第9章 子ども時代の終わりに

閑話:レオナルド視点 小さな淑女 7

 后の寝室から出てきたティナは、満面の笑みを浮かべていた。

 近頃は猫を被るのが上手になってきたのだが、今はまったく感情が隠せていない。

 淑女らしく静々と寝室へと入っていたのだが、出てきた時には歳相応の子どもらしい笑顔だ。

 エスコートをしているアルフの手を振り払ってこちらへと駆けてきそうな顔をして、だがそれはさすがに踏みとどまった。


 ……いや、正しくはアルフが押さえた、だな。


 淑女らしい仕草などスコーンと頭から抜けてしまったらしいティナに、エスコートとは手を添えるだけのはずなのだが、ティナを捕まえるようにアルフの手がしっかりと握られている。

 后の離宮内で走る子どもだなどと、ティナの評判を落とすわけにもいかないので、アルフの行動は正しい。


 駆け寄りたいのを我慢しているらしく、チラチラとこちらを振り返るティナに、護衛として続きながら少し前の驚きを思いだす。

 今年はとにかくサエナード王国のせいでルグミラマ砦に詰めている期間が長かった。

 昨年は秋の間だけだったが、今年は冬の終わりから秋の中頃まで八ヶ月以上もティナと離れて暮らしている。

 子どもの八ヶ月というものは大きい。

 八ヶ月ぶりに会ったティナは、以前のように「おかりなさい」と出会い頭にハグを要求してくることもなく、淑やかな淑女の礼をもって俺を迎えてくれた。

 少しとはいえ背も伸びていたので、本当に驚いた。

 まだまだ子どもだと思っていたティナが、急に成長をしはじめたように思えたのだ。


 淑女らしい淑やかな仕草を身につけたティナに、これならばサロモンも安心してくれるだろう、と誇らしかった。

 そしてそれとは逆に、大人への階段を上り始めたティナに、あと何年自分の元にいてくれるのだろう、と危機感を覚える。

 ティナは二十歳までは妹として俺の元にいると言っているが、本当に二十歳まで一緒にいてくれるのだろうか。

 今はまだ少女といった年齢のティナとはいえ、女の子の言うことだ。

 いつ気が変わり、「お兄ちゃんより好きな人ができたの」「わたし、この人と結婚します」と言い出すかは判らない。


 ……あと二年でお嫁に行けるティナと、八ヶ月以上離れていたのか。


 それも、八ヶ月離れたあとは少ない秋の残りを共に過ごし、冬にはまた四つの砦を回りにも出かけている。

 今年はとにかくティナとの時間が少なすぎた。


 ……こんなにティナとの時間が不足しているのに、お嫁に行く年齢はどんどん近づいてくるんだな。


 ティナはどこへも嫁に行く予定はない、と言っているが、ティナはまだ初恋もしていない。

 女の子という生き物は、とにかく男児とは別の生き物なので、いつ考えが変わるのか予想もつかなかった。

 女性の中には恋をすると、時々とんでもなく突飛な行動に走る者がいる。

 あなたに恋しましたと散々男を追いかけ、追いかけられた男がその気になった時には別の男との間に子どもができた、と言い出す女にも出会ったことがある。

 ティナが嫁に行く前から子を授かるようなことがあれば、相手の男を殴り殺す自信があるが、そんなことよりも問題はティナだ。

 今は恋など知らない、興味もないと言っているティナだって、いつかは誰かに恋することもあるかもしれない。

 いざその時が来たら、自分が取り乱さずにティナを送り出せる気がしなかった。


 ……女の子の成長といえば、ミルシェも大きくなったな。


 メンヒシュミ教会で初めてティナと並んだ姿を見た時は、はっきりティナより背が低かったのだが、今はティナと同じか少し背が高い。

 ティナは歳の近いエルケたちよりも背が低いので、ティナが小柄で、ミルシェが大柄なのだろう。


 ……俺のミルシェは、今頃どうしているんだろうな。


 ミルシェを買い取ることにして思いだしたのだが、俺の血の繋がった妹の名前もまた『ミルシェ』だった。

 家のことは思いださないようにしていたし、子どもの頃の記憶なので近頃は曖昧になっていたのだが、少し気になったので書類を用意してもらって確認したところ、やはり俺の妹の名前は『ミルシェ』で間違いがない。

 ティナに指摘されるまでは自分には弟もいると思っていたのだが、これも弟か妹という可能性があった。

 ついでに言えば、俺が家を出たあとに母親が死産していれば、そのどちらも存在していない可能性すらある。


 ……男で、俺と似ているのなら、やっぱり大柄か? 黒騎士になっている可能性はあるな。


 緩く頭を振って、弟妹の生まれていない可能性を否定する。

 死産も流産も珍しいことではないが、せっかくならばどこかで生きていると信じたい。


 ……同郷出身の黒騎士でも探してみるか? いや、年齢的にいるとしたらヴィループ砦か?


 ヴィループ砦は騎士の素質ありと判断された者が送られる、いわば騎士の養成施設のようなものだ。

 俺の時は体格がよかったために砦へ送られることになった。

 俺の弟であれば、同じように大柄な体格へと育ち、騎士への道が開けているかもしれない。


 ……生きていれば八つぐらい下だから……十七、八歳か? 俺が騎士になった年齢なんてあてにならないからなぁ。


 体格がいいから、と兵士の募集に応募してそのまま騎士の素質ありと判断されてヴィループ砦へと送られることになった。

 剣術や馬術といった砦で教えられることを順調に吸収し、平民としては珍しく俺がヴィループ砦にいた期間は白騎士とそう変わらない。

 結果として、史上最年少の白銀の騎士が誕生するにいたった。

 俺の弟が黒騎士を目指してヴィループ砦にいるとしたら、そろそろ頭角を現してくる頃だろう。

 そんな人間がいれば、ヴィループ砦で噂になっているかもしれない。


 ……一度ヴィループ砦へは顔を出してみるか?


 ヴィループ砦で育てられている騎士の卵たちを見られるというのは、良い機会だ。

 砦へと配属される前に目ぼしい騎士を見つけることができるし、ヴィループ砦では白銀の騎士も育てられている。

 ティナの白銀の騎士の護衛を増やすのなら、今いる王族の警護についている騎士をいただくよりも、まだ誰の担当もしていない騎士の方がいいかもしれない。

 そうすれば王都の白銀の騎士の中での配置換えなどを考える必要もないだろう。


「痛っ!?」


 ペチリと太ももを叩かれて、思考が強制的に中断させられる。

 何事かと痛みが走った箇所へと視線を落とすと、俺の太ももにティナの白い手が添えられていた。

 最近は膝へ乗ることが無くなったせいか、以前は脛へと加えられていた衝撃が、太ももを叩くというものへと変わった。

 太ももを叩いているうちに気がつかないと、今度は顎の下にある剃り残した髭を引っ張られる。


「どうした、ティナ?」


「なんだか、また置いていかれそうな顔をしていたので?」


 お兄様の番ですよ、と促されてセーク盤へと視線を落とす。

 始めたばかりの頃は遊び方が理解できないと言って嫌がっていたセークだが、近頃はリバーシよりもセークがお気に入りらしい。

 以前はこちらのコマを半分以下に減らして相手をしていたのだが、今では手加減がまるで必要ない。

 それどころか、こちらの意表をつくコマ運びをしてきたりとして、なかなかに油断できない対戦相手になった。

 盤上遊戯ボードゲームの形をした戦争セークでこれなのだから、ティナが軍師であればどのような策を考え出すのか、と少し興味もある。


 ……まあ、ティナを戦になんて出さないけどな。


 俺の番だと促され、騎士のコマを動かす。

 ティナは騎士に対抗すべく盾のコマを動かすかと思っていたのだが、盾は動かさずに盤の端にいた兵士のコマを動かした。

 回りこんで騎士を背後から撃つ気かもしれない。

 背後を警戒した方がいいだろう。


「……それで、レオナルドお兄様はわたくしとのセークの途中に、何を考えておられたのですか?」


「ん? いや、……一度ヴィループ砦へ顔を出そうかな、とは思っている」


 グルノールの街へとティナが帰る条件として、護衛の数を増やすようにと言われている。

 白銀の騎士をヴィループ砦で見繕ってきたいのと、ついでにジャン=ジャックの様子を見たい気がした。


「そのお出かけへは、わたくしも同行できるのですか?」


「向かうのはヴィループ砦だぞ? ティナが来て楽しめる場所だとは思わないが……」


 ティナにとって面白い場所ではないだろうが、ヴィループ砦にいる騎士と騎士の卵たちには歓迎されるだろう。

 女性の騎士もいることにはいるが、ほぼ男だらけの砦だ。

 普通の女性が顔を出すだけでも喜ぶところへティナのような美少女を連れて行けば、奇声を発して狂喜乱舞する男たちばかりだろう。

 乱暴者の男児と相性の悪いティナにとって、居心地のいい場所ではない。


「……なんですか? ながーいお留守番が終わったと思ったら、またわたくしはお留守番ですか?」


 ムッとティナが眉を寄せて俺を睨んでくる。

 はっきり言って全然怖くないどころか、むしろ可愛らしい。

 こんな可愛い妹は、やはりヴィループ砦へは連れて行かない方がいいだろう。

 悪い虫が群がることは、火を見るよりも明らかだ。


「ティナが一緒だと旅程が伸びるからな」


 ティナが一緒に行くのなら、移動には馬車が必要になる。

 ついでに護衛の二人も同行することになり、ティナの世話係の女中メイドも同行させる必要があった。

 費用の面では『ティナが一人増えた』なんてものではない。

 悪い虫うんぬんは脇へと置いて、ティナが聞き分けてくれそうな理由を提示する。

 理に適っていると判断すれば、ティナの大概の我儘は取り下げられてきた。


「王都に来る途中でワイヤック谷へ寄った時のように、馬でパッと行って、パッと帰ってきましょう」


「ティナは長旅のあとは必ず寝込むだろう。ヴィループ砦に行って戻ってきて寝込むと、グルノールの街へ戻るのが来年へずれ込む可能性もあるぞ」


「……それはさすがに嫌ですね」


 むうっと唇を尖らせて、ティナは考える素振りを見せる。

 珍しく費用を出しても引かなかったティナだったが、グルノールへの帰還が伸びると言えば引き下がるらしい。

 普通王都へは出てきたがるものだと思うのだが、ティナは離宮での暮らしよりもグルノールでの生活がいいようだ。

 グルノールではあまり相手をしてやれなかった気がするのだが、帰還が遅くなると脅かしたらティナはあっさりと引く姿勢を見せる。

 それでも完全には諦めきれないのか、時折こちらをチラチラと盗み見てきた。


 ……ダメだぞ。いくらティナが可愛くおねだりしても、負けるな俺。ティナに悪い虫を近づけないためには、ヴィループ砦になんて近づけないのが一番だ。


 ヴィループ砦には教官として詰めている騎士の他に、若い騎士やこれから騎士になるための訓練を受けている若者が多い。

 ほぼ独身男が占める砦でもあり、悪いことにあと二年もすればお嫁にいけるティナと歳のつり合う騎士見習いも大勢いる砦だ。

 間違ってもティナを連れて行きたい場所ではない。


「……せっかくレオナルドお兄様が戻っていらしたのに、またお留守番だなんて、寂しいです」


 うるっと青い瞳を潤ませてティナが俺を見上げてくる。

 頭を鈍器で強打されるほどの衝撃的な可愛らしさなのだが、どうやら俺の妹は泣き落としという技術を身につけてきたようだ。


 ……誰だ!? ティナに泣き落としだなんてコトを教えたのはっ!?


 まさか淑女教育を行うハルトマン女史が教えるわけはないので、ティナの交友関係からだろう。

 誰がティナに余計な知恵など付けさせたのか、と考えてみるのだが犯人に見当がつかない。

 ティナが影響を受けそうな身近な女性といえばフェリシアとハルトマン女史なのだが、そのどちらも泣き落としを使うような女性ではない。

 フェリシアであれは視線一つで相手の意思を奪うし、ハルトマン女史であれば理路整然とした説得を繰り広げてくるはずだ。

 ではどこから泣き落としなんてことを、と考えて、故意でなくてもいいのなら、と一人思い浮かぶ人物がいた。


 アルフレッドの女中であるソラナだ。


 彼女は基本的にはアルフレッドに振り回されてあちこちと走り回っているのだが、本当に嫌な時はアルフレッドに対抗する。

 仮にも王子に対して反抗しているのだから、とソラナの瞳は恐怖で涙に潤み、それでも一歩も引くまいと奥歯を噛み締める決意の表情は、見ようによっては泣き落としだ。

 この表情をしたソラナに、アルフレッドが我を通せたことはない。


「戦は終わったのでしょう? 国境付近のルグミラマ砦に行くよりは、安全なはずです」


 お願い、お兄ちゃん! とばかりに見つめてくるティナに、ティナが嫌がりそうな提案を探す。

 妹のおねだりに対する抵抗力など、身に付けられる兄などいない。

 このままではティナの要求を飲み込み、まんまと悪い虫が群がることになってしまう。


「……ヴィループ砦は、砂漠にあるから大変だぞ?」


 もうほとんど敗北といった体で、無理矢理捻りだした言葉がこれだった。

 これでティナが諦めてくれなかったら、もう連れて行くしかないだろう。

 冬と合わせて約一年留守番をさせたのだから、ティナもおれと離れたくはないのかもしれない。


「レオナルドお兄様がどうしてもわたくしを連れて行きたくないとおっしゃるのなら、いいですよ?」


 おや? と突然主張を変えたティナに瞬く。

 よほど間抜けな顔をしていたのか、ティナはクスリと少しだけ声に出して笑うと、美しい淑女の笑みを浮かべた。


「その代わり、わたくしへはヴィループ砦へ行くと言いながら娼館へ行った、と思うことにします」


 妹を連れて行けないところへ行くのだから、そこは口に出すのが憚られる場所なのかもしれない。

 兄と離れる寂しさからお茶会を開催するかもしれないし、呼ばれたお茶会への出席もするかもしれない。

 その席で兄はどうしているのかと聞かれたら、正直に言葉を暈して答えるだろう、とティナは言う。


 ……泣き落としの次は脅迫だ!


 今度は誰の影響を受けたのか、と考えて見当のつく相手が王都には多すぎた。

 アルフにアルフレッド、フェリシアにクリストフやエセルバートも笑顔でゴリ押しをしてくる。


 ……長く王都に留まりすぎたか。ティナが悪い意味でも淑女らしくなってきた。


 素直で可愛いティナに戻ってもらうためには、早急にグルノールの街へと戻る必要があるかもしれない。


 結局、セークの勝敗でティナのヴィループ砦への同行を決めることになった。

 遊戯の勝敗でなら、ティナのおねだりも脅迫も無効である。

 これならティナに悪い虫をつけることなく王都で留守番をさせていられる、と思ったのだが、考えが甘かった。

 カリーサは、マンデーズ館で一番セークが強い。

 ハルトマン女史は、棋譜を並べることでティナにセークへの興味を持たせ、貴族間の接待技術として、盤面を自由に操る技術までもティナへと叩き込んでいた。

 勝敗にこだわらないティナなので、普段は勝ったり負けたりとまちまちだが、一度勝つと決めたティナはきっちり勝つための戦略を練り、俺の癖をきっちり利用した上で勝ちを攫っていった。







「おやすみなさい、レオナルドお兄様」


 セークできっちり俺を負かしたティナは、上機嫌で頬へとキスをして寝室へと入っていく。

 勝ち取ったヴィループ砦行きが嬉しいのだろう。

 外出が嬉しいのか、兄と一緒が嬉しいのかは、後者だったら俺が嬉しい。


 ……俺の妹は可愛い。が、順調に成長中だ。


 勝つ気で挑まれると、ティナに負けるとは思わなかった。

 これまで同様のおねだりに加え、泣き落としや笑顔でゴリ押しまで学んでいたのは誤算としか言いようがない。


 ……ティナがお嫁にいったら、俺はどうするかな。


 冗談でもなんでもなく、ティナは嫁に行くのが早そうな気がする。

 今は二十歳までは俺といると言ってくれているが、結婚したい相手ができたらどう言うかはわからない。


 ……ティナが嫁に行って、落ち着いたら……俺も嫁を探すか?


 例えばどんな女性であれば妻として迎えたいか、と考え、思い浮かんだのは初恋の面影だ。

 黒髪の可愛らしい女の子だった。


 ……いや、あの子を見つけたとしても、もう人妻になってる年齢だろう。


 初恋の少女は、たしか自分と同じ歳だったはずだ。

 少し結婚が遅かったとしても、それでも子どもの二人ぐらいはいそうな年齢である。


 ……うん? 思いだせないな。どんな顔だっけ?


 とにかく可愛い子で、ひと目で惹かれた少女だったのだが、思いだそうとすればするだけ、黒髪という印象のせいか、その顔がティナになる。

 初恋の少女の面影が、見事に可愛い現在の妹の顔に塗りつぶされていた。


 ……これは本格的に不味い。俺はティナが好きすぎるだろう。


 初恋の思い出まで妹に塗り替えられてしまっては、自分の結婚など本当に望めない気がしてくる。

 妹が好きすぎて、聖女のように広い心をもった女性でも見つけない限りは、俺に嫁のきてなどない。


 ……少し妹離れをする必要があるな。

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