第37話 黒犬 VS コクまろ
ニルスにも仕事があるのだから、と一応辞退はしたのだが、ニルスが案内を買って出てくれた。
メンヒシュミ教会内での私の世話もニルスの仕事のうちらしい。
それは私が生徒として教室に通っている期間だけではないのか、と指摘してみたのだが、ニルスはおっとりと首を傾げた。
……期間外だから見てみぬ振りをする、とか出来ないんだね、ニルスって。
これがルシオであれば見てみぬ振りをしただろうと思うのだが。
……このおっとりとした純朴な性格って、悪い人に利用されないか少し心配になるよね。
思わずそんなことを言ってしまったら、ニルスはメンヒシュミ教会内に悪い人なんていませんよ、と微笑んだ。
……うん、すでに利用されていたね!
図書室への道すがらニルスの話を聞いていたのだが、洗濯物の山を運び出していた部屋の主の世話は、本来は別の人間の仕事だったらしい。
その人間が自分の仕事をニルスに押し付け、自分は研究者の講義に顔を出しているとのことだった。
……自分の仕事を放り出して講義に顔を出すって、ズルくない?
そうは思うのだが、ニルスがそれを良しとしているので、私からは何も言えない。
ニルスに殴られた跡でもあれば不正を導師アンナあたりにでも報告できるのだが、本人がのほほんと笑っているのだ。
余計なお世話になってしまう可能性もあるので、何もできなかった。
「……ありましたよ、ティナお嬢さん。イツラテルの騎士六巻です」
本棚の高い位置に収められた本を一冊抜き出して、ニルスからヘルミーネへと手渡される。
私宛の言葉だったのだが、荷物はお付と判るヘルミーネへと渡った。
これが『お嬢様』への扱いらしい。
お嬢様は自分で本や鞄など持たない。
実に不便で面倒だ。
タイトルを確認するようにヘルミーネの視線が表紙をすべり、本文を確認する。
ヘルミーネによる確認作業を待っている横で、ニルスが脚立から降りてきた。
「でも不思議ですね。城主の館の書斎に欠けがあるなんて……」
「不思議れすか?」
「イツラテルの騎士はメンヒシュミ教会で印刷された本なので、城主の館へは必ず一冊は献本されているはずなんです。それが見つからないなんて……」
レオナルドに限らず、グルノール砦の主は毎年多額の寄付をメンヒシュミ教会へと行っている。
その返礼として、メンヒシュミ教会で印刷された本は必ず一冊城主の館へと献本されることになっているらしい。
これをそのまま信じるのなら、メンヒシュミ教会で印刷されたイツラテルの騎士六巻も、城主の館のどこかには必ずあるはずだ。
「少し調べてみます」
「そこまでしてくれなくていいれすよ? ニルスだってお仕事の途中れしたよね」
「少し書類を調べるだけですから、すぐに終わりますよ」
お嬢さんたちは応接室で待っていてください、とニルスに図書室からやんわりと出される。
燃えやすい紙があるため、図書室にはストーブなどの暖房器具が用意されていなかった。
城主の館も同じなので、基本的に本は居間や自室へ持ち出して読んでいる。
寒い図書室から逃げ出せるのはありがたいのだが、ニルスが一人だけ残るのも気がひけた。
「……なにか読むにゃら、お手伝いしましゅよ?」
「一応教会の書類ですから、ティナお嬢さんはご遠慮ください」
書類を調べるぐらいなら手伝えるかもしれないと主張してみたのだが、これも綺麗にお断りされてしまう。
あまりしつこくしてもニルスを困らせるだけなので、ここはおとなしく好意に甘えることにした。
ストーブで温められた応接室に通されると、使用人の女性が温かいお茶とお菓子を持ってきてくれた。
完全にお客様扱いである。
これだけお客様扱いをされると、思いつきだけで連絡もなしにやって来たことが悔やまれる。
きっと私に見えないところで、使用人や教会の人間が慌てていろいろな準備をしていたのだろう。
……お嬢様って、扱い難しそうだね。
私自身は平民のつもりでいるのだが、グルノールの街の中では私はレオナルドの妹として扱われている。
砦の主であるレオナルドの妹ということは、街の支配者の妹であると言って間違いはない。
……これは確かに、扱いに困るかもしれない。
やはり不用意に来たのは悪いことだった、と改めて反省をする。
それから、ヘルミーネによる淑女教育は早急に必要だと思った。
レオナルドの妹として生きていくのなら、お嬢様として扱われることにも慣れなければならない。
そのための振る舞いを身に付けることも重要だ。
……貴族も面倒そうだけど、レオナルドさんの妹もなかなか難しそうだね?
黒騎士は平民ではあるが貴族とも面識を持っているし、先日など王子様だなんて
今はまだ子どものすることだと見逃されている気がするが、いつまでも今の振る舞いが許されるわけはない。
貴族や王族への対応は、早めに身に付けておいた方が良いだろう。
レオナルドの妹でいる以上、いつ王族がふらりと顔を出すかも判らないのだ。
……いや、そんな身軽な王族なんて、アルフレッド様以外にいないって思いたいけどね。
一度気になってレオナルドに聞いてみたところ、アルフレッドのあの性格は父親によく似ているそうだ。
アルフレッドの父親ということは、イコールで結んでこの国の王様ということになる。
奔放な王様を、しっかり物のお后様と苦労性の第一王子が支えているのだとか。
……この国、ホントに大丈夫?
焼き菓子を齧りながらそんな他愛のないことを考えていると、書類の束を持ったニルスが応接室へとやって来た。
「判りましたよ、ティナお嬢さん」
「教会で調べて判るようなことだったんれすか?」
「今回は、そうだったみたいです」
テーブルの上に広げられた書類の束は、紙が古いのか若干黄みがかった色がついている。
よく見ると端が丸くなっていたり、ところどころ折れた跡がついていたりするので、古い書類のようだった。
「簡単に説明すると、イツラテルの騎士六巻は献本そのものがされていませんでした」
たまたま私が読む気になって探したので判明したことだが、イツラテルの騎士は三十年以上前に印刷された本で、その当時戦争があり、砦が忙しかったために城主の館への献本は一時的に控えていたそうだ。
警備や点検の手間をかけさせるぐらいならば、戦争が終わってから改めて献本しよう、ということになり、そのままいつの間にかその年に刷られた本の献本が忘れられてしまったとのことだった。
調べてみれば、実に単純な話だ。
……それ、逆に言うと三十年以上書斎の本をまともに読む人がいなかった、ってことだよね。
せっかくの好意で行われている献本だというのに、なんだかあんまりな扱いだ。
「当時忘れられていた献本が他にも数冊ありましたが……どうしますか? イツラテルの騎士だけならすぐに持ち帰ることもできそうですが……」
「え? 貰っていいんれすか?」
「もともと城主の館へ献本されるはずの物でしたからね。むしろ、ようやく献本済みの判が入れられるようになって、教会としても助かります」
結局、イツラテルの騎士ともども書庫にしまわれていた献本を、後日ニルスが館へと届けてくれることになった。
他にも献本漏れがないか確認をしたいので、数日かかりそうだともニルスは言う。
……あれ? もしかして、またニルスの仕事を増やしちゃった?
そう気になって聞いてみたところ、もともとメンヒシュミ教会の仕事である、とニルスには笑顔で答えられてしまった。
私のせいで仕事が増えただなんてことは、ニルスは決して言わない。
性格によるものか、本心からそう思っているのかは判らないが、笑顔で苦労性なことに間違いはないだろう。
せめてこのぐらいは、と献本は急がなくてもいい、と伝えておく。
館にはまだ他に本があるので、すぐに必要なわけではないのだ、と。
「お待たせ、コクまろ」
建物から出ると、足音で聞き分けているのか、伏せて待っていた仔犬がピンっと尻尾をたてて立ち上がる。
嬉しそうにパタパタと振られる尻尾が可愛かった。
黒い毛並みに赤い首輪をチラチラと覗かせて帰路を歩く。
赤い首輪にはレオナルドが私の財布に付けてくれたのと似たチャームが付いていて、やはり
これでコクまろは黒騎士の家の飼い犬と判るので、もしも迷子になっても見つけた誰かが黒騎士へと届け出てくれれば我が家へと戻って来ることができる。
用途としては、私のチャームと同じだ。
散歩中は私の横を歩くように、とリードを短く持って歩く練習をしている。
時折顔をあげて私に視線をくれるところが、たまらなく可愛い。
「……あえ?」
不意にコクまろがペタンッと尻を落とし、歩くのを止めてしまう。
なんだろう? と周囲を見渡すと、いつもの黒い犬がコクまろの視線の先にいた。
……今日は
あの黒犬の行動パターンとしては、大人と一緒にいる時は姿を見せない、というものがある。
ものがあった。
そのはずなのだが、今日はヘルミーネという大人と一緒にいるのに、あの黒犬は路地からそろりそろりと歩いてくる。
「ティナさん、こちらへ」
ヘルミーネが私の肩を掴み、自分の背後へと私を隠す。
静かに唸り声をあげる黒犬は、異様な雰囲気だった。
いつも気味が悪いとは思っていたのだが、それは気が付くと黒犬が私の視界に入って来ていたからで、こちらに対して明らかな敵意を見せていたからではない。
むしろ、あの黒犬から敵意などこれまで感じたことはなかった。
「コクまろ! おいで!」
ヘルミーネの後ろからリードを引っ張ってみるが、尻を落としたコクまろは動く様子をみせない。
ぺたりと地面に座り込んだまま、でも気勢だけはあるのかキャンキャンと黒犬に向かって吼え始めた。
「ひゃあっ!?」
黒犬がコクまろに飛び掛ってきた瞬間に、ヘルミーネに抱きかかえられて数歩背後へと下がる。
ヘルミーネの細い腕のどこにこんな力があったのか、と不思議でならないのだが、今はとにかくコクまろだ。
抱き上げられた際に驚いて、咄嗟にリードを放してしまった。
「コクまろ!」
自由になったので逃げ出すかと思ったのだが、コクまろは勇敢にも黒犬に立ち向かった。
尻尾はくるりと尻を隠すように下がっているのだが、キャンキャンと吼えながら私とヘルミーネの前に陣取っている。
もしかしたら、コクまろなりに私たちを守ろうとしているのかもしれなかった。
……飼い主どこーっ!?
散歩中の飼い犬同士の喧嘩であれば、飼い主同士がリードを引っ張って無理やり距離をとることでやめさせることができる。
が、コクまろはともかくとして黒犬には散歩中の飼い主どころかリードもない。
強引に黒犬を引き離すことはできないのだ。
コクまろを威嚇するばかりで私たちへは関心をみせない黒犬に、ヘルミーネがそっと私を地面へと下ろす。
それから慎重にコクまろの背後へとまわり、こっそり私が手放してしまったリードを踏んだ。
これでコクまろを捕まえることはできる。
「コクまろ!」
ガブっと黒犬がコクまろに噛みつき、見ている私の肝が冷えた。
咄嗟にコクまろと黒犬を引き離そうと二匹の間に手を差し込むと、黒犬はパッとコクまろから離れる。
「痛っ!?」
黒犬は私を見て離れたが、仔犬のコクまろにそんな判断はできなかったようだ。
興奮状態にあるのか、無我夢中だったのか、割り込んできた私の手に噛み付き、私の悲鳴に驚いてすぐに口を離した。
二匹の犬はほんの一瞬だけ同じ行動をみせた。
尻尾を下して耳を伏せ、不安気な鳴き声をあげる。
ただ、同じ行動をみせたのはこの一瞬だけで、次の瞬間には黒犬の雰囲気が変わった。
唸り声に力がこもり、犬だというのに殺気まで感じる。
……コクまろが噛み殺されるっ!?
パッと頭に浮かんだ言葉に、コクまろを抱き上げて後ろへと下がろうとしたのだが、伸ばした私の手にコクまろは怒られると思ったのかもしれない。
尻尾を巻いて私からも逃げ出した。
「コクまろっ!」
今はきっと、私から離れる方が危険だ。
そう確信できるのだが、コクまろには通じなかった。
ヘルミーネがリードを踏んでいたので、逃げられる距離はほんの少しではあったが、私の手が届かない場所へと離れるだけで危ないと思う。
逃げ出す仔犬に、首輪につながれたリードがピンと張る。
黒犬にすればほんのひとっ跳びの距離に、今度こそコクまろが噛み殺されてしまう、と思わず堅く目を閉じた。
……あれ?
ふっと頭上が一瞬だけ暗くなった気がする。
次の瞬間に聞こえたのは仔犬の鳴き声ではなく、成犬の悲鳴のような鳴き声だった。
「よしっ! 確保っ!!」
予期せぬ方向から成人男性の声が聞こえ、恐るおそる目を開ける。
少し離れた場所から黒騎士が三人こちらへと走り寄って来るのが見えた。
「……く、黒騎士?」
黒騎士ならば、私の味方だ。
黒犬から私と仔犬を守ってくれるだろう。
そう安心したら、足から力が抜けた。
ぺたりと地面に腰を落とすと、ほんの少しだけ周囲を見渡せる余裕が生まれる。
……あ、投げ網?
以前は黒犬に逃げられた記憶があるのだが、今回はこの網で黒犬を捕まえることに成功したらしい。
というよりも、黒犬の方が動揺していて黒騎士たちの接近に気が付けなかったのかもしれない。
網に捕らわれた黒犬は、コクまろにみせた剣幕を潜め、すでにおとなしいものだ。
「ティナさん、手を!」
「て?」
手がなんだっけ? と声の聞こえた方へ顔を向けると、ヘルミーネが心配気に眉を寄せていた。
緊張の解けてしまった私は、ヘルミーネの言葉がすぐに理解できず、ぼんやりと聞き返してしまう。
そんな私に焦れたのか、ヘルミーネは返事も待たずに私の手を取って検分しはじめた。
……あ、そうだった。コクまろに噛まれたんだっけ?
噛まれた事実を思いだすと、ズキズキと手が痛み始める。
意識から外れていた時はまるで痛くなかったのだから、現金なものだ。
安心した途端に痛みだした。
「……手袋に穴が開いていますが、怪我はないようですね」
私の手のひらを何度もひっくり返して観察していたヘルミーネが、満足したのかホッと息を吐いて肩の力をぬく。
怪我はないと言われたので、私も怖々と痛む手を見てみた。
小さな歯型が孤を描いて並んでいるが、ギリギリ皮膚は裂けていないようだ。
手袋に穴は開いているが、手に穴は開いていない。
ズキズキと痛むだけで、血も流れてはいなかった。
念のために消毒を、とヘルミーネに連れられて行ったセドヴァラ教会から戻ると、すでに館へは連絡が行っていたようだ。
館に入った途端にレオナルドに抱きしめられて、少し苦しい。
が、心配をさせてしまったようなので、おとなしく抱きしめられたままでいた。
私の護衛気分だったらしいコクまろは、逆に私へと噛み付いてしまったことがショックだったようで、尻尾を下したまま寝床にしている籠の中へと頭だけ突っ込んでいる。
判りやすく落ち込んでいた。
自分が一緒にいたにもかかわらず、私に怪我をさせてしまった、と謝罪するヘルミーネには少しだけ困ってしまう。
ヘルミーネはちゃんと私を庇っても、守ってもくれていたのだ。
ただ、私が咄嗟に喧嘩をする犬の間に腕を差し込んでしまったのが悪い。
それだけだったので、ヘルミーネが謝ることなどないのだ、と訴えたのだが、大人が一緒にいた以上、子どもの怪我はその大人の責任なのだ、とヘルミーネは言って譲らない。
「……なんだか、ほんの気まぐれの外出らったのに、散々な結果になりましら」
自主的に謹慎し始めたヘルミーネを想い、居間の長椅子で隣に座るレオナルドへと寄りかかる。
怪我らしい怪我などないのだが、消毒したあと歯型を隠すように巻かれた白い包帯を見つめた。
包帯は白いのだが、暖炉の火に照らされてオレンジ色に見える。
「ティナはしばらく外出禁止だ」
「わかりましら」
「……素直だな」
「わたしはいつだって素直れすよ?」
今日はいろいろ反省することが多いのだ、とメンヒシュミ教会で感じたことをレオナルドに報告する。
私自身は平民のつもりなのだが、レオナルドの妹としてお嬢様扱いをされるようだ、と。
ふらりとメンヒシュミ教会へ行ったが、本当なら事前に連絡をした方が良かったのかもしれない、と思いついたままに報告を続けた。
「わたしが街へ行くのあ、もう少しヘルミーネ先生からしゅくじょの振る舞いを学んでからの方が良さそうれす」
そうでなければ、知らないうちにレオナルドに恥をかかせることがあるかもしれない。
私自身は私の責任だと思っているのだが、大人と子どもであれば大人の責任である、とヘルミーネは私がコクまろに噛まれたことを悔いていた。
私の振る舞いは子どもの振る舞いとして棚に置かれ、その保護者へと責任が求められるのだ。
「……あの犬のことだが」
「黒いのれすか?」
「黒くて判り難かったが、首輪をしていた」
今日ようやく黒騎士に確保された黒犬は、今はおとなしく檻の中にいるらしい。
近くで見られるようになったため、首にある首輪に気づけたようだ。
訓練された犬なのでは? と思っていたように、犬の訓練師が命令してみたところ、一応の反応を示し、首輪のプレートが確認できた。
「……貴族の飼い犬れすか」
プレートに刻まれた紋章には、黒騎士であれば誰もが知っている紋章があったそうだ。
黒騎士でなくとも、このイヴィジア王国の民であれば誰もが一度は耳にしたことのある人物が、あの黒犬の飼い主だったらしい。
「一応迷い犬かと
これは扱いが面倒そうだ、とため息混じりにレオナルドは呟いた。
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