第38話 テオ vs オスカー
バルトの送迎で、今日もメンヒシュミ教会へと通う。
若干とはいえ手足が伸びてきたので、少し早足に歩くとバルトと並んで歩くことができるようになった。
レオナルドにはまだ遅い、とすぐに抱き上げられてしまうのだが、メイユ村にいた頃と比べれば格段の進歩だ。
メンヒシュミ教会の敷地内に入ると、バルトとは一度お別れをすることになる。
私のお
「昨日、館でベルトラン様にお会いしましたよ」
教室へと並んで歩きながら、昨日の館での出来事をニルスに話して聞かせる。
黒犬の飼い主が犬を引き取りに来て、その飼い主が英雄として名高いベルトランであった、と。
「え? ベルトラン様って……あのベルトラン様ですか? アルムバッハの激流を帝国兵の囮になりつつ遡って泳ぎきったって逸話のある」
「寝ぼけてメール城砦の壁に穴を開けたって逸話のある、そのベルトラン様です」
数々の逸話がある英雄ベルトランだったが、私がその逸話について詳しいのは全部ニルスの受け売りだ。
メンヒシュミ教会の授業で習うベルトランは大小五つの戦で活躍した英雄というものだったが、ニルスによるとベルトランは頭角を現す前からも戦に参戦しており、小競り合い程度の争いを入れれば現役時代に二十六回も戦に出ていたそうだ。
現在で大きな戦といえば、レオナルドも参戦した五年前の隣国サエナードとのものだが、その後はどの国とも戦をしていない。
普通私の年齢では、親や周囲の大人から近年の出来事であるレオナルドの英雄譚を自然と聞かされるものなのだが、メンヒシュミ教会の学者になりたいニルスにとってはレオナルド以上に戦果を挙げているベルトランの方が憧れの対象だった。
そうなってくると、歴史の授業もニルスに補佐されている私の知識は、自然とベルトランの功績の方が多くなってくる。
……まあ、メイユ村みたいな辺鄙な村だと、戦争の英雄の話だなんて聞こえて来ないけどね。
用事があるようなのでグルノールの街へしばらく滞在するようだ、という話をすると、ニルスは珍しくもソワソワとし始めた。
普段は年齢よりも大人びて見えるニルスの、意外な一面を発見した気がする。
「ベルトラン様は、城主の館へ滞在されているんですか?」
「うちは今、客間が埋まってますからね。残念ながら、ベルトラン様はアルフさんの館に滞在するみたいです」
「では、偶然にもお会いできることはなさそうですね」
少しだけ残念そうに肩を落としたニルスに、私も残念だと励ましてみる。
私もニルスから聞いた逸話の真偽を、一度確かめたかったのだ。
……あの黒いのがいなかったら、ゆっくりお話ししたかったね。
ベルトランのがっしりとした風体を思いだすと、どうしてもその横にあの黒犬がチラつく。
ベルトランのいる場では命令を聞く頭のいい犬だが、いつも人の制止を聞くわけではない。
教室の扉を開き中へ入ると、黒犬の被害を受けた最たる者であるテオがミルシェの隣に座っていた。
テオは教室へと入った私とニルスに気がつくと、なんとも表現しがたい顔をして笑う。
……なんでドヤ顔?
なんとなく面倒事のにおいがする気がして、早々に無視を決め込んだ。
……テオが鬱陶しい。
なにかをアピールしているのは判るのだが、それがなにかを自分から言い出さないため、ただひたすらに鬱陶しいドヤ顔をさらしている。
読み書きの授業が終わっても、計算の授業が終わっても、目が合うたびにテオは奇妙なドヤ顔をしていた。
……なんだろうね?
これがエルケやペトロナであれば、新しい髪飾りや服に気づいてほしいのだろうと察することもできるのだが、相手がテオだとなにも思い浮かばない。
察して触れてやった方がいいとは思うのだが、考えても答えは出てこないし、そろそろドヤ顔に苛立ちも感じ始めているので、いい加減思考から追い出した。
……考えてもわからないことは、考えるのやめよ。
そう思考を割り切って考えるのを止めたところ、帰り際になって突然髪を力いっぱい引っ張られた。
「痛っ!?」
反射的に後頭部の髪の毛を押さえ、しゃがみこむ。
私の声に驚いてミルシェとニルスが足を止めて振り返った。
エルケとペトロナも前方に見えるので、彼女たちは犯人ではない。
というよりも、こんなことをするのは一人しかいない。
なんだか久しぶりだな、と思いつつも蹴り返してやろうと立ち上がって振り返ると、耳元を黒い影が過ぎった。
「うわっ!?」
ドサリっと音が響いて、テオが尻餅をつく。
その腕にはいつもの黒い犬が噛み付いていた。
「オスカー!? なんでいるの?」
とにかくなんとか黒犬をテオから離そうと、髪を引っ張られたことも忘れて試みる。
耳を塞ぎたくなるような恐ろしい唸り声が聞こえるのだが、黒犬は冷静なようだった。
興奮している様子はまるでなく、手を振り回して必死で追い払おうとするテオに、時折噛む位置を変えるためか手を開放していた。
「お、大人! とにかく大人の人!」
誰かいないか、と周囲を見渡すと、一番近くにいるのはメンヒシュミ教会の門番だ。
近いといっても十メートル以上ある。
が、この場の騒ぎには既に気がついているようだ。
「……へ?」
てっきりテオを助けに来てくれたかと思ったのだが、門番の男は私の体を抱き上げる。
これはなんだ、いつかのような誘拐か? とも一瞬だけ思ったが、それもどうやら違うらしい。
門番は抱き上げた私を胸に抱くのではなく、肩の上へと座らせた。
……あ、判った。これ、緊急避難だ。
突然襲い掛かってきた黒犬に、まずは私の安全が優先されたのだとわかる。
噛まれているテオよりも、レオナルドの妹である私を優先したのだろう。
……今はちょっと、その特別扱い困るよ!
とりあえずは無事な街の権力者の妹よりも、犬に襲われている子どもの方を助けてほしい。
私を抱き上げた門番は、手でエルケとペトロナを制する。
犬から離れるようにと促され、エルケたちは素直に従った。
……誰か、大人の人! テオ助けてくれる大人の人……っ!
門番はダメだ、と周囲を見渡す。
聞いてくれないとは判っているが、時折黒犬の名を呼んで制止も続けた。
昨日は私の命令を聞いた黒犬だったが、今日はやっぱり言うことを聞いてくれない。
あれはやはり飼い主に恥をかかせないために空気を読んだだけなのだ、と確信し始めていると、腹の底から響くような低い声が周囲に響いた。
「オスカー」
ぴくりっと黒犬の耳が動き、テオの腕から黒犬が離れる。
声の聞こえた方向へと去る黒犬を追って視線を向けると、昨夜別れたばかりのベルトランの姿があった。
「ベルトラン様……」
「これはなんの騒ぎだ? 私の犬はなぜ子どもを襲っていた? 誰か説明を」
厳しい視線で周囲を見渡すベルトランに、思わず門番の頭に抱きつく。
もともとが怖い顔をしているため、凄まれるとさらに迫力が増す。
大人である門番すら硬直してしまうベルトランの迫力に、一番に硬直状態から抜け出したのは意外にもニルスだった。
「テオがティナお嬢さんの髪を引っ張って、お嬢さんが悲鳴をあげたらその犬が襲いかかってきました」
「ティナ……?」
ニルスの説明に、ベルトランの視線が私へと向く。
どうやら私がここにいることには気がついていなかったようだ。
門番の肩に座って頭へとしがみ付いている私に、ベルトランは奇妙なものを見るような顔をした。
それから私の顔と黒犬とを見比べて、最後にテオへと視線を移す。
「大方、オスカーはその少年が女の子を苛めるから、諌めたのだろう」
その証拠に、とベルトランは尻餅をついたままのテオの腕を引っ張って立たせる。
「少年の腕に歯型は残っておるが、血は出ておらん」
甘噛みだ、と言いながら一応の怪我の確認をしたあと、ベルトランはテオの頭に拳骨を落とした。
ゴンっと大きな音が周囲に響き、テオは何が起こったのか理解できなかったのか、数度瞬く。
ゆっくりと痛みを頭が理解したのか、テオはワンテンポ遅れてワンワンと泣きはじめた。
……い、痛そう。すごくイイ音がしたよ、今。
殴られたのは自分ではないが、自分まで頭が痛い気がする。
そんな殴り方だった。
「女の子の髪を引っ張るとは、とんだ悪戯小僧だ! 男の風上にもおけんわっ!!」
ビリビリと空気が震えるような怒鳴り声だった。
火がついたように泣き出したテオはピタリと泣き止んだし、帰宅の途についていた級友たちはこちらを遠巻きにして立ち止まる。
誰もが縫い付けられたかのように身動きを取れなくなっている中で、ミルシェだけがおずおずとベルトランの前へと進み出てテオを背中に庇った。
「ご、ごめんな……ごめんな、さい。おにいちゃんは……」
「兄? この悪戯小僧はご立派にも妹をもつ兄だと言うのか!?」
妹に庇われる兄など聞いたこともない、とミルシェに庇われるテオへのベルトランの怒りが増す。
いつもミルシェがこうやってテオの悪戯の仲裁をしてきたのだろう。
今回ばかりは相手が悪かった。
そっとニルスがミルシェの手を引き、ベルトランの視界からミルシェを逃がす。
恐怖で顔が凍りついているミルシェが気になり、こちらも硬直したままだった門番の頬を叩いて正気に戻した。
正気に戻った門番に地面へと下してもらうと、ミルシェの元へと移動する。
ミルシェは今にも泣き出しそうな顔をして、私の方へと駆け寄ってきた。
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