湖のほとりで

猫屋敷 中吉

第1話


  〜 湖のほとりで 〜




 これは、地球によく似た星のお話。


 そこにある、島国のお話。


 二人で紡いだ、若かりし頃の遠い青春のお話。



 煙る雲を纏った山脈と、その裾野に広がる広闊こうかつな原野。山の麓には潤沢な水を湛えた、エメラルドグリーンの湖が見える。

 湖面に写る逆さまの峰々と、透き通る青い空が静かな波に揺れながら映えている。

 山脈からの雪溶け水と湧き水で出来たその湖の畔で、老齢の女性が静かに本を読んでいた。

 

 薔薇を模した金属製で白の小ぶりなテーブルに、テイーセットとクッキーと一冊のアルバムを置いて。

 薔薇柄の白い椅子を二脚並べた一つに、女性は腰掛けている。


 湖のほとり。静々と打ち寄せる波打ち際で、午後のテイータイムをお気に入りの紅茶で楽しんでいた。

 テーブルと同じ、純白の薔薇柄のテイーカップを、二人分用意して。


 彼女はカップを一つ手に取ると、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。そして目を閉じ耳を澄ませる。

 暗い視界に聴こえて来るのは、波のせせらぐ音に、水を弾く魚の水音みずね、鴨の翼の羽ばたきと、原野で奏でる虫の輪唱、そして風に囁く草木のざわめき、自然がそのままに聞こえてきた。


 まるであの頃のよう、何も変わらないこの湖の畔が、彼女はとても気に入っていた。



 あの日、彼と来る筈だったこの場所。彼女は読みかけの本に栞を挟み、古びたアリバムをめくる。

 アルバムの中は写真では無く、ドライフラワーが丁寧に貼り付けてある。

 彼から最初に貰った花は桔梗、そしてそのページに、花言葉は『永遠の愛』と。彼女はソッと指でなぞると、クスッと笑った。彼らしいと。


 そしてまた、ページを捲る。南国の珍しい花と、手紙が添えられている。手紙のやり取りと一緒に、彼から貰った花、ドライフラワーは三十種類を越えていた。

 ページを捲るたびに、彼との思い出が甦る。写真の一枚も無いこのアルバムに、押し花と一緒に彼の姿が瞼の裏に蘇る。

 彼と過ごした青春の日々が、鮮明に蘇る。



 一つに括っていたロングの白髪が揺れた。風向きが急に変わって、湖畔の上空も次第に暗くなり、湖の奥、山稜に突如現れた雷雲が、稲光りを轟かす。


 その雷鳴の中に聞こえる微かなエンジン音。空気を切り裂くそのエンジン音に、彼女は気付いた。確かに、そして確実に、そのエンジン音が近付いて来るのが分かる。


 雷鳴に混じって聞こえるその音に、雷光を背に現れたその飛行機に、彼女は心を躍らせた。



 今日は、六月十日。六五年前に、彼と約束したこの場所で、毎年訪れたこの場所で、彼と青春を送る筈だった湖の畔で、彼女は心を躍らせていた。



 爆音を轟かせ迫る飛行機、イヤ、彼女は知っている。当時の、技術の粋を極めたこの戦闘機、空の覇者と呼ばれたこの戦闘機、彼の愛した戦闘機。


 不ー三○式ふ さんまるしき戦闘機(野分のわき)。銀色の機体を鈍く光らせながら、湖面を切り裂き、低空で爆進してくる。


 迫るプロペラ機の爆音も気にもせず、彼女は紅茶を一口啜った。そして……。



「待ちくたびれたわよ」



 と文句をひとつ、少女のような笑顔で溢した。





  〜 六五年前 〜



 時代は、世界中を巻き込んだ戦争の真っ只なか、かれこれ一年も続いている。

 島国という事もあって、人も物資も足りて無い状態で戦闘を強いられるこの状況に、多くの国民は辟易していた。




 こんな時代に私と彼は出会い、そして青春を一緒に過ごした。そんな私と彼の物語。


 


 私と彼の出会い、お世辞にも素敵な出会いとは言えないかも知れない。家族で切り盛りしてる小さな食堂が、彼と初めて出会った場所になる。


 私が注文を受けて、両親が厨房で調理。これでも、この界隈では美人の看板娘って呼ばれるぐらい、そこそこな私だったのよ。


 彼は、毎回夕方ぐらいにフラッとやって来て、三回同じメニューを頼んでたわ。ちっさい声で注文するから逆に印象に残ってる。

 見た目も線の細い体付きで、色の白い、ヒョロッとした感じ。しかも牛乳瓶の底みたいなグルグル眼鏡かけていた。


 内緒だけど、彼のこと最初グルグル君って勝手に呼んでたわ。フフッ内緒ね。


 私達の食堂は荒屋あばらや屋台やたいが連なる闇市の中にあって、当然、違法行為だった。だけど、国から配給される食料も、戦争が長引くに連れ徐々に減らされて。

 そんなこともあって、闇市は違法であっても普通に商売が出来ていたし、お国も見て見ぬフリをしていたわ。

 

 されど闇市、政府の見て見ぬフリもあってか、治安は最悪。だからか、アホな客がアホなイチャモン付けて来るのはよくあることで、この日もそうだった。


 料理に石コロが入ってたとかなんとか。アホか!入る訳無いでしょ!終いには私に夜付き合えだと。殺したろか!!


 三人組みのクレイマーと対峙して、困っていた風の私を見兼ねて、椅子から立ち上がるグルグル君。


 イヤ、イヤ、彼等は私に手を出せないの分かってるんで、大丈夫なんですけど。

 女性と子供には手を挙げ無い!って闇市暗黙ルールがあって。そうじゃなきゃ、私はここで働いていませんよ。


 私はグルグル君を止めようとするも、グルグル君は、話しも聞かず私と彼等の間に入って来た。それで……。


「み、見苦しいゾ。君たち」


 だって。……空いた口が塞がらない。



 グルグル君。彼等に首根っこ掴まれて、外に連れて行かれて。……ボコボコにされていた。

 グルグル君も軍服姿、彼等も軍服姿、良く見ると彼等の方が階級が上だったのね。階級が下の奴に文句を言われ、余計腹が立ったのかも。

 しかも、闇市ルールは男性には適用されない。残念、グルグル君。



 喧嘩と花火は闇市の花とばかり、集まってくるギャラリー達に、彼等も気まずくなったのか、最後にグルグル君へツバを吐きかけ、群衆の中に逃げるように消えていった。


 取り残されたグルグル君に私は駆け寄るも、彼は私に。


「……怪我は無いですか?」


 だって、あなたこそそんなボロボロで。しかも、余計な事で。


 ……だけど私は嬉しかった、だから。


「……大丈夫。ありがと」


 珍しく、素直にお礼が言えた。


 グルグルな眼鏡も何処かへ行ってしまい、素顔を晒した彼。

 睫毛の長い整った顔だちの彼は、女の子みたいな笑顔で私に、良かったって、心底安心した顔で言ったの。



 ……この瞬間だった、私の心が……跳ねた。




♦︎♢♦︎♢♦︎




 あの日別れ際に聞いた、彼の部隊と宿舎の場所。私は彼の所属する軍宿舎前に……来てしまった。そう、彼、グルグル君もとい、ユウリさんは空軍のパイロットらしい。ちょっと意外だった。事務方とか補給部隊とか、ソッチが似合いそうだったから。だって、メガネだし。


 現にここは、空軍飛行部隊宿舎って書いてあるし。詳しくは聞いてないけど。でも、ユウリさんって苗字なんだろうか?名前なんだろうか?どっちともとれるよね。……どっちだろう?



 私がここに居る理由、それは、改めてお礼がしたかったのと、怪我の具合が心配だったのと。


 ……彼とお話がしたかったからです。はい。


 でも、会いに来たはいいけど急に恥ずかしくなって、どうしよう、どうしようと宿舎前をウロウロしてたら、通り掛かった女性隊員さんに助けて貰えたの。

 彼女、とまりさんは、軍の中で衛生隊の方で、彼に会いに来たと言ったら、取り次いでくれて。美人な上に、とても親切な方でした。


 もう少しで彼の訓練が終わるとの事で、一緒に待ちましょう、と言ってくれた彼女。はい、勿論と私は二つ返事で答えた。トマリさんは本日非番で、お暇だったらしい。とても良い方で、大人って感じの方です。


 待っている間、彼女はユウリさんの話しを聞かせてくれたの。最近この基地に赴任して来た事。あー、だから、闇市ルールを知らなかったのね。

 以前は、本州最南端の基地にいて、そこではかなり優秀なパイロットだったらしい。見た目ヒョロいからイメージ出来ないわ。

 それと、彼チョット変わってるでしょって、どこが?どんな風に?って私は彼女に食いついてしまった。彼女、半歩程引いていたけど、教えて貰えた。

 彼、正義感強いからチョット、トラブルがねって、言葉を濁してた。まぁ、確かに。だから私がここにこうしている訳で。

 それと、植物が大好きでたまに訓練そっちのけで植物の観察してて、上官に怒鳴られているらしい。

 言い終わるとこめかみを押さえ、ハァーと大きなため息を吐いた彼女。心底、心配そうにしてる。



 アレッ。……泊さん、もしかしてユウリさんの事好きなのかな?


 彼女の態度にそう思ってしまった。


 それじゃあ、私は……。



 コゲ茶色のパイロット服に身を包んだユウリさんが、小走りで私達の方へ来るのが見えた。機能面を重視した、シンプルなデザインのパイロット服は、彼をとても大人っぽく見せた。

 

 彼女は二、三言ユウリさんと談笑すると、先にもどるね、楽しかったわと、私に手を振って帰ってしまった。本当に綺麗な人で、良い人だった。



 わたしは、お邪魔虫だったのかな?



 もともと非番の日に合わせ、彼女はユウリさんに会いに来ていたのかも知れない。わたしの所為で、彼女に気を使わせてしまったのかも。


 彼女は美人で優しい人で、紺色のスーツタイプの軍服を着こなしていて、凄くスタイルがいい。

 それに比べ私は、無地の開襟シャツとオバァちゃんのお下がりのモンペと、ダサいしカッコ悪い。

 そう思うと、尚更わたしは泊さんに、申し訳なく感じてしまっていた。

 

 しかも基地の中は、皆が皆、キチンとした身なりの方々ばかりで、わたしだけ浮いている格好をしている。……場違いだな、私。




 会った早々テンションの低い私に、どうしたの?大丈夫?って、子犬みたいに私の周りを回るユウリさん。まったく、アンタの所為でもあるんだからね!この、グルグル眼鏡!……八つ当たりだけど。


 気晴らしに基地の中でも見ますか?ってユウリさんからの提案に、私は一瞬で気持ちが切り替わり、ご機嫌になった。チョロ過ぎだろ私!

 だけど、当時は基地の中って、一般人が入れない場所だったのよ。


 

 彼は、自分の上着を脱いで私の肩に掛けると、そのままエスコートしてくれた。もしかしてダサい格好の私に、気遣ってくれた?

 取り敢えずで彼の宿舎、運動場、食堂、喫茶店と見せてくれたけど、私にとっては何もかもが新鮮で。

 喫茶店で彼が奢ってくれたドーナツが美味し過ぎて、私が感動していると、彼は気を良くしたのか、お土産用のドーナツも買ってくれた。

 そして最後に空軍の滑走路まで見せてくれた。私、生まれて初めて、間近で戦闘機をみたのよ!カッコ良かったー。


 ここには、空軍の最新鋭機があるんだとか。彼はそれに乗って、毎日訓練していると。私、彼にお願いしちゃった。もっと近くで見てみたいって。


 すると彼、う〜んと唸りながら、眉間に皺を寄せ、しきりに辺りを気にし始めた。やっぱり無理かな?国家機密ってヤツだもんね。



 夕方の時間帯もあって、辺りは薄暗く、人もまばら。彼は意を決したように、うん。見に行こうって。……大丈夫?冗談半分だったんだけど。


 滑走路脇のフェンスをヒョイッと上げて、彼は中に入れてくれた。訓練に遅刻しそうな時の近道だって。


 

 目の前に迫る彼の乗る戦闘機。夕日に照らされ、銀色の機体が赤く染まってオレンジ色に輝いてる。

 空気抵抗を考えて作られた、その滑らかな流線形の機体がとても美しく、私は見惚れてしまっていた。


 不ー三○式戦闘機(野分のわき)。極限まで、軽量化したこの機体は、エンジンこそひとつ前の物であるが、そのスピードと旋回力は他国の戦闘機を凌駕すると、コレ彼の請け売りね。


 余りに敏感に反応するこの機体は、通称『じゃじゃ馬』とも呼ばれてるんだって。少年みたいな顔で彼が語っていたわ。

 


 

 帰り際、私は彼にひとつ贈り物をしたの。この前のお礼にと用意した物。

 空色を背景に桔梗柄のスカーフで、パイロット服にも良く似合うと思う。

 布さえ手に入り辛いこのご時世、私が着古した着物を使い手作りした物。だって、男性用の色ってコレしか持っていなかったから。

 ここぞという時に、彼はこのスカーフを首に巻いていたって、あとから同僚の人に聞かされた。嬉しかったなぁ。



 

 それからというもの、彼はウチの食堂にしょっちゅう食べに来てくれた。彼が姿を見せる度、私の嬉しそうな態度を見て両親も、いづれ夫婦になるものだと思ってたらしい。

 私は泊さんの事を思うと、複雑な気持ちではあったけど。それでも、彼との会話はとても楽しくて。だから、わたしは……。



 デートって程じゃないけど、もっぱら遊びに行くのは、荒屋屋台の並ぶ闇市の中ばかりだけど。

 私は、ユウリさんと一緒にいるだけで楽しかった。


 小学校までしか出ていない私。彼の好きな植物の話や、星の話、色んな雲の話や世界中にある美しいもの、珍しい景色の話とか、面白い話をたくさん知っていて。

 私は彼の話に夢中になっていた。イヤ、違うな、私は彼に夢中になっていたんだと思う。



 わたしは、ユウリさんを好きになっている。



 だけど、そんな楽しい時間をこの時代は許してくれなかった。



 急な出兵でユウリさんの部隊は、南の島、イナモニナ島に派兵された。……もちろん、あの機体と共に。


 ユウリさんの出兵から翌日、私宛に彼から手紙が届いた。封を切ると、ユウリさんからデートのお誘いの手紙が入っていたわ。もちろん、内容は秘密。

 簡単に言うと、近くに綺麗な湖があって、訓練でよくそこの上を飛んでいるから、気になっていたと。

 多分、沢之湖だ。地元の人間なら皆んな知っている。夏になると水遊びだ、釣りだと賑わう美しい湖で、私も子供の時よく行ってた。


 今度の非番の日に、ピクニックがてら一緒に行きませんか?って。それにこの桔梗の押し花。

 多分、出兵命令が出る前に、書かれた手紙なのね。


 それでも私は嬉しかった。彼からのデートの誘いに、少なからず私に好意を抱いてくれていた事に、私はとても嬉しかったの。


 それと同時に、不安で胸が張り裂けそうにもなった。事前の作戦命令の無い急な出兵、この戦争の勝敗に、私は彼のことが心配で堪らなかった。



 ラジオ放送では連日、連勝としか伝えてくれない。そんな、馬鹿な!と、つい、否定的になってしまう。

 だって現に、負傷して戻って来た兵隊さんに話しをきいても、逆の事しか言わないんだもん。連日、連敗だって。配給品だって、ここの所あったり、無かったりでおかしいじゃない!



 私だけじゃ無い。この街も、国民も、色濃い敗戦ムードで疲弊している。だったら、もう負けちゃえばいいのに!もろてを挙げて、降参しちゃえばいいのに!そしたら、彼も帰って来れるのに!



 口には出せない、私の本音。



 

 それから二週間後、この頃には物資も思うように集まらず、週三日開かれていた闇市も開催出来ずにいた。もちろん、私達の食堂もお休みのまま。

 代わりにお国からの命令で、本土決戦に向けた訓練を強制させられていた。老若男女全ての国民に。



 連日連勝はどこ行ったの!嘘っぱちじゃない!!



 そんなある日、私とお母さんが訓練所に向かう途中、突然アイツが現れた。

 白い小型の飛行機で、レーダーを二本立たせている。敵の偵察型戦闘機『リトル・ラビット』だ。

 ダダダダッと重い発砲音を轟かせ、自身の影に沿って機銃を撃ちまくるアイツ。

 警鐘の鳴り響く中、私達はなす術がなく恐怖だけが先走って、その場でしゃがみ込むしか無かった。

 ただ身を小さくし、やり過ごすしか無かった私達。だけどこの時お母さんは、機銃で撃たれて右手を弾き飛ばされてしまった。

 痛い、痛いと叫ぶお母さんを必死に庇いながら、小さくうずくまるも、その頭上を旋回するアイツは、最後に小型爆弾を落としていった。


 戦闘機の勢いのまま、頭上を飛んで行った小型爆弾は、闇市を直撃、爆発、炎上させた。

 そして誰かが言った、今夜は空襲されると。それは現実のものとなった。

 片腕を失ったお母さんを連れ、お父さんと私は防空壕の中で一晩明かした。

 時折、地響きの聞こえる暗く狭い防空壕の中で私達三人で、身を寄せ合い小さくなって、空襲が終わるのを待つ事しか出来なかった。私は恐ろしくて、ずっと震えていたわ。

 空襲もそうだけど、……目の当たりにした人が人を殺す現実に、私は酷く恐怖を感じていた。


 ……ユウリさん、ユウリさん。



 度重なる敵国からの空襲で、街も焼かれ、特に酷かったのは軍事工場のある街だった。

 一面焼け野はらにされた話も聞いた。この街は幸いにして軍事工場は無かったから、そこまで酷くは無かったけど。それでも街は瓦礫の山に代わりなかった。



 そんなおり、彼から手紙が来た。消印は一週間前の手紙。喜び勇んで封をを切ると、南の島の珍しい花のことや、美しい景色の岬があること、そして手紙と一緒に、見たことの無い花の押し花が入っていた。

 そんな彼らしい手紙の内容に、私はホッと胸を撫で下ろした。少なくとも一週間前は、彼は生きてこの手紙を書いてる。その事実が何よりも嬉しくて、涙が溢れていた。



 私も精一杯の強がりを手紙に込めて、彼に送った。だって、私のことで心配かけたく無かったから。

 ユウリさんって、とても優しい人だから。



 手紙のやり取りも三十通越える頃、ラジオ放送も連日連勝から、本土決戦の注意喚起に変わっていた。


 私も、帰還兵からの情報収集に力を入れている。何故ならイヤな噂を耳にしたから。

 それは、飛行部隊による突撃作戦というもの。戦闘機に爆弾を付けて、敵の基地や戦艦に人間爆弾として突撃する。言わば人間爆弾、常軌を逸した作戦に怒りが込み上げてきた。


 ユウリさんも飛行部隊の一人だ。彼にもいつか、こんな馬鹿げた命令が下るかも知れないと、私は心配で、居ても立っても居られなかった。


 私が出来ること、彼を連れ戻すこと、そればかりを考えていた。

 


 しかし、まもなく訪れた私の来客によって思い知らされる。……もう、手遅れだと。



 彼はもう既に、敵戦艦に向けて突撃命令を敢行していた。




 あれはまだ残暑残る、九月八日白露の日。朝晩は秋らしい涼しい風が吹き始めた頃だ。

 午後の強い日差しに、私は避難先の玄関前でひとり打ち水をしていた。そこに、かつてユウリさんに酷い暴行をした、軍服姿の彼が尋ねて来た。

 

 彼は『後伊ごいさん』といって、ユウリさんと同じ部隊に居たらしい。

 後伊さんは、左腕を骨折しているらしく、腕を包帯で吊るして私の前に現れた。ただ違っていたのは、彼は強面の顔をさらに険しくして、背筋を正し軍隊式の敬礼を私にして来たこと。

 面食らっている私に、彼はこう話してくれた。



「サユさんで間違いないでしょうか?」


「はい」私の名前だ。


「ユウリ曹長より、最後の手紙を預かっております」


「……」どう言うこと。


「……ユウリ曹長は九月二日明朝、特攻作戦によって、立派な戦死を遂げました。……貴方宛てに彼から預かっていた物です。受け取って下さい」

 

 そう言って、皺の寄った封筒を私に手渡す。


「……」立派な戦死ってナニ?


「ユウリ曹長は、私を戦場から逃してくれたんです。……その時渡された手紙です」


「……」


「ユウリ曹長は、とても勇敢で優しい方でした。……曹長は、軍人の鏡です」


 失礼しますと、強面の顔をクシャクシャにして、私に最敬礼をした彼は、踵を返し人混みに消えていく。



 雑多な喧騒も、長屋だらけの街も、オッチャンもオバチャンも、後伊さんの後ろ姿それ以外、全ての景色が消える。



 そして。……わたしは、空っぽだった。


 聴こえてるし、言葉は分かる。……だけど。


 空っぽのわたしは、理解出来なかった。


 わたしは、空っぽになった。



 受け取った手紙を胸に、私は立ち尽くすことしか出来なかった。


 




 フイに訪れた金木犀の香りに、私は我に帰る。フと足元に揺れる、彼岸花が目に付いた。

 その視界の隅に映るユウリさんからの手紙に、知りたく無い現実を感じて……手の震えが止まらない。

 

 恐る恐る開けた手紙には、ユウリさんからの謝罪の言葉が詰まっていた。

 デートの約束を守れ無かったこと、しばらく手紙を出せなかったこと、本土が大変だった時助けに行けなかったこと、彼は彼らしく丁寧な文章で謝罪の言葉を綴っていた。

 そして、桔梗の押し花も一緒に入っていた。



 手紙を読み終えて、やっと私は泣くことが出来た。



 だって、もう彼の声は聴けない、手を繋ぐことも叶わない、冗談だって言いあえない、あの笑顔を……二度と見れない。……もう二度と逢えない。



 ……ユウリさんに逢いたい。



 そう思ったら、幼な子のように泣きじゃくって、その場に泣き崩れてしまっていた。

 哀しみ、淋しさ、愛おしさで感情をグチャグチャにしながら、いつまでも、いつまでも、泣き崩れてしまっていた。




 それから一か月もしない内に、私達の国の全面降伏で戦争が終わった。

 一年半続いたこの戦争は何だったのか。私は静かな怒りを胸に灯していた。


 そして二年後、占領地だったこの国も自治権を認められ、やっと独立国としての再出発が叶った。



 私は、ユウリさんが叶えたかった夢を実現させようと思う。彼の夢、植物学者になる夢を。




 ただ今思うと、あの時の私は彼の夢を追うことで、彼の生きた証が欲しかったのかも知れない。彼といつまでも繋がっていたいと、そう思ったのかも知れない。

 それでも構わない、彼の夢を私の目標と生きて行きたい。そうでもしないと私は、弱虫のわたしは、壊れてしまいそうだったから。


 それと……私は猛烈に怒ってもいた。この国に、民衆に、この戦争に、そして彼を奪ったこの世界に、私は心の底から怒っていた。





 あれから、六十五年が経って私はここに居る、彼とする筈だったデートの場所に。

 この沢之湖の畔で、私は彼を想い懐かしむ。毎年の恒例行事になってしまった。

 


 約束の日は、六月十日。私は独りここで待つ。



 今までの人生を振り返るも、私は幸せなほうだったと思う、沢山の犠牲の元に自由に生きることが出来たのだから。……偽善者だな、私は。


 ただ、彼と過ごしたあの時間は、今だ私の胸を焦がし続ける。大切な青春の記憶は、私の胸を焦がし続ける。



 一人でティータイムを楽しんでいたら、急に雲行きが怪しくなってきた。峰々から聞こえる雷鳴の音、その音に混ざって微かなエンジン音が聞こえてくる。


 青春の頃に、あの街で幾度と無く聞いたこの音に、近づくほど爆音を奏でる戦闘機の音に、年甲斐も無く心が躍った。



 ……彼だ、ユウリさんに違いない。



 湖面を切り裂き、爆進して来る銀色の機体に彼女、サユは確信した。気を落ち着かせる為、サユは紅茶を一口啜る。



 そして文句をひとつ溢した。



「待ちくたびれたわよ」と。



 爆音を轟かせながら迫るプロペラ機。そのコクピットに、空色のスカーフを巻いたパイロットの姿を見た。

 そして、彼女は微笑んでいた。



 彼女の頭上スレスレを抜ける戦闘機。強烈な爆風に、彼女の意識も飛ばされる。


 気付けば戦闘機のコクピットに、彼の後ろの席に座っていた。


 目の前には、懐かしい焦げ茶色のパイロット服に、桔梗柄のスカーフを首に巻いた彼がいた。

 耳をつん裂くエンジン音の中、私はやっと彼に逢えた。言葉がうまく出て来ない。話したいこといっぱいあったのに。



「……サユさん。お久しぶりです」



 操縦桿を握りながら、ユウリさんが恐る恐る話しかけて来た。

 チラチラと、私を伺う彼。その顔に掛けたゴーグルの中に、牛乳瓶の底みたいな眼鏡が見える。


 わたし、言葉より先に手が動いてた。


 彼のスカーフを掴むと、強引に後ろを振り向かせて。


 わたしはユウリさんにキスをした。何回も。



 だって、だって、だってなんだもん。



 彼、アワワワッて顔してたけど……関係ない!

 


 わたしは彼をずっと、愛していたんだから。



 やっと落ち着いて、戦闘機のコクピットで真っ赤になる二人。そしてどちらとも無く、二人で笑っていた。アハハハッ楽しい。

 いつのまにか私はあの頃のような、ユウリさんと青春を過ごした十七才の私に戻っていた。


「ゴメンね。サユさんを独りにさせて」


「……いいの。今こうして、アナタに会えたんだから」


「……幸せだった?」


「……そこそこかな」



「そっか。……僕たちの命は無駄じゃなかった」 小さく呟いたユウリさん。


「今、何て言ったの?」爆音で聞こえなかった。


「よかったって」


「そう……」


「サユさん。この場所、凄く綺麗でしょ」


「……ええ、知ってたわ」


「ええ!知ってたの!」


 シェーって、ギャグ漫画みたいに驚くユウリさん。相変わらず、リアクションが大きいのね。フフッ、楽しい。


「ところで、ユウリさんは今まで何処にいたの?」


「エッ。ここだけど」


「……ここって、どこ?」


「空」


「そら」


「ん。空」


 プフッ、アハハッ。私、笑っちゃた。だってユウリさん、六五年も空にいたのよ。笑って、笑って、そして泣いちゃった。


 私は六五年彼を待ってて、彼も同じ時間私を待ってくれてた。


 私は世界一の幸せ者だ。


「あ、あのっ、あの日、デートに誘った、あの日。サユさんに伝えてたいことがあったんだ」


 操縦桿を握りしめ、彼は真剣な顔をしている。


「……はい」


「ぼ、ぼ、ぼ、僕と結婚して、下さい」


 なぜか尻下がりになって行く彼の言葉。だけど、ユウリさんらしい。私の答えは、とっくに決まってる。


「……はい」「やったー!!」


 彼は、操縦桿を手放して大袈裟に喜んでた。恥ずかしいなぁ、もぅ。


 思いがけない告白に、私も幸せを噛み締めるも、照れ隠しで背けた目線の先で。

 抜けるような青空の中、その更に上空で、白い真昼の月と光の線が見えた。


「やったー!うーれーしー!」


「ユウリさん、ユウリさん。アレは、なに?」


「あーりーがーとー!」


 だ、か、ら!話し聞けよ。グルグル眼鏡‼︎もう……フフッ。やっぱり、ユウリさんらしい。


 私の指差す方向に、やっと顔を向けるユウリさん。まったく、私も叫びたいぐらい幸せだよ。



「あー、アレ。アレは天国への道だよ」


 サラッと答えるユウリさん。……天国?……天国。まぁ、いっか。



「ハネムーン旅行、私が決めてもいい?」


「もちろん、どこでも」



「じゃあねぇ……。天国で」


 わたしの提案に、一瞬、眼を見開いたユウリさんは、また優しく微笑むと。


「ハネムーンにピッタリの場所だね」


 そう言ってくれた。


 わたし、アナタに話したい事がたくさんあるの。アナタが叶えたかった夢のこと、私が叶えた夢のこと、私が今まで生きてきた全部のこと。ハネムーンを楽しみながら聴いて貰えると嬉しいな。




 光の線に向け舵を切る不ー三○式戦闘機(野分)、幸せそうな二人を乗せて飛んで行く。


 鈍く光る銀色の機体は、どこまでも、どこまでも、空高く飛んで行く。




 終わり。


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