その音は聞こえない

コトリノことり(旧こやま ことり)

その音は聞こえない 前



 いっそ世界から、すべての音がなくなればいいのに。



 ◆



 ダン、ダン、とボールが叩きつけられる音。

 ギュギュッと何人もの足が床を踏みしめる音。

 ガツンッとシュートをミスったボールがゴールに当たる音。


 放課後。体育館ではバスケ部が練習していて騒がしい。普段はこんなうるさいところにこないし、なんなら避けている。

 だけど。鞄にしまっている英和辞典一冊が、帰宅部であるはずの僕の帰宅を妨げている。

 さっさと用事を済ませなくては。そして早く帰って自分の部屋で大人しく過ごそう。そう決意して前に進むと、英和辞典の重さに気をとられて、前から歩いてくる上級生らしい人に気づかなかった。


 どん、と肩に軽い――貧弱な僕にとっては重い衝撃を受ける。

 だけど肩がぶつかったことなんて気にしてられない。


 ぶつかった瞬間、ギィィンと頭の奥へと反響するノイズ音。

 鳴り響くのは歪な不協和音。映画のSEみたいな、イラ立ちを表すような、弦がきれて錆ついたベースの低い音。

 ただの耳鳴りとは思えない、暴力的な音が頭を殴りつけるように耳元で鳴り響く。


 ハッと一瞬息を飲んで、すぐに平静を装う。どれだけこの音が不快でも呆けていられない。

 だってこの音は、僕以外の人には聞こえないんだから。


「……ぶつかって、すみません」

「あぁー。ちっちぇえから気づかなかったわ、悪いな」


 謝りながらよく見れば、その上級生はバスケ部のユニフォームを着ていた。こちらのことをほとんど気にせず、どすどすと廊下を進んでいく。どうやらあのイラだった音はぶつかったことよりも、彼自身がイライラしていたからだったようだ。


 三つ深呼吸をして、耳にに残る不快な残響音をやり過ごす。


 大丈夫、大丈夫。これくらい慣れている。いつものことだ。

 どれだけ耳元から流される不快音が聞こえても、うるさくても、勝手に心が引っ張られてしんどくなるのも、原因が離れればすぐに元に戻る。

 だから、大丈夫。


 ようやく落ち着いて、なんとか目的地の――壊れたベースの音を鳴らしていた上級生が所属している、バスケ部がいる体育館へ向かう。


「……だから人が多いところイヤだっつうのに。あのアホ」


 こういった偶然の接触があるから、人が多いところに行きたくない。ここに来なきゃいけなくなった原因を思い出して、思わず悪態が出てしまう。

 だけど、イヤなことはさっさと済ませたほうがいい。

 耳元の残響音がなくなったころには、開かれた体育館の入口に着いた。


 体育館の中ではコートをわけて運動部が練習をしている。中学はもちろん、すでに高校一年生で帰宅部のエースである僕には縁のない、賑やかで溌溂とした活動風景。

 ちょうど、入口側のコートをバスケ部が使用していた。

 ダンダンと弾むボールの音を意識しないようにして、目的の人物を探す。できれば人との接触する機会を増やしたくないから、誰かを呼んだりするよりも、直接捕まえたい。

 そんな思いで体育館を見回していると、バスケットゴールから4メートル半離れた場所――フリースローラインに立って、長身の部員がスッとボールを投げる瞬間を見た。

 綺麗な弧を描いて、お手本のように投げられたボールは、とても静かで。

 一瞬。世界の音を置き去りにしたように、静寂がうまれる。

 シュッ、と。ボールが吸い込まれるように円形のゴールの真ん中を通る。

 たった少しの、一瞬の静けさはすぐにかき消された。シュートを決めた彼の近くにいたバスケ部員が歓声をあげる。


「海斗、ナイッシュー!」

「おう! よっし、これでフリースロー10本終わり! ノルマ達成!」

「早えな、さっすが期待のホープだなー! 海斗」

「うっせ。そんなんじゃねえって……あ、ハル!」


 部員に囲まれながら、見惚れるようなシュートを決めた張本人が振り返る。

 そしてこちらを目にした瞬間。シュートを決めたときの真剣な顔とは一転、にぱっと笑う。

 そのスマイルと顔と高身長があればモテるよなぁ、なんて思いながら、仕方なく応えるために軽く手を振る。

 海斗と呼ばれたコイツこそが、僕がまっすぐ帰宅できない理由であり、ついでに僕と正反対の健康優良児で、早くもバスケ部の期待の新人としてもてはされているようなイケメンで、そして『神谷晴彦』という僕を「ハル」と愛称を呼んでくるくらいには腐れ縁な――僕の幼馴染。

 仙道海斗。


「珍しいじゃん、ハルがバスケ部に来るなんて。オレの見学? ハルならいくらでもオッケーだよ?」


 海斗はシャツで無造作に汗をぬぐいながら駆け寄ってくる。大型犬みたいだ。どうやらいち早くフリースロー練習のノルマを終えたらしい海斗は、いまは自由な時間があるようだった。タイミングが良くて助かった。


「ちげえよ。なんでガキのころから見てる……知ってるお前を見学しなきゃいけないんだよ。コレ、返しに来たんだよ」


 鞄に入れていた英和辞典を取り出して海斗に「ん」と押しつける。それを見て、一瞬小首をかしげてから「ああー!」と大げさに手をポンっと打つ。


「見当たんないと思ってたらハルが持ってたのか!」

「人聞きの悪い言い方すんな。お前、昼休みに僕のロッカーから和英辞典持ってたろ? ホームルームのあと見てみたら和英辞典じゃなくてこっち入ってたんだよ。どうせ僕のと間違えてロッカーにいれたんだろ」

「うわ、マジごめんって。え、ってことはオレ、ハルの辞典返せてないじゃん? どうしよ。あとで家に持ってこっか?」


 腐れ縁は伊達じゃない。海斗の家からウチはスープが冷めない距離よりも近い。カップラーメンにお湯を入れても間に合う。

 昔は――小学生のころはよく互いの家に行き来して遊んでいた。海斗は昔から明るくて、みんなのリーダーになるようなヤツだったから外遊びに誘われることもあったけど、僕は僕の事情があって――とくに子どものころはソレによる情緒の不安定さが大きかった――外で大人数と遊ぶのは難しかった。

 直接そう伝えたことはない。けど海斗はなんとなく察してくれたのか、遊ぼうというときはどちらかの家で、二人だけで遊ぶようにしてくれた。

 でも。それは小学校までの話。


「いいよ、明日ロッカーに返しといてくれたら。お前の部活終わってからじゃ遅くなるし」


 今ではほとんど海斗の家に行かないし、ウチに呼ぶことはない。なんなら中学からは遊びに誘うこともしなくなった。むしろ学校で話しかけることも、ほぼない。


 僕は、はっきりと、海斗を避けていた。


 なのに。コイツは避けられていることに気づているだろうに、それに触れたことはない。まるで昔から変わらない「友人」として、気軽に話しかけて、軽率に僕とつるもうとする。


「……そう? ま、ハルがそういうなら明日ロッカーにいれとく。今日はわざわざありがとな」

「……ん、別に……これ、くらいは」


 イヤ、はっきり言えばいい。「もう僕からものを借りるな」と。そしたら話す機会はもっと減る。海斗は資料集だの辞典だの、他に知り合いもいるだろうにわざわざ僕に話しかけて、借りてくる。

 断ればいいとわかっている。避けているのは――海斗の近くにいないようにしようと決めたのは、自分なのに。

 自分から話しかけるのを止めただけで、結局こうして海斗から話しかけられたら答えてしまう。こんな小さな頼み事ひとつ断ることもできない。

 だって。そうじゃないと。


 僕は、海斗と、ほんとうに、なんのつながりも、なくなってしまうから。


 ボロがでないうちに「それじゃあ」と帰ろうとしたところで、声をかけられる。


「あれ? 神谷じゃん。なに、海斗って神谷と知り合いだったの?」


 近くのバスケ部員がこっちに近寄ってくる。クラスメイトだ。完全に帰るタイミングを失った。しかも内容が最悪だ。バスケ部だからっていらないパスを回してくるな。僕はそのボールを受け取りたくない。


「そーだよ。オレとハルは幼馴染。幼稚園からずーっと一緒。そんで、」


 だけどそのパスをスルーしたくても海斗は自然な様子で、僕の肩に腕を回してきた。こんな強引に回ってきたパスは、もうパスなんてもんじゃない。誰かコイツをファウルにしてくれ。

 いかにも「仲がいい」というアピールのように、海斗は肩をつかんで引き寄せた。そして明るく、それが世界の真実だと言い切るように、堂々と宣言する。


「――オレたちは一番の親友。な? ハル」


 パリン。

 高く、細い、ヒビ割れる音が耳の奥で聞こえた。


「……うっせ。お前なんかただの手のかかる腐れ縁だよ」


 聞いただけで胸がきしむ音を気にしないようにしながら、肩に回されていた手をはらいのける。

 そうするとパリンと鳴る音は遠ざかる。

 手をはらわれた海斗はワザとらしくむすっと拗ねた顔をつくる。そんな顔もイケメンとか卑怯だろ。でも不満の顔を作りたいのはこっちのほうだ。

 そんなこと、できやしないけど。


「なんだよ。ハルはオレのこと、親友って思ってくれてないのかよ」


 きっと本気ではない。あくまで拗ねているポーズとしてそんなことを海斗は言う。


 さっき聞こえたパリンというガラスが割れる音が頭の中でリフレインする。

 

 ――親友って。思ってないのはどっちだよ。


 そう叫びたいのをグッとこらえた。


「さあ、な。んじゃ、僕も帰るわ。部活の途中に悪かったな」


 今度こそきびすを返して、体育館を背にして玄関に向かっていく。

 心臓はドクンドクンとうるさく鳴っている。

 でもそれ以上に、さっき聞こえたガラスが割れる音が何度も反響する。


 ああ。だから、アイツと会いたくなかったのに。

 この音を聞きたくなくて、避けてきたのに。


 ガラスの割れる音は決してキレイなものじゃあない。

 快活な笑顔に似合わない、ヒビわれた甲高い音。

 それは耳障りで、それ以上に僕の心を暗くさせる。

 だって、ガラスが割れるようなこの音は――ウソをついた時の音だから。


 なんでそんなことがわかるのかっていうと。

 ついでになんで海斗を避けているかというと。


 答えは単純だ。

 僕は、人の心がわかる。


 そして――さっき「親友だ」と笑顔でウソをついた仙道海斗は、僕の片思いの相手だからだ。




  ◆



 人の心がわかる、といってもその人の考えが読める、とかそんなすごいものではない。

 互いの肌が触れた時、その人がその時抱えている感情の揺らぎを『音』で聞くことができる、っていうなんとも微妙な力だ。これは僕に向けた感情じゃなくても聞こえる。


 たとえば楽しいときは踊るようなピアノの黒鍵の音色。嬉しかったらトランペットの爽快な音。


 そんな幸せにあふれた音ばかりだったらよかったのに。

 あいにく僕がこの変な力でわかった真理は、たいていの人間は、いつだって小さな不満を抱えているっていうことだ。


 誰だって日常で鬱屈や不満を抱えていて、笑顔の裏で不協和音を抱えている。

 そして、みんなが隠している負の音を、僕は触れたらわかってしまう。聞きたくなくても聞こえてしまう。


 イライラしているときの黒板をひっかいた甲高い音。面倒だと感じていたらジリジリと迫るホワイトノイズ音。


 どれだけミュートしたくても、触れたら勝手に流れる陰鬱で耳障りなノイズは逃げられない罵声を浴びせ続けられているようなもので。これで精神がまいらないわけがない。ましてや、人に期待できるようになるわけだってない。


 幻聴だったらどれだけよかっただろう。だけど小さいころ「ヘンな音が聞こえる」と言ったら親は変な顔をして、この音は自分にしか聞こえてなくて、触った人の感情と連動しているとわかってしまった。

 その時、触れていた親から、ギィギィと壊れたヴァイオリンみたいな音がしたから。


 触らなければ音は聞こえない。その人の本心を知ることはない。

 その中で、幼馴染である海斗だけが、特別だった。


 海斗以外の子どもはすぐに癇癪を起こしたり、遊びたいオモチャをとられたときガンガンとうるさい音ばっかりだった。

 だけど海斗は違った。

 海斗から聞こえるのは、気持ちのいい音ばっかりだった。

 秘密基地を作るときはわくわくが止まらないフルートのメロディが鳴って、一緒に日向ぼっこしながら眠ったときは貝殻が鳴らすざなみの音がした。


 人気者の海斗とばっかり遊んでいて、ますます他の子からは妬みに溢れたノイズが聞こえてきたけど、唯一、笑顔も言葉をあわせてウソ偽りない音を聞かせてくれる海斗だけが救いだった。


 それが変わってしまったのは、中学にはいってすぐだった。


 二人とも地元の中学に入学した。クラスは別れてしまったし、バスケ部の海斗と他人と関わりたくない帰宅部の僕は接点が減ってしまったけど、海斗はなにかにつけて僕に会いに来てくれた。

 でもある時。今日みたいに「お前らって仲いいんだな」と同級生が聞いてきた。


『そうだよ! ハルはオレの、一番大事な親友だからな』


 そういってポンと軽く肩を叩かれて。

 パリン。とガラスの割れる音がした。


 経験上、知っていた。

 それはウソをついて、後ろめたさを感じている時の音だということを。

 愕然とした。


 海斗が、僕に、ウソをついた。


 しかも『親友』という言葉を発したときのウソ。

 つまり――海斗は本当は、僕のことを親友だなんて思っていない。


 衝撃だった。そして絶望した。

 表情とは違う負の音を巻き散らかす世界の中で、唯一違った海斗がウソをついた。しかも、僕のことで。


 その日、どうやって帰ったのかは覚えていない。ただ突然のウソに失神しそうなほど青ざめた僕を、海斗がものすごく心配した顔で覗き込んできたのは覚えている。熱を測ろうと僕の額に触れた手からは、気遣っている穏やかな音に隠れて、か細くガラスにヒビが入る音が聞こえた。


 海斗は僕を親友だと思っていない。

 それは、ガラスの音がある限り、どうしたって抗えない事実だ。だとしたら、つまり。

 

 ――海斗は、愛想も悪くて人づきあいも悪い、根暗な僕を嫌っているんじゃないか。

 幼馴染の責任感で、僕をかまっているだけじゃないんだろうか。


 一度その考えが浮かぶとそれが正解としか思えなかった。

 それじゃあ、僕ができることといえば。

 海斗に迷惑をかけないように、なるべく関わらないようにすることだ。


 大丈夫。一人には慣れている。もともと海斗くらいしか仲のいい友人なんていなかった。陽があたるところにいる海斗の傍に寄らないで、それを遠くから眺めて、ひとり、静かに過ごせばいい。それだけのことだ。


 そう心に決めた時、自分の感情の音は聞こえないはずなのに、ポキリとなにかが折れる音が聞こえた気がした。


 ずっと、ノイズだらけの世界で特別な、ただ一人の人。


 ああ、僕は海斗に恋をしていたんだ、と気づいた途端、パリンという音を思い出して。

 恋を自覚したと同時に、失恋したことに気づいた。



 

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