第12話 地下室のジャン=ジャック 1

 感染から回復した黒騎士を人手として借りるようになると、様々なところへと手が回るようになった。

 特に、洗濯ができるようになったのは大きかったようだ。

 ただ単純に肌へ触れるシーツが清潔になったというだけではなく、消毒をした包帯をふんだんに使えるというのが大きい。

 掻き毟り防止にもなるし、皮膚の裂かれた患部を隠すことができる。

 血や瘡蓋かさぶたを撒き散らすことがなくなると、それだけでも感染抑止に繋がった。

 セドヴァラ教会によると、ワーズ病はやはり飛沫感染が恐ろしいらしい。

 接触でも感染する恐れはあるのだが、こちらは手洗いを徹底したり、患者の使った衣服やシーツにくるまったりしない限りはそれほど危惧することはないのだとか。


 ……逆に考えると、シーツからでも移るってことだよね。そりゃ、同じシーツを何日も使ってたら治るわけないよ。


 同じシーツを裏返して使うという場面を見てしまったのだが、あれ以来そのような蛮行は行われていない。

 初日はシーツ洗いの途中で家に帰ることになったのだが、翌日砦へ来てみるとほとんどのシーツが洗い終わっていた。

 私が帰ったあと、女の人たちが交代で洗ったらしい。


 ……外からのお手伝いが嬉しかったんだって。


 感染者、感染の疑いのある者として砦へ隔離されたが、特に手厚い看護を受けることができるわけでもなく、友人知人が少しずつ発症していくのを見守るのは辛い。

 一人死に、二人死にと看取るうちに、だんだん世間から見捨てられたような気がしてきたらしい。

 そんなところに、私が外から手伝いに来た、というのが良かったのだとか。

 まだ見捨てられたわけではないと実感できて、やる気が湧いた。

 ただ世話されるのを待つのではなく、自分たちの世話ぐらい、自分たちでやればいいのだと。


 そんなこんなで、包帯を巻いていない人は少ないが、一階の人間は比較的元気になった。

 二階と三階の患者も、回復した元気な人間が出入りするようになり、自分も回復したいと気力を取り戻したそうだ。


 ……重症化すると、治るのは難しいみたいなんだけどね。


 その最たるものが、地下室のジャン=ジャックだろう。

 あまりにも酷い惨状らしく、私は地下室に近づくことも許されていない。

 地下から戻る薬師の白衣が赤く染まっているのは遺体を解剖していたせいだが、ジャスパーのグレーの服に濃い染みが付いていたのは、ジャン=ジャックの血が付いたせいだ。

 血からも感染はするということで、グレーの服は早々に洗濯へと回されていた。


 ……まだ生きていることが、まず不思議なんだけどね。


 砦で最初に発症したのがジャン=ジャックだ。

 順当に考えれば、最初に死ぬのもジャン=ジャックのはずである。

 にも関わらず、ジャン=ジャックは今も生きている。

 彼が感染を運んだと思われる娼婦や仲間の黒騎士は、すでに何名も死んでいるというのに、だ。


 ジャン=ジャックの世話は、誰もやりたがらない。

 同僚なのだから回復した黒騎士がやってくれれば良いと思うのだが、彼が感染を運んだということは、隔離区画の誰でも知っていることだった。

 それに加えて、ジャン=ジャックには王都からの指示で潤沢に薬が与えられていたらしい。

 薬の数が足りず、初期症状にしか効果は望めないと判りきっている薬を、だ。


 ……そりゃ、確かにうらまれるよ。


 逆に考えれば、ジャン=ジャックを早期に見捨てていれば、助かった人間が何人もいたはずということになる。

 効果が望めないジャン=ジャックに薬を渡すより、効果が望める初期症状の感染者へ薬を渡せばよかったのだ。


 ……ジャン=ジャックが今も苦しんでいるのだって、薬のせいだよね。


 回復の望める時期は過ぎたが、それなりの効果をあらわしているのだろう。

 そのせいで死ぬに死ねず、ジャン=ジャックの苦しみが長引いているのだ。


 ……病気の進行と、薬の効果で苦しみが長引いて、でも他の人に恨まれていて誰もお世話をしてくれないって、生き地獄だね。


 そう感想を漏らしたら、ジャスパーにジャン=ジャックの容態を事細かに説明されてしまった。

 体中を掻き毟るせいでむき出しになった肉だとか、あちこちに飛んでいる血飛沫だとか、爪が捲れ上がって指先が血まみれだとか、そんな話は聞きたくなかった。


 ……ジャスパーさん、結構性格悪い。


 おかげで考えないようにしたいのだが、掃除の合間に時間が空くとついジャン=ジャックのことを考えてしまう。


 ……私が気に病む必要なんてないんだけどね。


 家族でもないし、元からの友人でも知人でもない。

 メイユ村を出る時に少し行動を共にしたぐらいだが、その時の印象だって、そう良いものではない。


 ……それでも気になるのが日本人っていうか、人間っていうか、お人好しっていうか……?


 隔離区画の雰囲気が改善されればされるほど、放置されているジャン=ジャックが気になるのだ。


 ……段々ムカムカしてきた。


 ジャン=ジャックを気にしている自分にも、放置を許している自分にも。

 地下室に行ってはいけない、という言いつけを律儀に守っている自分にもむかつくべきかもしれない。


 ……よし、行ってみるっ!


 一度様子を覗いてすっきりしよう。

 手が出せるようなら出せばいいし、無理なら諦めも付くだろう。

 なによりも、今のように状況もわからずモヤモヤとしているのが一番気持ちが悪いのだ。







 一度地下を覗いてみよう。

 そう決めはしたのだが、さすがにこっそり忍び込むような真似はできなかった。

 腐っても生真面目な日本人の性質さがだ。

 ダメで元々と、一応大人の許可を求めることにした。


「……ジャン=ジャック殿を見にいきたい? いい趣味だな」


「趣味、違う」


 案外趣味の悪いジャスパーなら許可をくれるのではないか、と相談してみての結果がこれだ。

 アルフに相談すれば却下されることは判っているので、最初から相談する候補からは外している。

 レオナルドにいたっては、ここしばらく顔も見ていない。


「ジャン=ジャック殿の様子なんて見てどうする? どうせおまえには何にもできないぞ」


「知ってる。でも、気になる」


 時々地下から声が聞こえて、気になる。

 そこにいると知っているのに、無視しているような現状が気になる。

 みんながジャン=ジャックをいないものとして扱い、同じ黒騎士であっても世話をしようとしないのが気になる。

 そう思ったことを片言ながら切々と語ると、ジャスパーは最後に冷笑を浮かべた。


「おまえみたいな奴を、偽善者って言うんだぞ。偽善者ってのはな――」


「ぎぜん、違う」


 子どもが『偽善』などという言葉を知らないと思ったのだろう。

 ご丁寧に説明しようとするジャスパーの言葉を遮って止める。


「ジャン=チャックについて、聞くだけ。わたし、まだ見てない。どれだけ酷い、ジャスパーが話してくれた、だけ。だから、えっと……」


 酷い惨状だということは、ジャスパーから聞いているので知っている。

 ただ、実際に見たわけではないので、思ってしまうのだ。


 放置されているから、治ることができないのではないか。

 まだ手の施しようがあるのではないか、と。


「……つまり、本当に酷い状態である、と目で見て納得してから見捨てたいのか」


「そこ、諦めたい、言って」


 なんにしても『言い方』というものはある。

 聞こえの悪い『言い方』と、聞こえの良い『言い方』が。


「……見たらちゃんと諦めろよ」


 しばしの沈黙のあと、ジャスパーはそう呟く。

 あまりにもあっさりと主張が通り、思わずジャスパーの顔をまじまじと見つめてしまった。


「え? いいの?」


「あれはちゃんと見た方が、諦めるしかないって解るだろ」


 見せると決めたジャスパーの行動は早かった。

 どこかからペストマスクに似た形状のマスクを持ってきて、私の顔に付ける。

 大人サイズのマスクなので、子どもの私の頭には大きすぎた。

 紐で調整して付けるのだが、顔を覆うマスクには丸く窓のように覗く部分が付いていて、私には少し外が見難い。

 飛沫対策か、首や手首足首といった肌の露出している部分には包帯が巻かれ、白い帽子に髪を詰めて被る。

 服は隔離区画に子ども用などあるわけも無いので、そのままだ。

 比較的淡い色合いの服だったため、万が一血が付着しても見つけやすいだろう。

 念のために手袋を二重にはめたら、完成だ。


 ジャスパーに続いて地下室へと続く扉の前に来ると、扉の番をしている黒騎士に止められた。

 子どもが見るものではないというのと、アルフの命令で私を決して地下室へと通さないように言われていたらしい。

 ジャスパーがうまく言いくるめてくれるのかと思ったが、ジャン=ジャックの様子を見たいというのは私の意思なので、と黒騎士の説得は私にふられた。


 ……ジャスパーさん、あんま役に立たない。


 結局ジャスパーにしたのと似たような説得を行い、なんとか少しだけという約束で地下室を覗けることになった。

 もちろん、アルフには内緒と言う約定も交わす。


 ……臭いっ。


 地下へと続く階段を下りながら、漂ってきた臭気に思わず顔をしかめる。

 鼻をつまみたいのだが、ペストマスクが立派すぎてそれはできなかった。


 ……血と、汗と、おしっこの臭い?


 あまりに強烈な臭いに、気を紛らわすために様々なことを考える。

 そうでもして気を紛らわせなければ、まだ階段だというのに逃げ出してしまいそうだ。


「言っておくが、本当に子どもが見るようなものじゃないからな。気絶なんてするなよ。俺は本より重いものなんて運びたくない」


 そう前置きをおいて、ジャスパーは階段の先にある扉を開いた。


 ……くさっ!?


 階段を漂う臭いなど可愛いものだった。

 地下の扉を開けて漂ってきた臭いは強烈で、とにかく目に染みる。

 臭いに含まれているものは、ここまで強烈だと判別することができない。


 ……あ、鼻が馬鹿になった気がする。


 臭いの種類がまるで判らない。

 ただ強烈に臭くて、目を開けているのも辛い。

 鈍器で頭を殴られたら、きっとこんな気分だと思う。


「ジャン=ジャック殿はこっちだ」


 薄目を開け、動いている人影がジャスパーなのだろうとあたりをつけてあとを追う。

 あまりの臭いに周囲を見渡すのが遅くなったが、よく見ると明り取りか換気のための窓が少しあるだけで、光源はそれだけだ。

 薄暗くて周囲を見渡すことは難しい。

 ただ、足元が板張りの床ではなく、石畳だということは判った。


 ……地下室って、みんな言ってたけど、違うね。


 薄暗さに目が慣れてくると、判る。

 個室のように壁は区切られているが、廊下側の壁は無い。

 そのかわりのように、太い鉄格子がはめ込まれていた。


 ……地下牢って言うのが、本当だと思う。


 罪人と思われる人間はどの房にもいない。

 元からいないのか、隔離区画として使うために別へ移されたのかは判らなかった。

 ただ房それぞれに一つのベッドがあり、隅にある箱はトイレだと思われる。

 

 地下室だと聞いていたものの正体が地下牢だと知り、なんとなく不安を感じ始めると、奥の扉からうめき声が聞こえてきた。

 地を這うようなというのか、腹の底から搾り出しているかのようなうめき声だ。


「……ちょうど目が覚めたみたいだな。運がよければ会話もできるぞ」


 急に心細くなってジャスパーの服の裾を掴む。

 掴んでいることに気づいているはずだが、ジャスパーは特に何も言わなかった。

 ジャスパーの手によって奥の扉が開かれると、うめき声はさらに大きくなる。


「防音を兼ねて奥に移した。本来は凶悪な犯罪者を突っ込んでおくための独房だ。逃亡防止に出入り口はこの扉しかない」


「白衣のおじさんたち、検体、解剖してた、は?」


「あれはもう調べつくしたから、別へ移した。今頃はちゃんと弔われているはずだ」


 そんな話をしながら、奥の独房の前へと辿りついた。

 ここもやはり鉄格子が嵌めてあり、プライバシーを守ってくれる壁は無い。


「……ジャン=チャックさん?」


 暗すぎて、部屋の中がよく見えない。

 目を凝らしてみると、辛うじて部屋の中央にベッドが見えた。

 さらによく見ようと目を凝らすと、何も無いと思っていたベッドの上に人影らしきものが見える。

 人影は絶えず動いているのだが、拘束されているのか、その動きには制限があった。


「……動けない?」


「これ以上体を掻き毟れないように、拘束してある」


 手足を自由にしておくと、どうしても掻いてしまうらしい。


「近くに行って見てみるか? それとも、ここで引き返すか?」


 鉄格子にはめ込まれた扉にジャスパーが触れると、キィっと音を立てて扉が開いた。

 牢屋を病室として使ってはいるが、中にいるのは囚人ではない。

 鍵をかける必要はなかった。


 ベッドの上から聞こえるうめき声と、蠢いて見える黒い塊が異様で、思わずしり込みしてしまう。

 しかし、ジャン=ジャックの様子を見たいと言ったのは私だ。

 ここで引き返してしまっては、これまで以上に気になるのは判っている。

 一度深呼吸をして気持ちを落ち着け、牢の中へと足を入れた。


「ジャン=チャックさん……?」


 恐るおそるベッドの上を覗いてみると、確かにアルフが「子どもに見せたくは無い」と言う気持ちがわかった。

 ベッドの上のジャン=ジャックは、手術台に載せられた患者のようになっていた。

 首、肩、腕、手首、腰、膝、足首をベッドへと固定されている。

 これでは確かにどれだけ体が痒くても、掻くことはできないだろう。

 ほとんど体の自由がないのだ。


 体を拘束しているのは、ベルトだった。

 肌を傷つけないよう、皮膚に触れる箇所には布が当てられているのだが、あまり意味はなさそうに見える。

 暴れるためだろうか、当て布は外れかけていたり、ほつれたりと散々な状態だ。

 あちこちから滲み出る血のせいで、赤黒い染みもついている。


 ……くさい。髪の毛、油でベトベト。


 見える範囲に引っかき傷の付いていない肌は少ない。

 ほとんどが赤くれ爛れていたり、疱瘡が潰れて膿や浸出液が滴り落ちていたりと、とにかくひと目で不衛生と判る惨状だ。

 こんな状態で薬と食事だけは与えられているというのは、ある意味で拷問だろう。


「……これを見て、手の施しようがあると思うか?」


 強烈な臭気で、胃の中がムカムカとする。

 少しだけ吐き気がするが、まだ生きていると判っているだけマシな気がして耐えられた。

 ワイヤック谷に行く途中で寄った村で見た腐乱死体や、森で見つけたほとんど骨だけになった遺体よりはまだ視覚的に優しい。


「何かしてやれることがあるとしたら、楽にしてやるぐらいだろう。ジャン=ジャックへの投薬は王都からの指示らしいが、おまえの保護者ならそれを撤回させることが出来る」


 そこまで聞いて、ようやく理解できた。

 ジャスパーがただの子どもでしかない私の願いを聞き、禁止されている地下室へと連れてきた本当の理由に。


 ……これを見た私が、レオナルドさんに泣きつけばいいって思ったんだ。


 苦しんでいるジャン=ジャックが可哀想だ。

 いっそ楽にしてやってくれ、と。


 私が頼めば、きっとレオナルドは耳を傾ける。

 王都からの指示に反し、ジャン=ジャックへの投薬をやめる。

 そう思ったのだろう。


 ……ジャン=ジャックが死んだら、その分の薬は効果の望める人に配れるしね。


 私だって、そう思う。

 ジャン=ジャックに薬を配るのは無駄であり、その分を他へ回せば良い。

 苦しみを長引かせるぐらいなら、治療などやめた方が良い。

 たしかに、そうは思うのだが。


 ……でも、ジャン=ジャックはまだ生きているんだよ?


 安楽死というのは、現代日本でも難しい問題だった。

 合理的に考えた場合と、家族の心情を汲んだ場合に答えは一致しない。


「ジャン=チャック」


 そっと拘束されているジャン=ジャックの手に触れる。

 手袋が血か何かの水分を吸い取り、微かに重くなるのが判った。


「ジャン=チャック、生きてる?」


 うめき声がするので生きているのは判っているが、口から出たのは生存確認だった。

 軽く手を揺すると、ややあってから力強く握り締められる。

 うめき声が止まった。

 視線が少し彷徨って、血走った目が私の顔を捉えた気がする。

 ペストマスクモドキのおかげで、顔が見えるわけはないのだが。


「ジャン=チャック、まだ生きる?」


 安楽死の選択など、誰にもできない。

 なので、本人に直接聞いてみることにした。

 自分でも呆れるほどの馬鹿正直さだ。


「……ジャン=ジャック……さま、だ。……チャックじゃ、ねー……よ」


 思いのほか元気な声だった。

 パッと見た惨状の酷さには動揺したが、まだ意外に元気があるのかもしれない。


「ジャン=チャック、まだ頑張る?」


「だから、チャックじゃ、ねー……って」


 律儀に訂正してくるので、意識もはっきりしているのだろう。

 外から見て、その惨状だけで勝手に安楽死だとか、薬を他に回すだとか、決めてはいけない。


「ジャン=チャック、まだ頑張れるね?」


「当た、り……前だ」


 勝手に殺すな。

 これがジャン=ジャックの意思だった。

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