師弟喧嘩編

第20話 師匠ネブラ

——なんかおかしい、とコメットは思っている。

 韓国祭を終え、冬はますます深くなり、雪の降る日も珍しくない。

 最近のサダルメリクは半休を取ることが増え、出勤までの時間をネブラへの魔法指導に充てるようになった。

 普段よりはのんびりと起床し、午前中はネブラと二階の楽室に籠り、昼食を終えたあと、宮廷へと向かう。通常どおり出勤する日は、帰宅後、夕食を食べ終えてから時間に余裕があれば、ネブラに魔法を教えている。

 おかしい。

 大先生、ネブラに魔法を教えたくないんじゃなかったっけ。

 コメットは二人の変化についていけず、楽室に向かう二人の背中を、ぼんやりと見送ることしかできない。サダルメリクはともかくとして、ネブラまで平然としているので、きっと二人で相談して決めたのことなのかも、とコメットは思った。

 そうなってくると、悶々と考える。サダルメリクにどういう心境の変化があったのかは知らないけれど、自分にだって話してくれたらいいのに。子供扱いをされている自覚は常にあって、なにか大事なことがあるとき、コメットはいつも蚊帳の外なのだ。

 わかっている。悶々と悩む必要なんてない。ネブラはずっと魔法を教わりたがっていたから、よかったじゃないか。サダルメリクが願ったことを、コメットは叶えられなかったけれど。ネブラに届く希望ひかりには、なれなかったけれど。

 でも。


「おい、なにぼーっとしてる」


 声をかけられて、コメットはハッとなる。顔を上げると、居間のテーブルの向かいで、ネブラが訝しげにコメットを見ていた。


「ぼさっとしてねえでさっさと食えよ。お前の分の食器洗わねえぞ」

「あ、うん。ごめん。自分で洗うね」

「どうしたの、コメット。まだ眠い? 冬の朝は寒いから、瞼も重くなっちゃうしね。食べ終わったら部屋に戻って寝てもいいよ」

「適当なことを言うな、先生。こいつにはやることがあるんだよ」


 サダルメリクとネブラは朝食を終えていた。立ちあがったネブラは杖腕を振るい、空になった食器を厨房まで運ぼうとしているところだった。

 コメットの目の前の皿には、すっかり冷めてしまったトーストと目玉焼きが、まだ半分も残っている。コメットは目玉焼きをナイフとフォークでトーストの上に乗せ、それを手で引っ掴んで口の中に詰めこむ。


「わ、慌てて食べると喉に詰まらせちゃうよ」

「ふぁいふぉうふえふ」

「あはは、なんて?」


 大丈夫です、と答えたつもりが、サダルメリクには伝わらなかった。コメットがリスのように口を膨らませている様子を、サダルメリクは面白そうに眺めている。

 無理矢理に咀嚼したものをコメットが飲みこんで、ぬるくなったホットミルクに手を伸ばしたとき、厨房の奥で皿を洗っていたネブラが言う。


「先生、今日は何時まで?」

「十二時まで。昼食のあと、僕は出るよ」

「帰ってくるのは?」

「今日はちょっと遅くなりそうなんだ。コメットと先にごはん食べといてよ。今晩は君との時間を取るのは難しいだろうから、次の休日に設けるね」


 そんな話をしている間に、ネブラは皿を洗い終えていた。ただでさえ手際がいいのに、魔法を学ぶ時間が減ったりしないよう、手早く済ませていた。かといって、おざなりな仕事をしているわけでもなく、魔法の精度は上がっている。これもサダルメリクからの教えの成果なのか。

 席を立ったサダルメリクが「じゃあ行こうか」と二階へ上がっていく。厨房から出てきたネブラもそれに続いて、階段を踏みだした三歩目で、コメットへと振り返る。


「その皿、洗えよ」

「洗うよ」

「終わったあと絶対寝るなよ。部屋で昨日教えたとこの復習しとけ。今日できなかったらシバく」


 そう言い終えて、のしのしと階段を上がっていくネブラを眺め、コメットは、でもやっぱりおかしい、と思うのだ。

 サダルメリクがネブラに魔法を教えるようになってから、ネブラもコメットに魔法を教えるようになった。






 二階の楽室では、黒板の前に立つサダルメリクが、優雅な笑みでネブラに告げる。


「——じゃあ、次は、僕の魔法を打ち消してみて。“紫電轟け”」

「“紫電轟け”」

「よろしい。次、チョークを操って自分の名前を書いてみようか」

「“かわいいチョーク、散歩の時間”」

「記譜式呪文でこの紙を切ってみて」

「“staccatoスタッカート”」

「切った紙を鳥に変えてみて」

「“おはよう、小鳥さん”」

「用具入れに仕舞ってある箒を出せるかい?」

「“出ててこい箒”」


 ネブラの呪文により、ガタガタと物音がしたと思えば、金雀枝エニシダの箒が宙を漂うように近づき、ネブラの左手に収まる。

 ネブラの唱えた呪文どおりに魔法はどれも発現しており、サダルメリクは満足げに頷いた。


「いいね。かなり前に教えた魔法も、しっかり覚えて使いこなせている。この様子だと、復習はもういいかな」

「だから言ったろ。先生が放ったらかしにしてるあいだも、俺は真面目に練習してたんだよ」

「えらいね、ネブラ。なら、そろそろ本格的な試験対策に励もうか。春の認定試験で魔導資格ソーサライセンスを取得し、正真正銘の魔法使いになろう」


 魔法使いになるには、二等級以上の魔導資格ソーサライセンスを持つ魔法使いのもとで修行を積んだのち、魔法使いとしての認定試験を受けなくてはならない。また、認定試験を受けるにも、二等級以上の魔法使いの推薦書が必要で、多くは魔法の師に書いてもらう。

 サダルメリクはパチンと指を鳴らすと、どこからともなく純白の三角帽子が現れた。純白の外套マントと共に近衛星団の証でもあるが、外套マントにはない意味を、三角帽子は持つ。


「三角帽子を被ってこそ、一人前の魔法使いであり、見習いに帽子を被る資格はない。私的な場を除き、帽子を被らない魔法使いは、いまだに半人前という証拠だ」

「帽子を被れねえくらいわけねえけどな」

「まあね。かっこいいけど、あったって邪魔なだけだし。それよりも、公の場での魔法使用不可、国立グリモワ図書館の入場禁止とかのほうが面倒だよね」


 魔導資格ソーサライセンスを持たない見習いの魔法使いは、私有地以外での魔法の使用を禁止されている。

 ネブラやコメットは、前にブルースの商店街で魔法を使い、大目玉を食らった。

 未成年の初犯ということで温情をかけられたものの、本来ならば刑罰を受けるような法律違反だ。


「五等級の魔法使いなら、どこでも魔法を使えるようになる。四等級なら、魔法工学の商業的な取り扱いが可能になり、危険指定生物の狩猟も解禁される。三等級なら、医療目的を含む人体への魔法行使が可能に……ケートスみたいに、魔法を使って治療ができるってことだね」


 魔導資格ソーサライセンスの等級は、その魔法使いへの信頼である。魔法という学問の習業において、知識、技術、精度、全てにおいて優れた者に、上位の等級が与えられる。


「ネブラが目指す二等級は、他者に魔法を指導することも許された、極めて高位な等級だよ。近衛星団の入団基準でもあるわけだから、そのレベルの高さはわかるよね?」

「……わかってる」

「ま、君は僕の弟子だからね。とりあえず認定試験さえ受ければ、五等級くらいなら余裕で取得できると思うよ。いまから試験日までずっと魔法の勉強をサボってたって合格できるだろうね」


 言いすぎだ、とネブラは思った。

 思ってるだろうな、とサダルメリクも察したので、「本当だよ」と続ける。


「僕は、ケートスや君みたいな筋のいい子しか弟子に取らない。そして、その筋が曲がらないよう、正しく伸びるよう、基礎から叩きこんできた。試験を受けてみたらわかるよ。僕がチャランポランに見えて、どれだけ君を目にかけていたか」


 サダルメリクの、ペリドットにも似た涼しげな緑の瞳が、傲然と細くしなる。

 その姿があまりに様になっていて、ネブラはわずかに竦みあがった。


「とはいえ、ネブラが目指すのは二等級だ。五等級の認定で満足なんてしてられないよね。五年に一回の昇級試験を待ってもいいけど」

「……認定試験を受けても、二等級に上がるまでには最短でも十五年もかかるって? そんな悠長に待つ気はないね」


 魔法使いにとっての十五年なんてあっという間だよ、とサダルメリクは思ったけれど、口にはしなかった。

 齢十八のネブラにとって、十五年という時間は、彼の人生ほどの重みがある。


「だね。まあ、魔法使いになったあと、その後の活躍を鑑みて、皇室名義から魔導資格ソーサライセンスの昇級の通知が来る場合もあるよ。ライラも、気づいたら四等級から三等級になってたって言ってたから、たぶんそのタイプだと思う」

「昇級試験を受けなくてもチャンスはあるってことか」

「かなり珍しいタイプだけど、不可能ではないよ。ただ、これは魔導資格ソーサライセンスを取得したあとの話だ。考えるべきは、春の認定試験のさ」サダルメリクは口角を吊りあげる。「ネブラ、君は、認定試験での飛び級合格を目指す」


 飛び級合格。

 その言葉に、ネブラは顔つきを変える。


「認定試験は二段階審査だ。まず、魔法史、魔法知識、適性検査を基にした筆記試験。そして、魔法の実践による実技試験。合格基準に達した者が五等級に認定される」

「そこでいきなり四等級を取れって?」

「そのとおり。例年どおりなら、試験結果が特に優秀だった者には、より精密に等級を測るため、追加の振り分け試験がおこなわれる。魔法の実による実技試験さ」


 近衛星団の三代目星団長ルシファー・ゴーシュは、その試験で並外れた成績を修めたことで、一気に一等級まで取得した。


「四等級どころじゃないよ。そこで上手くやればやるだけ、取得できる等級は跳ねる」


 サダルメリクの説くような言い様に、飛び級合格という異例が現実味を帯びてくるのを、ネブラは感じていた。

 指を振るったサダルメリクは「“僕のチョーク、散歩しよっか”」と呼びかけ、チョークを操った。宙に浮かんだチョークは独りでに文字を起こす。


「ネブラ、君が習得すべきことは三つだ。まず、魔力探知。不完全でいいから、自分と自分以外の魔力を見分けられるようになること。それと、魔法式の品詞分解ができると強いね。未知の魔法と出会っても、魔法把握の解像度を上げれば、初見殺しは回避できる。最後に、常日頃から言ってることだけど、結びフィーネの練習だよ」

「魔力探知、魔法式の品詞分解、結びフィーネ


 ネブラはチョークが起こす文字を反芻した。

 サダルメリクは「実践しようか」と告げる。


「ネブラ、君の魔法で火を起こしてみて」

「火?」

愚者の灯火イグニス・ファトスさ」

「ここで? 大丈夫かよ」

「大丈夫だから言ってるの」


 ネブラの“愚者の灯火イグニス・ファトス”は、魔力を広げて着火することで、当たり一面を炎の海にする魔法だ。ネブラでさえもそれを消すことはできない。

 しかし、目の前の師が余裕の態度でそう言うので、ネブラは素直に従った。


「“愚者の灯火イグニス・ファトス”」


 ネブラの練った魔力に着火し、瞬く間に炎が広まった。学室が暖色のきらめきと熱に呑まれかけたとき、しかし、たちまち鎮火する。

 ネブラは「は?」と目を見開かせる。

 サダルメリクがなにかしたのはわかったけれど、彼はなんの呪文も唱えなかった。微動だにせず微笑んだまま。それなのに、あたり一面を覆い尽くした炎が夢のように消えた。

 ネブラは強張った面持ちのまま、微笑む師を見上げる。見慣れたはずの師の、尋常でない存在感に圧倒され、ごくりと唾を飲んだ。

 急に我が身が強張ったような錯覚に、ネブラはわけもわからず動揺した。

 ふと、弛緩する。

 重力が半減したかのように体が軽くなる。

 目を白黒させるネブラに、「なにが起こったかわかる?」とサダルメリクが問う。


「……解析できなかった。なにしたの」

「ネブラの魔力を、僕の魔力で薄めたんだよ」サダルメリクは答え合わせをする。「愚者の灯火イグニス・ファトスは、君の魔力に着火して炎を起こす魔法。魔力の性質を活かした発想は見事だけど、そうした魔法設計は、他者に魔力濃度を薄められると、じゅうぶんに効果を発揮できなくなる。加えて、ネブラの魔力は僕の魔力と相性が悪いね。君のまほうは水溶性だから」

「…………」

「なにが起きたかわからなくても、僕の魔力圧くらいは感じ取れたんじゃない? その感覚を極めることが、魔力探知の始まりだよ。感覚が鋭敏になれば、この世のありとあらゆるものが魔力を内包していると、本当の意味で理解するだろう。だから、魔力探知は、五感以外の知覚、第六感と言われている」


 サダルメリクの話に聞き入りながらも、ネブラは落胆していた。己の“愚者の灯火イグニス・ファトス”が簡単に掻き消されたことを。

 それも、魔法ですらない、ただの魔力の発露によるものだった。濃度や範囲の調節はあるだろうが、ネブラでも直感的にできてしまえる魔力操作程度で、“愚者の灯火イグニス・ファトス”は凪いでしまう。

 自分の炎の無力さに、ネブラは奥歯を噛んだ。

 それをにわかに感じ取ったサダルメリクは、目を瞬かせたのち、ネブラに言う。


愚者の灯火イグニス・ファトスは未完成の魔法だろう? 結びフィーネを施すだけで、その魔法の強度は上がるはずだよ。魔法の完成度は、その魔法の強度だ。魔法設計を見直すより先に、わかりやすい綻びを直すことが大切だね」

「……わあーってるよ」気遣われたことも、ネブラはわかっている。「結局のところ、そこにいきつくんだろ? 先生が口を酸っぱくして言ってることだもんな」


 ネブラは左手でガシガシと頭を掻いた。掻き混ぜられた紫紺の髪が細やかに揺れる。

 歯痒さを覚えるのは、魔法を完成させてからでも遅くはない。

 ネブラはサダルメリクに向き直る。


「でも、俺には結びフィーネの感覚がいまいちわからん。魔法の発現に必要な魔法式を唱えて終わりじゃだめなのかよ」

「唱えて終わりっていうか、唱え終わってないんだよね、それ。だから暴発する。魔法が止まらない。魔法が止まらないと、必要以上に魔力を消費する。過去には、結びフィーネを作り損ねた魔法使いが魔力の枯渇で死んだ、って話もあるんだ」


 いつかの日、ネブラとコメットがこの家を水浸しにしたことを、ザタルメリクは思い出す。

 あの日はサダルメリクが魔法を結び、事なきを得たけれど、あのまま水が増えつづけた場合、二人の死因は、溺死ではなく、魔力の枯渇死だったかもしれない。


「想像してみてよ。よくできた歌が、サビに入っていきなり途絶える、尻切れトンボ感。そんな感じなんだよ、魔法を結べないのって」

「なんつーか、気持ち悪い」

「でしょ? ネブラの場合、ただ途切れるんじゃなくて、最後の音でビブラートかかってる感じ」


 言われたとおり想像して、「我ながらウザいな」とネブラは思った。


「てことで、今日は魔法を結ぶ練習をしようか。今から僕が即興で魔法を使って唱える、それも、中途半端な状態で。ネブラはそこに呪文を足して完成させて。出来は問わない。とにかくことだけ考えて」


 その後、サダルメリクが中途半端な魔法を打っては、ネブラが咄嗟に返し、打っては返し打っては返し、正午まで結びフィーネの練習を続けた。

 ネブラが失敗しようとも、サダルメリクは穏やかに丁寧に指導し、よい返しができたときは「その調子」と褒めた。

 本気だった。ネブラに四等級以上の魔導資格ソーサライセンスを取らせようと、サダルメリクは本気になっている。

 これまで散々放ったらかしにしてきたくせに、俺がコメットに魔法を教える気になったとわかった途端につきっきりになりやがって、そんなに孫弟子がかわいいか——などとネブラはひそかにサダルメリクを睨んだけれど、もちろんそんなわけがない。

 サダルメリクはネブラとコメットなら絶対にネブラのほうがかわいいし、ちゃんと魔法の授業をしようと思ったのは、復讐心しかなかったネブラが前向きな気持ちで魔法に臨もうとしていることが、この上なく嬉しかったからである。

 ネブラが眉を顰めているのにも、魔法を結ぶのに真剣になっててえらい、なんて微笑ましく感じていたくらいだ。まさか睨まれているだなんて夢にも思わない。弟子の心を師は知らず、弟子もまた師の心を知らないのだ。

 さて、授業を終えたサダルメリクは、昼食を済ませると仕事へと出ていく。

 家に残されたのは、ネブラとコメットの二人だけ。

 ネブラは再び楽室へと向かい、コメットの授業の準備を始める。

 コメットもまた師の心を知らないので、筆記具を抱えて楽室に向かいながら、「やっぱりおかしい」と首を捻る。

 なんてったって、ある日突然「魔法の授業すんぞ」とネブラにお尻を蹴られ、「本当!?」とびっくりしていれば、「嘘にされたいんか」と凄まれたのだ。嘘にされたくなかったので、「する! して! ネブラ先生!」と素直に答えた。それ以降、魔法の授業は続いている。

 やっぱりおかしい。ついこのあいだまでは魔法を教える気なんてちいともなかったくせに。もうすっかり冬だというのに、ネブラの心は秋の空なのか。

 コメットはそんなことをぼんやりと考えて、ついには、自分の知らないうちにネブラが頭を打ったのだと結論づけた。

 ならば、ネブラの頭がおかしくなっているうちに魔法を教わってやるのだと、楽室の扉を開ける。


「今日もよろしくお願いします!」

「やかましい。とっとと座れ」

「はーい!」


 コメットはスキップでもしそうなくらいの陽気な足取りで、黒板の前の席に着く。深く腰かけ、膝の上に手を置き、目の前のネブラをきらきらと見上げた。


「復習は?」

「発声練習だよね。ちゃんとやったよ。音階だってちゃんと合わせられるようになった。いくよ?」


 コメットに緊張はなかった。すっと口を大きく開けて、歌うように奏でる


「ドーレーミーファーソーラーシードー、ドーシーラーソーファーミーレードー」

「まあできてる。喉もちゃんと開いてんな。二度寝して声が出なくなってたらシバいてたわ」

「寝ないったら!」

「魔法は音に乗るぶん、魔法使いにとっては声が大事なんだよ。お前は音程も取れてるし、滑舌だって悪くない。下準備はこれくらいにして、」ネブラはあるものを机に置く。「今日からはを使う」


 コメットの前に置かれたのは、鉢植えの花を模した、クッション製の玩具おもちゃだった。

 小さな茶色い鉢に、まろやかなピンクの五弁花が一輪、にょきりと伸びており、花粉らしき真ん中の丸の中に、つぶらな瞳と細い口が描かれている。

 コメットはぱちくりと瞬きをして、その花弁に触れてみる。


「ふかふか……なにこれ?」

「スマイルフラワー。魔法道具だ」

「魔法で笑ってくれるの?」

「そんなところ。こいつに話しかけて笑わせてみろ」

「えっ、えっ?」

「いいから」

「わ、“笑って”〜?」


 コメットが話しかけると、スマイルフラワーはぴくぴくと動きはじめる。まっすぐに伸びた茎は蛇のように揺れて、まるで踊っているみたいだった。

 しかし、浮かべた表情は笑顔ではなかった。つぶらな目を眇め、口を丸くぽかんと開け、今にも「ハァ?」という声が聞こえてきそうな、小癪な表情である。

 コメットはむかっとしながらも、「なんでぇ?」とネブラを見遣る。


「言いかたが悪い」

「えぇ?」

「感情がこもってないしイントネーションもちぐはぐ。笑わせる気あんのか。もっと気合い入れろ」

「んんんん〜」コメットは唸ったあと、身振り手振りを加え、再び囁きかける。「“笑って”!」


 すると、今度はスマイルフラワーも笑顔を作った。二枚の葉を揺らして楽しげにダンスを踊っている。


「できた!」

「次、こいつを泣かせてみろ」

「え」

「早く」

「え、だめだよう」コメットはスマイルフラワーを抱きしめる。「こんなにかわいく踊ってくれてるのに泣かせるなんて可哀想」

「魔法道具に感情移入すんなや。いいからさっさと泣かせろ」

「そんな……無理だもん、僕にはできない! スマイルフラワーだって嫌がってる!」

「スマイルフラワーならお前の腕ん中で元気に踊ってるぜ」

「泣かせるなんてやだ! もっと違うやつにして!」

「め、ん、ど、く、せ〜〜」ネブラは天を仰ぎながら告げる。「じゃあ怒らせてみろ」


 ネブラの指示どおり、コメットはスマイルフラワーを怒らせようとする。

 さっきのような失敗はしないように、ちゃんと感情をこめて。怒れ、怒れ、怒れ。


「“怒って”!」


 スマイルフラワーは怒った。黄色い顔を真っ赤に染めて、つぶらな瞳は険しくなり、細い口は山なりの線を描く。


「どう? ネブラ先生!」

「よし。じゃあ次。って言いながら笑わせてみろ」

「……ん?」


 コメットは混乱した。

 スマイルフラワーを笑わせる。

 呪文は“怒って”。


「発声練習の応用だ」ネブラは説明する。「この魔法道具は、魔法使い見習いの詠唱の練習台としてよく使われる。極論、言葉の意味なんて、魔法とそう関係はないんだよ。意味が伴えば発現のイメージがしやすいってだけ、抑揚をつけやすいってだけだ。大事なのはどう表現するかだ。それができりゃあ、どんな言葉だろうと、思いどおりの表情にさせれんだよ」


 ネブラはコメットの腕からスマイルフラワーを回収する。ぞんざいに机の上に置いたものの、紡がれた声は優美だった。


「“元気そうだな”」


 それは、小窓から春風が吹き抜けたかのような、ぬるく爽やかな音の響きだった。

 ネブラに囁かれたスマイルフラワーは、にょきりと再び動き始め、爛漫の笑顔を形作る。

 コメットが「わあ」と感心していると、ネブラが再び口を開いた。


「“元気そうだな”ァ?」


 ネブラは意地の悪い顔をしていた。スマイルフラワーに囁きかける声すらも、皮肉るような薄ら寒さがあって、さっきの春風なんて一陣も感じられない。

 さっきと同じ台詞であるにもかかわらず、天と地ほどの差があった。

 ネブラに囁かれたスマイルフラワーは、途端に青白い顔をした。つぶらな瞳や二枚葉は震えていて、今にも泣きそうな表情だった。

 その様子をしげしげと眺めるコメットへと、ネブラは淡々と説明する。


「音程、抑揚、スピード、情感、それら全てが表現力になる。表現を変えれば発現する魔法も変化するもんだ。だから、ただ呪文を唱えるだけじゃだめなんだよ」

「つまり、言葉の意味を忘れて、音として表現しろってこと?」

「そういうこと。お前が今までなんも考えずに魔法を使えてたのは、言葉に引っ張られてたからだ。言葉どおりのわかりやすい呪文だったってことだな。だから、自然とニュアンスが乗る。ドアよ開けだの、虫よ散れだの、花よ咲けだの」

「そっか。大先生がフルートの音に魔法を乗せられるのは、それだけ表現力があるってことなんだね」

「馬鹿のくせに理解が早えな。あのひとの場合は、もっと他の技術もあるとは思うが、概ねそのとおりだよ」

「わかった! もう一回やってみる!」コメットはスマイルフラワーへ唱える。「“怒って”!」


 スマイルフラワーは腑抜けた顔で、首を傾げるように茎を折った。たぶん、声を出せるなら「はにゃ?」と言っていた。


「下手くそ」

「なんでぇ? “怒って”……違う、そうじゃないよ、“怒って”よ。違うな、“怒って”ってば!」


 次から次へと呪文を唱えても、スマイルフラワーはため息をついたり、舌を出して首を振ったり、ない鼻で笑ってコメットを嘲ったりするだけだった。よくもまあことごとくそんな腹立つ顔を形作れるものだ。秘訣を知りたい。


「お前、クソナメられてんな」

「全然笑ってくれない」

「毎日の課題な。これやるから暇な時間は練習してろよ」ネブラは目を眇める。「発声練習はここまで」


 ネブラはコメットにスマイルフラワーを押しつけた。

 いつまでも机にあっても邪魔なので、コメットは膝の上に乗せ、隙間から落ちないよう、椅子を動かして机との距離を詰める。


「俺が教えることは大きく分けて二つ。実践的な魔法の発声法と、魔法史や呪文を含む魔法知識だ」

「一気に授業っぽい!」

「お前は、魔法道具も魔法騎士組織も著名な魔法使いもなんも知らねえ、クソ無知の田舎者だからな。基礎の基礎からやんねえと。また賢者の石ラピス・フィロソフォルムだのなんだの、適当に聞き齧った知識で、魔法と錬金術をごっちゃにされたら困る」


 錬金術とは、まだ魔法と化学が分離していなかった時代に興った学問であり、疑似科学の通称である。

 この家に転がりこんできたばかりのころのコメットは、錬金術の代表とも言える伝説的な物質・賢者の石ラピス・フィロソフォルムを、魔法の類だと勘違いしていた。


「不幸中の幸いは、入門レベルの呪文くらいは頭に入ってることか」

「ずっと楽室にある楽譜を読み漁ってたから、簡単な魔法くらいなら覚えてるよ」

「公式の教則本にあるような基礎魔法は?」

「覚えてるはず。たぶん」

「信用ならん。テストする」

「えぇえ? テストぉ?」


 コメットは眉を顰めた。

 ネブラは適当な椅子を引っ張りだし、コメットの目の前に座った。二人は机を挟んで向かい合う形になる。

 ネブラが「“来い”」と杖腕を振るうと、本棚からいくつかの教材が浮かびあがり、ふわふわと手元まで漂ってくる。ネブラはそれを一つ一つ検分しながら、「レベルが低すぎて問題を探すのも一苦労だぜ」と愚痴った。


「教材ン中からいくつか問題を出す。紙とペンの用意しとけ」

「本当にやるの……?」

「嫌でもやれ。お前の知識レベルがわかんねえと、俺が教えるときに困るんだよ」

「……やる!」


 コメットはふんすと鼻を鳴らす。

 嫌でもやろう。ネブラは本気だ。本気で僕に魔法を教えようとしてくれてるんだ。ネブラ、頭がおかしくなってくれてありがとう。

 そうして、ネブラは教材から問題を抜粋し、有り合わせのテストを作った。コメットの用意した紙に、問題文や図式などを魔法で写したものだ。

 コメットが問題を解いているあいだ、ネブラは教材を広げ、適当な目を落とす。問題を全て解き終わると、コメットは「はい」と回答用紙をネブラに預けた。ネブラは羽根ペンに赤いインクを浸し、採点していく。


「どう?」

「悪かないが……暗記したとこが偏ってんな。なんで物を浮かせる呪文は空欄で、インクの色を変える呪文は三通りも知ってんだよ」

「えへへ」

「褒めてねえのに照れる? 実用性もクソもねえ、お前の趣味全開の魔法ばっか勉強しやがって」

「そんなことないよ、あれとか。ええと、なんだっけ、紫の雷がびかびか伸びるやつ。辞典どろどろ〜みたいな呪文の」

「“紫電轟け”くらい覚えとけよ」


 ため息混じりに、コメットの回答用紙を眺めるネブラ。

 コメットが答えているもののなかには、消えないシャボン玉を作る魔法、花の色を変える魔法、超クールなダンスを踊れる魔法など、ネブラすら「へえ、そんなのあるの」と思うようなものもあった。そんなのあるの、というか、そんなの覚えようとすることあるの、というか。

 しかし、点数自体はネブラが思っていたよりも悪くない。単語の綴り間違いもなかった。ネブラが放ったらかしにしているあいだも、コメットは独学で魔法を学んでいた。その努力が伺えた。

 しばらくして、回答用紙に目を通していたネブラの瞳が、怪訝に細まる。


「……魔力絶縁物質アダーストーンについての記述問題、丸まま飛ばしてんのは?」

「へ? どれ?」

「最後から二番目、『魔力絶縁物質アダーストーンと50cm離れた地点に100mBマジベルの物質を置いたとき、その物質の魔力の計測値はどのように変化するか』ってやつ」ネブラは視線を上げ、コメットを見る。「魔力絶縁物質アダーストーンは魔法を遮るだけでなく、近くに存在するだけで周囲の魔法の効力を弱める。魔力も同様だ。アダーストーンとの距離から絶縁抵抗を求めることができて、その計算にはドルイドの法則を用いる」

「ドルイド? 法則?」

「知らないのかよ。まあ、最悪、その公式を覚えなくても分数で計算できる」

「ぶんすう」

「……お前、計算できないとかある?」

「…………」


 俄然、雲行きが怪しくなる。

 押し黙るコメットに、ネブラは顔を引き攣らせ、持っていた回答用紙を放り投げた。ネブラの背後でひらひらと舞い、床に落ちたころ、ネブラが眉を顰めながら問う。


「サイコロを振って一の出る確率は?」

「に、20%くらい?」

「百エーカーの森を箒で二時間かけて横断したときの時速は?」

「三百エーカーは十秒だったもん」

「掛け算と割り算は?」

「できなくても生きていけるし……」

「800Бベイルに1000Бベイル出したときのおつりは?」

Бベイルってなに?」

「アトランティス通貨も知らねえんか!?」


 ネブラは戦慄した。呆れや怒りより、シンプルな恐怖がまさった。

 基礎的な魔法知識はおろか、コメットには一般的な教養もなかった。

 わなわなと震えながら、ネブラは口を開く。


「お前、十五だったよな? その歳で金勘定もできないとかさすがに引くわ……田舎者で世間知らずとかじゃなくって、なんも勉強してないとかそういう部類で、本当に頭が悪いなんじゃないのか?」

「皮肉じゃないくらい真剣な罵倒」

「知識も常識もねえ。孤児院でも勉強くらいはするだろ。なに習ってんだ」

「覚えてない」


 あ、馬鹿なんだな、とネブラは思った。

 思われたことにはコメットも気づいた。

 ネブラは椅子の背凭れに身を預け、衝撃の事実を受け止める。明らかにコメットの理解が追いついていない場面が散見されたのは、一般常識や学力がないためだと悟ってしまった。土台となる知識に乏しいから、どれだけ説明しても「なんの話をしてるんだろう」とでも言いたげな顔をする。これでは魔法の勉強など進むわけがない。

 ということで、ネブラはこの翌日から、魔法に割く時間を削り、学校で教わるような計算や大陸史、地理などの勉強も取り入れることにした。

 コメットはごねた。


「ええ? 別にいいでしょ、やる必要ある? こんな勉強しなくたって、魔法を使えたら魔法使いじゃん!」

「お前なんもわかってねえな。魔法使いは異能の賢者って言われてんだぞ。ただの馬鹿がなれるか。このままお前に魔法を教えたって、どうせ理解しきれねえだろ」

「勉強やだよう」

「やだよう、じゃないんだよう」コメットの顰めっ面を悪辣に真似て言う。「勉強どころか常識の範疇だっつの。俺だってこんな当たり前のこと一から教えたくなかったわ。アトランティスの地図も間違って覚えてるようなやつが口答えすんじゃねえ」


 不満たらたらのコメットだったが、ネブラの言い分はもっともで、誰が聞いても頷くような正論だったため、最終的には「はあい」と素直に呑んだ。


「いいか。アトランティスには四つの信仰がある。それぞれ、その地域の風土やしきたりと密接に関わっていて、大昔は異教徒同士で争いも起きてる。大陸が統一されるまでの帝国史を学ぶには、これを知ってなきゃ話にならない」

「んー」

「一つ目は海神信仰。これはアトランティス帝国の統一前から大陸の全土で見られた信仰で、大陸に土着した独自の神だと言われてる。アトランティスを統治していた王家は、海の神の末裔なんだとよ。《大洪水》で海に沈んだ世界を生き延びた民たちは、海神の加護を受けていたとかなんとか。帝国のあちこちに神殿も建ってるぜ」


 ただし、《大洪水》後のアトランティス大陸は、権力者同士の領土争いの末に現在のアトランティス帝国として発展したため、統治者は幾度となく交代していることになる。

 海神の末裔だったという王家はすでに滅ぼされているため、真相は謎のままだ。


「二つ目は創造主信仰。これはアトランティスだけじゃなく、世界的に見られる信仰で、一人の絶対神がこの世界を作ったんだって話だ。これに関しても、帝国のあちこちに教会が建ってる。聖書なんて一番分厚い」


 楽室の窓からは細やかな光の粒が降り落ち、コメットの視界をぼやけさせる。滔々と話すネブラの声が静かな部屋に響いて、あまりに穏やかだった。

 昼食を済ませてすぐだったので、コメットの中ではむくむくと眠気が芽生えていた。うつらうつらとなるのを耐えるように、奥歯を噛み締める。


「三つ目は太陽信仰。これはアトランティスではマイナーだけど、世界的に見ても少なくない信仰だよ。天の輝きから魔力を授かる魔法使いらしい神だ。地上を照らす大きな天体の力を神と呼んだってこと」


 ネブラの声が心地好かった。ふわりと乾いた風の吹く、晴々しい昼下がりのような、耳触りのよい声。

 普段は乱暴でぶっきらぼうな物言いをするネブラだけれど、本当は、ぬるくて爽やかな声をしているのだ。

 教科書をなぞるような悠然とした口調は、鼓膜を震わせるたびに、コメットを微睡まどろみへと誘う。


「四つ目は十二神信仰。これはアトランティスどころか世界的に見てもマイナーだけど、年配のひとだとたまにいるよ。この世界は、十二人の賢者によって、破壊と再生を迎えたんだって。根っこの考えかたとしては、《大洪水》があるみたいだ。残ってる文献も少ない、口伝で継承されてきた信仰だと言われている」


 気が飛びそう。目の奥が重くて、コメットは瞼を糊づけする。こくん、と首が落ちた。

 そのままコメットが寝落ちかけたとき、ネブラがテーブルを殴りつける。

 弛緩していた体が大きく揺れて、ドッと血流が滾り、コメットは「ふがっ」と覚醒した。

 真っ先に目に飛びこんできたのは、瞳孔の開いたようなネブラの双眸。その眼光が、コメットにはひたすら恐ろしく見えた。


「……寝る? 俺の目の前で? 頭ン中たんぽぽの綿毛でも詰まってんのか」

「うぁぶ」コメットは唾を飲みこむ。「ご、ごめんなさい、気持ちよくなっちゃって、つい」

「次また寝たら、ぶん殴られるのはお前の頭だ」


 コメットはこくこくと頷いた。

 眠気が来たときは手を抓るか舌を噛むかしようと決めた。

 でも、どれだけがんばっても、授業は退屈で、つまらなくて、寝落ちてしまいそうだった。だって、一寸も興味がないのだ。ここのところは魔法なんて二の次で、午後の時間をほとんど勉強に費やしている。

 それでも、五日は踏ん張った。

 そして、六日目にとうとう音を上げた。


「もうイヤーッ!」


 いつものように二人で楽室に籠っていたところ、コメットが嘆き喚いた。

 机の上には初等教育に使用される教科書が開かれており、その見開きに顔を沈めるように、コメットはワッと突っ伏した。

 その体面の椅子に座るネブラは、至極面倒くさそうな顔で、そのつむじを見下ろしている。

 ネブラの冷めた眼差しなど気にもせず、コメットはネブラに訴えつづける。


「もうずっとこんなのばっかり! 毎日毎日、歴史とか数学とか! 僕はこんなことするためにネブラに弟子入りしたんじゃないやい!」

「ネブラ先生な。俺はお前にうんざりしてるよ。こんな簡単なことも覚えらんねえなら、魔法の勉強なんざやめちまえ」

「だってつまんないんだもん!」コメットは顔を上げてネブラを睨む。「そう言うネブラはどうなのさ。僕と同じで学校なんて通ってないのに、こんな勉強したの?」

「俺は先生のとこに来てからの半年で全部やったっての。こんなの、一回詰めこんどけば終わりなんだからな」

「えっ、もしかしてネブラって真面目!? その顔で!?」


 コメットの頭を左手で掴みあげたネブラは、ぎりぎりと圧力を加えながら「その顔でってなんだ、その顔でって」と凄んだ。この顔でもネブラは真面目である。

 握り潰されそうになっているコメットは、しょげた声で「もう疲れたあ……」と愚痴る。

 集中切れてんな、と察したネブラは、外套ガウンのポケットからいくつか飴を取りだし、項垂れるコメットの前に落とした。


「糖分摂って頭回せ」

「ぐすん、えへんえへん」

「続きやるぞ。今日で第五章を終わらせる」

「いーんいーんいん」


 コメットは泣き言をこぼしながらも、口の中に飴を詰めこみ、羽根ペンを握った。再びやる気の姿勢を見せたことで、ネブラは授業を続ける。

 日に日に元気をなくしていくコメットに、ネブラも内心、一度休ませるべきかと考えていた。これまで勉強をしてこなかった子供が、一日に何時間も学習するというのは、無理な話である。

 ネブラとしては「お前のことだろ」「やる気出せや」と思わなくはないが、コメットは体も小さく、体力だってない。明日からは休憩時間を増やそうと考え直した。

 すると、その翌日、コメットが授業から脱走した。

 いつまで経ってもコメットが楽室に現れないので、ネブラが部屋までコメットを呼びに行ったところ、ベッドに『探さないでください』の書き置きがあった。


「ざけんなよあの馬鹿弟子!」


 無論、探した。猫探しの魔法の応用で、コメットの動向を追跡し、わんわん喚くコメットを家まで連れ帰った。

 その日から二人の攻防が続く。

 勉強に嫌気の差したコメットは、時に隠れ、時に脱けだし、なんとかネブラを出し抜こうとした。

 しかし、ネブラに魔法を使われると、コメットではまったく歯が立たない。そもそもがネブラに分があるのだ。

 先日は、音も立たずに家を出て、裏の森へと抜けようとしていたころ、その抜き足差し足に痺れ魔法をかけられ、ものの数分で捕まった。

 薄い草叢くすむらに倒れて、ひんひん言っているあいだに、ネブラに追いつかれたのだ。

 ゆっくりと歩いてきたネブラに見下ろされ、コメットの顔は青褪める。死神の鎌にかけられたような怖気がした。なんてったって、目元に影を落とすネブラは、ブギーマンもかくやという風貌。コメットの蛮勇など鼻息で吹き飛んだ。

 ネブラとしても、毎日毎日こんなことをするなんて御免だ。性懲りもなく授業を放棄しようとするコメットに対して、「本当になんで俺はこんなやつを弟子にしたんだ?」「善行でも積んでんのか?」と、わりと本気でショックを受けた。

 なにせ、これだけ親身に指導してやろうとしているのだ。コメットに「ネブラ先生って最高」「人生いまが春」「好きな言葉は切磋琢磨」と感動されることはあっても、悪夢に追い立てられる子供のように逃げられる覚えはない。誰がブギーマンだ。

 そんなわけで、「一日休む。解散」と、ネブラがコメットに勉強を教えるようになってから初めての休息日が設けられた。






「おや、ネブラ。こんなところで奇遇だな」

「……お前か、脱走公子」


 ネブラが商店街の南通りを歩いていると、ラリマーとすれ違った。

 ラリマーは従者のルピナスを連れておらず、目眩めくらましの魔法をかけたうえに存在感を薄くする霞草カスミソウ外套マントまで羽織っていたため、例のごとくお忍びで来たのだと、ネブラは察した。

 ラリマーはネブラのほうへ歩み寄り、「ちょうどいいところに」と声をかける。


「いつか食べたマロングラッセを急に食べたくなってな。ほら、秋にお前たちが案内してくれた店の、栗の砂糖漬けだ。ずっと探しているんだが見つからなかった。案内しろ」

「案内してください、だろ。ボケ」ネブラは吐き捨てるように言う。「他を当たれ。お前に付き合ってる暇はない」

「そうか。では、コメットに聞こうか。あいつは今どこにいる?」


 今日もラリマーは絶好調だった。

 瞬く間にネブラの不興を買ってみせた。

 あんな馬鹿弟子の名前など、今は聞きたくない。


「はあ? 知るかよ。そのへんでどんぐりでも探して遊んでんじゃねえの?」

「こんな真冬にか。見つけるのが大変だな」


 しかし、ネブラの不興を買ったことに、当のラリマーは気づかなかった。

 ラリマーからしてみれば、ネブラはいつも不機嫌なので、さらに機嫌を損ねたところで、気づきようがないのだ。

 誰がどう見ても苛々しているネブラの隣で、暢気に「マロングラッセを探す魔法があれば」などとこぼしている。


「お前、帝国一の魔法使いからそんなもん教わろうとしてんのかよ」

「いいや? いまは魔導資格ソーサライセンスを取得するため、認定試験の対策と、俺の“不可侵水域侵すべからず”の研鑽を重ねている」ラリマーは得意げに微笑む。「お前と共に、俺の命を狙う輩と対峙したとき、結界魔法に伸び代を感じた。あのときは敵の攻撃やお前の炎を防ぎきれなかったりと、強度もいまひとつだったからな。トリスメギストスさまの指導のもと、改良しているところだ」


 盾の魔法を極めようとしているラリマーを、ネブラは薄目で見る。いつかラリマーを燃やしてやろうとネブラは本気で思っているので、思わず「そんながんばらなくてもいいんじゃないか」とこぼしてしまった。


「てか、お前も春の認定試験受けんの?」

「ああ。そう言うお前もか。サダルメリク殿から学んでいるのだろう。勉強は進んでいるか?」

「まあな。俺も、自分の魔法の強化と、魔力探知だの魔法の解析だのの練習だよ」

「魔力探知?」

「先生の仰せだ。常に感覚を研ぎ澄まし、識別する癖を身につけろ、ってな」ネブラは肩を竦める。「おかげで少しずつ魔力の気配ってやつをわかってきたが、まだまだ掴みきれてねえよ」


 ネブラの言葉に、ラリマーは「なるほど」と腕を組む。


「魔力の気配を感じ取れるようになったから、お前は霞草カスミソウ外套マントを着ている俺でも俺だとわかったのか」

「そうでもない。声をかけられるまでは存在すら感じ取れてなかった。それを作ったライラの技術は偉大だよ。お前に声をかけられて初めて、お前の魔力が匂った」

「興味深いな。俺の魔力はどんな感じだ?」

「鼻につく感じ」

「なるほど。お前が掴みきれていないというのは本当らしいな。会得してから出直せ」


 いつの間にか、二人は南通りを並び歩いていた。

 ラリマーと共にするのは癪だったものの、認定試験に向けて修行する者との情報交換は、ネブラにとって有意義だった。

 どうせ宛てもなく商店街をうろついていたところだ。少しくらいラリマーの相手をしてやってもいいだろう。


「トリスメギストスさまが言うには、認定試験に向けて、上級魔法五種のうち、どれか一つを習得するのが理想だと」

「いきなり上級魔法? 昇級試験でもあるまいし、そこまでする意味があんのかよ」

「それが合否を分けることはないだろうが、俺の場合、魔導資格ソーサライセンスを取得することは目的の過程にすぎないからな。それに、早い段階でなにかしらの上級魔法を習得しておくと、後々役に立つだろう」

「上級魔法はどれも魔法式が複雑でややこしいからな。繊細な技術が求められるぶん、自力の底上げにも繋がるだろ」


 上級魔法と呼ばれるものは、変身、転移、干渉、時限、遠隔の五種だ。

 対象そのものを作り変え、まったくの別物へと変化させる、変身魔法。

 物理的距離を無視し、対象を任意の座標軸へと移動させる、転移魔法。

 対象の知覚や記憶に触れて影響を与える干渉魔法。

 魔法の発現時間を詠唱完了時とは別の時間に設定する時限魔法。

 音の届かない遠方から魔法を発現させる遠隔魔法。

 一つ一つが極めて高難易度の魔法だ。それら全てを習得するのは一等級の魔法使いでも至難の業で、世界中を探しても一握りしかいないと言われている。


「春になるころには、俺もお前も、今より成長しているはずだ。認定試験が楽しみだな」


 そうネブラに告げたラリマーの瞳が、アクアマリンのように澄んだ輝きを灯す。

 ネブラはその瞳を見つめ返し、ややあってから「勝手に楽しみにしてろよ」とぶっきらぼうにこぼした。


「コメットも、どんぐりばかり探していないで、勉強の一つでもすればいいのにな」

「ハッ。それマジであいつに言ってやって」ネブラは鼻で笑う。「魔法の勉強は進んでやりたがるくせに、他の勉強はからきし。釣り銭の計算もできねえとか終わってるだろ、普通に」

「お前が教えてやればいい。あいつの師匠なんだろう?」


 俺が教えてねえとでも思ってんのかこの盆暗公子。馬鹿にはなに言っても無駄なんだよ。

 ネブラは「知るか、あんな反抗的なガキ」と吐き捨てる。

 そんなネブラに、ラリマーは肩を竦めた。


「助言をやろう。奴隷の教育には飴と鞭が最適だ」

「奴隷じゃなくて弟子なんだわ」


 ラリマーの発言に、ネブラは唖然としてツッコんだ。ツッコまれた本人は「こういうことには慣れている。俺を信じろ」と、どこ吹く風が涼しそうだった。


「公国では奴隷制が確立されていて、規律を乱す者にはそれ相応の罰が与えられる。また、模範的な奴隷には褒美が与えられる。こうしたルールもあって、社会は効率よく稼働し、国民の安寧が保たれているんだ」

「面倒な労働をみんな奴隷に押しつけといて、なにが効率だよ」

「それを合理的と俺は考えるがな。誰だって、できることはできるし、できないものはできない。あるいは、やりたくないことはやらない。だから、他の者に任せる。当然の分業だ」


 ネブラは「調味料が切れてたから買ってくる」と、ラリマーと別れようとしたのだが、ラリマーは「わかった」と言ってネブラについてきた。


「とっとと帰れ。俺の目の前から消えろ」

「マロングラッセとまだ出会えていない」

「マロングラッセもお前なんかとは二度と出会いたくないってよ」

「へえ。お前にはマロングラッセの声が聞こえるのか。もしかして目に見えない友達の声も聞こえるタイプか?」


 そうして言い合っているうちに、二人はアップルガースの店まで辿りつく。

 ネブラが店の扉を開け、甲高いベルの音が鳴ると、中にいたギロとベルリラの視線が飛んでくる。アップルガースの兄妹たちは、店にやってきたネブラに目を瞬かせた。


「あんたか」

「ネブラさん、いらっしゃい」

「お前ら店番のくせになにやってんだ」

「ベルリラの学校の宿題が終わらなくて、手伝ってるとこ。お会計はちゃんとするから気にしなくていいよ」


 カウンターの上に広げられたプリントを覗きこむようにして、ギロは立っていた。その隣のベルリラは、椅子の上に膝立ちになったまま、握り締めた鉛筆で、プリントの回答欄を一つずつ埋めている。

 ネブラが店内に足を踏み入れると、ラリマーもそれに続く。

 霞草カスミソウ外套マントのおかげで、ネブラのすぐ後ろにいた人影に、ギロは気づいていなかった。突然現れた相手に「え、誰?」とギロはこぼし、「お前こそ誰だ」とラリマーが返した。ギロは目眩めくらましの魔法のせいでラリマーに気づけないし、ラリマーはギロを覚えていない。


「ねえねえ、ギロ、ここわかんない」

「ん。どれ」


 ベルリラに呼びかけられ、ギロは宿題のプリントを覗きこむ。四つ並ぶ紫丁香花ライラックの目がプリントの文字を追い、少し間を置いて、「ああ、これは……」とギロが説明していく。ふんふん、と素直に聞いていたベルリラが「わかった!」と鉛筆を滑らせる。出来上がった回答に、「えらい」と口角を上げるギロ。

 そんな微笑ましい兄妹の様子を、ネブラは静かに眺めていた。やがて、ギロに声をかける。


「……なあ」

「なに?」

「お前、いつもそんなことしてんの」

「そんなことって?」

「妹に勉強を教えてんの?」

「まあ、暇があれば」ギロはカウンターに頬杖を突く。「ベルリラ。そこの約分忘れるなよ」


 ギロは慣れているようで、ベルリラがミスしそうな箇所を先回りしていた。その手際のよさは、ネブラには真似できないことだ。

 ネブラとて、できることはできるけれど、できないものはできないのだ。






 やりすぎたかもな、とコメットは反省していた。

 自分の部屋のベッドに寝転び、天文図の描かれた天井を見上げ、「ネブラに悪いことしちゃった」とため息をついた。

 せっかくネブラが、あのネブラが、時間を割いて自分に教えようとしてくれているのに、勉強に嫌気が差して、逃げだしてしまった。嫌々でも、もっとがんばればよかった。これではいつまで経っても魔法の勉強だってできない。

 沈んだ気持ちで、コメットは枕に顔をうずめる。

 そもそも、なんでネブラはいきなり魔法を教える気になったのだろう。少し前までは、すぐに「弟子を辞めればいい」などと言って、いつでも見放してやろうと企んでいたくせに。

 コメットにはネブラがわからなかった。というよりも、ネブラのことをわかった試しがない。

 どうしていつも怒っているの。怒ったふりをしているの。わざと怖い顔をして、なにがそんなに恨めしくて、どうしてそんなに泣きそうなの。

 コメットはわけもわからぬまま、いつ噴火するかもわからない火山があるのを、どうにかやりすごしている。

 爆散して広がりつづける大燃焼の渦の前で、星屑にも満たないちっぽけな自分は、あまりに無力だった。


「……トーラス、いる?」


 コメットは仰向けの体勢のまま、この部屋に居候しているはずの羽虫の名を呼ぶ。たしか建国祭まではいると言っていたけれど、あの男はもうここを発ってしまったのだろうか。


「もしいたら、ネブラのことで相談に乗ってほしいんだけど」


 返事はない。トーラスどころか羽虫も姿を現さない。いたとしても、タダ働きでは絶対に動かない男だ。コメットは持ち金を取り出そうと上体を起こした。

 その瞬間、部屋の扉をノックされる。


「いるか、馬鹿弟子」


 ネブラだった。

 噂をすればというタイミングだったことから、コメットはびっくりした。

 扉の外のネブラはコメットの返事も待たず、「入るぞ」と言って扉を開ける。ベッドの上のコメットを見つけ、「いるなら返事しろや」と愚痴をこぼした。

 コメットはベッドから下り、部屋に入ってきたネブラを見上げる。目の前の彼は平然としていて、無限の宇宙のような瞳も凪いでいた。

 あ、怒ってない、とコメットは悟る。

 そうなってくると、胸の奥底に沈澱していた罪悪感が、むくむくと膨れあがる。喧嘩腰でないネブラに対して、駄々を捏ねて困らせてやろうとか、そんな酷いことは考えられなかった。

 だから、コメットは「授業を抜け出してごめんなさい」と謝った。空五倍子うつぶし色のつむじがひょっこりと顔を出した。

 そのつむじを見下ろすネブラは、「悪かったとは思ってんだな」と目を眇めた。


「うん……僕、がんばるから。明日からは真面目に授業受けるから」

「そのことで話がある。俺はもう教えない」


 ぞっと、コメットは顔を青褪めさせ、石のように固まった。

 ネブラが正気に戻った。ついに見放された。破門だ、とコメットは思った。

 息を呑んだ口元に両手を遣り、捨てられた仔犬のような目でネブラを見つめる。

 そんなコメットを眺め、こいつなんか勘違いしてんな……と思いながら、ネブラはさらに言葉を続けた。


「分業制を採用することにした。魔法以外の勉強はギロに教えてもらえ」

「……うん?」

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