第11話 火と油の混ぜかた

 ネブラが本格的にサダルメリクの手伝いをするようになって、一週間ほど経った。

 四六時中サダルメリクについて回るかと言えばそういうわけでもなく、「これを調べといて」「あそこに聞きこみをして」「そいつに伝えといて」と補助業務や使いっ走りを仰せつかることも多い。

 サダルメリクの弟子については近衛星団でも顔は知れているほうで、親しい団員などは「ああ、君か」という反応をくれる。ラリマーの身を預かっているブルース侯爵からも顔を覚えられるようになった。

 その日のネブラは、サダルメリクと一緒に、ブルース侯爵の屋敷へと訪れていた。

 ブルース侯爵オーキッド氏の邸宅して機能するこの屋敷は、貴族の住まう屋敷にしては小さく、庭を含めた敷地もそう広くはない。過度な装飾のないシンプルな外観で、内観も他の貴族の中では質素な部類だ。

 しかし、それはブルースという町が手狭であるがゆえで、その反面、たいへん財政の潤った土地であり、屋敷の細部からもそれは伺える。

 石畳舗装の洒落た小道と一年中咲き誇るカトレアの庭は、遠目からでも美しく見えるし、比較的新しい建築物であるために、構造は洗練されている。応接間の大理石の床は、レックスベナートの白とグリジオカルニコの黒が織りなす見事な格子模様で、踏み入る者の足を躊躇わせるほどだった。

 そんなブルース邸の応接間には、ブルース侯爵、ラリマー公子、その御側付きの従者に、護衛としての任務にあたる近衛星団員——サダルメリク、フォーマルハウト、カシオペヤ、レゴールの四人——がいる。

 サダルメリクの三歩後ろに控えているのがネブラだ。

 ブルース侯爵が硬い表情で口を開く。


「この五日間で連続して八回、ラリマー公子の暗殺を狙う者が現れましたね。近衛星団の尽力もあり、どれも未然に防いではいますが、移動中、就寝中、果てはブルース邸の使用人に紛れてなど……御身を預かる立場としましては不甲斐ない気持ちです」

「あまり自身を責めないでください、ブルース侯爵。下手人は全員が魔法使い。しかも、特殊な薬で力を増強させています。魔法で潜まれては、見抜けないのは当たり前です」


 近衛星団でも古株の、赤毛の団員フォーマルハウトが、静謐な声で告げた。

 次に口を開いたのはサダルメリクだ。


「捕らえた下手人には、殺害の依頼主を自白しないよう、口無しの魔法、秘密の魔法、忘却魔法と幾重にも魔法をかけられていましたが、一つ一つを反対魔法で打ち消していくことで、何人かに口を割らせることができました。ただ、殺害の依頼主を捕えても、同じように口止めのための魔法をかけられていたため、大本を辿るのに時間がかかってしまいました」

「現在の近衛星団は、さらなる証言や証拠を集め、主犯の特定に動いております。ブルース侯爵、ラリマー公子の御二方にも、情報を共有させていただきます」


 ブルース侯爵もラリマーも硬い表情でいる。

 その顔を見渡し、フォーマルハウトが言う。


「情報をまとめたうえで、公子殺害の計画者はヨーク伯爵家であると、我々は推測しています」

「ヨーク伯爵が……」

「というのも、殺害の依頼主を辿ったところ、ヨーク家の抱える魔法使いの魔力を感知したからです。また、実行犯の摂取していた詩の蜜酒を原料とする薬液は、ヨーク家から提供されたもののようでして……ヨーク家といえば貴族院の中でも特に過激派の一門だと伺っておりますし、ラリマー公子の殺害を企てたとしてもおかしくはないかと」

「もちろんヨーク家よりもさらに上の者が計画した可能性もありますが、ブルース侯爵はどのように考えますか?」

「……たしかにヨーク家は、帝国で二つしかない公爵家のうちプランタジネット家に従属する家ではあります。しかし、現当主のシラー・プランタジネット公爵は、議会でも和平を強く主張している派閥におられます。ヨーク家の独断専行と見てよいでしょう」


 アトランティス帝国の議会は二院一君主制で、貴族院、代衆院、皇帝で政治をおこなう。

 その中でも、公国との戦争を望む過激派と呼ばれる一派は、貴族院に所属していた。

 プランタジネット家は代々続く大貴族であり、貴族院でも力のある立場にいるものの、現当主は根っからの穏健派。公子殺害については無関係だというのが、ブルース侯爵の意見だった。

 それにはラリマーも賛成した。


「プランタジネット公爵には俺もお会いしたことがある。俺が帝国に来た日の夜に開かれたパーティーでご挨拶をさせていただいた。気品がありつつも気さくな方で、俺を歓迎してくれていたように見えた」

「なるほど。ですと、やはり、主犯格はヨーク家でしょうね」フォーマルハウトは頷く。「今回得た証言をもとに、事件関係者と見られるヨーク家に捜査協力を依頼しましょう。抵抗を見せるようであれば、特例威力行使Ⅰ類として、自白剤あるいは読心術の行使の許可を要請いたします」


 ブルース侯爵は苦笑して「まだ安心はできませんが、事件が解決に向かっているようでなによりです」と言った。

 ラリマーは息をついたあと、しみじみとした面持ちで「それにしても、近衛星団は優秀ですね」と口を開いた。


「アトランティスは魔法犯罪の対策における先進国ですし、法整備をおこなったトリスメギストス氏の貢献もあるでしょうが、犯罪を取り締まる近衛星団の活躍は大きいだろう。守られている立場として、とても心強い」

「ありがとうございます」ラリマーの言葉に、フォーマルハウトは微笑した。「むしろ、魔法を用いてくれるぶん、我々としては動きやすいですね。公子のおっしゃったように、トリスメギストスの功績です。魔導資格ソーサライセンス制度の副産物ですね」


 魔法を用いれば犯罪の多様性が増すのはもちろん、隠蔽工作も難しくない。それなのに魔法犯罪の検挙率が高いのは、魔力という証拠が確実に残ってしまうからだ。


「魔法使いになるために魔導資格ソーサライセンスを取得する以上、個人の魔力は登録される。魔力を照合すれば、絶対に犯人を特定できる。もちろん、魔力を消す方法もなくはないけど、現代の魔法解析技術は実に高度です。加えて、二等級以上の魔法使いの集う近衛星団ともなれば、並の魔法使いの技術では到底歯が立たない。まあ、国家警備組織の持つ魔法能力のほうが圧倒的に優れてるから、ちょっと魔法を使える程度の人間じゃ、すぐに捕まるってことですよ」


 サダルメリクが補足で説明すると、ラリマーは納得したように頷いた。


「とはいえ、問題は残っています」フォーマルハウトは声を落とす。「詩の蜜酒の薬液をどの程度ばら撒いているのかを把握できていません。大本を断つのと同じように、殺害実行の可能性のある者を確実に捕らえなくてはなりません。詩の蜜酒の魔力を追って、所在を探ってはいるのですが……相手も魔法使いです、隠匿するための魔法を使っているようですね。捜査に時間がかかっています」


 原料のわかっている薬液の魔力痕は辿れても、誰がどこで使っているのか知れない目眩しの魔法は分析できない。主犯はともかく実行犯は泥縄式に捕らえるしかなかった。

 そこでラリマーが「ふむ」と腕を組む。


「いっそ俺が囮になるというのはどうだろう。狙われやすいところにわざと出て、仕掛けてきたところを捕らえるというのは」


 ラリマーの突飛な発言に、フォーマルハウトは「えっと、それは……」と口籠る。

 後を継いだのは御側付きの従者で、「危険ですよ!」と顔を青褪めさせた。

 ブルース侯爵も「なにをおっしゃるのですか、公子」と困った顔でいる。


「俺とて平素ならこんな危険な真似をしようとは思わない」

「どうだかな」

「だが、近衛星団の面々は皆一様に優秀だ。命を預けるに値すると考えた」

「丸投げとは傍迷惑なやつ」

「……さっきからなんなんだお前は」


 ラリマーは眉を顰め、小さく刺すように言葉を吐いてきたネブラを見遣った。

 そんなネブラも、ラリマーと同じくらい眉を顰めている。とはいえ、ネブラにとってはその顔が平素だ。


「ぐちぐちうるさいやつめ。言いたいことがあるなら面と向かって言ったらどうだ」

「はあ? 俺は面と向かって言わなかったことなんて一度もないけど。お前が勝手にビクビクしてるのを棚に上げんなよ」


 あーあ、またか——そんな空気が場に流れた。

 ネブラとラリマーが衝突するのは今に始まったことではない。

 当初はおろおろしていた近衛星団の面々も、長いあいだ護衛をして、ラリマーの性格やネブラとの相性を眺めているうちに、こんなことにも慣れてしまっていた。

 古株のフォーマルハウトは微苦笑を浮かべるだけだし、カシオペヤは「このターン早く終わんないかな」とでも言いたげに目を逸らしていて、レゴールは自分の前髪を気にしていた。サダルメリクは言わずもがなだ。

 御側付きの従者とブルース侯爵だけはアワアワしていた。


「そうやってお前が身勝手なことをすると周りに迷惑かけるっていい加減わかんねえ?」

「あくまで俺は提案しただけで、意見はきちんと求めたぞ。ひとの話をよく聞いてから発言したまえよ。教養のなさが露呈する」


 ネブラとラリマーの言い合いはどこまでも続くかと思われたが、サダルメリクの「んー、でも、ありかもね」という言葉に、水を打ったように静まり返った。カシオペヤが一瞥するように「?」とこぼした。


「囮作戦。ぶっちゃけ、捕まえるにはそれが一番手っ取り早いし」

「サダルメリクってときどきそういうとこあるよね」

「いくらなんでも公子を危険に晒すのは……」

「それが偽物の公子だったら?」サダルメリクは続けた。「僕たちで公子に化けて下手人をおびきだし、逆に取っ捕まえてやるのさ」


 フォーマルハウトは考えてみる。

 作戦としてはたしかにだ。自分たちが囮になるなら被害は最小限で済む。ラリマー公子の魔力を相手方が完璧に見抜いている可能性は低い。見かけを誤魔化せば騙されてくれるだろう。たとえ戦闘になったとしても、詩の蜜酒で力を増幅させただけの一端の魔法使いに、近衛星団が遅れを取るとは思えない。

 にこやかなサダルメリクを見遣って、「やってみる価値はあります」と告げた。

 カシオペヤは「反対はしないけど、」と苦い顔をした。


「私、体質的に変身薬が飲めないんだよね。変身魔法メタモルフォーシスは、使えないわけじゃないけど苦手。持続時間は一時間もないくらいだし、変身が解けたら骨格変動の副作用でまともに動けない。足手纏いになったらごめん」

「その一時間で下手人を捕獲できれば上々です。カシオペヤの言う足手纏いというのはどの程度ですか?」

「ぎりぎり箒に乗れる程度」

「でしたら、そのときは、私のところまで飛んできなさい」

「了解」

「俺は部分変身しかできないよ」レゴールは腕を馬の足に変えて告げた。「顔だけ公子に変えてもさすがに体格でばれそう。それに、動物より人間に化けるほうが苦手だから、精度も低いと思う。幻覚魔法で対応したいな」

「相手にラリマー公子だと誤認させることが目的なので、各自が最もやりやすい手段でかまいません。発案者ですが、サダルメリクはどうですか? 変身魔法メタモルフォーシスの心得は?」

「僕? うーんと、そこそこくらいかな? まあ、大丈夫だと思うよ」

「頼みますよ。団長の許可が下り次第、他の団員にも連絡します」


 どんどん話を進めていく近衛星団の面々をネブラが眺めていると、サダルメリクと目が合った。サダルメリクは「ネブラ。君はラリマー公子といて」と告げる。


「護衛ってこと?」

「というか見張り。公子が脱走しないように。今回の作戦上、公子にはなるべく安全圏でいてほしいからね。でも、公子はとても腕白わんぱくでいらっしゃるし、前科が二回もあるから、誰かに見張っておいてもらわなくちゃ」


 ネブラはじとりとラリマーは一瞥する。ネブラが鼻で笑ったのと、ラリマーが口を開こうとしたのは同時のことだった。

 そこへ被せるように御側付きの従者が「本当ですよ」とラリマーに言った。出鼻を挫かれたように、ラリマーが息を止める。


「二度も一人で市井まで下りて……万が一その御身に傷がついたらどうされるのですか。こんな状況で勝手な振る舞いはなさらないでください。せめて私を連れていってくださればよいものを。このままでは私の胃に穴が開きます」


 ラリマーの御側付きの従者である男ルピナスは、寠れた顔で言った。

 主人の危機感のなさを補って余りある心配性で、公子殺害の魔の手がブルース侯爵邸の中でも及んだときは顔を蒼褪めさせたほどだった。

 今の従者の姿も憐れを誘うもので、さしものラリマーも申し訳なく思い、「すまない」とこぼした。


「第一、魔法使いになるというのも、私は反対でした。他の勉強や父君から任された通常業務で手一杯のはずでしょう。国を治めるためとはいえ、魔法の扱いは従者にでも任せればよかったのです」

「お前が魔法使いになるには魔力量が足りないだろう」

「別の者を雇ってもよかったという話です!」ルピナスは声を振り絞った。「未来の公国の君主たる貴方が時間を削ってまで学ばなくとも、貴方の配下がすればよいこと。わざわざご自身が魔法を使わなくともよいではありませんか」

「ううむ」


 ラリマーは顎に手を当て、首を捻った。ややあってから、再び口を開く。


「そういう話を突き詰めると、俺が国を治めなくてもいいという話にならないか?」


 ルピナスが言葉を失う。そんなルピナスへ「それこそお前でもいい」とラリマーは告げた。そんなわけがない。ルピナスは首を振って否定した。ラリマーは「俺もそう思う」と返す。どっちなんだ。わけもわからずに目を白黒とさせているルピナスへ、ラリマーは言葉を続ける。


「俺は公子で、将来は国の君主として皆の上に立つことが決まっているが、もしも死んだら、別の誰かが俺の座に就くだろうな。あるいは、父の気が迷って、突然違う者へ継承を許すかもしれない。俺は公子として教育を受けてきたが、俺が生まれるよりも先にその素養を身につけていた者など、探せばいくらでもいる」


 ラリマーは傲慢だが、主観的のようで達観的だ。自分の立場を誰よりもわかっているために、公子という地位の重みも、あるいは自分個人の空虚性も、しかと受け止めている。


「それだけじゃない。アメトリンさまと婚約するのだって、俺じゃなくともかまわないんだ。所謂いわゆる政略結婚だが、別の方法で国の親交を深めることだってできるだろう。俺の人生に付随するありとあらゆるものは、俺である必要がないんだ。俺が公子だったから与えられた。天地がひっくり返っても覆せない運命みたいなものに決められたから、俺はえらいんだ」

「……ラリマーさま」

「俺は俺にふさわしくなりたい」


 尊くあてなる星の下に生まれた少年は、己の運命を飲み干している。光の照らす海のような、透き通った瞳は、ただ静かに凪いでいた。

 そんなラリマーを、ネブラはじっと見つめていた。


「俺が魔法使いになって、恭順の魔法で奴隷を統率し、国力を上げることは、我が国だけでなくアメトリンさまのためにもなる。降嫁する皇族は、大概は身分が下がったことで婚前より侮られることが多い。それは嫌だ。俺と結婚することで箔がつくくらいでないと、伴侶として申し訳が立たない。昔から、歴史に名を残せるような一廉ひとかどの人間になるべしと言われてきた。俺はただの公国の君主としてではなく、アトランティスの姫君の嫁ぎ先としてではなく、ラリマーとして生きて、名を残したい。そういうのは、理由になるか?」


 ルピナスは口を噤んだ。黙らされたのではなく、言うべき言葉がなくなった。

 やがて、ラリマーは近衛星団の面々に視線を遣る。意志の強い瞳が煌めいた。


「俺は死ぬわけにはいかない。魔法使いの騎士よ、よろしく頼むぞ」






 人気のない裏路地で、豊かな水色の髪の少年が、背の高い女に追いかけられている。

 女は髪を振り乱しながら、魔法で光線を飛ばしていた。少年の華美な装いに命中した瞬間、それは無惨に溶け消える。その身に当たれば命はない。女の高笑いが青空に響く。


「悪いわね、ラリマー公子! あんたに恨みはないけど、殺せば大金が手に入るのよ! 人助けと思って死んで!」


 再び呪文を唱えると、幾重もの光線が少年へと伸びた。万事休すかと思われたとき、少年が半身で振り返る。その唇がなめらかに唱えた。


「“.ピリオド”」


 たちまち光線は終息する。まっすぐに伸びるがままに消えたようにも、透明の壁にぶつかって吸いこまれたようにも見えた。

 女は目を見開かせて、足を止める。

 振り返った少年も、その場に佇んだままだ。

 たしかに魔法だった。ただし、彼のである短剣は抜かれていない。彼が胸の前に出した左手には、椰子ヤシの葉のような羽根ペン。それを握る、白いデミグラブの指先では、ガーネットのような赤い爪紅が輝いている。羽根ペンにもその爪にも、女の魔法へ見事に終止符を打った、きらきらとした魔力の名残を帯びていて、二対で杖になることがわかる。


「“§セクションオベリスク”」


 少年が唱えると、女の足元が円状に光りだし、錨鎖びょうさが伸びる。

 それは女の体を拘束し、指の一つも動かせないように縛りあげた。続いて打たれた短剣符の響きにより、現れた銀のナイフの群れが女の頭上で螺旋する。殺戮の小鳥のように優雅な旋回。呪文を唱えれば刺し殺してやると脅しているかのようだった。

 つい数瞬前までの優勢の覆る魔法のような出来事——否、魔法。詩の蜜酒の薬で増強されたはずなのに、目の前の彼に魔法で敵うことは絶対にないと思わされた。

 女は戦慄わななきながら彼を見つめる。


「“∴□ゆえに完了”」


 ごもごもと粘土で捏ねられるように、少年の顔が蠢く。少年の小さく呻く声が、少しずつ高いトーンへと移りゆく。それに伴って、少年らしいしっかりとした骨格も徐々に縮んでいった。

 時間にして十秒ほどの転変だ。

 もうそこにラリマー公子はおらず、水色の髪ではなくピンクアーモンドの髪が、海のように涼しげな眼差しではなく引力のある桃花眼が、文字どおり姿を現す。彼よりも華奢な体は、着こんでいた華美な服の裾や袖を余らせている。指先はガーネットに染まっていた。

 元の姿に戻った彼女——カシオペヤは、「“出てきて箒ちゃん”」と呼んで目の前に自分の箒を引きつけ、崩れるように凭れかかった。


「タイムアップ……ぎりぎりだった、無駄骨かと思った。とりあえずこの女の回収は他のひとに任せていいよね? 早くフォーマルハウトと合流して匿ってもらおう。いまの私は生れたての小鹿、ぷにぷに捻れる赤子の手、名前の書いてないプリン……」


 そんなことをぶつぶつと呟くカシオペヤに、女はさらに混乱した。目の前にいる、自分よりもよっぽど格上の魔法使い——ただし何故か弱っている。攻撃は一寸も当たらなかったはずなのに——を眺めることしかできなかった。そして、自分が失敗したことも悟る。ラリマー公子だと思って追い回していたのは偽物だったのだ。


「貴女、何者……?」


 戦々恐々とした面持ちでとこぼす。

 ぐでんぐでんになったカシオペヤは、箒に体重を預けながら、へらりと笑ってみせた。


「魔法使いの騎士。近衛星団だよ」


——あちこちで決行されたラリマー公子に扮するという囮作戦は、計画していた以上の功を奏していた。

 まず初めに、帝都の南側で、フォーマルハウトが五人組を一網打尽にした。それを皮切りに、出るわ出るわ、面白いぐらいに下手人が捕まる。どれも三下もいいところで近衛星団の足元にも及ばないものの、詩の蜜酒のおかげで魔法の威力は並大抵のものではない。騒ぎが大きくなる前に事を収め、下手人の捕縛と聴取に努めた。

 レゴールがまた下手人を捕えたという報せが団員のもとへ届く。これで三度目だ。彼は自身の杖でもある手櫛で前髪を整えながら葉書を書いて送ったに違いなかった。

 サダルメリクも見事な変身魔法メタモルフォーシスで相手を欺き、傷一つつけずに眠らせた。店の窓硝子に移ったいまの自分の姿ラリマー公子を見遣る。日差しの当たった毛先にペリドットが透けているのを見つけて、「トーラスほど完璧に、とはいかないね」とため息をついていた。

 捕らえられたのは実行犯だけではない。近衛星団がヨーク家へ調査に赴いたのを、ヨーク伯爵が門前で拒否、特例威力行使Ⅰ類が適用され、その場にいた団員の一人が読心術を行使した。公子殺害未遂事件の黒幕がヨーク伯爵であったことが発覚し、殺害を計画した主犯として、ヨーク伯爵も捕縛された。ヨーク家の魔法使いや他の家の者も身柄を拘束し、詳しい話を聴くことになっている。

 そんな旨の葉書が、侯爵邸に残るネブラのもとにも届いていた。近衛星団が葉書の台紙として使用する、白地に金のラインの入ったリボンが、ネブラの指の間でするりとたわむ。


「この様子だと、明日にでも事件は解決するだろ。お前を殺そうと計画したやつも、依頼されて実際に実行に移したやつも、みんなまとめて捕まる。よかったな。やっと平和にすごせるぞ」

「よくない。俺の拘束を解け」

「やだね」


 応接間のソファーにだらんと座るネブラは、真正面のソファーの上に寝転がされたラリマーを眺めている。

 ラリマーは、部屋にあったカーテンのタッセルに、腕ごと縛りあげられていた。外套マントまでくるんと巻きこんでいるおかげで、束ねられたカーテンのようにも見える。

 こんな仕打ちをしたのはネブラだ。魔法でラリマーを拘束して五分ほどは、その滑稽な姿に「ヒャーッ!」と笑い転げていたものの、飽きてからはただ無感情に眺めている。拘束を解いてやらないのにも理由がある。

 サダルメリクに言いつけられたとおり、ネブラはラリマーの見張りをしていた。ネブラは隷属することに慣れているため、愚痴を吐きながらも、真面目に仕事をこなしてしまうのだ。そのため、隙を見て脱走を試みたラリマーを魔法で縛りあげ、阻止するに至った。

 渋々引き受けた仕事だったけれど、正当な理由でラリマーに魔法を行使できたのには、なかなか胸のすく心地がした。心にゆとりのあるネブラは、長い足を組んで、「お前いい加減にしろよ、」と目を眇める。


「俺は死ぬわけにはいかない、よろしく頼むぞ、とか言ってたくせに、結局死にに行こうとしてるだろ。やめとけ。あとは先生たちに任せてお前はここにいろ」

「公子である俺にこんなことをしてただで済むと思っているのか」

「ざは~んね~ん」ネブラはあくどい笑みを浮かべる。「お前の身を守るためなら魔法を使ってもいいって先生に言われてんだよ。俺はお前を守るために、仕方なく、仕方なくこんな手荒い真似をしてしまっただけなんだ」

「下衆野郎……」

「あ~~そのおしゃべりな口を放置してたら舌嚙んで死んじゃいそうだな~~牛乳拭いた雑巾でも詰めて黙らせてやろっかな~~~~」


 ラリマーは親の仇でも見るような目でネブラを見たが、ネブラはふんぞり返って「雑巾越しの牛乳の味まで知れるなんて、遥々アトランティスまで遊学しに来た甲斐があったな、公子さま」とさらに煽る。悪魔も拍手を贈るような非道ぶりだった。


「ヨーク伯爵は捕まったし、あとは詩の蜜酒の薬液を持たされた魔法使いを見つけることだろ。近衛星団に任せたほうが早い。手柄を立てたいとか、矜持を守りたいとか、そういうのはわからんでもないが、普通にお前の出る幕はねえよ」

「うるさい。お前にわかってたまるか」ラリマーは顔を顰めて言う。「俺は国を代表して来ているんだ。やられっ放しなんて冗談じゃない。俺を殺そうとした時点で我が国への侮辱だ。歴史に名を残す俺の礎にしてやる」

「公族殺しの悲しい歴史にお前の名が残ったりしてな。次の君主が消えたことにより、奴隷も解放されれば、時代遅れの公国も少しは前進するだろうよ」

「俺が消えたくらいでは奴隷は解放されない。そんな柔な構造で奴隷制度は成り立っていない」

「はいはい、そうですねえ。お前の言う、天地がひっくり返っても覆せない運命みたいなものだ。そういう星の下に生まれちまったら、それで終わり。そういう世界だよな」

「それがどうした」


 ぐるぐる巻きにされたままのラリマーが、訝しい顔でネブラを見ている。

 こんな状況でもえらそうな、ネブラにとっては鼻持ちならない人間。

 サダルメリクに頼まれた仕事でなかったら、絶対に自分からは関わろうとしない相手だ。己は尊いのだと己自身がいっとう信じている、宝石のように堅く、星のように眩しい境遇が、あまりに自分とは違うので。自分はみじめな塵屑ごみくずだと思い知らされるので。

——屑は屑でも星屑だ。

 いつか囁かれた言葉が瞳の奥で瞬く。


「……遅いな、ルピナス」


 ラリマーがぼそりと呟いた。ルピナスは先刻水差しを取りに行ったまま、戻ってきていない。


「こんなに広い屋敷なら時間もかかるだろ」

「広いか?」

「ブルース侯爵に謝れ」


 そのとき、鐘の音が鳴る。

 ブルースの屋敷に鐘塔はない。町の時報や警鐘でもない。この出どころのない大きな音色は、ラリマー公子殺害の実行犯が屋敷に侵入したのを受け、近衛星団が屋敷にかけた魔法によるものだ。見知らぬ魔力を感知すると、警報音として響く仕組みになっている。

 ネブラとラリマーは身を強ばらせた。

 そのとき、応接間の扉を、切羽詰まったルピナスが開ける。


「侵入者です! 安全のため、ラリマーさまは裏口から避難しましょう! 私がお連れいたします、急いで!」


 ネブラはラリマーにかけた魔法を解く。

 ルピナスに先導され、ラリマーとネブラは応接間を出た。

 小走りで廊下を渡ると、交わった廊下を忙しなく駆ける使用人の姿が見られた。ルピナスは「ここは彼らに任せましょう」と声を潜めながら裏口を目指す。

 相変わらず鐘の音は響く。

 この時間、屋敷の裏口は日陰になる。使用人が業者とのやりとりで用いるための玄関ということで、目立ちにくく、扉も狭い。

 ルピナスがノブを捻ると、乾いた風が吹きこんだ。カトレアの香りは遠い。


「こんなに人気ひとけのないところだと、かえって危ないんじゃないのか?」

「使用人の皆さんに武術や魔法の心得のある者などいないでしょう。巻きこんでもよいのですか」

「俺が死ぬことに比べれば」

「お前は本当にもうこれ以上しゃべるな」

「違う。ルピナスがそうなんだ」ラリマーが続ける。「俺が死ぬくらいなら自分や周りが死ねばいいと思っている。こいつはそういう従者のはずだ」


 裏口の扉を後ろ手に閉めながら、ネブラは空気がぴりついたのを感じた。

 前を歩くルピナスもラリマーも振り返ることはない。石畳の歩道の上で立ちつくしている。

 お互いの出方を伺うような張りつめた間。

 ややあってから、ラリマーが口を開いた。


「……ルピナス。アトランティスに出立する日、最後に食べた料理を覚えているか? 将来この料理と結婚したいとお前が言っていたあれだ」


 ルピナスは振り返り——勢いよく杖を抜く。呪文を唱えた次の瞬間、銀光りする杭が突如として現れ、ラリマーを突き刺さんと宙を走った。


「“不可侵水域侵すべからず”」

「“ご機嫌いかが? 石畳さん”」


 ラリマーはすぐさま防御壁を展開し、ネブラはルピナスの足元を崩す。

 放たれた杭は防御壁を破ったものの刺さっただけで、ラリマーに届くことはなかった。

 一方、ネブラの放った魔法で石畳は「きゃー!」とはしゃぎ、ルピナスは体勢を崩す。その隙に、ネブラはラリマーの襟を引っ掴み、屋敷の中へ引き返していった。

 二人は裏口から屋敷へ戻り、廊下を駆け抜ける。いつまでも喧しく響いていた警報音が止まった。ルピナス——の姿を模した魔法使いが、無理に干渉して止めたのだ。


変身魔法メタモルフォーシスか」ネブラは舌を打つ。「いくら詩の蜜酒のおかげで力が増強されてるったって、変身魔法メタモルフォーシスは上級魔法だぞ。近衛星団に所属する魔法使いでも全員が使いこなせるわけじゃねえ。あいつ、これまでの三下とは訳が違うな」

「警報音が鳴れば近衛星団も感知するんだったか。となると、ここに駆けつけるのも時間の問題か……それまでに片づけるぞ」

「それまで逃げつつ持ち堪えるんだよ。相手は絶対に格上。普通に負ける」

「使用人のいないところまで逃げてから応戦するぞ」

「耳だけ母国に置いてきたんか?」


 駆ける最中もラリマーは“不可侵水域侵すべからず”を展開しつづける。魔法による攻撃が矢のように降ってくるのを感じていた。あの魔法使いが追ってきているのだ。

 緊張で強張る体に鞭を打つ。冷や汗の伝う顔を横目にしながら、ネブラは背後へ痺れの魔法を撃った。

 撃たれた魔法使いは稲妻を浴びたように身を竦ませる。震えながら膝をついたものの、すぐにネブラの魔法を解いてみせた。

 ネブラは鼻を鳴らす。やはり教本にあるような魔法ではすぐに対処される。基本ばかりで応用のない、手数の少ない己が、どこまで太刀打ちできるか。

 そのまま走る二人が辿りついたのは、大きな扉。力強く開けると、そこは舞踏室だった。

 緋色の衣を纏う天使たちの天井画に、あちこちを飾る管弦楽器のレリーフ。中二階のオーケストラボックスを除いて、壁は窓で埋め尽くされている。静謐なムーングレーの空気に、さらさらとした外の光を迎えていた。

 足音の気高く響く硬質なフロアは、まるで鏡を張ったように、床から上の景色を反射する。息を切らした二人の少年と、それを追って辿り着いた人影。

 魔法使いは、ルピナスの顔を歪めて、ラリマーを見据えていた。

 その目にはありありとした殺意がこめられている。


「……ルピナスはどうした」ラリマーが言う。「お前が姿を借りている男の名前だ。あいつは無事なのか」

「殺してはいない」ルピナスの声で、魔法使いが言う。「眠らせただけだ。俺が殺したいのはお前だけだからな」


 ラリマーは「そうか」とこぼす。その声にはわずかに安堵が乗っていた。

 次に口を開いたのはネブラだった。


「お前の雇い主も、大本のヨーク伯爵も、みんな近衛星団に捕まったぞ。どれだけ金をもらったかは知らんが、もうなにもかも無意味だ。こいつを殺すなんてやめて、金だけもらってとんずらするのが、賢いやりかたじゃねえの?」

「金のためではない。アトランティス帝国のために、この男は死ぬべきだ!」


 強く返ってきた言葉に、ネブラは瞠目しながらラリマーに耳打ちする。


「どうする、思想の強い相手だぜ」

「何度も言わせるな。俺は死ぬわけにはいかない」


 そのようにこぼしたラリマーは、短剣を握る力を強くする。


「——俺は、首都から遠く離れた沿岸の田舎に住んでたんだ。その土地の名家で働く女性に恋をしていた」

「自分語りが始まった」

「——しかし、彼女はある日、姿を消した。彼女は奴隷だったんだ。公国はユニコーンの角をアトランティスに輸出する条件として、奴隷という名の人材の輸入を提示した。それを了承したアトランティスは全国から奴隷を集めて公国へと売り渡した……彼女もそうだった」

「近年、アトランティスの奴隷の数は少なくなっていったが、それは魔法の発展だけでなく、我が国への流入も理由にあるわけだな。見聞を深められた」

「言ってる場合?」

「——人を人と思わない悪魔の国め……“彼女を奪った公国も、お前のような人間も、消えてなくなってしまえばいい”!」


 怒りと憎しみに塗れた声が呪文になる。魔法使いの掲げた杖の先で、みるみると杭が錬成されていく。

 いくつもの糸車からほどかれ、太く編みあげられるように。まさに巨大な槍。その切っ先を鮮血に染めあげるためだけに生まれた銀の化け物。

 目の前の少年の心臓を一突きにせんと、獰猛な魔力をこめられる。

 ふい、と杖が下ろされたその瞬間、弓の弦から放たれたように、杭はラリマー目がけて飛翔した。

 ラリマーは“不可侵水域侵すべからず”を幾層にも重ねる。そうして展開された多重の盾を、杭は勢いよく突き破っていった。

 ラリマーは魔力をこめて盾の強度を上げる。それでも圧されるような迫力を感じ、咄嗟に身を屈めると、杭はとうとう最後の盾さえ突き破って、貫通したまま静止した。

 ラリマーはそれを呆然と見上げた。

 強い。

 自分の魔法では防ぎようがない。

 しかも、強化した多重の盾を一度に展開してしまって、魔力がごっそり削られた。目の前に鏡があったなら、ラリマーは自分の顔がひどく蒼褪めているのを知るはずだ。指先が痙攣し、短剣も震える。

 しかし、対峙する魔法使いもただでは済まなかったようだ。

 背を丸めて呻きながら、顔を押さえている。粘土で捏ねられるようにルピナスの顔が蠢く。

 攻撃魔法に魔力を割きすぎて、変身魔法メタモルフォーシスが不安定になったか。あるいは、すでに制限時間を迎えていたのか。骨格変動は落ち着いたものの、変身魔法メタモルフォーシスは中途半端にしか解けず、魔法使いの顔は飛礫つぶてを浴びたように悲惨なものになっていた。喘鳴を上げながら、なおもラリマーを睨んでいる。


「……あの魔法をもう一発撃たれても、耐えられる気がしないな」ラリマーはネブラへとこぼした。「おい、なにか策はあるか」

「言ったろ、格上だって。逃げつつ持ち堪えるしかねえよ」

「耐えられる気がしないから聞いたのに。お前の魔法の腕はそんなものか」

「は? 無策とは言ってねえだろ!」


 ネブラが杖腕を上げる。対峙する魔法使いはわずかに身を強張らせた。と、そこで目を見開かせる——火薬のような匂いがした気がした。

 異変に気づいたときにはもう遅い。舞踏室に充満する魔力の気配。ラリマーもわずかながらに嗅ぎ取って、したり顔でいるネブラを見遣る。

 ネブラの身から魔力が揮発していく。空気に触れては結びつき、散らばって拡がる。その魔法を奏でる前のネブラは午時葵シスタスに似ている。目に映るものはみんな燃やしてやるのだと、その魔力が嗤っている。

 自分の魔力が炎と相性がいいことには、ネブラとて気づいていた。

 サダルメリクと出会った当初、彼は「火が喜んでいる」とネブラに言った。旅館の火災も、いくら酒精が高いとはいえ、燃え広がるには早すぎた。魔法を習うようになってからは調理時も魔法で補助をすることが多くなったけれど、かまどに火を起こす魔法は他のどの魔法よりも容易に使えた。

 日々の実感として理解する。自分の魔力はよく燃える。ならば、それを利用しない手はない。

 この世界を火の海にするというネブラの悲願には、膨大な火を起こすだけの魔法が必要だった。グリモワ図書館で管理されているような既存の魔法では、それを打ち消すための反対魔法も多く存在する。誰にも消せない、止められない火を起こすには、自分で魔法を作るしかなかった。

 とはいえ、自分の魔力量を考えれば、世界を丸呑みにするような火なんて起こせるわけもない。

 そこで考えたのが、周囲に自らの魔力を薄く漂わせ、火をつけるという方法。唱えるのは発火呪文だけでいい。多量の魔力を垂れ流す必要はあるけれど、誰にも気取られないという点においては、ネブラが考えるかぎり、最もふさわしいやりかただ。

 炎に好まれるという魔力の性質を利用した、呪いのような不気味な怪火ウィル・オー・ザ・ウィスプ

 煉獄のように惨憺たる世界で、ネブラの隻腕が手にした、一掴みの藁。


「“愚者の灯火イグニス・ファトス”」


 ネブラが唱えるや否や、杖の先で火がふわりと芽吹く——すると、酸素を多分に吸いこんだように炎は盛った。

 魔力を伝って瞬く間に空気中を走るフラッシュオーバー。窓硝子にピシリと亀裂が入る。鮮やかな火炎の織りなす祭宴に、視界が焼き尽くされる。炎の波。燃焼のオーロラ。火の粉が花弁のように散る。焰の華が咲き乱れる業火の楽園。

 ラリマーは呆然とその様子を眺めていた。肌で感じる熱のせいで、あらゆる感情が蒸発していく。水色の瞳に映るのは轟々と猛る炎だけ。舞踏室はすっかり灼熱で塗り潰されて、窯の中を思わせた。

 対峙していた魔法使いも水の魔法を唱えるが、火力が強すぎた。魔法使いの周辺を鎮めただけだ。

 もっと強い魔法をと、魔法使いはさらなる呪文を唱える。突如現れた水流は猛る炎を瞬く間に消すや、飛沫を上げて消えていく。淡い虹が小さく架かる。鮮やかな魔法だった。しかし、詩の蜜酒の薬液の効果が切れていくのがわかった。それなのに、火種はまだ残ったままだ。再びネブラの魔力が広がっていくのを感じて、己の魔力が震える。

 大がかりな魔法だったというのに、ネブラはぴんぴんしていた。ネブラの魔力量はそう多くはないけれど、魔力を希釈して広めている。魔力操作の賜物だ。最低限の魔力消費であれだけの炎をネブラは起こせる。

 そのことにラリマーは訝しんだ。


「隠し玉か? 何故それをすぐに出さなかった」

「俺はこの火を終わらせられないから」

「は?」

「俺の作った未完成の魔法なんだ。この魔法には結びフィーネがない。誰かに消してもらうことが前提になる。火力に見合う水魔法を使うには俺の魔力の持ち合わせじゃ無理だ。うっかり本気で使えば、最悪、俺たちまで焼け死ぬんだよ」

「そういうことは使う前に言え!」


 魔法使いは杖を振るい、残った火種を消した。肩で息をしている。歪んだ顔には激痛が植わっている。それでも感情のままに、絶叫するように訴えた。


「そんなやつを守ってなんになる——! 公国など、人をごみとしか思わない連中の集まりじゃないか! 自分は高いところに座って見下すだけ! そいつに守るだけの価値などない!」


 ネブラは眉を顰める。

 言われなくとも、ネブラから見てもラリマーに守るほどの価値なんてない。多くのものが無価値であるネブラにとって、ひときわ意味のない存在だ。

 不遜にして愚直。勝手に人を踏みつけて、自分は綺麗なお星様気取り。自らを尊いと思っている相手に、人間の命の重さなんて説いても無駄だ。サダルメリクに頼まれなければ、絶対に自分からは関わろうとしない。自分はみじめな塵屑ごみくずだと思い知らされるので。

 けれど、いつかこの世界と同様に灰にしてやるのだから、どうだっていい。いつもしているように許してやればいい。それなのに、何故。

 何故、自分は怒っている。

 ラリマーを前にすると平静ではいられない。本気で怒ることの少ない自分が我を忘れて声を荒げてしまう。火山が噴火しそうになる。揮発した魔力が火気を帯びる。唱えてもいない魔法が現れる。出会ってからずっとそうなのだ。

 ネブラの憎む世界を体現したかのような少年。きっとネブラが星を見上げたときに幸せだったはずだ。ネブラがなにかを失くしたときになにかを得たはずだ。自分とは違う星の下に生まれたというだけで、めらめらと燃えたってしょうがない。

 俺は俺にふさわしくなりたい、俺として生きたい——その気持ちは、わかるのに。


「わからない」


 ラリマーがきっぱりと言った。

 ネブラと魔法使いは肩を震わせ、ラリマーを見つめる。

 ラリマーはその視線を受けてもなお、堂々と言葉を続けた。


「俺には価値があるかもしれないし、ないかもしれない。でも、価値があるようにと望まれたから、俺は公子として生まれて、いま、生きている。そういう星の下に生まれた。だから俺は、俺の人生の上で為すべきことがある。お前がそれをわかっていないだけだ。俺はわかっているから、こんなことだって言える」


 魔法使いを見据える水色の瞳は凪いでいる。

 あくまでも高貴な身のこなしで、凛然と口を開く。


「奴隷になんて生まれて可哀想に」


 ひゅうっと息を呑んだのは誰だったか。

 対峙していた魔法使いは「貴様ぁ……!」と怒りに震える。

 そんなことは気にも留めず、ラリマーがおもむろに振り向いてこちらを見たので、ネブラはさっきの息が自分のものであることを悟った。

 そして、ラリマーの瞳に、もう一つ悟る。

 眼差しには、魔力には、吐きだした言葉には、心が宿っているものだ。なんとも言えない表情で自分を見るラリマーはあまりにも雄弁だった。

 ネブラもだと、いつから気づいていたのか。


「……でも、俺には関係のないことだ。天地がひっくり返っても覆せない運命みたいなものに決められただけで、そういう世界だったというだけで、どうしようもない。俺は俺の人生のために必要じゃないものは顧みないんだ」ラリマーはあるかなきかの笑みを浮かべた。「……ごめんな」


 気づいていてなお、気づいているからこそ、ラリマーはそう言い切った。それは、ネブラに伝えられる最大限の誠意だった。

 けれど、それがどれだけネブラの心をずたずたに引き裂いたか、ラリマーは知らない。知っていても顧みない。

 ずっと命知らずの阿呆だと思っていた。蝶よ花よ宝石よと育てられた世間知らず。

——阿呆は俺だ。

 ネブラの魔力が煮えたつ。心の底から沸騰した途端に泡が破れて、それは勢いよく発散されていく。触れれば肌が爛れそうなほどの熱量だった。

 傷が、怒りが、憎しみが火種になるのだ。魔力には心が宿っているから。我が身さえ脅かすだけのグロテスクで、呪いに満たないものを紡いでいく。


「とんだまぬけだぜ……」


 ネブラの声は低く唸る。血反吐を吐きだすようだった。自嘲まじりの吐息。掠れたのは、身を焦がすほどの熱で声が嗄れたから。笑ったのは、吹っ切れてしまったから。先走るように杖の先に炎が灯る。


「こんなやつに理解さわからせようとか、考えるほうがどうかしてたわ」


 爛々とする虹彩につられるようにして爆発する“愚者の灯火イグニス・ファトス”。炎熱はドラゴンさながらに唸る。地獄を超えるおぞましさで火花が咲き乱れる。ネブラの哄笑で火力が増した。頭に血が昇って狂ってしまいそうだった。

 決めた。その時が来たら、まず一番に燃やすのはラリマーお前だ。絶対に燃やす。絶対に許せない。この怒りを糧に、燃料にしてやる。俺とは相容れないこの野郎は、俺の復讐に必要だ。

 火花を上げて湧きたつ炎は、舞踏室一面に広がっていく。熱風で髪を靡かせたラリマーが、ふっと笑った。短剣を構えて「俺たちまで焼け死ぬんじゃなかったのか」とネブラに言う。


「やかましいわ。どうせ酸素不足が先に来る。そしたら倒れたあいつを抱えて窓から脱出だ」

「助けるのか」

「近衛星団に突きだす。殺しはしねえよ」ネブラの蟀谷こめかみを汗が伝う。「でも、マジで止められる気がしねえから。その前にこの建物ごと全部焼けちまうかもな。ブルース侯爵に悪いぜ」

「弁償しよう。燃えて困るものには、俺が盾になる。お前は心置きなく焼き尽くせ」


 ラリマーは言うが早いか、静かに目を瞑って、短剣を指でなぞる。形のいい唇が息を吸い、「“不可侵水域侵すべからず”」と呪文を唱えた。

 すると、ネブラとラリマーを覆う正方形の盾が現れる。ネブラの炎を遮断する。熱さえも届かない。


「音は通過する」ラリマーが告げた。「ので、魔法は使える。俺の意のままに物質や現象を遮断できる結界だ。便利な盾だろう? 俺の作った魔法なんだ」

「自慢はいい。イラつくから」


 必死に炎を切る魔法使いは汗だくになっていた。服の端は焦げ落ちて、火炙りにかけられたみたいに、皮膚もすっかり火傷している。

 それでも選び取ったのは、ラリマーを殺すことだった。最後の力を振り絞るように、杖を掲げる。魔力をこめれば銀の杭が錬成されていった。ネブラの炎を吸って赤く輝く。

 それを見たラリマーは盾を重ねた。

 魔法使いは憎しみに張り叫ぶ。


「殺してやる! 公子も、公子を守ろうとするお前も! お前らのような人間に生きている資格などない! 社会のごみが——!」

「はあ? なに言ってんの? ごみはごみでもなあ、」


 熱に浮かされたままのネブラは、弟子の言っていた言葉を思い返して、なにかが違うことに気がついた。途切れた言葉はどこにも行けなくなる。似合わないことを言おうとするものじゃなかった。底が知れた。


「……いや、ごみはごみだわ」


 鼻で笑って、ネブラは杖を振るった。

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