第2話『ファーストネーム』

 さて、同棲が始まると言ってもそう簡単にことが進むはずはない。

 ルールを決めることも大切である。

 同棲開始の前日の事。僕は恵良えらさんに電話をかける。すると、ワンコールで相手が出る。なんだろう、スマホゲームでもしてたのかな。

市東いちとう君、どした?』

「こんばんは、恵良さん。付き合ってもない男女が一緒に暮らすんだし、何も起こらないようにルールを決めようと思うんだ。それで相談したくて」

『ああ、なるほど。例えば、お互いの部屋、トイレ、お風呂とかプライベートな事とかかな?』

「はい。他には家事は誰が何をやるのか、とかです」

『あとは、そうですね。呼び方とかかな』

「と、言うと」

『わたしは恵良すみれじゃん? 恵良なり菫なりあだ名なり、好きに呼んでいいんだけど、突然ファーストネームやあだ名で呼ばれるとびっくりするから、今申告してほしいな」

「そっか。じゃあ、恵良さんで」

『わかった。じゃあわたしも市東君で。わたしたちはお互いの利益のためだけに同棲してるんだから、何もしないという安心をさせるために、初めから馴れ馴れしくファーストネーム呼びは良くないかなって思う』

「なるほど、そうですね。では、『恵良さん』で」

『うん。わたしも「市東君」で』

 コンコン

 そんな時にノックされた。

「ちょっとごめんなさい」

 僕は恵良さんにそう断って電話口を塞いでから叫ぶ。

「おい、蒼桜あお! ノックは三回って言ったよね? 二回のノックはトイレのノックだよ!」

「あぁ、そうだったね。ごめんごめん。ところで蒼空そら兄。今、誰と、何を話してたの?」

 蒼桜は悪びれる様子もなく部屋に入ってきて言った。

「え? ああ。恵良さんと、呼び名について話してたよ」

「その結果は?」

「『恵良さん』『市東くん』になった」

「え⁉︎ なんで? ヘタレ?」

 蒼桜は、驚愕の表情で僕を見る。ヘタレって失礼だぞこいつ。僕はともかく恵良さんには謝れ。

「は⁉︎ 別にいいだろ。そんなに仲良いわけじゃないし」

「それじゃあダメなんだよー! 菫。菫って呼べー!!」

 妹は地団駄を踏んでさらに続ける。

「ファーストネームが二人の仲を近づけるんだよぉ!」

 何言ってんだこいつ。まぁいい。放っておこう。

「すみません。妹が来てしまって。それで、他に決めることなんですけど…」

「黙れー! スマホ貸せ!」

 こいつ、兄に命令形を使うとは。生意気な妹だな!

 ちなみに『貸す』は五段活用。未然形は『貸さない』。

 そんな僕の思いをよそに、蒼桜は僕のスマホを半ば強引に奪い取り、恵良さんと通話をする。

「あ、菫さん。お久しぶりです。蒼桜です。いや、その節はどうも。あのですね。兄のことを『蒼空』とファーストネームで呼んでくださらないでしょうか。え? なんで? いや、それはもうお察しの通りです。きっとその方が菫さんもやりやすいでしょうし…え、間違い? 起こすのが菫さんのお仕事ですよ。あ、初めは『蒼空さん』とかでもいいですよ。ファーストネームなら。では、蒼空兄に返します」

 こいつ、めちゃくちゃ猫かぶってやがる。

「はい」

 長々と話してようやく気が済んだのかスマホが帰ってくる。謝罪をしようと耳に当てると、声がした。

『蒼空。蒼空。蒼空。蒼空。蒼空。蒼空』

「はい」

『ひゃあぁあぁぁあ』

 そんなに怖がらなくてもいいだろ。

「すみません。うちの妹が」

『う、ううん。大丈夫だよ。じゃ、じゃあ蒼空。今度、引っ越しの手伝いお願いね。男手が欲しいから』

 多少戸惑っていたが、蒼桜の言う通りちゃんとファーストネームにしている。いい人すぎるだろこの人。

「ああ。僕を男手にカウントしていいのか分からないけど、菫の希望に応えられるくらいには頑張るよ」

『じゃあね』

「うん。じゃあ」

 別れの挨拶をして、どちらかともなく通話を終える。

 そして、蒼桜を睨んだ。ジト目とかそんな優しいもんじゃない。

 お前マジ何してんの? と殺意を込めた瞳。つまらぬ物くらいなら簡単に切れそうな鋭い眼光にも蒼桜は動じなかった。

 自らの死と引き換えに何かをやろうとする熱意が感じられた。

「蒼桜、お前のお陰で菫と同棲できるのは感謝する。が、お前何を狙ってる? 僕が卑猥なことを克服するため以外にも目的がありそうだな」

 蒼桜は一瞬ドキッとした仕草を見せるがすぐに立て直す。

「別に、そんなのないけど。ただ、蒼空兄が克服するために必要だと思ってることをやってるだけ。これも、その一環」

「ほんとか? 名前で呼び合うとどうして克服できるんだよ」

 すると彼女は簡単と語り出した。

「ファーストネームで呼び合う→お互いを意識しあう→おのずとエッチなことをしたくなる→」

「ダウト。てか、アウト」

 名前で呼び合うだけで意識してしまうなら、日本はたちまちハーレム大国だ。

「なにがアウトなの?」

「自ずと卑猥なことをしたくなるってのがアウト。僕は自分の側に血のつながりのない女性がいれば卑猥なことを克服できると思ってたんだ。なのにわざわざ卑猥なことをさせようと、する、なんて…」

 ふと見ると蒼桜は、はっ? 何言ってんのこいつ。頭イカレてんじゃね。みたいな顔をしてた。よし、表に出ろ。

「はぁぁぁぁぁぁあっ!」

 大きな溜息だことで。

「バカなの蒼空兄? エッチなことをしないでどうやってエッチなことを克服すんの?」

「う、薄着で彷徨うろつくのを横目で見たり、相手の部屋に入って女の子の部屋っていい匂いするなーって思ったり…」

「乙女か! 恋する乙女かっ!」

「だめだった?」

「ダメ! アウト! ダウトじゃないけどアウト!!」

「だからって卑猥なことをするのは…」

○○○○ピーーーしたり、○○○ピーーを見たり、○○○○○ピーーーーーされたり、○○ピー…」

「もういい。分かった。分かったから。でもやらないからな」

「むぅ…」

 蒼桜は不満そうな顔を見せたが、すぐにいつもの表情に戻るとこう言った。

「すぐに蒼空兄だって私の言うことが理解できるようになるさ! それまで待っていてやる!」

 と部屋を後にした。

 負け役の捨て台詞だったよな。アレ。

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