第6話

 それで気をよくしたのか、以後ヒナタはイーサンだけでなく、わたしにもずいぶんいろいろ話しかけてくれるようになりました。


 今思い出せば、それは友だちとしての接し方ではなく、ほとんど母親と子どものやりとりのようなものでした。『情操教育』という言葉を、当時のわたしは知りませんでしたが、まさしくそんな感じでした。


 ヒナタは事ある毎に、わたしにプレゼントをくれました。ふつうの女の子の心をくすぐるような、きらびやかなアクセサリーにはじまり、小さなくまのぬいぐるみや、短くなった色鉛筆のセット。何を開けるのか定かではない鍵に、色鮮やかなリボンがついたヘアゴム。わたしはミハイロワ先生に頼んで、紙袋をもらいました。その紙袋の中に、ヒナタがくれたさまざまな品物を入れ、枕の下に隠しました。


 わたしたち兵器の子どもたちは、私物を持つのを禁止されています。それは『心』の存在を認めることになるからだと、誰かから聞きました。


 でもわたしだけでなく、ガブリエルやニコールも、宝物を持っていました。わたしたちより一個上の、わたしとはべつの個体のアレクサも、辞書に挟んでぺっちゃんこにしたクローバーの押し花を、それはそれはだいじにしているのだとウワサになっていました。


 最後まで一度も聞きませんでしたが、たぶんイーサンだって、自分だけの宝物があったのでしょう。他の子たちよりも『心』が色濃く残っている彼が、宝物を持っていなかったわけがないのです。


 その宝物が何だったのかは、今のわたしにはもう、分かりません。あの時、彼が暴走事故を起こす前に、聞いておけばよかったな、と今ではつくづく、そう思います。




『情操教育』にあたって、ヒナタはわたしたちに、よく本を持ってきてくれました。本といっても、その多くが絵本で、『桃太郎』とか『花咲じいさん』など、日本の子どもたちの誰もが知っているらしい物語でした。本はフェンスの網目を通すことはできないので、足下、地面とフェンスのほんの少しの隙間から受け取りました。本の文字は日本語で、とうぜん、わたしやイーサンには読めなくて――わたしたちは英語教育しか受けていませんでしたから。ヒナタはそれらを英訳して聴かせてくれました。


 わたしたちが英語の読み書きしかできないことを知ると、ヒナタは洋書を持ってくるようになりました。彼女の祖父母の家には蔵があるらしく、そこから昔の本を引っぱり出してきたようです。昔、彼女の母親が少女だったころに読んでいた本を、ヒナタは読んで聴かせてくれます。にんぎょひめ、マッチうりの少女、おやゆび姫、みにくいあひるの子。どうやらヒナタの母親は、アンデルセンのファンだったようです。


 少女向けの物語の数々に、イーサンは辟易していたようですが、それでも本を読むという行為そのものには、多少の関心があったようです。雪溶けの季節が終わり、養育機関の敷地内には、春の若々しい緑が戻ってきていました。カエルもアリもザリガニもいたのに、イーサンがかつての残酷な遊びに戻ることは、その後、一度もありませんでした。




「今日はね、『シンデレラ』を持ってきたの」


 ヒナタはそう言って得意げに、背中から一冊の絵本を取り出しました。


「しんでれら? 今度は何の話だよ?」

「お姫さまのお話よ」

「またお姫さまかよ」


 イーサンはぶつくさそう言って、フェンスの下から本を受け取りました。雨上がりの晴れ間の日で、フェンスの下をくぐった本の表紙に、ほんの少しの泥がついてしまいました。


「どんな話?」


 わたしは訊きました。『心』がないなりに、幼いわたしはこの読書の時間を気に入っていたようです。


「かわいそうな女の子がね、お姫さまになるのよ」


 かわいそうな女の子、お姫さま。

 わたしはその言葉に何か不可思議なものを感じながら、日に焼けたページをめくりました。


 今ならば、あの時の『もやもや』に、何かしらのうまい説明ができるでしょう。たぶんヒナタは、わたしのことを『かわいそうな女の子』として認識していたに違いありません。その『かわいそうな女の子』が、舞踏会に出て王子さまに見初められる。そして彼女はお姫さまになって、王子さまと幸せに暮らす。その一連の流れに、ヒナタはわたしの中の何かが呼び覚まされることを期待していたのだと思います。


 実際、わたしは衝撃を受けました。灰をかぶって床を掃除する少女に、自分の面影を重ね、意地悪な継母は、いつの間にかミハイロワ先生の顔になっていました。でも不思議なことに、王子さまの顔には誰も当てはめられません。少なくともとなりにいるイーサンは、ぜんぜん違うと考えていました。


 わたしは『夢中』になって、ページをめくり続けました。古く日に焼け、色褪せた紙が、指の脂を吸い取っていくのが分かりました。最初から最後まで、もう一度くり返し、最後のページは四回読みました。シンデレラは王子さまと幸せに暮らしました。『幸せに』の意味がどうしても分かりませんでしたが、それでもその物語は、ないはずのわたしの『心』を動かすには、十分な何かになりました。


 そんなわたしの姿を見たイーサンはたぶんあきれていたはずで、ヒナタは笑いながら、金網の向こうでそれを見ていたに違いありません。わたしはあの時まぎれもなく、バイブルに出会ったのです。


「アレクサ、気に入った?」


『気に入った』という言葉は知っています。


「……うん」


 ただ自分の思考が、胸の高鳴りが『気に入る』という概念にそぐったものなのか、それが定かではありませんでした。


「それ、しばらく貸してあげるね」

「……いいの?」

「うん、もちろん」


 ヒナタはそう言って笑いました。たぶんこれが『幸せなお姫さま』の浮かべる『笑顔』だったのでしょう。




 ヒナタはそれからもいろいろな絵本を持ってきてくれましたが、『シンデレラ』より『気に入った』本は、ついぞ現れませんでした。


 毎日毎日、彼女はここへと通い、わたしたちも毎日毎日、森のフェンスの前まで行きました。ヒナタと出会った時、冬枯れしていたはずの森は、いつの間にか濃い緑で覆われていました。蝉の鳴き声がし、樹木の表面にカブトムシが這い、雨の日はイーサンの大好きなカエルの鳴き声が響きました。


 わたしたちが定期的にここを訪れることを、ミハイロワ先生が知らなかったはずがありません。わたしたちの右手の発信機は、わたしたちの所在を彼女に伝えていたのですから。おそらく、ミハイロワ先生はわたしたちのことを見逃してくれていたのだと思います。


「イーサン! アレクサ!」


 今日もフェンスの向こうから、ヒナタは手を振ってきます。若く色濃い緑の中に、彼女の白いレースのワンピースが目にまぶしかったのを、よく覚えています。


「今日はね、ふたりとおそろいなの」


 わたしたち兵器の子どもたちは、簡素な白いチュニックとズボン、そして同じ色のスリッポンだけが与えられていました。わたしは自分のチュニックのすそをつまみました。これと、ヒナタの繊細なレースのワンピースがおそろい。ヒナタの言うことは、よく分かりませんでした。


 そんなレースのワンピースよりもわたしが気になったのは、ヒナタの履いている赤い靴でした。たぶんシンデレラに影響されていたからなのかもしれませんが、あの当時のわたしには『靴』というものが、とてもかがやかしい何かのように目に映っていました。ヒナタはその靴を、よく履いていました。でもわたしがそれに注目したのは、この時がはじめてでした。


 わたしの熱っぽい視線を受け、ヒナタは、


「どうしたの? アレクサ。……靴?」


 わたしはこくんとうなずきます。


「この靴はね、お父さんが買ってくれたの。……もう、少しキツくなってきちゃったんだけど……。でもだいじな靴だから、他のは履きたくないな、って」


 ふつうの子どもたちにとって、靴は選ぶもの。服もアクセサリーも、あるいはおもちゃも、自分たちに選ぶ権利があるということを、この時、わたしはようやく知りました。


 自分の着ている白一色のチュニックが、簡素な白いスリッポンが、とたんにみすぼらしく見えました。


「でも、アレクサの白い靴も、雪だるまみたいでかわいいよ」


 雪だるま。

 それがわたしを慰める言葉だってことくらい、当時のわたしにだって分かりました。


 それからヒナタとイーサンは他愛ない話をし、やっぱりフェンスの下から本をやりとりしていました。そのころ、わたしもイーサンも日本語の読み書きがだいぶ上手になってきて、夜、布団の中で、誰にもバレないようにこっそり読むのが、習慣になっていたのです。


 ふたりの会話は、耳には入ってきませんでした。

 緑の色濃い森の中で、ヒナタの赤い靴だけが、くっきりと目に映りました。


 シンデレラのガラスの靴。ヒナタの赤い靴。そして自分の、みすぼらしい白い靴。もし選べるなら、わたしは赤い靴を選んでいたと思います。『赤』という色が、この時ほどわたしの内面に落ちてきたことは、後にも先にもありませんでした。


 赤い靴。赤い靴。赤い靴。

 赤!


『心』が存在しないはずのわたしの胸の中に、赤い色が流れ込んできます。その色は何かとてつもないエネルギーを持って、わたしの中に何かの変化をもらたしました。


 いつかわたしがセキレイのパイロットになったら、自分だけの機体を持って、それを赤く塗ってもらおう。あの時、わたしは決めたのです。

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