ジゼル視点 白き役立たず 4

 床板を外す音に、もしかしたらこれで助け出されるのではと期待したのだが、国境を守る黒騎士たちは私とクリスティーナを見つけ出すことはできなかったようだ。

 二重底の床下に気付いたところまではよかったのだが、そこに私たちは隠されていなかった。

 帝国と国境を接する砦での検問ということで、床下以外にも座席の下といった少しでも人が隠せそうな空間があれば調べられたのだが、私たちが隠されている場所には気が付かなかったようだ。

 

 黒騎士が馬車を調べるために乗り込んできている間はエドガーたちも車外へと出ていたため、物音を立てる絶好の機会には恵まれたのだが、そのぐらいはエドガーも承知していた。

 ただでさえ身じろぎ一つできない狭い空間だったのだが、それでも残っていたわずかな空間へは毛布などが詰められて息苦しいぐらいに隙間がない。

 馬車に揺られ続けるクリスティーナが温かく、固定されているという面ではよかったのかもしれないが、おかげで足先を床にぶつけて音を立てる、といった行動はまったく取れなかった。

 ならば臭いで気が付いてくれないものか、とも思ったが、クリスティーナや私が粗相したものは、おそらくは精霊の親切心によって花の香りで覆い隠されている。

 たとえ臭ったとしても、エドガーの香水の臭いとでも思われたことだろう。

 やがて黒騎士たちによる馬車の確認作業は終わり、車内へとエドガーたちが乗り込んできて国境を抜けてしまった。


 国境を抜けた先にあったズーガリー帝国の砦では、兵士たちは私たちの隠されている場所に気が付いていたようだ。

 一度コツコツと床――馬車の中から見れば天井――を調べる音が響き、エドガーと兵士が黒騎士を笑う声が聞こえた。

 

 床下を改める程度の知恵はあるが、まだまだ知恵が足りない、と。

 古くから他国の人間を攫い、奴隷として隠し運んできたズーガリー帝国だ。

 馬車に隠し場所を作ることなど容易である、と。

 

 イヴィジア王国を無事に抜けたことから気が緩んだのか、隠す必要がなくなったと思ったのか、兵士とエドガーの会話は天井裏であっても筒抜けだった。

 エドガーが兵士へと口止めに金を握らせていたことから、これは国ぐるみの誘拐ではなく、エドガーが個人的にクリスティーナを誘拐したことが判る。

 国ぐるみの誘拐であれば、兵士への口裏合わせなど必要ないからだ。


 ズーガリー帝国側の砦を抜けて宿場町に着くと、やっと馬車の隠しから出されることになった。

 エドガーの目には、植物の葉で顔の半分以上が覆われたクリスティーナの顔は、不気味なものに映ったようだ。

 ジャスパーに命じて顔を包帯でグルグルに巻くと、毛布で包んで自分の視界に入らないようにしていた。


 ……事態は最悪だけど、体が起こせるだけでも楽になった。


 物事は前向きに考えよう、と好転した部分を探す。

 国境を越えてついに国外へと連れ出されてしまったが、クリスティーナはまだ生きている。

 狭い隠しから出されたため、体は起こしていられるし、昼と夜の時間の感覚も取り戻せた。

 なにより、眠り続けるクリスティーナの世話がしやすくもなっている。


「……クリスティーナはあれから目を覚ましたか?」


「いいえ」


 首筋に触れて脈をはかり、呼吸を確認してジャスパーがクリスティーナの容態を診る。

 クリスティーナは結局一度も目を覚まさず、眠り続けたままだ。

 体温もずっと低いままで、ますます衰弱していっているのが判る。

 漏斗を使って水や食事は無理矢理食べさせているのだが、消化する量よりも吐き出す量の方が多い気もした。

 それでもクリスティーナが生きているのは、付き纏っている花の香りのおかげだろう。

 一度クリスティーナの唇に艶があることに気が付き、匂いを嗅いでみたら甘い香りがした。

 どうやらクリスティーナの世話をしている精霊は、食事の世話も始めたようだ。

 花の蜜でも、クリスティーナの唇に塗ってくれたのだろう。


「クリスティーナお嬢様に、いつまでこのような生活をさせておくつもりですか?」


 馬車の中には薪ストーブがあったし、常にクリスティーナは毛布に包まれているのだが、やはり気温のどんどん下がってくる季節に馬車での生活というものは無理がある。

 健康な大人でも体調を崩しかねない季節なのだ。

 体調を崩した子どもを馬車で運んで連れまわすなど、正気の沙汰ではない。

 早く暖かで安定した部屋へとクリスティーナを運びこみ、まずは体の健康を取り戻したい。

 誘拐犯の手から脱出するのも、イヴィジア王国へと帰るのも、すべてはクリスティーナが動けるようになってからだ。


「まずはエドガー様の御領地へ運び込むことになるだろう」


 あそこならイヴィジア王国から遠く、治療に専念できるはずだ、というジャスパーに、珍しくエドガーが抗議の声をあげた。

 向かっている先を誘拐された側に教えてやる必要などない、と。

 普段はクリスティーナを視界へ入れないよう、みすぼらしい男の服装をした私などいない者のように振舞っているのだが、さすがに黙ってはいられなかったようだ。


「……これは騎士としては役立たずで有名な白騎士の、ついでに言えばさらに実力のない女騎士です。自分がどこに向かっているのかを聞いたところで、何かできるとは思えません」


 試しに、と現在向かっているらしいエドガーの領地の名を教えられたのだが、それがズーガリー帝国のどのあたりにある領地なのかすら私には判らなかった。

 私に判るズーガリー帝国の地理といえば、帝都トラルバッハと二つの大都市、有名な産出品のある街や港、ここ数十年の間に我が国との間で戦の起こった周辺地域だけだ。

 つまりは、国境付近の領地や町の名前は辛うじて学んでいるが、帝国内部の地理には詳しくない。

 これは私が白騎士だからというわけではなく、他国の地理に関することだからだ。

 地形や地理を知るということは、戦において有利に働く。

 自国内の地図を作り、自国内で使うことはあっても、自国の詳細な地図を他国へと洩らす者はいない。

 地図を外へと洩らす、たったそれだけのことで戦の上では不利を被ることがあるのだ。


 ……貴族の館へ連れて行かれるのなら、どこかに地図があるかもしれない。


 クリスティーナが回復したら、まずは地図を探そう、と心に留め置く。

 抜けているところが多い、とクリスティーナには呆れられることの多かった私だ。

 クリスティーナをつれて逃げるためには、慎重に情報を集めていくしかない。


「そういえば騎士の制服を着ていたな。その腕で剣を振るうことなどできるのか? 侍女や女中メイド仕事の方がむいているだろうに」


 自覚のありすぎるエドガーの言葉に、薄く唇を噛む。

 剣を振るう仕事が向いていないだなんてことは、自分自身が一番よく判っている。

 それでも侍女ではなく白騎士になることを選んだのは、競争相手が少ないからだ。

 私の代で功績を挙げなければ、私の子どもは平民になる。

 それなりに功績を挙げようと焦ってはいたのだが、侍女の仕事は身分がものを言うこともあったし、同じ華爵の令嬢たちもいた。

 彼女たちに混ざって仕事をしても、私に目立った功績を挙げられるとは思わなかったのだ。

 

 ならば、競争相手の少ない職に付けばよい、と白騎士になることを選んだ。

 

 その甲斐あってか、クリスティーナ付きという功績を挙げる機会に恵まれた環境に置かれることになったのだが、功績を挙げる機会があるだけクリスティーナの側には危険もあった。

 一番の誤算は、機会に目が眩んだ親戚の暴走だ。

 自分たちで誘拐事件を引き起こし、私にクリスティーナを救出させることで偽りの功績を挙げさせようとしてしまった。

 あれには本当に呆れ、絶望もしてしまったのだ。

 貴族という身分は、そうまでしてしがみ付くものではない、と。


 ……功績、か。


 功績を挙げようと白騎士になり、クリスティーナ付きの護衛になったはずなのだが、今となっては功績だなどとのん気なことを言っている場合ではない。

 クリスティーナは攫われ、自身もまた国外へと連れ出されている。

 クリスティーナを守るための行動であったつもりではあるが、そう評価してくれる人間などいないだろう。

 悪くすれば、私も誘拐犯の一味で、クリスティーナを攫って逃げたと思われている可能性もある。


 ……せめて、クリスティーナお嬢様だけは守らないと。


 護衛としてはなんの役にも立てない私ではあったが、クリスティーナを守るためにはさまざまな方法があった。

 私などより余程強かったカリーサがおとなしく自分の体を差し出したように、クリスティーナを守る方法は剣を振り回すだけではないはずだ。


 ……カリーサなら、どうしていただろう。


 クリスティーナを守る。

 カリーサの思考を辿れば、考え付くのはこれだけだ。

 その他のことは一度すべて捨て去り、このたった一つのことだけのためにカリーサは全力で戦っていた。


 ……カリーサの守り方、か。


 今の自分にできそうなクリスティーナの守り方は、カリーサをなぞることだろうか。

 カリーサになることなど私にはできないので、あくまでも『カリーサならこうするだろう』と思考の参考にするだけだ。


 ……カリーサなら……クリスティーナお嬢様の命を最優先にする、よね。


 誘拐犯に屈したくない、だなんて私の小さな矜持には蓋をする。

 そんなモノがあってはクリスティーナから遠ざけられてしまう可能性があったし、そもそも矜持プライドなどなんの役にも立たない。

 クリスティーナの回復を見守り、連れ出す機会を待つためには、クリスティーナの側から離されるわけにはいかないのだ。







 吐かせて体力を失わせるよりは、とクリスティーナの食事が減らされる。

 せめて滋養を、と用意された蜂蜜とわずかな水だけを頼りにクリスティーナの命を繋ぎ、いよいよ体力が心配になったところで、馬車はエドガーの領地へと到着した。

 広大な前庭を持つエドガーの館は、ほとんど小さな城だ。

 正門を抜けて玄関まで移動するだけでもかなりの距離がある。


 雪がちらつき始めた外気にクリスティーナの体温を奪われないよう速やかな移動が求められ、外観を観察する余裕はない。

 パッと見ただけで判るのは、グルノールの館や離宮よりも大きな城だということぐらいだ。

 大勢の使用人の出迎えを受け、クリスティーナの体は運ばれていく。

 引き離されないよう早足でついていくと、クリスティーナが運ばれたのは暖かく整えられた客間だった。


 ……クリスティーナお嬢様のために整えた部屋、といったところでしょうか?


 もちろん、良い意味ではない。

 室内は貴族の令嬢に相応しい格の家具が揃えられているのだが、不自由を感じないのは室内だけだ。

 窓には一目ひとめで判る大きな格子が嵌められており、クリスティーナを閉じ込めておくための檻である意図がありありと見て取れる。


「クリスティーナお嬢様のお世話は、私がします」


「クリス……?」


 むしろ触ってくれるな、とクリスティーナをベッドへ寝かせるためにまずは風呂に入れようと集まってきた女中メイドを牽制すると、女中たちの戸惑った雰囲気が伝わってくる。

 私の言葉をどう受け入れたものかと悩んでいる様子に、私の方こそ疑問が湧く。


 ……なぜ、クリスティーナお嬢様の名前に戸惑うの?


 初めて聞く名前なのだから、女中たちが『初めて聞いた』という顔をするのなら解るが、まるで『知っている名前とは違う名前が出てきた』とでも言いたげな雰囲気だ。

 何かおかしい。

 そう思い視線を巡らせると、私の視線を遮るようにジャスパーが割り込んできた。


「これはシスティーナお嬢様の子守女中ナースメイドだ。お嬢様に害はないはずだから、ここでの仕事を教えてやってくれ」


 ……システィーナ?


 私についての説明を女中たちにしはじめたジャスパーの背中を見つめながら、聞こえてくる情報を頭の中で整理する。

 クリスティーナの名前は、ここでは『システィーナ』と説明されていたようだ。

 主であるエドガーの姪で、幼い頃に誘拐されて行方不明だった『システィーナ』をこの秋に見つけ、救い出して来たことになっているらしい。

 長い監禁生活により心身ともに病んでいることから、ひとまずエドガーが自分の城で保護し、ある程度回復してから両親と対面させる予定とのことだった。

 私については、エドガーが救い出した姪のために急遽雇った子守女中ということになった。

 男の手で貴族令嬢の世話をするのは憚られる、というのがその理由にされている。


 ……男物の服を着た女を見て、『急遽雇った子守女中』だなんて説明が通じるのだろうか?


 そうは思ったのだが、女中たちはジャスパーの説明で納得したようだった。

 というよりも、ズーガリー帝国はイヴィジア王国とは違う。

 内心で疑問を抱えていようとも、貴族がそう言うのだから、そういうものだろう、と飲み込むことこそが生きるための術である。

 エドガーから姪を連れてくるので、その世話をしろ、と命じられたのなら、女中たちの仕事は姪の世話をすることだ。

 その他のことを考えることは許されない。


 力仕事は女中の手を借りて、クリスティーナを風呂に入れる。

 移動中の埃を落として体を温めている間に、清潔な肌着と寝間着が用意されていた。

 

 顔の葉を隠すために巻かれていた包帯をはずすと、女中が一人息を飲む。

 顔の半分以上を植物の葉に覆われたクリスティーナは、それだけ異様な姿なのだろう。

 

 葉の数が増えても、減ってもいないことを確認し、また包帯を巻き戻そうとして、やめた。

 エドガーが異様な姿のクリスティーナを嫌って巻かせた包帯だ。

 あっても意味のないものであったし、クリスティーナの顔を見たくないとエドガーの足が遠のくのなら、そちらの方が都合がいい。


 クリスティーナをベッドへ寝かせて一息つくと、窓に格子の嵌った狭い部屋へと案内された。

 どうやら、ここが私の部屋になるらしい。

 このままクリスティーナの女中として側にいることは許されたようで、部屋には女中のお仕着せが用意されていた。

 着替えて部屋を出ると、見張りと思われる男が背後についてくる。


 クリスティーナに用意された部屋は、二つある扉の前にそれぞれ二人の男が見張りに立ち、中へ入れば一人ずつ扉を守っている。

 とにかくクリスティーナを回復させることが最優先で、薬師であるジャスパーは部屋の一角に椅子が用意されていた。

 料理人に伝えるための食事についての指示を書き付けていたので、手元を覗き込む。

 移動中に用意できる食事は限られていたが、エドガーの城では栄養価の高い食材が用意できそうだ。

 とはいえ、当分はクリスティーナが飲み込みやすいように少量をドロドロに煮込んだものが主になる。

 あとはジャスパーの用意する薬湯だ。

 風呂に入れたことでクリスティーナの体力を使ってしまったはずだが、下がりきった体温をあげることはできた。

 欲張らずに少量ずつの食事を与え、吐かせずに温かい部屋で体温を保ち、クリスティーナの回復を待つことができる。


 女中たちはエドガーからまずクリスティーナの回復を第一に考えるよう言いつけられているようだ。

 そのエドガーはというと、クリスティーナを置いてさっさと帝都にある別邸へと戻っていった。

 エドガーは帝都の別邸で仕事をし、必要がある時以外はあまり領地へは戻ってこない生活をしているらしい。

 四六時中クリスティーナに付き纏われても困るので、ありがたいことだった。


 ……完全に放置ではなく、見張りが何人も付けられているのが辛いところだけど。


 女中たちはクリスティーナをエドガーの姪と聞かされているようなのだが、見張りの男たちへの説明は違うようだ。

 クリスティーナを守っているのではなく、はっきりと見張って閉じ込めているのだということが態度に出ていた。


 ……薪も食費も使い放題、ってところだけはレオナルド様と同じですね。


 クリスティーナに向ける感情はまるで別物だが、クリスティーナの生活は変わらない。

 風邪などひかないよう暖かい部屋に囲われて、栄養のある温かな食事が用意される。

 悔しいことに、悪化の一途を辿っていったクリスティーナは、エドガーの城に囲われるようになってからというもの、回復傾向を見せるようになった。

 過酷な馬車での移動より、暖かい部屋に落ち着いたことが大きいのだろう。


 体温は元に戻ってきたのだが、冬の中頃になってもクリスティーナは目覚めなかった。

 しかし女手を借りることができるようになって世話は楽になり、栄養がある食事が用意され、世話にも慣れてきたので吐かせてしまう回数も減る。

 寝顔だけを見れば一時期よりかは健康を取り戻しているのだが、何かが足りないようで、クリスティーナは一向に目覚める様子を見せず、眠り続けていた。


 忙しくクリスティーナの世話をしている間に、エドガーの城での生活には慣れてきた。

 どうやらこの城には小さな図書室もあるらしいのだが、常に張り付いた見張りのせいでこっそり図書室を覗くことはできない。

 図書室にならズーガリー帝国の地図もあると思うのだが、いずれクリスティーナを連れて逃げるための情報集めは難しそうだ。


 そうこうしている間に神王祭がやってくる。

 国が違っても、神王の誕生を祝うのは同じだ。

 いまだに喉の奥へとドロドロに柔らかくなるまで煮込んだスープを送り込むことで無理矢理食事を摂らされているクリスティーナに、今年の『イツラテルの四つの祝福』を食べることは不可能だった。

 エドガーからはなんの指示もなかったのだが、それでも料理人と女中は主の姪だと聞かされている『システィーナ』のために『イツラテルの四つの祝福』を焼き、心ばかりの神王祭を祝う。

 城に来た当初は周囲の人間を全員敵だと考えていたのだが、私が警戒すべきはジャスパーと見張りの男たちだけだったようだ。

 女中も料理人たちも、みんな周辺の村から雇われた平民だった。

 クリスティーナがエドガーの姪だということについては懐疑的ではあるようなのだが、それでも看病が必要な状態の少女ということでクリスティーナは彼らの同情を引いている。

 少しでも『システィーナのために』と、彼らは彼らで考えて心を砕いてくれていた。


 ……そういえば。


 クリスティーナが手をつけることはできないので、完全に無駄になってしまった『イツラテルの四つの祝福』を、年配の女中が暖炉の中にミルクと一緒に置くのを眺める。

 神王祭の日は子どものいる家では暖炉に火をつけないので、今日のクリスティーナは薪ストーブに囲まれていた。

 最初に精霊に攫われて以来、冬は毎年のように獣の仮装をして過ごしていると聞いていたのだが、ベッドの住人である今年のクリスティーナはなんの仮装もしていない。


 ……もしも今日クリスティーナお嬢様が精霊に攫われたら、暖炉からグルノールへ戻れるのでは?


 埒もないことと思いつつ、暖炉の前へと長椅子を移動させ、さらにその周辺へと薪ストーブを移動させる。

 風邪などひかせないよう厳重に毛布で包んだクリスティーナを長椅子に移動させ、その日はずっと暖炉とクリスティーナを眺めて過ごした。







 結局、クリスティーナが暖炉からグルノールの街へと帰ることはなかったのだが、なんらかの精霊からの働きかけはあったようだ。

 まさか長椅子で夜を明かせるわけにはいかない、と年配の女中に促されてクリスティーナをベッドへ戻そうと抱き上げた時、ひらりと視界に動くものがあった。

 反射的に目で影を追い、床へと落ちた緑色の物体を見て、腕に抱き上げたクリスティーナの顔を見る。

 クリスティーナの顔に張り付いていた葉が一枚落ち、細く青い瞳が開かれていた。


「まあ、システィーナ様!」


 すぐにクリスティーナの変化に気付いた年配の女中が声をあげる。

 その声にかき消されて、わずかに動いたクリスティーナの声を聞き逃してしまった。


 ……でも、たぶん。


 クリスティーナは、目覚めて最初にカリーサの名を呼んだのだと思う。

 吐息紛れに『カ』と、最初の音だけが聞こえた気がする。


 一度開かれたクリスティーナの瞳は、女中の声を聞いたジャスパーが椅子から立ち上がってやって来る前に再び閉ざされた。

 一瞬だけ目覚めたことが気のせいだったのか、と疑ってしまったのだが、葉が落ちた以外にも判る変化がある。

 これまでは息をしているのか、いないのかも判らない程ひっそりとした呼吸だったのだが、今ははっきりと胸が上下していた。

 口元に耳を寄せなくとも、呼吸をしていると判るのだ。

 これまでにない、大きな変化である。


 神王祭の夜以来、クリスティーナは少しずつ回復傾向を見せ始めた。

 顔に張り付いた葉が少しずつ離れ、カリーサを呼ぶものではあったが時折寝言を洩らすようになった。

 意識ははっきりしていないようなのだが、薄く目を開いている時もある。

 食事の世話に体を起こすと、舌に乗せたスープを喉を動かして飲み込んでくれるようにもなった。


 食事が摂れるようになると、クリスティーナの回復は少しだけ早まった気がする。

 形を保ったものが食べられるようになると、目の開いている時間が長くなった。

 ある日、食事の終わった食器をワゴンに片付けていると、背後で物音がして驚く。

 物が落ちる大きな音に驚いて振り返ると、クリスティーナがベッドから落ちて倒れていた。

 また頭を打ってしまったのでは、と慌てて抱き上げたのだが、クリスティーナは無言で体を離し、また倒れてしまう。

 二度も倒れたクリスティーナに、ベッドから落ちたのではなく、意図的にベッドから降りようとして倒れたのだ、と気が付いた。

 そして、長く臥せっていたせいで筋力が落ち、歩けなくなっているようだとも気付かされる。

 ようやく目覚めて食事を摂ってくれるようになったのだが、これでは連れ出して逃げるためにはさらに多くの時間がかかりそうだ。


 ……でも、目覚めてくれたのだから。


 ずっと眠り続けていたのだ。

 今は、目覚めてくれたことだけをとにかく喜ぼう。

 歩行の訓練は、もう少し体力を取り戻してから始めればいい。


 顔に張り付いていた葉がすべて落ちると、クリスティーナの意識はまだぼんやりとしたままなのだが、起きている時間が増えてきた。

 体を起こして背中にクッションを用意してやると、崩れ落ちて寝てしまうこともなくなる。


「ティナお嬢様、カリーサを探しに行きましょうか」


「……ん」


 クリスティーナをエドガーの城での呼び方である『システィーナ』と呼ぶことが躊躇われ、しかし『クリスティーナ』と呼ぶことはできず、『ティナお嬢様』とカリーサが呼んでいた呼び方をする。

 クリスティーナは話しかけてもほとんど返事をしてくれないのだが、『カリーサ』という言葉には反応をしてくれた。

 今のように「カリーサを探しに行きましょう」と誘うと素直に動き出してくれるので、歩行の訓練をさせることは容易でありがたい。


 クッションなしに体を起こしていることから始めた体力づくりは、掴まり立ちから支えなしに立つことへ移り、ベッドから立ち上がる訓練、座る訓練を行う。

 壁伝いに部屋を歩き回れるようになると、クリスティーナの世話はぐんと難しくなった。

 正確には世話が難しくなったのではなく、クリスティーナがちょろちょろと動き回るようになったのだ。


 与えられた客間を歩き回って少しずつ体力をつけたクリスティーナは、部屋の外へと出たがった。

 最初のうちは見張りの男も動じなかったのだが、じっと何時間もクリスティーナに見つめられるという苦行に音をあげた。

 今は髪も不揃いで短く切られた状態のクリスティーナではあったが、葉の取れた顔はかわらず可愛らしいものであったし、体格が小さめで実年齢よりも少し幼く見える。

 そんなクリスティーナに「おじさんそこ邪魔」「道を開けて」と見つめられ続ければ、大概の男は降参するだろう。


 私の見張りを含めて必ず三人の見張りがつくことを条件に、城の中の徘徊を許される。

 もちろんエドガーには内緒ということなので、見張りの男たちも頑張れば取り込める人材なのかもしれない。


 客間を出て廊下を壁伝いに歩けるようになったクリスティーナは、それこそどこまでも廊下を歩いた。

 途中扉を見つけると扉を開けて部屋に入り、カリーサを探して歩き回る。

 疲れるとそこが廊下だろうが食堂だろうが構わず座り込み、少し休憩をしてまたカリーサを探し始めた。

 カリーサがここにはいないと知っているので少し申し訳ないのだが、カリーサの名前はクリスティーナの体力づくりに多いに役立ってくれている。


 小さめとはいえ、グルノールの館とは比べ物にもならないほど広い城を歩き回っている間に、クリスティーナは壁に捕まらなくとも歩けるまでに筋力を回復させた。

 まだ時折よろけて目は離せないのだが、廊下の角を行過ぎる女中を見つけた時などは、突然走り出してこちらを驚かせてくれる。

 捕まえた女中の顔を確認して、カリーサではないとガッカリする姿に、見張りの一人が目頭を押えた。

 城に来てから付けられた見張りがカリーサのことなど知るわけは無いのだが、毎日飽きもせずカリーサを探すクリスティーナに、絆されたのだろう。


 毎日少しずつではあったが城中の部屋を確認してカリーサを探したクリスティーナは、使用人たちの領域である地下にまで行動範囲を広げ、ついには城を踏破した。

 城のどこを探してもカリーサが見つからなかった、と理解したクリスティーナは、その日を境に城中を歩き回るのをピタリとやめてしまう。

 客間の長椅子の端に座って、一日中ぼんやりしているか寝ていた。

 また筋力が落ちてしまうのではないかと心配になったが、以前とは違って寝返りも、自分で体を起すこともするようになったので、それほど酷いことにはならないはずだ、というのが薬師としてのジャスパーの見立てだった。


 カリーサを探し歩いていた時と比べて短い返事すら返さなくなったクリスティーナに、見張りの一人がどこかからカツラを用意してきた。

 ある程度の長さがなければ髪を綺麗に整えることもできないことは判っているので、髪が伸びるまではカツラを被っていてはどうか、と。

 

 用意されたカツラに対し、クリスティーナは無反応だった。

 見栄えが整えられたと喜ぶでも、気遣いに感謝するでもなく、とにかく無反応だ。


 カツラを付けたクリスティーナに一番反応したのは、冬の終わりに顔をみせたエドガーだった。

 顔の葉がすっかり取れ、カツラとはいえ髪の整ったクリスティーナの顔に瞬き、面白いほどに驚いていた。

 顔に張り付いた葉がみっともない、気味が悪いと視界に入れないようにしていたクリスティーナの、本来の愛らしい顔に興味を持ったらしい。

 顔を見せたかと思ったらすぐに帝都へと引き返し、次に顔を出した時には馬車いっぱいに贈り物の箱を載せていた。

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