第25話 コクまろ
二日に一度のメンヒシュミ教会へはテオの顔を立てて通っているが、それ以外はやはり館に引き籠って生活をしている。
館に引き籠るとは言っても、城主の館の敷地はとても広いので不自由は感じていない。
タビサやバルトの仕入れに付いて行かなくなったぐらいで、これまでの生活と大差なかった。
……ちょっと文字覚えてきただけで、結構時間潰せるね。
最近のお気に入りは、
これがあれば何処でも文字の勉強ができる。
幸いなことに、街の人間は識字率が高いようで、館の中だけで言えば私以外の全員が読み書きできた。
誰だって私の先生になれるのだ。
そんな私の今日の遊び相手はバルトだった。
裏庭の手入れをするバルトに塗板へと文字を書いてもらい、書かれたものを裏庭から探し出す遊びをしている。
条件としては、塗板を受け取ったバルトの視界にあるもの、ということになっていた。
「……ありましら、コスモンの花れす!」
さすがに花を持ち運ぶことは不可能なので、花の生えている場所に立ってバルトに手を振る。
花壇の脇に立って手を振る私に、バルトはイイ顔をして笑う。
「ひっかけ問題です。それはコスモスと読みます」
「あえ?」
コスモスと言われて花壇を探すが、それらしい花が見つからない。
首を巡らせて裏庭を見てみると、通用口の横に少しだけコスモスが咲いているのを見つけた。
「……こっちれすか?」
バルトは大きく両手で丸を作った。
……ここでも秋桜はコスモス、と。覚えとこ。
コスモンと読み違えた文字を復習し、コスモスと読めるようになっておく。
せっかく遊びながらでも学んでいるのだから、覚えておきたい。
「次は……
周囲を見渡すと、使用人用の離れの壁に立てかけてある
「ありました!」
トテテと離れまで走って如雨露を手に取る。
これですね、とバルトから見えるように両手で掲げ持つと、これまた正解だったようでバルトが大きな丸を作った。
「これは如雨露、如雨露……」
じっと塗板に書かれた文字を見つめる。
何度か白墨で同じ文字を書いて覚えていると、背後の離れから仔犬の鳴き声が聞こえてきた。
……? 気のせいかな?
バルトたちが犬を飼っているという話は聞いたことがないので、鳴き声が聞こえる気がするが、気のせいだろう、と後ろを振り返る。
仔犬の鳴き声が聞こえた気がしたのだが、後ろにいたのは窓辺へ置かれた黒いぬいぐるみだ。
仔犬の姿などどこにも――
「……なんで仔犬がいるんれすか!?」
私の視線が自分に向いたと解ったのだろう。
黒い仔犬のぬいぐるみに見えた物体が、可愛らしい声でキャンキャンと吼え始めた。
「バルトさん、仔犬がいましゅ!」
窓辺に近づいて離れの中を覗く。
仔犬は完全に私の気を引けたと悟ると、小さな尻尾を元気良く振って立ったり、座ったりを繰り返している。
可愛らしい仔犬の仕草に、もっと近くで見たい、と窓に額を押し付けると脇に手を差し込んできたバルトに抱き上げられて窓辺から離されてしまった。
「いけません、嬢様!」
「あえ?」
少しトーンの上がったバルトの声に、怒らせてしまったのだろうか、と見上げる。
考えてみれば、離れはバルトとタビサの生活空間だ。
私が覗いて良いものではなかったのかもしれない。
「離れは、わたしが覗いたらダメれしたか?」
「確かに使用人の離れなど嬢様が見るものではありませんが……」
そう言って、バルトは首を傾げた。
「犬は、怖くないのですか?」
「犬って、中の仔犬れすか?」
「はい。嬢様が怖がらないように、とレオナルド様の命であの仔犬は少し前から離れで飼われています」
知らないうちにそんな気が回されていたらしい。
たしかに最近は犬に関してあまり良い思い出はないが、それはあの黒い犬が悪いのであって、この仔犬のせいではない。
「あの黒い犬は嫌れすが、他の子は平気れすよ? あの子、抱っこしていいれすか?」
心配そうな顔をしたバルトにそうお願いすると、しばし考えたあと、バルトは離れへと私を案内してくれた。
そのまま離れの玄関へ回ると、足音で扉が開かれるのが解っていたのだろう。
仔犬が勢い良く飛び出してきて、あっという間に花壇へと消えていく。
「……逃げましら」
「はい。逃げまし……ああっ!? タビサのハーブがっ!?」
飛び込んだ花壇で早速土を掘り返し始めた仔犬に、バルトが悲鳴をあげる。
慌てて仔犬を捕まえに走ると、仔犬は小さな体でちょこちょこと走り回り、バルトの手から逃れた。
「嬢様、捕まえてください!」
「はいれすっ!」
花壇に悪戯をする仔犬を捕まえようと追いかけているうちに、どんどん楽しくなってきた。
体をおもいきり動かしているせいかもしれない。
バルトが疲れて座り込む頃には、仔犬と私、どちらが鬼ごっこの鬼になっているのか判らなくなっていた。
追いかけているのか、追いかけられているのか。
グルグルと裏庭を走り回り、レオナルドが帰宅したことにも気が付かなかった。
裏庭へとやって来たレオナルドを見つけ、一瞬だけ冷静さが戻ってくる。
養われている身なのだから、お見送りと出迎えぐらいするべきだと思っていたのだが、仔犬を追い掛け回すことに夢中で、すっかり忘れてしまっていた。
内心少しだけ気まずく思いつつ、遅ればせながら「おかえりなさい」と言うつもりで足を止め、しかし私の口から出た言葉は仔犬の愛らしさを讃えるものばかりだった。
それほどに愛らしい仔犬だ。
おかえりなさいの挨拶よりも、いかにこの仔犬が愛らしいかをレオナルドに教える方が大事な気までしてきた。
「……ティナ、黒い犬は怖い……んじゃなかったか?」
仔犬について語る息継ぎの合間に、レオナルドがバルトと同じようなことを聞いてきた。
どうやら本当に、あの一件で犬嫌いになっているのでは、と心配されていたようだ。
ここはそんな誤解は早々に解いておいた方が良い、とあの黒い犬とこの仔犬の違いを切々と語り、最後に仔犬可愛いと仔犬への愛と萌えを散々に語ってみた。
「……その仔犬、気に入ったか?」
「買ってくれなくていいれすよ」
……ピンときました。ここで「はい」って答えたら、次の日にリボン巻いた仔犬が館に来るフラグですね! そうはさせませんよ。
レオナルドの私への甘やかし方を見ていると、犬ぐらいポンっと買ってきそうで怖い。
いつだったかぬいぐるみを買わないようそれとなく釘を刺してくれ、とアルフにお願いしたところ、とんでもないサイズの熊のぬいぐるみを買って帰ってきたという実績があるのだ。
レオナルドの甘やかしと、財布の紐の緩さを舐めてはいけない。
そう警戒して断ってみたのだが、なんと離れで飼われていたこの犬がすでに私のためにと用意された仔犬だったらしい。
買わないでください、という選択肢すら私にはなかった。
……生き物って、そんなに簡単に飼ったらダメだと思うよ。
妹ですら持て余し気味のレオナルドが、仔犬を飼うというのは無謀以外のなにものでもないと思う。
……でも、まあ……いいのかな?
レオナルドは館にいないことが多いが、城主の館には基本的にいつも人がいる。
タビサかバルトが仔犬の世話をすると思えば、館で動物を飼うことも不可能ではない。
そしてなにより、仔犬は可愛い。
……お散歩とか、餌やりぐらいはお手伝いしよう。
私のために用意された仔犬なら、私が名前をつけていいのか、と聞いてみた。
好きな名前をつけていい、と答えられたので、じっと仔犬を見つめる。
この世界でもこう呼ぶのかは判らないが、犬種は柴犬に似ていた。
短い毛と太い足で、正面から見ると笑っているように見える顔をしていて可愛い。
全身のほとんどが黒い毛で覆われているのだが、口の周りとお腹、足の先っぽが白かった。
……黒い柴犬って、たしかこんな感じだったよね。
ぬいぐるみのように愛らしい仔犬なのだが、眉間に二つの白い丸がある。
いわゆる
……黒くて、麻呂眉があって……?
麻呂眉があると気が付いてしまっては、名前はもう一つしか思い浮かばなかった。
「……
我ながら貧困な発想だとは思うのだが。
飼い犬の名前なのだから、連想しやすいものが良いだろう。
ただ問題なのは、この名前が仔犬の外見から連想して名付けられたと解るのは、私だけだった。
レオナルドは完全に困惑した顔になってしまっている。
「コクまろ、というのは?」
……そうですね。こっちの人に麻呂眉とか通じませんよね。
さて困った。
自分が転生者と知られずにこの黒麻呂という名前に説得力を持たせるためにはどう説明するべきだろうか。
……黒麻呂、コクまろ、こくまろ……?
「コクがあって、まろやかな味わい?」
よし、語呂はあった。
そうは思うのだが、レオナルドはいまいちスッキリしないようだ。
よく
食べ物の名前ではなく、味の感想になっているのだが、そこはとりあえず気にしない。
要は麻呂眉が誤魔化せればいいのだ。
結局このまま『コクまろ』と名付けられた仔犬は、当初の予定通り私の愛玩動物として館の一階で飼われることとなった。
ある程度大きくなったら砦へ連れて行き、番犬として働けるように訓練をするようだ。
訓練が終わったら、今度は私の護衛として館に戻ってくるらしい。
仔犬のうちだけ私の元で育てるのは、盲導犬を育てるのに似ている。
盲導犬は人間への愛情を育むよう、と仔犬のうちは普通の家庭で育てられる、と何かで聞いたことがあった。
余談になるが、味の感想を名付けた私は、これまで以上にレオナルドから『食い意地の張っている子』と思われたようだが、気にしない。
気にしないといったら、気にしない。
お菓子のお土産が増えて豚になる危険がでてきたが、そのぶん仔犬と走り回っているのでカロリーの消費はできていると信じている。
信じたい。
お願い信じさせて。
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