コーディ視点 クエビアの神域 2

 広大な神域だったが、僧兵の案内もあって目的のヘルケイレス神殿へは迷うことなく辿りつくことができた。

 軍神ヘルケイレス神殿は、敷地内に正義の女神イツラテルの神殿を有している。

 同じ敷地内に神殿を建てるのは、夫婦神や仲のよい兄弟神の神殿に多い特徴だ。

 神殿の建物としては兄神であるヘルケイレス神殿の方が大きいのだが、神域の外に作られる街の教会などでは、イツラテル教会の方が大きいことが多い。

 軍神の加護を願うという意味ではどの国でも同じだが、女神イツラテルは神々が地上を去る神話の終わりに、最後まで地上に残って人間を見守ってくれた女神だ。

 そのため、神々の中で最も人間からの信仰を集める女神でもある。

 神域の中と外とで兄妹神の力関係が入れ替わるのは、そのためだ。

 神域の中では兄神、妹神としてヘルケイレスが立てられ、神域の外では単純に人気のあるイツラテルが大きく扱われている。

 それだけのことだった。


 ……さすがに神域ともなると、ヘルケイレス神殿も本気だ。


 ヘルケイレスにまつわる神話の一つひとつが、壁画として色鮮やかに描かれている。

 壁画だけではヘルケイレスを崇め足りないのか、通路のいたるところへと肉体美に輝くヘルケイレスの彫像が飾られ、最奥の間には戦装束のヘルケイレス像があった。

 石から削り出した巨大な像に壁画のような色づけはされておらず、額に飾られた黄金の馬銜はみだけが輝きを放っている。

 イツラテルから贈られたという馬銜は本来ヘルケイレスの愛馬にこそ付けられているはずなのだが、ヘルケイレスは馬に変化してイツラテルを背に乗せて狩りを楽しむ神話があった。

 馬具とはいえ、妹神からの贈り物を自身が身に付けたとしても、それほど不思議ではないのかもしれない。

 イヴィジア王国で軍神の化身だと謳われる男のように、神話のヘルケイレスも妹神を溺愛していた。


「……わたくしになんの御用でしょうか。巫女を名指しで呼びだすだなんて、ウェミシュヴァラ神殿と間違えていらっしゃるのではなくて?」


 僧兵に小さな部屋へと案内されて待つことしばし、俺が入ってきた扉とは違う扉を開いてやって来た巫女は、俺の姿を見るなり目を眇めた。

 簡素な巫女の衣を着ているが、所作の一つひとつから元の身分が窺える女性だ。

 女性の元の身分を思えば、これが旅の商人に対する当然の反応だろう。


 ……これがアルフレッド様の妹の、クローディーヌ様か。


 顔は確かに、アルフレッドと似ていた。

 金色の髪も、青い瞳も同じだ。

 簡素な衣を身に纏っているのだが、内側から輝くような気品がある。

 うっかりその顔に見惚れてしまっていると、クローディーヌは柳眉を寄せた。


「あなた、まずは名を名乗りなさい。本来名を捨てたはずの巫女を名指しで呼び出したのです。つまらない用事でしたら、生皮を剥いで石鹸にしてさしあげますわ」


 ……美人だけど、中身は怖い。アルフレッド様に似てるのは顔だけ……いや、アルフレッド様もなかなか怖い人だったか。


 判りやすく怒った顔を作ってくれるだけ、逆にクローディーヌの方が優しくも思えるのだから不思議だ。

 アルフレッドは怒っている時でも楽しんでいる時でも、どちらも笑顔で判断が難しい。


「えっと……俺、じゃなくて。私はコーディという旅の商人です。イヴィジア王国のレオナルド様からお手紙を預かって来たのですが……」


「……え?」


 レオナルド、と名前を出した途端にクローディーヌの纏った不機嫌な空気が霧散する。

 怒りを見せながらもほとんど無表情に近かった顔は、今や恋する乙女のように柔らかな微笑みへと変化していた。

 ほんのりと頬を上気させて二度、三度と瞬き、クローディーヌは物語に出てくるお姫様のように愛らしい微笑みを浮かべる。


「あら? あらあら? レオナルド様から、私へ、お手紙を……?」


「はい。レオナルド様から、クローディーヌ様へのお手紙をお預かりしております」


「まあ、まあまあまあ……っ! それならそうと先におっしゃってくださればいいのに! 意地悪な方ね」


 うふふ、とクローディーヌは可憐な微笑みを浮かべているのだが、先ほどまでと変わりすぎて正直怖い。

 女の微笑みに騙されるな、というのは祖父の言葉だったが、まさに今、目の前で起こった変化のことを言いたかったのだろう。

 手のひらを返すという言葉が、実にしっくりくる。


「それで、こちらがレオナルド様からの手紙に……」


「ああ、お願い。少し待ってくださいな。私ったら、少し髪が乱れて……あら、こんな所に皺が」


 レオナルドからの手紙を受け取るというのに、服に皺ができているだなんて、と言ってクローディーヌは衣についた皺を気にして指の腹で伸ばしている。

 俺としては早々に用件を済ませ、なんとなく苦手だと感じるクローディーヌから逃げたいのだが、鞄から手紙を取り出そうとした姿勢で固まってしまっていた。

 今はもう王女という身分ではないのだから、クローディーヌの制止を聞く必要などない。

 そのはずなのだが、クローディーヌの持って生まれた王族としての気品か、俺の商人根性がそうさせるのか、「待て」と言われたら無意識に体が止まってしまっていた。


「こんなみっともない姿で、レオナルド様からのお手紙を受け取るだなんて無作法はできません」


 しばらく待っていてください、とクローディーヌは入って来た扉から出て行ってしまう。

 レオナルドからの手紙と対峙するため、身だしなみを整えてくる、と退室していったクローディーヌが戻って来たのは、それから一時間後のことだった。


 ……女の子って、面倒臭い。


 商売上の顧客であれば、こんなことを考えてはいけないと思うのだが。

 戻ってきたクローディーヌは、衣の皺は調えられ、髪もきっちりと梳られていたのだが、俺の目から見て一時間前との差がほとんどない。

 ほのかに良い香りがする気がするので、風呂にでも入って香油を塗ってきたのだろうか。

 元・王女様が身だしなみを整えてきた、と考えれば、一時間待たされたというのは十分に短い時間ともいえた。

 神殿に仕える巫女が来客を待たせる時間としては、やはり長すぎる気もしたが。


「お待たせしました。それではコーディ様、レオナルド様からのお手紙を」


「はい。こちらになります」


 平民相手であっても、クローディーヌはレオナルドが関わることであれば『様』を付けて敬ってくれるらしい。

 変わった王女様だな、とは思うのだが、深く考えないことにした。

 イヴィジア王国の王族は、サエナード王国の王族とはまるで違う性質をしている。

 平民へも気を遣ってくれる代わりに、その性格は大変個性的であるというのは、サエナード王国では有名だ。

 王族が平民に敬称をつけるぐらい、イヴィジア王国では珍しくもなんともないのかもしれない。


 レオナルドからの手紙をうやうやしい仕草で受け取ったクローディーヌは、まず宛名として書かれた自分の名前を眺め、封筒を裏返して『レオナルド』と書かれた差出人の名前を見つける。

 恋する乙女そのままの仕草でレオナルドの名前を指でなぞり、封蝋の紋章に一瞬だけ眉間に皺を刻んだ。


 ……なんだ?


 何かおかしなことでもあっただろうか、と首を捻る間もなくクローディーヌの手が俺に向って持ち上がる。

 何を要求されているのかはなんとなく判ったので、その手にペーパーナイフを載せた。


 慎重な仕草で封を開け、白い便箋へとクローディーヌが目を走らせる。

 手紙の内容は、事前に説明を受けているので知っていた。

 西向きのアドルトルの紋章と、その紋章を掲げていた亡国について調べてほしい、とレオナルドの筆跡で書かれているはずだ。

 手紙を書いたのはレオナルドだが、文面はほとんどアルフレッドが作っていたということまで、俺は知っている。


「……すべて承知しました。レオナルド様からのお願いであれば、私の全力でもって必ず期待に応えてみせます」


 明日までに調べておくので、明朝訪ねてくるように、と早速部屋から追い出されそうになり、慌てて食い下がる。

 クエビアへは数日滞在することになっているので、一晩で調べるような無茶はしなくていい、と。


「レオナルド様の妹さんを探すために必要な情報ですので、焦らず、確実な情報が欲しいそうです」


「レオナルド様の妹様が……わかりましたわ」


 では、滞在している間の時間すべてを使って、調べられるだけ調べておきます、とクローディーヌが笑顔で引き受けてくれた。

 なにか手伝えることがあるだろうか、と聞いてみたのだが、神域の書庫へはさすがに外部の人間は入れないそうだ。

 レミヒオに相談すれば融通してくれそうな気はしたが、そこまで甘えるのも悪い気がして引き下がる。

 俺は俺にできることをした方がいいだろう。







 俺にできることを、と改めて考える必要もない。

 俺は旅の商人で、このあとはズーガリー帝国を通ってイヴィジア王国へと行くことになっている。

 となれば、ズーガリー帝国を怪しまれず自然に巡るためには、今は商人らしく帝国内で売れる商品を仕入れるだけだ。


 神域を出てクエビアの首都レストーンへと移動し、ボビンレースの指南書を売りつつ日持ちのする食料を仕入れる。

 再び神域へと戻る頃には数日が過ぎていて、レミヒオが呼んでいると案内されたのはメンヒシュミ神殿ではなく、メンヒシュミ教会だった。

 神殿はさすがに神殿としての厳かな雰囲気を保っていたいらしく、印刷工房としてのメンヒシュミ教会とは建物を分けているようだ。


「お待たせしました、コーディさん。これをあなたの商品として、ズーガリー帝国へお持ちください」


「これは、えっと……レミヒオ様の姿絵、ですね」


 商品としてどうぞ、とレミヒオが用意してくれたのは、レミヒオの姿絵だ。

 ただの印刷物といえば印刷物なのだが、描かれているのは今代の仮王だった。

 神域まで入ることを許されない一般人や、そもそも神域まで旅する体力や路銀のない民が、仮王の姿を知ることができる貴重な品である。


「オレリアンレースを纏った私を描かせ、印刷しました。私の姿絵を頒布用に印刷するのは初めてですので、オレリアンレースの良い宣伝になるでしょう」


 クエビアと国境を面するズーガリー帝国の北側には、信心深い人間が多く住んでいる。

 そこへ仮王の姿絵を商品として持ち込めば、姿絵は飛ぶように売れるはずだ。

 その結果、これがボビンレースだという意識がなくとも、姿絵のレミヒオが纏った精緻なレースの存在が帝国内にも知られることになる。

 あとはその精緻なレースの正体がボビンレースであることを同時に宣伝し、イヴィジア王国で指南書が作られているという話をばら撒いてくればいい。

 ズーガリー帝国で指南書を販売するのは、そのあとだ。


「レミヒオ様は、意外に行動派ですよね」


「神王の寵愛深い聖女ティナの危機ともあれば、クエビアとしては協力を惜しまないよ」


 絵自体は同じものなのだが、姿絵は二種類用意されていた。

 黒のインクだけで印刷されたものと、要所へと色がおかれたものとで違いがある。

 黒一色の姿絵は原価よりも安価で、誰にでも買える値段にされており、逆に色のついた姿絵は原価以上の値段が付けられていた。

 黒一色の姿絵で出る損は、色のついた姿絵を売って補えばいい、という考え方だ。

 仮王の姿絵は儲けを出すものではなく、人の心の支えとなるべきものだ。

 貧しい家の者でも買えるように、足りない印刷代は色のついた高価な姿絵を買える財力のある者が出せばいい。


 そろそろヘルケイレス神殿での調べものも終わっているはずだ、ということでヘルケイレス神殿へも顔を出す。

 クローディーヌは調べ物を細かく纏め上げてくれたようで、分厚い報告書の束を手渡された。


「コーディ様はこのあと、ズーガリー帝国を経由してレオナルド様の元へ戻られるのですよね? でしたら、アウグーン、スラウルム、レーベランの三つの領地へ寄って、少し城へでも潜りこんでレオナルド様のお役に立ってください」


「ただのしがない商人でしかない俺、じゃない。私に、城へ忍び込めだなんて無茶です」


「あら、簡単なことよ。城なんてどこも似たようなものですもの。少し古い枯れ井戸の位置だとか、城の裏手にある森の奥だとかに、城からの抜け道がないか探せばいいの」


 ね、簡単でしょう? とクローディーヌは可愛らしく微笑んでいるのだが、どう考えても簡単な仕事ではない。

 もとから諜報活動を仕込まれた人間であればできるのかもしれないが、俺は旅をしているということを活かして少し情報を集めているだけの、なんの訓練も受けていない商人だ。

 城へなど忍び込むことなどできないし、忍び込んだところで、どこへ向かって何を調べてくればいい、というような目処すら立てられない。

 戸惑っている間に城の兵士にでも見つかって、捕まるのが関の山だろう。


「まあ、意気地のない。うちの家系でしたら八つの妹でも杖爵邸へと忍び込んで、裏帳簿を盗み出してきましてよ?」


 それは子どもの悪戯として目こぼしされたのではないか、と指摘したところ、八歳の姫が持ち出した帳簿が元で杖爵家が華爵へと落とされたことが実際にあったらしい。

 姫自身は悪戯気分だったかもしれないが、姫から帳簿を取り返そうと追いかけた杖爵は本気だったようだ。

 本気すぎる追走劇を演じた結果として、姫の悪戯で終わるはずだった裏帳簿持ち出し事件は公のことになってしまったのだとか。


「解りましたわ。商人に間諜の真似事をせよとは言いません。いえ、レオナルド様のためなら商人であっても間諜の真似事ぐらいしてみせなさいと言いたいところですが。むしろ、私がレオナルド様のために間諜の真似事をしたいぐらいですが、コーディ様にそれを求めるのは酷だということは理解いたしました」


 ではせめて、と城へ忍び込めなくともその周辺を調べていけ、といくつかの領地の名前が足される。

 クローディーヌの説明によると、アウグーンは亡国の王族の遠戚であったために処刑を免れた一族が治める地で、スラウルムはその分家筋にあたるらしい。

 レーベランは帝国領の北側どころかイヴィジア王国に近い南側の領地だが、亡国から姫が嫁いだという記録が残っているのだとか。

 いずれにせよ、名を挙げた領地が怪しい、という話ではなく、資料が少なくクローディーヌが満足に調べられなかった補完をせよ、とのことだった。

 自分が纏めた報告書と実際に俺が現地で見聞きしたことをアルフレッドへと報告すれば、あとはアルフレッドが情報を精査してくれるだろう、と。


「悔しいのですが、兄上の方がレオナルド様のお役には立てるのですよ。役に立つのですから、とことんレオナルド様のために働かせればいいのです」


 自分がレオナルドの側にいられない分、兄には馬車馬のように働いてもらいましょう、とクローディーヌは綺麗な微笑みを浮かべる。

 嫉妬と羨望が混ざったようなクローディーヌの微笑に、似たもの兄妹きょうだいだな、とチラリと考えたことは秘密だ。

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