前に進む勇気

内山 すみれ

前に進む勇気


 酷い頭痛と共にまだ重い瞼を開けた。ぼんやりとした意識の中で、痛いのは頭だけではないことに気付く。どうやら固い場所で寝てしまっていたようだ。俺は固まった身体を伸びをしてほぐす。ボキボキと骨が鳴った。首を回して、ようやく身体が楽になったような気がする。

 身体が楽になったことで周りを見回す余裕ができた。俺は今座っているベンチの上で寝ていたようだ。近くには小さなアスレチックやブランコがある。ここは公園のようだ。しかし見覚えのない公園だ。俺は一体、どうしてこんな場所で寝ていたんだ?この頭痛は二日酔いか。久々に二日酔いをしたな。俺が新人の頃は先輩に飲め飲めと言われてしょっちゅう二日酔いになっていたものだ。

 ……と、そこで俺は思い出した。新人だ。俺は昨日、会社の歓迎会に出ていたんだ。今年の新人は大酒飲みで、先輩の『飲め飲めコール』に応えてグビグビと飲んでいた。俺はというと、チビチビと酒を嗜んでいた。


「お前、新人に負けてるぞ!」


 しかし、先輩にそう背中を叩かれ俺も同じ量を飲む羽目になった。元々酒は強くなかったため早々にリタイアしたが、俺にとっては久しぶりに大量の酒を飲んでしまった。それから、どうしたんだっけ。俺は朧気な記憶を手繰り寄せる。それは雲のようにふわふわしていて掴めない。

 ふと、ベンチに目をやる。そこには、ハンカチが置いてあった。男で、四十路目前の俺には似つかわしくない、花柄の可愛いハンカチ。これを見て、俺は昨晩のことをようやく思い出した。

 歓迎会が終わり、覚束無い足取りで、偶然見つけたこの公園に向かった。ベンチに座り酔いを醒まそうとしたのだ。すると、向かいのベンチに学生服を着た女が座っているのに気付いた。女はぼんやりと遠くを見ている。まるで人形のように生気がない。気味が悪いな、と思い目を逸らそうとしたが目が合ってしまった。女は俺を見て、ベンチから立ち上がった。ゆっくりとした足取りで俺の方へ歩いている。俺は逃げなきゃ、と思ったが酔いが回って動けずにいた。身を固めた俺の隣に女が座った。


「おじさん、一人?」


 鈴の鳴るような綺麗な声だった。先程の恐怖は消え去り、俺は彼女にくぎ付けになった。彼女は、反応のない俺に少し笑った。


「あたしね、今から死のうと思ってるんだ」

「えっ?」


 衝撃的な言葉が彼女の口から出た。俺はあまりの衝撃に情けない言葉を漏らす。次いで口に出たのは、何で?という短い質問だった。


「そうだよね。何でって思うよね」


 彼女はそう言って、身の上話を始めた。ギャンブル狂いの父親のせいで家は貧乏で、母親は自分を捨てて出て行ってしまった。父親はいつも不機嫌で怒鳴り散らしては自分を殴る。学校では、貧乏のせいでからかわれ、友人は一人もいない。ついに借金の返済が出来ずに首が回らなくなった父親が自分を売ろうとしているのに気付き、逃げてきた。あてもなく、くたくたになった足が辿り着いたのはこの公園で、ぼんやりと空を眺めていたら、自分の人生に未練なんてないことに気付き、この人生とおさらばしようと思った。けれどどうやって死のうか考えているうちに夜になって、目の前のベンチに自分が座ったのだと言う。

 他人事だが、大変な人生だったんだなあ、と思った。自分は平々凡々に生きてきたから、こういう時、どう声をかけていいか迷う。


「……君は、何かやりたいことはないのか?」


 考えた末に出たのはこの言葉だった。自殺を止めるよう諭すのは自分のエゴでしかない。ならば死ではなく他のことに目を向けたらどうかと思ったのだ。彼女は目をパチクリとさせた。まさかこんなことを訊かれるとは思わなかったのだろう。


「やりたいこと……。私、ご飯を誰かと一緒に食べてみたい」

「え?」

「何でもいいからさ、誰かとご飯が食べたかったんだよね。学校じゃ誰も近寄ってこないし、家だとクソ親父に全部奪われるから」


 それは、俺にとって当たり前のことだった。誰かと食事をする、そんな当たり前のことも彼女には与えられなかったのかと思うと胸がぐ、と詰まるような悲しみを感じた。

 俺は彼女とコンビニに行って、俺はおにぎりとお茶、彼女はパンと牛乳、それからロールケーキを買った。


「レストランとか、もっといいところで食事しなくてよかったのか?」

「うん。いいの。コンビニの方が『日常』っぽいでしょ?」


 彼女と俺は、買ってきたものを公園のベンチで食べた。他愛のない話をしながら、パンを食べる彼女は嬉しそうに笑った。


「ふしぎ。二人で食べてるってだけでなんだか美味しく感じる」

「そうか?そりゃあ良かったな」

「うん……うん、ほんとに良かった。でも……少し、しょっぱいね」


 彼女は食べながら泣いていた。俺はそんな彼女を見つめていた。俺も歳を取ったのかな。涙腺が緩んできた。


「なんでおじさんも泣くのさ」


 彼女はそう言って俺の頭を撫でた。無遠慮に撫でる掌は、何故か心地よかった。






 全てを平らげて、彼女はベンチから立ち上がった。


「……あたし、ずっと前に進む勇気がなかったんだ。でもおじさんが背中を押してくれた。これで前に進めそう。おじさん、ありがとね」


 彼女はそう言って、ポケットからハンカチを取り出した。


「これ、おじさんにあげる。あたしお金ないからさ、お礼だと思って受け取ってよ」


 断ろうと思ったが、半ば強引に押し付けられてしまった。


「じゃ、バイバイおじさん」

「ああ、またな」


 彼女はにっこりと笑って歩いて行った。気が付けば太陽が頭を出し始めていた。長いこと彼女と一緒にいたようだ。久しぶりにいいこと、したのかもしれない。そんな満足感に酔いしれる。それと久しぶりに若い子と喋って緊張していたのだろうか。僅かに残る酔いが手伝って、俺はそのまま眠ってしまった。






 そうだった。俺は彼女と別れた後寝てしまったのだった。ひとまず彼女を勇気づけられて良かった。彼女がこの先元気でやってくれたらいいな、と密かに彼女の幸せを願う。

 ヴヴ、とスマートフォンが振動した。毎日読んでいるニュースアプリの通知のようだ。何気なく見出しを読む。『女子高生自殺か、ビルから飛び降り』、ああ、まだ学生なのになあ。そう思いながらページを開いて固まった。女子高校生の名前は、昨日聞いたばかりの名前だった。


Fin.

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