短編集。気が向いたら更新

黒瀬くらり

夢を失った春売りさんと趣味と実益を兼ねた殴られ屋が、掴めなかったはずの未来を掴む話

 太陽はもうとっくに沈んでいるはずなのに、目が眩むするほどに眩しい街を、私は一人で歩いていた。

 どうしてだろうか。どうしてこうなってしまったのだろうか。いつも、仕事の後に――自分の身体を売った後に反芻する後悔と自分への侮蔑が、頭の中を侵略していく。


 別に、自分の仕事を批判しているわけではない。私だって、誇りをもって仕事をしている。きっと、この街の、女の子の大多数はそうだろう。

 でも、仕事が終わって、お給料をもらった後にボロアパートに帰ると、いつでも、こんな考えが頭をよぎって。

 トンネルの中で叫んだみたいに、その考えが私の頭の中で波のように共鳴する。


 誇りを持っているはずなのに。

 必要以上のお金をもらえて、衣食住には全く困っていなくて、満足していなければ可笑しいはずなのに。


 いつしか心にぽっかりと空いた穴が、日が経つごとに少しずつ大きくなっているのを感じる。


「……家に帰って、寝よう」


 こういう時は、寝るに限る。

 そう思ってブーツの底を打ち付けるように速足で歩いた。


「――らっ! 糞がっ!」


 町のはずれから聞こえる苛立たし気な男の声。

 私が、嫌いな声。


 時折あそこでは、誰かの怒鳴り声が聞こえる。

 誰かを殴る、生々しい音が。

 そこでは、いつも同じ人が殴られており、その人は何も言わず、ただ殴られ続けている。

 ――あの人は、一体何者なんだろう。


 ○○○


 それからしばらく経った日のことだ。

 例の裏道から、危ないカンジのお兄さん――多分、ヤクザの関係者だろう――が出てきた。

 ちらりと見ると、いつも殴られている男が前かがみに倒れていた。


 思わず駆け寄って声をかける。


「大丈夫ですか。」


 自分の喉から漏れた声の平坦さに驚いた。

 お客さんと話しているときは、ちゃんと抑揚のある声だったはずだ。

 今の声では、まるで機械音声だ。


 私が声をかけると、倒れていた男は、緩慢な動作で私のほうに顔を向けた。


「イツツツ……ああ、ねえさん。心配してくれるのはありがてぇが、俺ァ丈夫なことだけが取り柄なんでな。問題ないさ」


 そういった男の顔は痣だらけだった。当たり前だ。いつも殴られているのだから。

 恐らく私と同じぐらいの年齢だろう。二十代前半ほどに見える。


「なんで、いつも殴られているんですか。」

「おおっと、見られちまってたか。そりゃあ、悪いことしたな。なぜ殴られているか、か。そうだな……俺ァ「殴られ屋」ってもんをしてンだよ」

「殴られ屋……」


 以前、客がそんな話をしていたことを思い出した。

 この街の、とある裏道には「殴られ屋」を自称する人がいて、その人はお金さえ渡せば気が済むまでいくらでも殴られ続ける。


 まさかそんな馬鹿な、なんて思っていたが、彼がそれなのだろうか。


「どうして、そんなことを。そんなことをしなくても、お金を稼ぐ手段ならほかにもあると思いますけど。」


 そういうと、男は少し眉をひそめた。

 こういう顔は、言いたくないときのサインだ。お話をしているときにこの顔にさせてしまったお客さんはリピーターにはならない。私の経験則だ。

 だから、とっさに付け加えた。


「言いたくなければ、言わなくていいですが。」


 機械的な話し方のせいで、まるで突き放しているみたいな言い方になってしまった。

 でも、これ以上言葉を増やしても、まるでいい訳みたいな気がしたので、そこで止めた。

 男は、一呼吸ほどおいて、観念したかのように話し始めた。


「いやぁ、少し長くなるけどよ。話しても、いいかい?」

「長話には、慣れているので。」

「俺ァ別に、殴られたい訳じゃねえんだ。マゾでもねぇ。ただ、殴られまくって気絶して、目を覚ますまでの短い夢が見たいって、ただそれだけなんだ」

「短い、夢。」

「おうそうだ。俺ァ馬鹿だ。若ぇ内にガキ作っちまって、大学にも行かずにこの街で働き始めた。就職なんて出来る訳ねぇ。俺ァ、馬鹿で敬語もろくに使えねぇからよう。それでも、嫁とガキのために必死に働いてた。そんで、ある日チンピラに襲われた」


 彼の目はギラギラと輝いていた。

 そこには己の肉体なんて顧みない、恐ろしさがあった。


「そん時が初めてだ。俺はあの時、久しぶりに思い出したんだァ。ガキの頃の夢ってやつを、よぉ……そいつを一回思い出しちまったら、忘れるのが怖くなったんだよ」

「それ、だけで。」

「あァ、それだけだ。でもよぉ、それだけのものが、忘れるのが怖ぇんだよ」


 ふと考えた。

 私の子供のころの夢って、掴むことのできなかった未来って、掴むことを選択しなかった未来って、なんだったっけ、と。

 穢れも、責任も、価値も、何も知らなかったあの時の、私。

 もう思い出せないほど遠くに捨ててしまった私は、一体何を望んでいたというのだろうか。


「覚えていても苦しくなる、だけ。」

「そうなのかも、知れねぇな。でも、あの時は見れて今は見れない景色をもう一度見たいと思うのは、俺だけじゃねぇはずだ。……そう信じてぇ」


 見たいけど見たくない。

 触りたいけど触りたくない。


 それはまさに禁断の果実だ。

 触れてしまったらきっと、今の生活なんて続けていられない。

 目を背けて、大人になるしかない。

 大人になるしか、ないんだ。


「それによぉ、なんだかんだであン時の夢を叶えられてるかもしれねぇなって、最近思ってんだよ」

「……どうして。」

「俺ァあんとき、誰かの役に立ちたかったんだ。なんだっていい。何でもいいから、俺を、俺という存在を認めてほしかったんだ。だからよぉ、今こうして人に殴られることで、少しは役に立ってんのかもしれねぇ……なんてな」

「それは……。」


 それは、ひどく歪んだ自己犠牲だ。


「そんなことは、脳ミソの足りねぇ俺だってわかってるさ。けどよぉ、こうして殴られるのを仕事にして、何度も来てくれるおやっさんに、殴られた後シップ渡されたりしちまうと、なんか、こんなのも悪くねぇかなって、思っちまったんだよ」

「……そう。」


 本人がそれに納得しているのなら、私に言えることは無い。

 責任を自分で持つのが、大人なのだから。

 私は鞄から絆創膏を取り出して、ありったけ彼に渡した。


 これはきっと、彼を見捨てる私のための免罪符。

 ただ、見たくないものを隠すために払う対価。


「ありがとな、ねえさん。ストレス溜まったら俺んとこ来いよ。割引で殴られてやるさ」

「使わないで済むことを、祈るわね」


 だからどうか、私に感謝なんかしないで。

 私は、ただの自己満足で。

 彼のことを止めもしないで、見捨てる私を。


 笑顔で見ないで。


 お願いだから、私を大人にしないで。



 ――――

 蛇足追加 2021.8/21 16:22


 と言ってもこの話はそこまで蛇足することは無い。

 ほとんど小説内で言及していたはず。唯一してないのは主人公の昔の夢くらい?

 いや、読めばわかるよね。


 主人公の夢→大人になること

 殴られ屋の夢→人の役に立つこと


 主人公の場合は「早く大人になりたいっ!」みたいな、子供あるある。

 殴られ屋の場合は、ちょっと複雑。

 家庭が育児放棄気味で、その理由付けとして、「自分が親の役に立っていないから」と考えるようになったのが発端。それが、隠れながらも根源的にずっと残ってる感じ。


 主人公は昔、大人になりたいと思っていたけれど、売春をして大人の怖さを知っていしまう。(もちろん、大人の定義について悩ましい部分はあるけど。主人公はちょっとすれてる)

 だから、心の中でそんな大人になりたくない、と思うが、殴られ屋に対して何もしないことが、主人公にとって、大人になる最後の扉を開けてしまうイメージ。


 まあ、そんな感じの裏設定です。

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