の紙袋を取り出しました。わたしの宝物が入った袋。隅っこに『Alexa』とマジックペンで書かれた、わたしだけの宝物。
その袋に入っていたものが、わたしのすべてでした。
わたしは白いシーツの上に、袋の中身をぶちまけて並べました。ヒナタがくれたネックレス、ガブリエルの遺品のブレスレットに、小さなクマのぬいぐるみと、読み古したシンデレラの本。そしてわたしはその中に、イーサンの残したお守りを加えました。
これがわたしのすべて。
わたしというアレクサの持つ、すべて。
「……」
わたしはそれらひとつひとつを紙袋に戻しながら、考えました。わたしたちは兵器のパーツ。『泣く』ということすら分からない。兵器として死んでいくことを、何よりも誇りにしているはずのわたしたち。わたしはいつか待ち受けるだろう、わたし自身の死に対し、胸を張ることはできませんでした。
誰にも看取られず、わたしの攻撃で息絶えたイーサン。この基地の誰からも疎まれ、未来永劫、罪人としてその名を刻まれたイーサン。たぶんこれから生まれてくる兵器の子どもたちに、イーサンという名前はいなくなるでしょう。
「……イーサン」
わたしはわたしのすべてを袋に入れ、強く抱きしめました。残酷な青い空が目に眩しくて、その分よりくっきりと濃く、影がわたしを取り囲んでいました。
「わたしは」
わたしは死ぬのが、『怖い』。
わたしはあなたが死んだのが、『悲しい』。
わたしはたしかにイーサンの死の中に、自分自身の未来を見ました。ああやって兵器として死に、誰からも褒められず死んでいかなければならないという事実に、わたしの空っぽのはずの胸は、深く深く、抉られました。
殺戮兵器が轟音を撒き散らして外を飛び、窓ガラスがビリビリと揺れました。
そして数日後、わたしは行動を起こしました。
交戦中のどさくさに紛れ、わたしは軍を脱走したのです。
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