第5話 味がほしいのと古い記憶

 人生で大きく傷つたけのはこの二人だが、それ以外だって、飲み会やお祝い席で政はいつも距離を置かれたのだと思う。

「味がわかったら、俺はわかる気がするんです」

「なにがです」

「寂しいっていうものを」

 口に出したとき、政は深く息を吐いた。

「俺は味覚と一緒に、心もないんです」

 母の傷ついたことはわかる。けれどその涙の理由まで考えが至らず、どうしていいのかわからなかった。

 妻が自分をなじり、泣いたときも。結局、彼女の苦しみや悲しみを理解してやれなかった。


 お前は感情がないんだよ


 妻と不倫していた上司はそう口にした。

 ただ淡々と不倫の真実とそれに伴う処理を行う政をどこか哀れむように見つめながら。そのとき自分は人の心がわからないし、感情がないのかと政は理解した。してしまったというほうが正しい。

 だから、どうしたらよかったのかと今だってわからないし、迷子のように探している。

「味がわかれば心がわかれば、少しはましな人間になれるんじゃないかと思うんです」

 泣くような、くぐもった声で政は告げると頭にそっとなにか柔らかいものが触れてきた。

「大丈夫ですよ」

 なにが

「あなたには心がある」

 どうしてそんなことを口にするんだ

「大丈夫、大丈夫です」

 子供だましみたいなことするな――そう言い返したいのに眠気に負けて出来なくて政は頭を撫でられる心地よさに溺れて眠りについた。

 昔、こうして誰かが自分の頭を撫でてくれた、あのときの安堵に似た気持ちが心のなかに浮かんでは沈んだ。


 古い記憶だ。セミの声。誰かが自分の側にいて笑ってくれる。一緒にいろんなものを食べた。どれもおいしかった。だからあげる、と言ってあげたのだ。うれしいと言われて、とてもとても誇らしい気持ちになった。



 政が目覚めて、一番はじめに見たのは黒い毛だ。

 なんだと思ってつかんで顔を埋めたところで

「なにするんですかーー」

 悲鳴に近い声とともに顔に痛みが走った。

 意識をはっきりさせて目を見開くと毛を逆立てた猫がいた。

「ごはんできましたから、さっさと食べてください」

「……はい」

 怒らせてはいけないが、自分はどうやら彼女の腹に顔を埋めて、そのふわふわでむにゅむにゅの毛と肉をむさぼったらしい。

 これは蹴られて、引っかかれても文句は言えない。

 しくしくと居間に向かい、黙って出された味噌汁、白飯、つけものというシンプルな朝ご飯を貪る。

 お米は柔らかいし、味噌汁は今日はなすがはいっている。そして漬物はぽりぽりとしていてさっぱり味だ。

 やはり味があることに政は表情にこそ出さないが驚きながら、恐ろしく素早く食べていく。

「おいしいですかぁ」

「味がちゃんとあります」

「……それはおいしいとは違いますにゃあ」

 ぷんぷんと不満そうに猫が言い返す。けれど政にとっては味がある、というのは奇跡で、こんなふうに食べられるということはもう驚愕なのだ。

「やはり、あなたの作ったものは味がある。どうしてか」

「……よかった」

 どこか安堵の表情で猫が呟く。心の底から嬉しいと思っている顔だ。

「ええ、けど、ずっとはここにはいませんと言いましたよ」

「にゃあああ、ごはんにつられていいんですよぉ」

「それとこれは別です」

 はっきり、きっちり政は言い返す。

「ここには必要で来たので」

「う、うう。けど、必要というのはなんですか?」

「亡くなった祖父の遺品の整理と、財産の片付けなんかを」

 たいしてものはもってないと祖父は口にしていたが、残された家を継いだ以上は財産として管理する必要がある。この家のものは好きにもっていってもいいだろうが、もし高価なものがあれば、それを親族たちに報告しなくてはいけない。

 ただもうひとつは

「幼い頃、ここにいた記憶があります」

「にゃあ」

 猫が嬉しげに尻尾を伸ばして聞き入ってくる。

「あの頃、ここで味があるものを食べたんです」

 まだ小学生だったころ、一度だけ祖父母に預けられた夏があった。あのときは母が病気に倒れ、父親が出張ということでどうしても一人にされてしまうということで、ここにきたのだ。祖父母は自分のためにあれこれとしてくれたことは覚えているし、子供らしく過ごしたこともぼんやりと覚えている。ここで自分は味のあるものを食べていた。ここを離れてからやはり自分はそれを味わえれなくて、だからこそ、なおのこと食べることが嫌いになったのだ。

「ここにきたら味のあるものを食べられるかと期待していたんです」

「期待は叶いましたか?」

 猫が、真剣な顔で問いかけてくるのに政は頷いた。

「あなたの食べ物には味がある。だからこそ、なおのこと期待してしまう」

「期待ですか?」

 きょとんとした顔で再度問われたのに政は頷いた。

「味覚を持つこと、そして、幼いとき、味わったはじめての感覚を取り戻すこと」

 自分は欠陥品なんだと、ずっと思っていた。

 味がわからないから、食べることが嫌いだから母を困らせ、父に嫌われ、妻に捨てられたのだ。

 そんな自分が味があった頃に戻れれば、失ったものの一つぐらいは取り戻せるのではないかと思ったのだ。

「それは」

 猫がひどく傷ついた顔をしてひげを震わせた。

 どうして、そんな顔をするのかと政が問いかけようと口を開いたとき


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