第36話 冬のメンヒシュミ教会

 ヘルミーネが来てからの生活は、ある一点を除いていたって快適だ。

 その一点というのも、主と使用人の立場の差を理解するといった、いつかは必ず直されていたことなので、さほど気にならない。

 家庭教師という手本を見ながら学べるのだから、むしろ良かったと思うべきかもしれなかった。


 ……まあ、すぐに慣れそうにはないけどね。


 どうしても年長者を呼び捨てにすることには違和感があり、自然に『さん』を取ることはできない。

 つい『さん』を付けて呼んでしまい、ヘルミーネに直されてばかりいた。


 ……でも、おおむね快適です?


 ヘルミーネが来てから一番変わったことは、いつでも好きな時に好きなだけ文字の勉強ができるというところだ。

 具体的に言うと、ヘルミーネの補助で書斎の本が読めるようになった。

 館にいる大人たちはみんな文字の読み書きに不自由がない人間ばかりだが、レオナルドを除いてみな仕事で館に詰めている。

 彼等の仕事は館の管理・維持であったり、客間の護衛だったりとするので、私に字を教えるためにいるわけではない。

 近頃は館へと仕事を持ち込んでいるレオナルドも同じだ。

 仕事の邪魔はしたくないし、休憩時間にはちゃんと休んでほしい。

 そのため、私のために雇われた家庭教師というものは、実に素晴らしい存在だった。

 彼女の仕事と私の欲求が一致するのだ。

 私がどれだけ彼女を捕まえて文字を習おうとも、それが彼女の仕事なので遠慮をする必要はない。


 ……ビバ! 頼りになる家庭教師っ!


 ヘルミーネに手伝って貰いながら読み終わった本を抱え、書斎の扉を開ける。

 入り口まではコクまろが付いてきていたが、近頃は書斎と食堂は入ってはいけないと学び、入り口でちょこんっと座って待っていた。


「あえ?」


 さて、次はどれを読もうかな、と本棚に並んだタイトルを眺める。

 なんとなく惹かれた本を抜き出して読んでいたのだが、今日私の目を惹いたタイトルは、続き物だった。

 一巻から八巻まであるのだが、そのうち六巻だけが抜けている。


 ……歯抜け? 誰かが読んで返してないとか?


 館の本を読む人間といえば、レオナルドだろうか。

 別に他の本を読んでも良いのだが、なんとなく気になって六巻の所在を確認することにした。


 ……読み始めて六巻だけ館にありませんでした、だったら悲しいしね。


 ヘルミーネが来てからというもの居間は私とヘルミーネが占拠しているため、レオナルドはまた仕事を二階の自室で行っている。

 私の移動にあわせて付いてくるコクまろを階段で待たせて二階に上がると、まっすぐにレオナルドの部屋を訪ねた。

 気まぐれにも客間へは近づかない。

 自分のうかつさは自覚しているので、うっかり自分から日本語に近づくような真似はしない方が良いだろう。


「イツラテルの騎士六巻? ここにはないが……」


 そもそも物語はあまり読まない、と答えるレオナルドが読むのは兵法書であったり報告書であったりと、そもそも本ですらない物が多い。

 余暇を読書にあてるぐらいならば、私を街へ連れ出して仕立屋で服や靴の注文をするだろう。

 現状では趣味:妹とでも言い出しかねない残念っぷりだ。


「バルトかタビサにでも探させるか、どうしてもなければメンヒシュミ教会で買ってもいいが……」


「タビサさ……タビサのお仕事を増やすことになるのれ、いいれす」


 今のところ、歯抜けになっているからと言って足りない巻を買い足しても読むのは私だけだ。

 よく探せばどこかにあるかもしれないものを、二重に買わせたくはない。

 読むだけならば、あてはあるのだ。


「メンヒシュミ教会の図書室で読めにゃいか、探してみましゅ」







 レオナルドに外出の許可をとり、ヘルミーネとコクまろをお供にメンヒシュミ教会へと向かう。

 北風が頬に当たって冷たいのだが、靴やコートはレオナルドが仕立ての良いものを誂えてくれたので温かい。

 ヘルミーネは私が歩いて外出をすることに驚いていたが、体力づくりとコクまろの散歩を兼ねていると言ったら一応の納得をした。


 ……お嬢様だったら、本当は馬車で移動するんだね。そんなこと、考えたこともなかったよ。


 私に淑女らしい振る舞いを身に付けさせることも仕事のうちなヘルミーネは、レオナルドの放任っぷりに思うことがあるようだ。

 体力づくりという説明に一応の納得はしているのだが、目つきが若干怖い。

 これは館に帰ったらレオナルドがヘルミーネに呼び出されるフラグだ。


「冬は農村の子どもが来るって聞いていましたけろ、多いれすね」


 門からメンヒシュミ教会の敷地内へ入ると、秋の間は私もお世話になった教室に多くの人影が見える。

 目を凝らして観察してみると、薄汚れた子どもでいっぱいだった。


「農閑期の冬だけが、農村部の子どもが学べる機会ですからね。街から遠い村では、学べる機会すら得ることができない子がいるそうです」


 ……知ってます。私がそうでしたからね。


 メイユ村では、子どもどころか大人であっても文字を満足に読み書きできる者はいなかった。

 メンヒシュミ教会など村にはなかったし、教会があるような町も近くにはなかった。

 あったとしても、ある程度大きくなってからでなければ『通う』ことすら不可能だったはずだ。

 村からは距離がありすぎて、手足が伸びていなければ往復を通えない。

 そして、やはり農閑期以外は不可能だ。

 子どもといえども、村での暮らしの中では仕事があてがわれている。

 さらに言うのなら、農閑期とはつまり雪の降る冬のことだ。

 雪に閉ざされた細い道を、子どもの足で町と村とを往復することはほとんど不可能に近い。


「街の子が冬は教会に来るのを遠慮するっていうにょ、いいれすね」


「いいですか?」


「だって、農村の子がお勉強するのを応援してりゅ、ってことれすよね?」


 街の子は街の中に暮らしているだけあって、どの季節でもメンヒシュミ教会へ通うことができる。

 冬しかチャンスのない農村の子とは違う。

 そのため、少ない機会である冬に心置きなく学べるように、と街の子が譲っているのだと理解していたのだが、違うのだろうか。

 ほんの少しだけ眉をひそめたヘルミーネに聞いてみると、私の理解は少しずれていたようだ。

 私は良い方向へ受け止めたのだが、街の子が冬にメンヒシュミ教会へ通うのを避ける――遠慮ではない。避ける、だ――のは農村の子どもが臭かったり、服が薄汚れていたりしているからだそうだ。

 臭いが移るだとか、言葉が汚いだとか、そんな理由で冬ではなく農村の子を避けていたらしい。


 ……この世界にも差別とか、やっぱあったんだね。


 考えてみれば、貴族と平民がいるのだから、身分差というものがある。

 富豪と貧民だって同じ平民ではあるが明確に違うし、街の人間と村の人間であればそこにもまた差は生じるだろう。


 ……考えもしなかった、ってのは、私の前世が日本人だから?


 厳密に言えば前世の私だって何かしらの差別・区別はしていたと思うが、それを意識したことはほとんどなかった。

 主と使用人としてタビサたちとの立場の違いを理解しろ、と言われても、教えられたように振舞うことはできても、心の底から立場の違う人間だとは思えないのだ。


 ……取り繕い方は学んでも、そういうものだと馴染みたくはないなぁ。


 街の子は冬にメンヒシュミ教会へ通うのを遠慮する、と聞いたので私も冬は通わないことにしたが、冬に避ける本当の理由を知ってしまえば、なんとなく居心地が悪い。

 農村の子を避けたつもりはないのだが、私も彼等を差別したことになるのだろうか。


 少しだけ歩く速度を上げて、居心地の悪さを振り払うように建物の中へと逃げ込む。

 もちろん、コクまろは外で待機だ。

 中央棟には導師アンナがいたので、軽く挨拶をして図書室の使用許可をもらう。

 知を求める者には誰にでも門戸を開く、というのがメンヒシュミ教会の掲げる理念だったが、現在教室に通っているわけでもない人間が図書室に入るのは、本当に良いのか少し気になったのだ。


 ……あ、ニルスだ。


 廊下の端にある扉から洗濯物と思われる布をいっぱい抱えたニルスが出てくるのを見つけた。

 ニルスに案内を頼もうと思っていたのだが、どうやら仕事中のようだ。

 そういえば、ニルスはメンヒシュミ教会に通う生徒ではなく、ここで仕事として研究者たちの世話をしていると聞いていた。

 ニルスが仕事中ならば、邪魔をするわけにはいかない。


「あれ? ティナお嬢さん」


 邪魔はしたくない、とは思っていたのだが、ニルスの方が私を見つけてしまった。

 こちらはもう背を向けかけていたのだから、気づかないふりをすれば良かったのに、律儀なニルスは私の姿を見つけて見ないふりは出来なかったようだ。

 沢山の洗濯物を抱えたままではあったが、廊下を早足にこちらへと近づいてきた。


「どうかなさいましたか? ティナお嬢さんが冬に来るとは思いませんでした」


 駆け寄ってきたあと、私の後ろに立つヘルミーネに気づき、ニルスは数歩手前で立ち止まる。

 それから一度洗濯物を床に下ろして、ヘルミーネに綺麗な礼をとった。

 ヘルミーネに対して挨拶をするニルスは、初対面の印象と同じだ。

 良く躾の行き届いたお坊ちゃま、といった雰囲気のニルスに、男性に対してはとにかく評価の厳しいヘルミーネも僅かに頬をほころばせる。


 ……ヘルミーネ先生の男嫌いって、もしかしてあれじゃないですか。子どもの頃、悪童に苛められたとか。


 つまりは、未来の私の姿だ。

 あのまま悪童テオが改心しなければ、少なくとも同年代の男児など恋愛対象からは外されていただろう。

 行き過ぎれば結婚に夢も希望も持てず、独身主義を掲げたかもしれない。

 それこそヘルミーネのように、だ。


 ……あれ? いつか私も恋をするとして、その相手って、同年代こども? 私の中身は一応大人なわけだし。


 それはそれでどうなのだろうか。

 ふと気がついてしまった可能性に、少しだけ微妙な気分になった。

 中身と実年齢が一致しないというのは、あまり良いことではない気がする。


 ……まあ、いいや。恋ってよくわかんないし。


 恋はするのではなく、気がついたら落ちているものらしい。

 なので、今から難しく考える必要はないだろう。


 ……私に恋人か、全然想像できないや。


 自分が恋に落ちる相手はまったく想像できないのだが、絶対条件だけは判る。

 顔でも年収でもなく、レオナルドより強いことだ。

 この一点がまず突破できなければ、どうにもならない。

 それだけは確信できた。

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