君は春の歌を知らずや ~『王妃さまのご衣裳係 路傍の花は後宮に咲く』外伝~

結城かおる

第1話 香菱探春

「まったく! 鈴玉りんぎょくはまたおらぬのか?」


 涼国の都である麟徳府りんとくふには、王宮である嘉靖宮かせいきゅうが美しい青の瑠璃瓦るりがわらをいただいて鎮座する。

 その北側を占める後宮の一角、すなわち王妃の殿舎である鴛鴦殿えんおうでんでは、今日もここの女官を取り仕切るりゅう女官の怒声が響き渡っていた。


 慎重な手つきで王妃の衣裳に火熨斗ひのしを当てていた杜香菱とこうりょうは、手を止めて振り返った。

 柳女官は香菱と視線を合わせ、ため息をついてみせる。

「彼女の非番はもう終わって、今日はこちらに詰めて夜間の当直だというのに、なぜまだ来ないのじゃ。寝坊でもしておるのか?」

「彼女は、尚衣しょうい局に寄ってからこちらに参ると言っておりました。向こうで用事が長引いているのでしょう」

「それにしても時間がかかりすぎじゃ。鈴玉はこのところ大人しく勤めておるが、もしやまた怠け癖が出て……」


 柳女官の怒りが愚痴へと転じる前に、香菱は急いで言った。

「とにかく私、捜して連れ帰ってきますから」


 そして、火熨斗の炭を小さな炉の灰にけて始末をし、ぺこりと一礼すると鴛鴦殿を足早に出た。

 すでに時刻は夕方近く、春の陽はたなびく紫雲に抱かれるように、西の空で穏やかな光を放っている。


「まったく! いつもいつも私は鈴玉あのこを捜して回ってばかり。これだけで私の一生が終わっちゃう気がするわ。私の顔の皺が柳女官さまみたいに増えたら、あの子のせいよ」

 周囲に人がいないことを幸い、香菱はぶつくさ言いながら歩く。


 まず足を向けたのは鈴玉が行ったはずの尚衣局だが、応対に出てきた年かさの女官は、彼女を胡散臭げな眼で眺めまわしてから鼻を鳴らした。

「何の御用?」

「私は鴛鴦殿の女官ですが、こちらにうちのてい女官――鄭鈴玉は来ていませんか? 今日は尚衣局そちらさまが端切れを払い下げる日だと伺っておりますので」


 宮中の衣料を司る尚衣局しょういきょくは、年に四回ほど、妃嬪ひひん用ではない普通の反物の端切れを後宮の者に払い下げることにしており、端切れを手に入れた女官たちは身の回りの小物を作って、後宮暮らしのささやかな慰めと楽しみにしていた。

 鈴玉も前々からこの払い下げの日を楽しみに待っており、今日は昼間の非番を幸い、銅銭の束を握りしめ、喜び勇んで駆け付けたはずだった。


「鄭鈴玉? ああ、あの『喧嘩女官』のこと?」

「喧嘩女官?」

 相手のただならぬ言葉に、思わず香菱は鸚鵡返しに問うてしまった。尚衣局の女官は絵に描いたようなしかめっ面になった。

「あのさ、そりゃひどいもんだったよ。たった八寸四方の端切れで、あの子ったら……」


 妃嬪用の極上品ではなくしかも端切れとはいえ、同じ宮中御用だけあって品質はそれなりに良いものであるうえ、中には端切れとは名ばかりの長い布も払い下げられる。

 いくつもの大きな函に入った布の山を前に、押し寄せた非番の女官たちは大興奮、我先にと手を伸ばす。当然、つかんだ布を巡って争いごとも発生するわけで――。


「まさかうちの鄭鈴玉が喧嘩でも?」

「ああ、そのまさかだよ。そちらの鄭鈴玉さまは、尚食しょうしょく局のきょ女官と端切れの取り合いになったばかりか、口喧嘩からしまいには掴み合いになって……」

 香菱は慣れたもので、鈴玉の所業を聞いても驚きを見せなかったが、その代わり目を細め、慎重な声音で問うた。


「その許女官の官品はいかほどですか?」

 鈴玉も香菱も、女官としては最下級の従九品下である。もし喧嘩相手の女官が鈴玉よりも官品が上ならば、かなり厄介なことになってしまうのだ。


 ――どのみち、王妃さまは鈴玉を尚衣局に謝罪にお出しになるでしょうけど、事と次第によったら懲罰ものね。


 香菱の胸のうちを読み取ったのか、尚衣局の女官も少し表情が和らいだ。

「ああ、それなら相手も従九品下だったと思うよ。とにかく二人は取っ組み合いながらごろごろ尚衣局を出て行って、あれよあれよという間に姿が見えなくなったんで、どうなったのかはあたし達も知らない」


 許女官が自分たちと同じ官品だという事実は香菱をほっとさせたが、そうはいっても喧嘩の行く末次第では面倒なことになりかねない。

――王妃さまの体面を損なわずに、何とかおさまるといいけれど。


「とにかく、うちとしてはあんな喧嘩をされちゃ迷惑なんで、よく鄭女官に言っておくれよ。いくら鴛鴦殿づきの『あの鄭女官』だからといって、やりたい放題は困るからね。次に同じことをしでかしたら、畏れ多くも鴛鴦殿おうひさまに申し上げて、彼女を出入り禁止にするから」


 香菱は神妙な面持ちで頭を深く下げた。

「尚衣局の皆さまにはご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。私が彼女に代わってひとまずこうして謝りますし、あとで本人も詫びに来るはずですから」


 後宮に入ってからというもの、鈴玉は「ふくれっ面女官」「河豚ふぐ女官」「艶本えんぽん女官」と、とにかく不名誉なあだ名を奉られていた。

 加えて、「艶本騒動」で注目の人となった鄭鈴玉は、続く「敬嬪けいひんの変」で、今度は後宮じゅうから一目置かれる存在になった。


 したがって、尚衣局も今回の小競り合いでは、すぐには鴛鴦殿に苦情をよこさず手加減してくれたのである。

 それに、鈴玉の職掌が王妃の衣裳係である以上、もし問題がこじれでもして尚衣局を出入り禁止になれば、困ったことになっていた。良かった、助かった――香菱は自分の心配が杞憂に終わり、ほっとした。


 ――でもまあ、仕方がないけど、何で私が鈴玉の代わりに頭を下げて……本当に馬鹿みたい! 本人が目の前にいたら、左右の頬の肉をつまんで思いっきり引っ張ってやるのに。


 心配が怒りに代わった香菱は、腸が煮えくり返る思いで、尚衣局を後にするとずんずん歩いた。

そこへ――。


「うふふ、鴛鴦殿の香菱ちゃん。また鈴玉ちゃんをお捜しで?」

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