天色を翻して

青海鱓

本染分遍羅遍分染細

 何処どことも知れぬ海の果て。今日も色々の生物いきものたちが方々に行き交い、各の生活を営んでいる。

 さてそのうちにホンソメワケベラという、他の魚の体表面や口内、時にはえらの中など隅々までを綺麗にクリーニングすることを生業なりわいとし、掃除屋としてその名を馳せている魚が居る。その仕事振りはというと、相手は小さい魚から自分より何倍も大きい魚まで何でも御座れと言うのだからナカナカ豪胆である。どんな大魚も獰猛な魚も決して彼を襲うことはなく、其処には河山帯礪なる安心と信頼の関係が築かれている。

 そんなホンソメワケベラだが、今まさに屑々せつせつとウツボのクリーニングに勤しんでいるところである。

「では次は口の中ですねー」

「あー……」

 ウツボがするどい歯の立ち並ぶその恐ろしい口を大きく開くと、ホンソメワケベラは躊躇ためらいなく頭を突っ込んで口内のクリーニングにかかる。

 ウツボの口の中をチョコチョコ動きながら残り滓やら何やらを隈無く手際よく取り除いてゆく。この間、ウツボは大口を開けた如何にも間の抜けたような恰好で静止し、ほとんどホンソメワケベラに身を委ね、施しを受けている。事情を知らぬ者が見れば、ホンソメワケベラは今にもウツボの腹の中へと吞み込まれてゆくのじゃないかしらんと思われそうなであるが、やはりクリーナーフィッシュたる彼には何の心配にも及ばぬところなのであった。

 そうして遺漏無くスッカリ掃除を終えると、ホンソメワケベラはヒョイとウツボの口から飛び出した。

「さあすっかり綺麗になりましたよ」

「ウン、確かにサッパリした。心持もなんだか軽くなったようだ。イヤアいつも助かるよ」

 ウツボは如何にも清々とした様子でニコニコ礼を述べた。

「いえいえ。御満足頂けたのなら何より。では僕はこれで失礼しますね」

「またよろしくねェ」

 ウツボと別れ、他にクリーニングを求めている魚を求めて采々さいさいたる珊瑚礁を逍遥する。

 暫く珊瑚の稜線をなぞっていると、海底の岩陰にクエがジッとしているのを認めたので、ホンソメワケベラは意気込んで其方そちらへと下りて行った。そうして岩陰へ躍り出ると、眼前にはホンソメワケベラの二十倍程はあろう巨躯が仄暗い空間に厳然として聳え佇んでいた。ホンソメワケベラはやはり悚然しょうぜんとした様子もなく朗々と呼び掛ける。

「こんにちは、クエさん。クリーニングしましょうか?」

「やア、ホンソメ君。ちょうどよかった。是非お願いするよ」

 悠揚に話すクエに応えてホンソメワケベラは早速体表面のクリーニングに取り掛かった。

 しかし流石の巨体、ホンソメワケベラ一匹のクリーニングではナカナカの骨折ほねおりであるが、彼は平生通り泰然として甲斐甲斐しくクリーニングを施してゆく。

 寄生虫を丹念にパクパク摘んでいる最中さなか、クエはさぞ気持良さそうにウトウトしている。魁偉たるクエが斯様にして矮小なるホンソメワケベラに慰撫せられているさまは、何とも小気味の好いような、痛快なような趣である。

 そうしてホンソメワケベラがヒョイヒョイとクリーニングしていると、何やら賑やかな声の漸次ぜんじ近づいて来る気配があった。

「ヤアヤア、クエさんごきげんよう。おや、ホンソメ君がクリーニング中かい」

 やって来たのは、ベンテン、ソリハシ、ミカヅキのコモンエビ三兄弟であった。彼らもまた掃除屋であり、ホンソメワケベラのクリーナー仲間である。

「やあ、御三方。一緒にどうだい?」

「そいつはステキな提案だ。ウン、では早速取り掛かろう」

「うんうん」

「やろうやろう」

 と言い言い三匹はクエの頭や口に取り付いた。そうしてその矮小なる体軀を以て懇ろにクリーニングを施してゆく。

 クエはその巨体を為されるがままに、最早極まっている様子である。

 四匹でのクリーニングとなれば、もう殆どアッという間であった。

「ウーン、とてもスガスガしい気分だよ。有難う」

 言いながら、見る見るうちにスッカリ浄められ尽くしたクエは、如何にも溜飲の下がったというようなていおもむろにその巨体を揺らしていた。

 それからまた、ホンソメワケベラとコモンエビ三兄弟はそれぞれに次なるクリーニングへと繰り出してゆく。

 途次オトヒメエビやヒメギンポといったクリーナーたちもクリーニングに勤しんでいるのを流眄しりめに見ながら、ホンソメワケベラは極彩色に聳え立つ珊瑚塔サンゴタワーの下へとやって来た。

 珊瑚塔の周りには、色々な魚たちがまばらに、ノンビリと游泳している。

 その中に、ホンソメワケベラの姿を認めるとまもなく嬉々として彼を呼び招く者が在った。

「オーイ、ホンソメくーん!」

「アカククリさん、こんにちは」

「ヤア、待っていたよホンソメくん!今日もいつものお願い出来るかい!」

 ホンソメワケベラが駆けつけるや否や、アカククリはひれをパタパタさせながら声高にクリーニングを請う。

「ええ、勿論」

 ホンソメワケベラは二つ返事に、熟達した動きでアカククリの夷坦なる軀体へクリーニングを施しはじめる。

 するとアカククリは体をだんだんと黒く染めながら、恍惚とした表情でスッカリ気持良くなっている様子である。

「嗚呼……良いよ、スバラシイ……やはりキミはクリーニングの達ジンだ!コンナに気持の良いことが他にあるかい……全細胞が悦びに打ち震えているよ……嗚呼……」

 とか何とか言いながら、今度は次第に吻端が上を向いてゆき、仕舞いにはヒックリ返って天を仰ぐような形となっていった。

 しかしこれはいつもの事であるから、ホンソメワケベラは特に気にすることもなく清めてゆく。

 そうしてもう殆どクリーニングも終わろうという時、ホンソメワケベラはふと誰かに呼ばれたような気がしたので、周りをキョロキョロ見回して見るが、近くを泳いでいる魚のうちに彼を呼んだ者が居るような様子は無かった。

 不思議に思って、今度は少し遠くの方へ注意を払ってみると、或る方から何やらヒラヒラしたものが此方に向かって来るけはいである。

 そうしてドンドン近づいて来るその正体をハッキリと認めた時、ホンソメワケベラは少々驚いた。

「これはこれは……珍しい御客さんだ……」

 その御客さんは長い長い体軀をユラユラと、ホンソメワケベラの姿を認めるなりモノスゴイ勢いで詰め寄ってきた。

「アナタがホンソメワケベラかしら!ええキットそうね!」

「そうですが……コンナ所にどうしたんですか、リュウグウノツカイさん」

「まあ色々あってね……取り敢えずクリーニングを頼めるかしら!」

 どうやら早くクリーニングをしてほしい様子なので、一匹フワフワと昇天しかけているアカククリを余所にホンソメワケベラが早速取り掛かると、リュウグウノツカイは此処へ到った顚末を滔々とうとうと語りはじめた。

「イヤね、気づいたら陸に漂流しててね……そうして身動きがとれないまま波に打たれていると、辺りにニンゲンがゾロゾロ集まり出したのよ。アタシもう終わったかと思ったわ……なんだかザワザワ騒いでいるし、ベタベタ触られるしでもう参っちゃった……。そらあもう本当に怖かったわよ。怖くてたまらなかったわ。でもまあ、幸い海に帰してはもらえたから今此処に居るのだけれど……もうアンナ恐ろしい思いは二度と御免よ……。それで海に戻れて一安心……と思ったら、今度はなんだかベタベタ触られた名残みたようなのがカラダ中にまつわりついているような感覚があって妙に落ち着かないものだから、どうにかしてスッキリ出来ないかしらん……と思って途中近くに居た魚に聞いてみたのよ。そうすると逢う魚逢う魚が口を揃えて『ホンソメワケベラのクリーニングはいいぞ』って言うじゃない。アタシもスッキリするなら何でもいいと思って、早速アナタを探すことにしたわ。そうして何匹かに聞き込んでいるうちに、珊瑚塔に居たって情報を得て急いで駆けつけたらようやくアナタを見つけた、というワケね。ちょうどクリーニングをしている様子だったからすぐに分かったわ。

 ……それにしてもアナタ、ナカナカやるじゃない。確かに評判の良いのも頷けるわね……アナタ深海に来ない?オホホホ……冗談よ」

 とリュウグウノツカイの話を聞いているうちに、ホンソメワケベラは全身スッカリ綺麗にクリーニングしてしまい、リュウグウノツカイの体はピカピカと光り耀いていた。

「こんなモノで、どうでしょう」

「ええ、良いわね……凄くスッキリした……。何かしら……コンナ体験初めてかもしれない。まるで見違えるようじゃない?この燿き……。若返ったような気さえしてくるわ。アナタ本当に凄いわ……ホンモノよ……。其処のお魚さんが昇天しているのも分かる気がするわ……」

 リュウグウノツカイは恍然とした様子で感歎の息を洩らす。

「有難うございます。あまり言われると少し恥ずかしいですが……」

「あら、謙遜しなくてもいいのよ?……そうだ、アナタにはお礼をしなくちゃね」

 そう言うと、リュウグウノツカイは口を開いて一つの泡玉を作り出し、ホンソメワケベラへ向けて解き放った。そうしてゆっくり漂う泡玉はホンソメワケベラの目の前まで来て静止したかと思うとまもなくパッと弾け、其処には細かい泡と共に、見たこともないような綺麗な箱が現れた。

「ワッ、驚いた……コレは?」

「玉手箱よ。開けられたらキット良いコトがあると思うわ」

「へェ……なんだか勿体無いですが、有難うございます」

「それじゃあアタシはそろそろ深海に帰ろうかしら。惜しいけれど、やっぱり此処では落ち着かないし。アナタのコトはキットわすれないわ。また逢えるかは分からないけれど、もしその時は宜しくね」

「ええ。漂流はしないようにお気をつけて」

「オホホホ……そうね。本当に助かったわ。ごきげんよう~」

 別辞を交わすと、リュウグウノツカイはその長大なる身を翻し、深海を目指して万頃瑠璃の景色にユラユラと消えて行った。

 それからホンソメワケベラは棲処へ戻ることにした。玉手箱を開けてみようと思ったのである。

 何時になく胸を躍らせて棲処へ戻って来たホンソメワケベラは、まず一つ箱をグルリと眺め回した。その美しい玉手箱は、ただ一条の紐が巻かれて以て封ぜられている。

 そうして「キレイな箱だなァ」と思い思い暫く眺めると、ホンソメワケベラは箱を披見するべく紐を解きに掛かる。が、しかし紐は思った以上にキツく巻きつき、結び目もビクともしないために、ナカナカどうして解くことが出来ない。紐を切ってしまえば開けられそうなものであったが、ホンソメワケベラでは切れそうにないので困った。

 而してまた暫く眺めながらどうして開けようものか考えていたが、同時にふと、箱が綺麗であるだけでもなんだか満足なような気がしてきて、

「ウーン、マアいいか。寝よう」

 寝袋を広げて眠りに就いた。



 明くる朝。

 ホンソメワケベラは夢現ゆめうつつの中に呼び起こす声を茫々と聞きながら、頻りに寝袋をつつかれていた。

「……イ……オイ、起きたまえ。寝ている場合ではないぞ」

「ウーン……アレッ、オトヒメ君じゃないか。どうしたんだい」

 ホンソメワケベラは寝袋を突いていたオトヒメエビに気がつくと飛び起きて、オトヒメエビとは相対に間の抜けた応答をした。

 オトヒメエビは少々呆れた様子で言う。

「どうしたもこうしたもない。君、大変なことになっているぞ」

「大変なこと?」

「……来たまえ」

 一体何事かサッパリ分からないホンソメワケベラは、オトヒメエビの何時になく深刻な表情を不思議に思い思い、促される儘に後に随った。

 暫く行くとオトヒメエビは或る岩の陰に止まり、其処から向こうを覘き見出した。ホンソメワケベラもそれに倣う。

「何かあるのかい?」

「アレを見たまえ」

「あれは……」

 オトヒメエビの示した先を見遣ると、赤に青の斑紋鮮やかなユカタハタが泳いでいる。

 さして変わった様子もないようだけれど……と思いながら見ていたが、しかしよく見ると左胸鰭の後ろ辺りの皮膚に食い千切られたようなきずのあるのが認められた。

「アッ、怪我をしているじゃないか!」

「まア待て。君、あの疵に見覚えはあるか?」

 オトヒメエビは飛び出しかけたホンソメワケベラを留めるなり、斯く問いを投げかける。

「?今初めて見たけれど……?」

 ホンソメワケベラは如何にも質問の意図を汲み取れていない様子である。

「そうだよな。イヤ一応、念の為だ」

「どういうことだい?」

「落ち着いて聞いてくれ……というのも難しい話かもしれんが……実は、あの疵に関して、君に疑いがかけられているのだ」

「はあ……僕が!?」

「シィ……それにあのユカタハタだけではない。チョウチョウウオやらモンガラカワハギやらツバメウオやら……もう既に色ンな魚が被害に遭っている。しかしおかしな話だ。我々はクリーナーだろう。その最たる君が魚を襲うなどありえない。勿論クリーナーの皆もそう思っている。襲われた何匹かに話を聞いたが、私が見間違いではないかと言うと、皆が皆『でもあれはホンソメワケベラだった』と言うんだ。其処で私はイヨイヨ妙なことになっていると思って君を呼びに行ったのだ」

 オトヒメエビの話を聞いて、ホンソメワケベラはひどく落ち込んだ。知らぬ間に起きていた事件の容疑が知らぬ間に自分にかけられていたのだ。とても生きた心地がしたものではなかった。

「ナ、ナルホド……僕は一体どうすれば……」

「このままでは君はクリーニングも儘ならないからな。……よし、ヤマブキの所へ行こう」

「ヤマブキって……探偵の?」

「ああ。彼ならば助けになってくれる筈だ」

 オトヒメエビの提案にホンソメワケベラは力を込めて頷いた。

 そうして少しく希望が見えた気がしながら、二匹は探偵ヤマブキハゼのもとへ向かった。



「ヤマブキさん!穴が!」

「穴が何だい」

「穴が、塞がりそうです!」

「ウン、頑張りたまえ」

 ヤマブキハゼがのんびりまったりしている後ろで、コシジロテッポウエビがせっせと崩れかけの巣穴の修復に勤しんでいる。

「そういえばヤマブキさん。今日はなんだか何かを待っているようですが」

 コシジロテッポウエビがにわかにこんな事を言い出したので、ヤマブキハゼは少々感心の体で振り返った。

「キミ、こういう時妙に鋭いよね……ボクは何も言っていないのに……」

「何を待っているんです?」

「それは来てからのお楽しみさ。ボクの予測ではモウじきに来る筈だからね……」

 そう言いながらヤマブキハゼは元の位置に向き直り、コシジロテッポウエビもまたせっせと巣穴の修理に戻る。

 するとソンナ所へ、ホンソメワケベラとオトヒメエビが余所目を忍ぶようにして訪ねてきたのである。

「御免ください」

「ヤアヤア、やはり来たね、ホンソメ君、それにオトヒメ君。歓迎するよ。おっと……皆まで言わずともよい。分かっている。例の通り魔の件だろう」

「話が早いな」

「随分と噂になっているよ。次々に魚が襲われる……というのはマア珍しい話ではない。しかし其処に!……その通り魔の正体はホンソメワケベラ?ときた。イヨイヨ面白い事件じゃあないか……と思って、先んじて色々調べてしまった……」

「何か分かりましたか!?」

 ホンソメワケベラが食い気味に尋ねる。

 するとヤマブキハゼは少々勿体振るような体である。

「ウーン、そうだねェ……ホンソメ君、取り敢えずボクをクリーニングしてくれたまえ」

「エ……?」卒爾たる勿体振りとクリーニングの要求にホンソメワケベラ戸惑う。

 するとちょうど砂を運び出していたコシジロテッポウエビが「あれ?クリーニングなら僕がいつもやってるじゃあないですか」と能天気に言った。

「ソレはソレ、コレはコレさ……ササッ、頼んだよ」

「分かりました……」

 ヤマブキハゼの真意こそ分からなかったが、ホンソメワケベラは取り敢えず言わるる儘にクリーニングに取り掛かる。

 そうして例のごとく、忽ちに遺漏なくクリーニングを遂行すると、ヤマブキハゼは如何にも快さげな声を上げた。

「ウーン!実に清爽たる心持だ!頭の中まで澄み切ってゆくようだよ……。そうして一つ確信も得た」

「……何です?」

「それはキミ……ホンソメワケベラは全くであるというコトさ。マア、初めから分かりきっていたコトだがね……」

「するとやはりホンソメの偽物が居るという訳だ」

「そう、オトヒメ君の言う通り、の事件の真犯魚はホンソメ君に成り済ました……いや、正確に言えばな……全く別の魚だ」

「ヤマブキさんはその魚について、もう知っているんですか……?」

「知識としてはね……アトは実際目にするのが早いだろう。というワケで、これからその魚の御尊顔を拝みに行こうじゃあないか!」

「居場所は分かるのか?」

「うんにゃ。ナニ、心配は無用だ。ボクに任せたまえ」



 ホンソメワケベラとオトヒメエビは、ヤマブキハゼに伴って珊瑚の丘へとやって来た。そうして三匹は揃って珊瑚の陰に潜み、眼下の鮮彩なる珊瑚礁を見渡している。

「サテ、彼処あすこに何やら金ピカのが居るね」

「あれは、マツカサウオさんですね」

「そう。今回マツカサ君にチョット協力してもらった。ホンソメ君の無実を証明する為にと言ったら快く引き受けてくれたよ」

「そうでしたか。それで、どうするんですか?」

「まずマツカサ君が囮となって目標を引き付ける。彼の鱗はいたく堅固だからね、全く歯が立たないに相違ない。そうして目標がマツカサ君の鉄壁に怯んだトコロへ……実は彼処の陰にコシジロ君も控えさしてあるのだが……そのコシジロ君が透かさず出て行ってテッポウで動きを止めるのだ」

「なるほど……しかし、本当に此処に来ますか?」

「勿論さ。被害をこうむった魚たちの情報を綜合すると、この辺の出現率が最も高いし、ボクのカンでも此処が当たりだ」

「もし現れなかったら?」

「ハハハ、オトヒメ君、それは杞憂さ。キット現れるよ。旧来、名探偵とは事件を引き寄せるものだからね!」

「それは難儀だな……」



 目標の出現を待ちながら、ヤマブキハゼの主張に二匹が半信半疑になりかけている折、マツカサウオもまた悠々閑々と金色こんじきの体を光らせながらその時を待ち構えていた。

「ンー、なんだかクリーニングしてもらいたい気分だナア。誰かやってくれないかナア。お願いするならやっぱりホンソメ君かナア」

 とどこか棒読み気味に独り言ちている。

 すると真赤な珊瑚の枝を越えてマツカサウオの方へと近づいて来る影が一つ現れたが、それはまさしく彼等の待ち構えていた目標そのものであった。

 マツカサウオは、ヤマブキハゼの言っていた通りに目標が現れたということと同時に、その姿が想像よりずっとホンソメワケベラと生き写しのようであったことに甚く驚歎した。

 予めヤマブキハゼに「ホンソメ君はボクと一緒に居るから、キミの所へ現れるソレはホンソメ君ではない、ターゲットだ。いいね?」と言われていなければ見紛っていたであろう……と思い思い、マツカサウオは近づいて来るその魚に呼び掛けた。

「アッ、ホンソメ君じゃないかア。ちょうどよかった、クリーニングしておくれよオ」

 と言って金色の鱗を其方へ向ける。

 するとその魚は、一直線にマツカサウオへと向かって行った……



 同じ頃、丘の上から現場を見守っていた三匹もまたやはり目標の出現に沸いていた。

「二匹共、見たまえ!ボクも目にするのは初めてだが……本当にソックリじゃないか!ハコフグ博士の言った通りだ……此処からでは殆ど区別のつけようもない……しかし横を見ればホンソメ君が居る!ナンてことだ!……待てよ?これは彼がホンソメ君に似ているのかそれともホンソメ君が彼に似ているのか……」

「これは驚いたな……」

 ヤマブキハゼが一匹興奮したり何かブツブツ言ったりしている中、オトヒメエビも驚き呆れた様子で呟いていたが、その二匹に挟まれる形で現場を見守っていたホンソメワケベラは二匹ほどの驚き様ではなかった。というのも、彼は体を曲げれば自らの尻ぐらいなら見ることが出来るが、自らの全身を客観的に見たことなど無いのである。寧ろその方法があるのなら教えてほしいぐらいであった。

 とは言え尻の方を見比べるだけでも確かにソックリであったし、皆が皆そう言うものだからそうなのだと思うことにした。

「サア、よく見ておきたまえ……噛み付くぞ……」

 ヤマブキハゼがそう言うと、三匹の視線は静かに、より緊張感を持って眼下の事象へと注がれた……



 マツカサウオはそのキラめく黄金の鱗をただ無防備に晒し、悠然と約束の時を待っていた。

 向こうからは目標が真っ直ぐにやって来る。やがてその魚はマツカサウオと零距離までに接近するとまもなく徐に口を開いた。

 二本の尖い牙がチラリと覘く。

 そうしてその口でクリーニング……とは行く筈もなく……

 嚙み付いた。

「…………」

「硬ッ……」

 奇しくも此処で驚いたような呻きを上げたのは、嚙み付いた方であった。

 嚙まれたマツカサウオはしめたとばかりに声を張り上げる。

「かかったな阿呆がッ!今だコシジロォ!」

「よしきた」

 そうしてずっと陰で鳴りを潜めていたコシジロテッポウエビが透かさずヒョイと躍り出るとまもなく、テッポウが炸裂した。

「グワッ……」

 件の魚は珊瑚の上に打ちつけられた。

 するとそれを見るなりヤマブキハゼは、張り切って二匹を引き連れ下りてゆく。

「作戦通りですよ、ヤマブキさん!」

「ウム、上出来だ。やはりだが、マツカサ君なんて疵一つ付いちゃいない」

 と言い言いマツカサウオの鱗を撫でながら二匹を労うと、ヤマブキハゼは件の魚へと徐に近寄って行った。

「サテ……キミは……ニセクロスジギンポ君だね?」

「だったら何だ……」

 ヤマブキハゼの問い掛けに、ニセクロスジギンポと呼ばれた魚はどこか諦観の趣で返した。

「イヤア、知識としては知っていても実際御目にかかるとナカナカ一驚だね。実にホンソメ君とソックリだ。しかしこうして近くで見ると……なるほど口の形で見分けるのが分かり易いようだ」

「ああ、そうだ。今迄さんざっぱら言われてきたナア……『ホンソメワケベラの偽物』ってね……。マア、何せクロスジギンポだからな。だがいくらホンソメワケベラに似ていると言われたとて、俺は元来そういう見た目なんだろうから仕様がない。クリーナーじゃあないンだから勿論クリーニングなんて出来ないし、出来るのは精々魚の皮を食い千切ることぐらいだ。これも元来の性質だし、俺はそういう魚なンだから、ヤッパリ仕様がない」

「確かにそうだ。それは仕様がない」

「そうだろう」

「しかし……それによってホンソメ君があらぬ疑いを被っているのもまた事実だ」

「ああ、そうだったか……ハハ、そいつは悪かったな。だがモウどうしようもない。これはキット運命だ」

「フム、運命か……ハハハハ、そうかもしれない!」

 ヤマブキハゼが突然笑い出したので、オトヒメエビが「どういうことだ?」と言いかけたが、すぐコシジロテッポウエビによって制止せられた。

「マアこうして捕まっちまったのも運命かもな。サ、殺すなり食うなり好きにするといい」

「だそうだ、ホンソメ君。判断はキミに任せるよ」

「エッ……」

 ホンソメワケベラは急に話を振られてホトホト困った。任せたと言われても、どうしようものかまるで見当がつかない。

 ただ、彼はニセクロスジギンポの言葉の節々にどこか虚しげなけはいのあるのが気にかかっていた。

 そうして、本当は悪い魚ではないのではないかしらん……ヤマブキさんもキット分かっているのだ……どうしてか分からないが、分かっていて僕に振ったのだ……などと頭をグルグルしていると、ホンソメワケベラはふと或る事を思い出した。

「アッ……」

「どうした?」

「ちょっと待っててください!」

 そうしてそれだけ言い残すと、ホンソメワケベラは疾風迅雷式に其処から棲処を往復し、リュウグウノツカイに貰った玉手箱をくわえて持って来た。

「何だい、それ」オトヒメエビが不思議そうに尋ねる。

「リュウグウノツカイさんをクリーニングした時、お礼にって貰ったんだ」

「ホウ……それは玉手箱ってヤツだね。開ければ忽ち不思議なコトが起こる……というか、リュウグウノツカイ殿まで相手にしてしまうとは、流石ホンソメ君だ」

「はい。でも僕では開けられなくて、置いておいたんです」

「ナルホド……これを開けるにはこの紐を断つ必要があるようだ。するとこれを此処に持って来たのは……彼ならばこの紐を断ち切れるのではないかしらんというコトだね!ウム、妙案だ!」

 ヤマブキハゼがすぐさまホンソメワケベラの意図を汲み取って唸る。

「そういう訳なんだ。ニセクロスジギンポ君、お願いしていいかな?」

「……あ、ああ」

 ニセクロスジギンポはポカンと呆気にとられ、辛うじて反応したというような様子である。

「ヤマブキ。不思議な事……って、何が起こるんだ?」

 皆の注目が玉手箱に集まる中、オトヒメエビが尋ねる。

「それは分からない。開けてみないコトにはね……」

 そうしてイヨイヨ、ニセクロスジギンポの尖い牙が玉手箱の紐にかかった。

 紐は簡単にプッツリとは行かぬものの、彼がグッグッと力を入れると徐々に切れ目が入り、仕舞いには弾けるように断ちかれた。

 すると同時に、箱自体も解放を心待ちにしていたかのように独りでに開いたかと思えば、中からモノスゴイ勢いで大量の水泡が噴き出し、ニセクロスジギンポを一息に吞み込んでしまった。

 それを見て、皆一様に驚き当惑していたが、ヤマブキハゼだけは冷静にその様子を観察していた。

 やがて水泡の噴出が収まったので、コシジロテッポウエビが率先して箱の中を覘いてみると、スッカリ空っぽであった。

「何も入ってませんね」

「そりゃア、今出てきたのがそうだろう」

 とヤマブキハゼはあくまで冷静にホンソメワケベラとニセクロスジギンポの方を見遣りながら言う。

「ニセクロスジギンポ君、大丈夫かい?」

「ああ……何だったんだ……?」

 ホンソメワケベラが気遣うとニセクロスジギンポは別段どうしたということもない様子であったが、その時突として彼の前にグイッと迫ったヤマブキハゼによって、それは打ち破られることとなった……。

「……キミッ」

「な、何だよ……」

「チョット口を開けてごらん……」

「エ?……アッ」

「気づいたようだね……」

 ニセクロスジギンポ自身をはじめ、ヤマブキハゼ以外の面々はピンときていないらしかったが、ニセクロスジギンポは、ヤマブキハゼに言われて意識的に口を開けた時ヤット自分の身の異変に気がついたのである。

 そうして少し遅れて、ホンソメワケベラたちもニセクロスジギンポの変化に気づきはじめた。

「何か、違う……ドウなってんだ……?」

「ウン、では客観的事実を述べよう。今、キミの下顎にあった筈の牙は跡形もなく、そればかりかふんの下部に位置していたキミの口はドウしたことか吻端にある……そう、まるでホンソメ君のようにね……」

「ナ、ナニ……」

 先程からずっと呆気にとられてばかりいたニセクロスジギンポであったが、今度はアンマリ突飛な事実を告げられたものだから、とうとう殆ど言葉にならないといった様子である。

 ホンソメワケベラも含め、皆もヤマブキハゼの言葉を受けて果たせるかなその超自然的の事象を目の前にアリアリと認めざるを得なかった。

 ヤマブキハゼは訊いかける。

「ひょっとしてキミは……ホンソメワケベラになりたかったんじゃないのかい?」

「……どういうことだ?」

「この玉手箱は、キット開けた者の望みを叶えてしまうモノなんだよ」

「それがどうして……」

「ハハハハ。それでは一々聞かせてあげよう。まずこれはボクの所感だが……キミに嚙まれた魚たちの疵を見た時、何となくだが嚙み切れていないというか、中途半端なように感じたんだ。そうして、キミはさっき、どこか悲観的なおもむきで『仕様がない』と言っていた。けだしキミは、魚を傷付ける自らの本性をいとうていたのだ。それ故に、自分とソックリと言われるがその性質はまるで正反対のホンソメワケベラに対し羨望や嫉妬といったような心を持つようになったのじゃないかしらん……。キミはホンソメワケベラのようになりたかったのだ……魚を傷付けるのじゃない、魚を喜ばせるあのホンソメワケベラのように……と。稀に居るのだよ、そういった心を持つ者は……。ただ、やはり元来のさがには抗えぬものだ。ドウしようもなかった」

「…………」

 話を聞くうちに、ニセクロスジギンポは俯いてダンマリとしてしまっていたが、ヤマブキハゼはその沈黙を肯定とみて話を続ける。

「それから……今は無きキミの牙、僅かに欠けているようだったが……アレは自ら牙を折ろうとしたことがあったものだろう。どうだい」

 すると黙り込んでいたニセクロスジギンポは、徐に俯いていた視線を上げ、少々呆れたように溜息をついた。

「……アンタ凄いな。そんなコトまでよく分かる……」

「これはドウモ……」

「そうさ……全部アンタの言う通りだ。俺は何故だかずっと魚の皮を食い千切るのに抵抗があった。自分はニセクロスジギンポだからそういうものなんだと分かっていても、どこかに違和感が付き纏うンだ。或る日『ホンソメワケベラの偽物』と言われて初めてホンソメワケベラの居る所へ行ってみた時は驚いたよ。自分と似ているのは何となく分かった。だが本質はまるで違う。クリーニングをして魚を喜ばせている。今思えば、俺は嫉妬していたンだな……。そうして、イヨイヨ嫌になって、牙を折ろうとしたコトもあった。だが痛いだけでドウにもならなかった。それからはただ本性の赴くままさ。どこか救いを求めながら……。ハハ……そうか、俺はホンソメワケベラのようになりたかったのか……」

「分かったかい……。そうして、キミは生まれ変わったのだ。もうニセクロスジギンポではない……キミは……だッ」

「ホ、ホソソメワケベラ……?」

 当の彼ばかりでなく、ホンソメワケベラたちも皆どよめく。

「そう、キミはホソソメワケベラだ……。キミは……もう立派なクリーナーフィッシュなのだ……」

「クリーナーフィッシュ……しかし俺は、今迄沢山の魚を傷付けて……」

魚生ぎょせいはやり直せないなんて誰が言ったんだい?傷付けてきたのなら、クリーナーフィッシュとなった今、その分施し回ればよい」

 とヤマブキハゼが言うと、ホンソメワケベラがウンウン頷きながらその横に居並んだ。

「出来るのか……俺に……」

 ホソソメワケベラは猶も不安そうに呟く。

「サアテ……どうだろう、ホンソメ君?」

 とヤマブキハゼは勿体振るように隣のホンソメワケベラに横目で問う。

 ホンソメワケベラは、ホソソメワケベラへ向け、明朗に答えた。

「勿論、キット出来るよ!一緒にやろうじゃないか、ホソソメ君!」

「その通りだ。ニセクロスジギンポ改めホソソメ君!……これはキット運命だ……ハハハハ」

「ああ……そうか……ハ、ハハ」

 ホソソメワケベラの表情が次第に綻んでいった。

 それを見たヤマブキハゼは一件落着とみて、一つ提案する。

「そうだ。では手始めにマツカサ君でもクリーニングするといい」

 それを聞いたマツカサウオは、鱗を光らせながら「しょうがないなァ」とか何とか言い言い、満更でもないといった体である。

 そうしてホソソメワケベラ、マツカサウオに先程の非礼を詫びつつ、ホンソメワケベラと相伴ってせかせかとクリーニングに取り掛かっていった。

 斯くして掃除屋ならぬ相似屋の通り魔事件は収束し、ニセクロスジギンポはホソソメワケベラへと生まれ変わった。

 それからというもの、ホソソメワケベラは瞬く間にクリーナーとしてのウデを磨き上げ、その活躍は目覚ましいものであった。

 ホンソメワケベラとホソソメワケベラのクリーナーコンビの評判はアッという間にひろく知れ渡り、評判が評判を呼んで、果ては深海からはるばる冒険して来るような魚さえあるくらいであった。

 何処とも知れぬ海の果て……

 今日も彼らは、二匹仲良く、その美しい天色を翻しながら、魚たちをクリーニングするべく溌溂はつらつと方々を飛び回っている。

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天色を翻して 青海鱓 @bluefishjazz

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