第4話 52Hzの鯨

 サダルメリクは気遣いのできる魔法使いだったので、無一文身一つでブルースまでやってきたコメットに対して、「お小遣いいるよね」と気づいた。

 無論、それを真に受けるコメットではない。遠慮に遠慮を重ねて首を振りつづけた。

 しかし、サダルメリクは「女の子の身の回りに必要なものなんてよくわからないし、欲しいものを買っておいでよ」と言って、そこそこの大金を押しつけてきた。

 コメットの服や下着はサダルメリクが用意したものだが、これ以上自分のものを揃えさせるのはたしかに申し訳ないかも。そう思い至ったので、コメットはありがたくお小遣いを頂戴した。

 もらってしまえば遠慮は消滅した。なにせ帝都に来たのは人生で初めてで、先日訪れたような商店街を見たのも初めてなのだ。いろんなところを見て回りたかったし、心躍るものがあれば買ってみたかった。はっきり言って浮かれていた。コメットは十五歳の子供である。物欲が湧くのはスプラウトの発芽より早い。

 北通りで部屋を飾る雑貨を見て、西通りで靴下や洋服を見て、南通りで珍しいお菓子を買った。もらったお小遣いはすぐに消えた。

 孤児院では自分の財など持ったためしのなかったため、コメットはお金の遣いかたというものを知らなかった。あれば使う。なければ使わない。単純な思考は一見すると浪費家である。

 しかし、サダルメリクはそれを叱ることも、お金の遣いかたを諭すこともしなかった。渡した翌日には使い果たしたという報告を受けて、あろうことか「アリャ、少なすぎたか」とさらに小遣いを握らせた。サダルメリクも大概に常識を知らない。

 おかげで、連日、商店街に通うことのできたコメットは、あの日訪れたアップルガースの店に一人で尋ねてみることにした。

 店に入るなり、妖精猫ケット・シーから「いらっしゃい」と出迎えられる。そのそばには見知らぬ男がいて、ネブラの言う「旦那」だとわかった。

 ベルリラやギロはいないかな、と思っていると、二階から「コメット?」というかわいらしい声が聞こえた。綿飴のように甘い目をぱちぱちさせたベルリラと、その目を程よく冷やしたように静かな眼差しのギロが、コメットを見下ろしていた。

 それからコメットはベルリラとよく遊ぶようになった。

 アップルガースの店を尋ねては、商店街の中央の広場でおしゃべりをする。音楽隊の演奏を聞いて、ベルリラの人形遊びやおままごとに付き合って、たまにそこへギロも加わって、日が暮れる前には手を振って別れた。

 今日もコメットはベルリラのもとへ遊びに行った。寄り道して買ったチョコレートヌガーを手土産にしたところ、ギロも釣れた。ギロが甘いもの好きだというのは最近知ったことだ。甘いお菓子を持って行けば、七割の確率でギロも付き合ってくれる。

 広場の芝生の上に座り、他愛もない話に興じた。風が吹いて髪が靡いたとき、二人の話をずっと傍聴していたギロが「コメット、」と会話を割った。


「その頭どうにかならないのか?」

「突然の悪口? 僕ってそんなに馬鹿?」

「脳みそじゃなくて髪」

「どうにかなってない?」

「どうにもなってない」


 コメットは空五倍子うつぶし色の襟足をなぞった。ざっくりと切り揃えたへんてこな髪を、髪飾りで誤魔化してあるのだ。

 ネブラにしてやられたのを、サダルメリクがなんとかしてくれた結果である。結果はどうにもならなかったようだが。

 ギロは「貸してみろ」と言って手の平を見せた。コメットは一瞬わからなくて、身を屈ませるようにして、その手に自分の頭を乗せた。ギロは「えっと、違くて」と動揺しながら、もう片方の手でコメットの髪飾りに触れた。尾を引く星がきらきらと光った。優しい手つきでそれを外す。

 手慣れたようにコメットの髪を梳き、結わえるように整えていく。コメットは毛繕いされているようで心地が好かった。髪がゆっくりと引っ張られる感覚も、丁重にもてなされるのも、嫌ではない。

 とろんとしているあいだに作業は終わっていたらしく、ギロが「できた」と告げたのち、ベルリラが手鏡を持ってきた。

 空五倍子うつぶし色がきれいにまとまっていた。長い房は三つ編みに、野暮ったい髪は耳にかけられ、髪飾りはさりげない位置に留められていた。

 洗練されたヘアスタイルにコメットは「ウワーッ」と感動する。


「すごいよ、ギロ!」

「いつもベルリラの髪を結んでやってるからな。まあ、これくらいは」

「ベルリラの髪形は毎日違うもんね。ギロがやってたなんてすごいや」

「いや……それほどでも」


 ギロは気恥ずかしくなってそっぽを向いた。

 とろけたチーズみたいな声でコメットが褒めちぎるのを、ベルリラはうんうんと相槌を打って聞く。

 居心地を悪そうにしていたギロも、とうとう開き直って、「そんなに喜ぶんなら、やりかたを教えてやるよ」と言った。


「ていうか、そもそもなんでお前の髪はそんなおかしなことに?」

「ネブラに切られたの。それがあんまり上手じゃなくって」

「切るのが下手だから、あいつは自分の髪も整えないのか」

「ね。切ればいいのに」

「コメットの髪は切るのに失敗してるけど、ネブラの髪は伸ばすのに失敗してる」

「癖毛が髪を伸ばすと碌なことにならないっていうお手本みたい」


 ネブラの宵闇のような髪は、ゆらゆらと揺蕩いながら、肩口にまで注いでいる。光を反射する様は、まるで宇宙を飼っているようで、コメットも好ましく見ているのだが、如何せん見栄えが悪い。多量な毛が膨らむ様子はいっそ不清潔である。

 ギロは「あの髪を絞ったら、いいワインができそうだ」と感想をこぼした。ネブラの髪を黒葡萄に喩えたのだ。サダルメリクについては白葡萄だとも思っている。

 ベルリラもおずおずとギロやコメットに賛同した。


「髪を切ったり上げたりすると、印象が変わりそうなのに。ネブラさんって、よく見るとちょっと怖いから……」

「よく見なくてもネブラは常に不気味だよ」


 コメットはすかさず断じた。

 牛蒡ゴボウみたいに細長い体躯。猫背気味だから気づきにくいけれど、彼はわりと背も高い。爽やかな風貌なら望まれたものを、陰気な雰囲気と粗暴な口ぶり、おまけに血色も悪いとあっては、その上背は世界一無駄である。身の丈に合わないどころか身の丈が合ってない。

 にしても、魔法を教わる師匠に対してなんという口ぶりか。そうでなくとも普通に失礼である。ギロは「コメット、お前……」と微妙な表情をしたけれど、コメットは悪びれもせずに「ネブラからは魔法よりも身嗜みの大切さを教わってる」とまで告げた。


「それに、気が昂ぶると奇天烈な笑いかたをするし、大きな声だって出すよ。ネブラは落ち着いてるんじゃなくってぶっきらぼうなだけ。あと理不尽」コメットは深いため息をついた。「大先生に寄越された雑用を僕に押しつけてくるんだ。ネブラのほうが絶対に手際がいいのにだよ? やんなっちゃう」


 ギロは「家事くらい魔法でどうにかならないのかよ」と疑問に思った。

 アップルガース兄妹は魔法使いの素質も素養もなかったけれど、これだけ魔法のありふれた世界で、家事を円滑にするというような誰もが考えそうな魔法が存在しないわけがない、ということは理解していた。

 それについては、むしろコメットのほうが無知であったくらいだ。いつだったか教わったことをそのまま口にする。


「ギロの言うとおり。大概の魔法はすでに存在していて、たとえば、皿洗いの魔法や雑巾がけの魔法なんかは、商店街の東通りやグリモワ図書館どころか、代々魔法使いが口伝で継承してきたくらいオーソドックスな魔法なんだって。すでに結びフィーネまで完成された楽譜で魔法を奏でればいいだけだから、それこそ、魔法使いにとってはの魔法。ゆえに魔法発語の練習にはもってこいだけど、」

「だけど?」

「失敗したらお皿が割れるし、床が水浸しになる」

「……練習してから魔法で家事しろってことか」

「そゆこと~! 魔法で家事しながら練習したいのに、鶏が先か卵が先かみたいな話になっちゃったの! ちなみに僕は卵が先だと思う!」


 卵の殻を割って一人前になりたいコメットは嘆く。

 ちょっとずつ魔法の勉強や練習はできているけれど、もっと爆発的に上手になりたいのだ。もっともっと教えてほしい。それなのに、コメットの先生は適当で、大先生は仕事のために外出が多い。コメットはわかりやすく不貞腐れた。

 そこで、先日のサダルメリクの言葉をコメットは思い出す。

——ネブラに、魔法を教えたくないんだよ。

 秘密だと言われたから誰にも話していないけれど、いったいどういうことなんだと、コメットはどきどきしていた。否、どきどきというかはらはらで、はらはらというよりはもやもやだった。

 魔法を教えたくないなんてどうして。ネブラだって教わりたいはずなのにあんまりじゃないか。

 けれど、コメットの目から見ても、サダルメリクがネブラを厭うているようには見えないのだ。むしろ、とても大事にしてかわいがっているように見える。先生と弟子の関係として、ちょっと羨ましいと思うくらいには。

 コメットの「ンムムム」という呻きは口から洩れていた。

 ベルリラがどうしたのかしらという目でコメットを見上げたので、コメットはとりあえず別の悩み事を相談することにした。チョコレートヌガーを啄みながら、「僕の部屋に小さな羽虫がいるんだけどなかなか捕まえられない」「それこそ魔法で解決したら?」「できたらとっくにやってるよう」「なら、虫除け効果のある植物を置くとか」「それだ」と応酬し、瞬く間に解決した。持つべきものは理不尽な先生ではなく親切な友人だと、コメットはまた一つ学んだ。

 ギロはタンジーのスワッグを壁やカーテンに飾るのを提案した。ポプリにしてもいいかもとベルリラも重ねたのち、「あっ」と短く言葉を切り、「もしかしたら匂いが気になるかも……」とこぼした。


「たしかに、葉っぱの香りがちょっときつい。だから虫除けになるんだけど、人によっては嗅ぐのも嫌だと思う」

「お部屋に香水とか振ってたら邪魔になっちゃうの」

「なら大丈夫。僕の部屋には匂いものは置いてないし」


 アトランティス帝国では、女性の部屋では香を焚くことも珍しくはない。サダルメリクも「自分の部屋なのだし遠慮せずに使っていい」と言ってくれたけれど、コメットは別によかった。あの家で使われている洗濯用の洗剤の匂いを、コメットは気に入っていたのだ。

 茉莉花ジャスミンと鈴蘭のフローラルに、白檀のウッディノートがふわふわと柔らかい、高級な石鹸のように清潔感のある香りだ。身につける衣類はもちろん、ベッドのシーツや体を拭くタオルからもその香りがするので、コメットはたびたびうっとりしていた。

 ちなみに、ベルリラとギロからは、二人の瞳の色にふさわしい、紫丁香花ライラックの香りがする。期待を裏切らない。

 帰り際、アップルガースの店に立ち寄って、作り置きしていたというタンジーのスワッグを大量にもらった。二人の母親の趣味らしく、好きなだけ持って帰っていいとのことだった。

 コメットはにこにことスワッグを抱えながら帰路に着く。ギロやベルリラの言うとおり、独特の強い香りがしたものの、これは羽虫もイチコロだろうとご機嫌だった。

 スキップで丘を上り、「“開けゴマ”」と唱えれば、玄関の扉が独りでに開いた。コメットの扱える数少ない魔法の一つだ。

 家の中へと足を踏み入れた途端、胃袋の騒ぐようないい匂いが鼻腔を突いた。目をぱちくりとさせたコメットが「あれ? 夕食早くない?」と思っている隙に、サダルメリクが「コメット、“おかえり”」と声をかける。開けっ放しだった扉が独りでに閉まった。


「大先生。今日はお戻りが早いんですね」

「うん。夕方に来客の予定があったからね。馴染み深い魔法使いが訪ねて来たんだ。今夜は一緒に晩餐だよ」サダルメリクは部屋の奥のテーブルへと目を遣った。「コメットにも紹介しよう。あちらはケートス。僕たちと同じ魔法使いだ」


 コメットはサダルメリクの視線の先を追う。

 紹介されたのは、齢にして三十を迎えるころかというほどの、年若い魔法使いだった。

 温かな胡桃色の髪に、柔和な顔立ちで、コメットは「優しそうなひとだな」と思った。白衣のような外套ローブはすとんと落ちるスリムな形をしている。青い石が装飾として嵌めこまれた指揮棒のような杖をその腰に佩いていた。

 ケートスはにこりと微笑んで、コメットに挨拶をする。


「はじめまして、コメット。メリクさまから聞いていますよ。ネブラの弟子なんだとか。俺はレベック・ケートス・ボーン。魔法使いとしてはケートスと呼ばれることが多いですな」ケートスは隣に目を遣り。「この子は俺の弟子のミラ・ケーティー」


 ケートスの隣にいた少女に、コメットは目を奪われる。

 驚いた。なんて綺麗なんだろう——まるで妖精の鱗粉を振り撒いたかのような、きらきらしい女の子だった。朝焼け色の長い髪は、丁寧に櫛で梳かれたように繊細で、ほっそりとした顎も濡れたような瞼も、いっそ幻みたいに魅力的だった。

 それに、着ている服も、お人形のお召し物みたいに上品なのだ。外套クロークはセーラーカラーのワンピースのようなデザインで、詰襟のレースブラウスが覗くのが可憐だった。彼女の右手の中指には、金縁に縁取られたカメオを納めた指輪が、ひっそりと嵌められている。

 ケートスに紹介され、ミラはスカートを摘まむようにお辞儀した。そのお辞儀があんまり優雅だったので、コメットは、彼女はどこかの貴族の令嬢なのかしら、と思った。

 自然とコメットの背筋も伸びて、しかし、表情はぎこちないものになる。声まで上擦って、「はっ、はじめまして、僕はコメットです」とたどたどしく挨拶をした。

 目に見えた失態だったけれど、コメットは緊張した頭の中で唱える。大丈夫、僕の一張羅には皺一つないし、髪だってギロに整えてもらったもの。

 ミラが小さく微笑んでくれたので、コメットはやっと自分に粗相なんてなかったのだと信じこむことができた。


「ミラはコメットと同い年なんだ。しばらくのあいだ、二人ともこの家に泊まることになったから、仲良くするといいよ」サダルメリクが後ろから声をかけた。「ケートスは医者をしていてね。ネブラの右腕の義手も彼の手によるものなんだ。普段は別の町で診療所をやっているんだけど、その義手のメンテナンスのために、冬になる前には一度こっちに来てもらってるんだ」


 ふとコメットがキッチンを見遣れば、ネブラが夕食の支度をしているところだった。客人が来たということで、今夜はずいぶんと豪勢な食事がふるまわれるようだった。いい匂いの理由はこれだ。

 コメットはぺこりと軽く頭を下げて、ネブラの手伝いへと向かう。

 外套ガウンを脱いだエプロン姿のネブラが、トマトソースを煮込んでいた。ネブラはコメットのほうを振り返ることなく、トマトソースを掻き混ぜながら、「洗い物」とだけ言った。洗えという意味だ。コメットは、肉を焼いたフライパンや使い終わったまな板たちを流し台まで持っていき、スポンジを泡立てた。


「ねえ、ネブラ」

「お前がそうやって頑なに俺を呼び捨てるのには、そうしなきゃ死ぬくらいの重大な理由でもあんのか」

「じゃあネブラ先生。あの女の子、見た?」

「初めから呼んどけ。ミラのことか」

「かわいい子!」いままで我慢していたものが力強く飛びだした。「僕、魔女に初めて会ったよ。びっくりした」

じゃなくて使な」ネブラはコメットを眇める。「魔法を使うのに男も女も関係ないのに、なんで男は魔法使いで女は魔女なんだって、差別用語として忌避されてるだろ。気をつけろ」

「えっ、そうなの?」

「だから、お前だって使なんだろ。そんなんも知らねえのか」


 本当に田舎者だな、という目でネブラはコメットを見た。コメットは気にせずに「そっかあ、気をつけよっと」と呟いていた。


「ミラもよくここに来るの?」

「ケートス先生の付き添いで、何度か。初めて来たのは二年前くらいで、弟子になったのもそれくらいだったか? でも、ケートス先生はミラの他にも弟子を抱えてるから、来るたびに弟子の顔ぶれが違うことはだ。俺も一人一人をきちんとは覚えてねえよ」

「僕、ミラと仲良くなりたいなあ。同い年なんだって」

「なっときゃいいだろ。勝手によ。先生の認めた師弟関係とはいえ、俺はお前の交友関係にゴチャゴチャ言わねえし、この際、ケートス先生の滞在中は魔法を教わるのもありなんじゃねえの」

「僕の先生は君なのに?」

「ネブラ先生はメンテナンスに忙しい」ネブラは見せつけるように杖腕をくるりと回す。「義手の部分が素肌と擦れて荒れたりとか、季節の変わり目は痛んだりとか、いろいろあるんだ」

「えっ、大丈夫なの?」

「大丈夫じゃねえからケートス先生が来たんだよ。メンテナンスが終わっても、微調整のリハビリがあるから、しばらくのあいだはお前に手つかずになると思え」


 コメットは「ふうん」と生返事をした。真意としては、これまでだってずっと手つかずだったじゃんか、という気持ちだ。

 しかし、コメットはとにかく魔法を知りたかったので、ケートスに魔法を学べるということには胸が躍った。

 翌日。ケートスがネブラの義手のメンテナンスをしているあいだ、コメットは朝食の支度をした。サダルメリクはいつもどおり仕事へ向かう。朝食を終えるとメンテナンスの続き、コメットは皿洗いと物置の掃除だ。ケートスが「ミラも手伝っておやりなさい」と言ったおかげで、コメットはいつもより早く家事を終わらせられた。

 昼食を摂って、午後。

 ネブラは部屋に籠って、コメットにはになった。見かねたケートスがコメットを授業に誘ってやり、ネブラの目論見どおりとなる。

 二階の楽室で、ケートスは黒板の前に立ち、コメットとミラを見渡した。

 弟子の二人は、手頃な机と椅子を並べて、それぞれの席に座っている。ケートスに言われて筆記用具も整えた。コメットは初めての授業らしい授業に緊張していたけれど、ミラは表情を変えずに涼しげな笑みを浮かべていた。

 ケートスは「さて、」と口を開いた。


「コメットの魔法の勉強はどこまで進んでおりますか? ミラの勉強の続きをしても、君の勉強と合わなかったら申し訳ないので、まずはどこまで進んでいるか教えていただけると助かります」


 ケートスは物腰の低い男だった。子供であり、サダルメリクの弟子の弟子という、どう見ても下っ端のコメットに対しても、柔和な敬意を持って接した。だから、コメットも、このひとをがっかりさせたくない、と意気ごんだ。


「えーと、えーと」コメットはおそるおそる口を開く。「魔法使いに必要なものは、音と、55mBマジベルの魔力。魔力が音に乗って魔法を発動させて、……あっでも、安定して魔法を使うためには杖も必要で」


 しどろもどろになりながらの説明でも、ケートスは辛抱強く聞いてくれた。それがコメットは申し訳なくて、ややあってから、「すみません、そんなに進んでません」と白状した。どうしよう。がっかりされたかもしれない。


「大丈夫ですよ」しかし、ケートスは穏やかに笑んだ。「コメットは見習いになったばかりだと聞いていますし、師匠はまだ見習いのネブラでしょう? これを機会に、一度きっちり復習しましょう。ミラもね。貴女はまだ基礎が覚束ないところがありますし、しっかり話を聞いておくんですよ」


 ケートスの言葉を聞いて、ミラは小さく頷いた。気を遣われたのだと思い、コメットは胸が痛んだ。しかし、ミラはまっすぐケートスを見つめるので、コメットも授業に集中しようと気を持ち直す。


「コメットの言うとおり、魔法使いにとって必要なものは、音、魔力の二つですね。まず、一つ目の音です。前提条件として、魔法使いは音を用いて魔法を発動させます。音であればなんでもよいですね。歌声でも、楽器でも、呪文でも。そのため、楽器を杖代わりにする者も少なくはありません。魔法を使うのに合理的な手段です。簡単な魔法ならば、口笛や鼻唄、手拍子などでも発動可能です。簡単な魔法でなくとも、熟達した魔法使いなら、わずかな音でも魔法を発動させることができます。メリクさまは、指を鳴らすだけで魔法を使える者もいる、とおっしゃっていました」

「すごいですね」

「俺はそんな魔法使いにはとんとお目にかかったことがありませんが、きっと強い魔法使いなのでしょうね。本来なら、発現する魔法の威力は、乗せる音の大きさや複雑さに比例しますから。その法則を凌駕するほどとなると……」


 ここまではコメットにも理解できる魔法の理屈だった。コメットは嬉しくなって前のめりになる。


「二つ目の魔力。魔法を扱うには55mBマジベル以上の魔力が必要となります。そもそも、この世界に生きる人間を含む動植物は、大なり小なりの魔力を持っています。魔法の使えない者でも多少の魔力は保持していて、それが魔法という現象として表れるのに必要な魔力量が55mBマジベルだとお考えください。いまは魔法を使えない者も、将来的に使えるようになる可能性があります。何故なら、魔力量は、訓練や年齢とともに少しずつ増えてゆくことが多いからです」

「えっ、そうなんですか?」

「はい。生まれ持った魔力量が少なかろうと、その魔力が成長することはよくあります。生活していくうえで魔力を浴びる機会はたくさんありますしね。また、魔力は筋力と同じなので、魔法を使うたびに少しずつ強化されていきます。俺は昔、箒を飛ばせるほどの魔力はありませんでしたが、それは年齢が解決してくれました」


 それは夢のある話だった。いまのコメットには一人で箒を飛ばせるだけの魔力はないけれど、ゆくゆくは一人で空を飛べるようになるのだろうか。


「ただ、誤解しないでいただきたいのは、魔力量は魔法の強さではない。ということです。強い魔法使いは押し並べて魔力量も多いですが、魔力量の少ない魔法使いでも強力な魔法を使えることはあります」

「熱量、ですか?」

「厳密には光源でしょうか……光あるところに熱はあるので、大きく外しているわけではないのですが。まず、魔力は魔法を使ううえで必要な体力のようなものであり、運動に必要な熱量です。だからこそ消費しますし、補充もできます」一拍置いて、ケートスは続ける。「わかりやすい例を挙げますと、炎から補充することができますね。火事場の馬鹿力という言葉があるように、大火でこそ凄まじい魔法を使うことがあるのです。数年前の火事場にて、メリクさまは、大きな建物を覆いつくすほどの水を、一瞬で出現させました」

「大先生すごい!」

「さきほど話した、強い魔法を放つのに魔力量は関係ない、というのはそういうことです。もちろん、魔力量が多いほど複雑な魔法を編めるでしょうし、威力のある魔法も容易く扱えますが。どんな魔法でも、魔力は必ず消費する。魔力量の有無は大事なことです。たとえば、箒を飛ばすのに必要な魔力量は、」

「120mBマジベルです」

「よく覚えていましたね。そのとおり、120mBマジベルですが、ただ単に箒を浮かす、自由に動かす、という現象を成し得るだけの魔法ならば、さほど魔力は要らないんですよ。では、何故120mBマジベルを求められるのかというと、箒で空を飛ぶためにはいくつか魔法を重ねる必要があるからです」さて、とケートスは続ける。「二人とも、ここで問題です。それらの魔法には、たとえばどのようなものがあるでしょう? 思いついた者から手を挙げてください」


 いち早く手を挙げたのはコメットだった。ケートスが「どうぞ」と告げたので、「箒を宙に浮かせる」「自由に動かす」と、思いつくかぎりに答えた。

 ケートスはうんうんと頷いたけれど、「他には?」とコメットに求めた。コメットは困った。もう思いつかないのだ。

 すると、ミラはがすっと手を挙げた。

 ケートスが「ミラ」と促すと、ミラは挙げていた右手をすっと胸の前まで下ろした。まるでいまにも口づけようとする騎士に手を差しだすお姫様みたいだった。コメットが見惚れていると、ミラの中指の指輪——その大きなカメオから、きらきらとした文字が、宙へと浮かんでいった。

 コメットが「ひょえ」と声を漏らすと、ケートスはくすくすと笑った。目を細めて、「驚かせたようですな。これはミラのでもある魔法道具なのですよ」と説明した。

 コメットは指輪をじっと見つめる。一見してただのお洒落な指輪なのに、そこからタイプライターの印字のように文字が溢れていく。それは丁寧なに横並ぶ文章となり、眼前に留まった。


『自分の意思と箒の舵とを繋ぐ。人の体重に耐えられるくらい箒を丈夫にする』


 その文字を読んで、ケートスは「そうですね」と頷いた。


「一口に箒を飛ばすといっても、そこにはたくさんの魔法が織り重なっています。さきほど二人が挙げた魔法も、実はいくつかの魔法の複合形だったりします。なので、それらの細やかな魔法を全て同時に発動させるために、120mBマジベルが必要、というわけです」


 魔力については理解できた。

 しかし、それとは別に、コメットの中に一つの疑問がよぎる。


「質問です、ケートス先生」コメットは手を挙げて発言する。「僕、前に、ネブラと一緒に、箒に乗ったことがあります。そのとき、僕は箒に乗るのなんて初めてで、ネブラだってたくさんの魔法を使ったようには見えなくて、呪文だって単純で……魔力量は必要分だけあったけど、いくつもの魔法を発現させる意図なんてなかった。それなのに、箒はちゃんと飛んだんです。それは何故ですか?」

「いい質問ですね」とケートス。「基本的に、魔法使いの使う箒は、ただの箒ではありません。飛行用の箒として市販で売っているものです。そういった箒は複雑な魔法を奏でずとも、120mBマジベルの魔力量を感知すれば、簡単に飛行できるように作られています。ただの箒で飛ぶ場合は、なんらかの詠唱が必要になります」


 なるほど、とコメットは納得した。どんどん自分が賢くなっていくような心地がして、自然と口角が上がっていく。楽しい。魔法を知るのって楽しい。


「魔法使いが星の名を戴くことは聞きましたか? たとえば、俺の生まれの名はレベックですが、魔法使いとしては鯨座ケートスと名乗っていますね。暗闇でも燃え盛り、鮮烈な光を放つ、その凄まじい力にあやかるためです。昼は太陽の、夜は星の力を借り、魔法を使うのです」また、逆に、とケートスは続ける。「滅多にない場合ですが。もしも、光の射さない真の暗黒というものに閉じこめられでもしたら、頼れるものは自身の魔力のみ。人間にとっての熱量消費は、単純な疲労だけでなく、衰弱にも繋がります。そんな状況下で魔法を乱発すれば、死んでしまうこともありえます」

「死ぬ……」

「本当に、滅多にない場合です。魔力切れになることはままありますが、大抵は養生すれば魔力も回復します。命に関わるほどの魔力消費が起こるのは、特定の条件下だけでしょう」


 そもそも、光があれば少なからず魔力は回復する。太陽や月や星が魔法使いの味方だ。


「このように、魔法は音や光と密接に結びついています。それらの関係は、理解できましたか?」


 コメットは「はい」と朗らかに答えた。

 忘れたくなかったので、手元の紙に書いておくことにした。漆黒のインクの入った瓶の蓋を開け、ペン先にちょんちょんとつける。

 コメットが書き終わるのを待たずにケートスは続けた。


「では、偉大な魔法使いトリスメギストスについても勉強しましょう。アトランティス帝国の誇る魔法使いで、さきほど勉強したような魔法理論の第一人者です」


 ケートスは教科書を開き、黒板にその名を綴った。

 それに倣うように、コメットもミラも板書する。

 きらりと視界の端が光ったので、コメットは一瞥した。ミラの持っていたペンが陽光を受けてきらめいたのだ。ガラス製のペン先に滴る、ほのかに青の滲んだインクが、言いようもなくお洒落で、コメットは羨ましくて胸が高鳴った。

 コメットのペンは、木軸に金のペン先を挿したもので、温かみがあり気に入っているけれど、ミラのものは涼しげで美麗に感じられる。


「彼が世界で最も偉大な魔法使いとされる理由の一つとして、オルゴールに取って代わった、蓄音機と音盤の発明が挙げられます」ケートスはチョークを置いた。「そもそもの話ですが……何故オルゴールのような自動再生機が広まったのか、コメットはわかりますかな?」

「うーんと、魔法使いがいなくても、魔法を再現できるようにするため?」

「そのとおり」ケートスは微笑んだ。「ある魔法使いが、部屋の掃除をする魔法を編んだとしましょう。とても便利で画期的な魔法だ。しかし、それを別の魔法使いが扱えるとは限らないし、魔法使いでない者ならばなおさらです。そこで、誰でも簡単にその魔法を行使できるよう、その魔法を再生する機械が求められました。それに最も適していた形がオルゴールだったのです」


 魔法が音を経由するならば、その性質上、オルゴールを用いた魔法の再現は、実に合理的なやりかただ。

 教科書には載っていることだが、昔の王族などは、魔法の再現のため、宮廷音楽家とも呼ばれる魔法使いを、専属で雇っていた。しかし、ただの庶民がそんなことをできようはずもない。自然と道具に頼るようになる。道具を介して魔法を発動させるのに、発条ゼンマイを巻けば勝手に音の出るオルゴールは打ってつけだったのだ。


「しかし、魔法は変化する。発達もする。“部屋の掃除をする魔法”として、床を掃く魔法を考えたとします。でも、できることなら、窓や机も拭いてほしいし、ごみや紙屑は捨ててほしいし、食器だって洗ってほしいものですよね。そうなってくると、編むべき掃除魔法はさらに複雑になる……オルゴールで奏でられる許容を超えてしまうというわけです。その複雑化した魔法さえも再現できるよう、トリスメギストスは蓄音機と音盤を発明したのです」


 魔法の譜のこめられた音盤と、それを再生するための蓄音機。この二つのおかげで、アトランティス帝国の魔法文明は爆発的な進歩を遂げた。

 ケートスは譜面の詰まった本棚を指でなぞる。そこには音盤も並べられていた。その中の一つの音盤を取りだして、「この音盤も掃除魔法の譜ですね」と言う。


「掃除魔法にも様々な種類がありますが、この掃除魔法の根底は、の記憶に関与することで“その物体の定位置へと導く魔法”です。まさに形状記憶合金。お片づけの理論ですね。なので、ずっと使っていたもの、置き場所の決まっているものに関しては有効でも、たとえば買ったばかりのグラスなんかには意味がないのです」

「……あっ、お店で包んでもらった箱の中に逆戻り、ってことですね?」

「もしくはそのお店へと返品されるでしょう」


 コメットは笑った。


「そんなへんてこな事態を防ぐためには、またいくつかの魔法を重ねなくてはならなりません。単なる掃除魔法ですら、その精度や程度は様々なのです。便利で融通の利く魔法であればあるほど、その中身は複雑なものであるはずです」


 ケートスの話を書きとりながら、コメットは舌を巻いていた。

 耳も脳も手も疲れていたけれど、コメットにもわかりやすく、面白く説明してくれる。目の前の穏やかな魔法使いを瞬く間に尊敬した。

 コメットは「すごい、さすがです、」とこぼす。


「ケートス先生はまだお若いのにいろんなことを知っているんですね」

「ふふふ、こう見えても俺は、八十を超えた老いぼれでして」

「八十!?」コメットは目を白黒とさせる。「全然見えない!」

「ある程度の力を持つ魔法使いは、見た目の年齢を好きに変えられますから。さすがに八十歳の体だと動くこともままならないため、若いころの体にしているのです」


 そう言って微笑むケートスを、コメットはじいっと見つめた。

 温かな胡桃色の髪も、皺一つない目尻も、乾いているだけで血色のいい唇も、なにからなにまで若々しい。不老不死の薬でも飲まなければこうはなるまい。

 けれど、賢者の石ラピス・フィロソフォルムは実在しないものだとコメットは教えられたし、そういう魔法があるのだろうと納得した。


「俺よりもよっぽど驚くべき方がいらっしゃいますよ」

「え?」

「君の大先生、サダルメリク・ハーメルンです。元々、あの方は、俺の先生にあたる方ですから。つまり、俺はネブラの兄弟子というわけです」


 なにからなにまで驚いて、コメットは言葉を失った。あの大先生も本当はもっと歳を取っていて、しかもケートスの師匠で、ネブラの兄弟子で。拾いたい話題が多すぎて、かえって「へえ」としか言えなかった。

 あまりに淡泊な返事だったけれど、ケートスは気を悪くしたふうもなく、思い出すように話を続ける。


「あれは俺が二十のときだったかな、メリクさまに弟子入りしたのです。そのときのメリクさまも、いまと同じような風貌でした。あれが六十年前のことだから……外見年齢と合わせてみても、少なくとも百十歳といったところでしょうか。正確な年齢を伺ったことはありませんが、メリクさまは俺よりもずっと歳上の方ですよ」

「それはまた長生きですね……」

「魔法使いにとって、見た目の年齢はさほど重要ではありません。老衰については魔法で融通が利きます。もちろん、寿命がないわけではありませんが、探せば千歳の魔法使いだっているでしょう。今日勉強したトリスメギストスなどは、もしかしたらそのくらいの齢にあたるのかもしれませんね」

「でも、ケートス先生も大先生の弟子だったなんて、意外でした。お二人は師匠と弟子というか、対等な、友達みたいに見えます」


 ケートスは物腰の低さはあれど、それは相手に対する敬意であるし、誰に対しても分け隔てない態度を貫いている。なので、サダルメリクに対して特別へりくだっているわけでもなく、むしろ気安い関係で、昨晩の食事中は、二人の付き合いがいかに長いかが伺えるようなテンポのよい会話、互いに臆面のない雰囲気、なにをとっても心腹の友と呼ぶにふさわしかった。

 ケートスはどこか気恥ずかしそうに苦笑した。


「いつだったか、メリクさまが俺に言いました——よくやった。君に教えることはもうなにもない。これからは師弟の関係をやめて、もっと仲良くなろうよ。ちょうど飲み友達が欲しかったんだ」


 コメットは「大先生言いそう」と笑った。

 ミラも音を殺して笑っていた。

 ケートスは時計と空を見て、「今日はこのあたりで終わりにしましょう」と言った。初日の授業は、このように終わった。

 それから、ケートスは毎日コメットとミラに授業をしてくれた。コメットはケートスにいろんなことを教わったし、魔法を見せてももらった。

 授業以外の時間では、コメットはいつもどおり雑用をこなしたり、たまにミラと庭で遊んだ。ミラは決しておしゃべりではなかったけれど、コメットの問いかけには、あの美しい指輪で答えてくれた。

 その日も、授業のあと、コメットはミラと一緒に、裏の野原で花を摘んでいた。

 コメットはミラに他愛もない話をしつづけた。昨日のビーフシチューがおいしかっただとか、自分の部屋にいる羽虫にについてだとか。そんな話をミラはうんうんと頷きながら聞いていた。

 この庭では、春にはチューリップが、夏には木蓮マグノリアが、冬には化粧桜ケショウザクラが咲く。

 秋のアメジストセージは、ミラの腕の中で束ねられていた。花冠を作ろうとしていたのだ。ミラは、銀を帯びた緑の葉を丁寧に丸めながら、その茎を指で絡めていく。

 コメットが「僕にも作りかたを教えて」というと、ミラは右手の指輪を差しだした。ミラの対話の合図だ。けれど、ミラの膝の上に落とされたアメジストセージを見て、コメットはついに口にしてしまった。


「そういえば、どうしてミラは話さないの?」


 指輪から文字を浮かばせるより、話しながら手元で作りかたを見せたほうが、ずっと教えやすいし教わりやすい。これまで尋ねる機会がなかったけれど、とうとうコメットはミラに問うた。


「ミラの声を聞いたことがないから。話せない理由でもあるのかなって……」


 しかし、コメットがそのように言葉を続けると、ミラは可憐な花が萎れるように頭を下げた。しおしおとしたミラの様子に、コメットは悪いことをしたような気分になって、「あっ、でも、無理に話さなくたっていいんだ!」と弁解した。


「声が聞けなくたって、僕はミラとおしゃべりするの好きだよ。僕が一方的にしゃべってるだけだから、ミラは相槌に疲れるかもしれないけど、僕はとても楽しいんだ! だから、ミラはどうかなあって、つまらなかったらごめんね?」


 ミラの朝焼けの色をした髪が風に靡く。その姿は、花が枝垂れる様に似ていた。

 本当に綺麗な子だとコメットは思う。だって、帝国のお姫様なのだと言われても絶対に頷けてしまうくらいに優雅なのだ。

 肌は白くて、マシュマロのようにさらさらのふわふわで、それなのに唇は果実のように潤んでいる。宝石箱に隠されてきた大事な宝物みたいな少女だった。

 

『話せなくてごめんね』ややあってから、ミラは指輪で言葉を紡いだ。『私、まだおしゃべりが上手ではなくって、話すとすぐ魔法になっちゃうの』


 話すと魔法になる——その言葉をコメットは咀嚼する。

 魔法は音を媒介とする性質がある。そのため、魔法は歌や呪文などの音に乗って発動する。これは、コメットがネブラやケートスから教わった、魔法の基礎だ。そのため、話し声で魔法が発動する、というのは理解できた。

 理解できたからこそ、コメットは感動した。


「そんなことあるんだね。すごいや。ミラって、強い魔法使いなんだ」

『そうかしら?』

「そうだよ。だって、なにからなにまで呪文になるってことでしょう?」

『うん……そんな感じかな』

「かっこいい! ミラの魔法、見てみたいなあ。君の声を聞いてみたい」


 どんな声で、どんなふうに話すのだろう。コメットはミラの声を思い浮かべながら、夢見るように横になった。日の光や頬をくすぐる草を感じながら、ぼんやりと目を瞑る。


「“コメット”」


 けれど、はっとなって、起きあがる。

 目を丸めながらミラのほうを見た。彼女の唇は音色を紡いだ後のように薄く開いていて、ミラの声だったのだと理解した。

 不思議だった。名前を呼ばれただけで、背筋をくすぐられたようにうわついて、変なのだ。でも、嫌な感じはまったくしない。うっとりとして、ふわふわして、なんとなく気持ちがいい。

 コメットと目が合ったミラは目を細めて笑って、柔らかく息を吸う。

 歌う——そう思って準備した耳が、次の瞬間、想像ものしていたものとはまったく違うなにかを聞きつけて、体を縛った。

 歌だ。いや、歌じゃない。なんだこれは。コメットの知っている歌という概念から大きく外れていた。型破りな旋律は、独特な調律。その調子っ外れな音階は極めて理解不能。ミラの用いる言語すら聞き馴染みがなくて、コメットは目を白黒とさせる。

 けれど、確実に言えるのは、これが魔法であることだ。

 ミラが歌いはじめた途端、庭の植物が狂ったように生長した。花なんて季節も忘れてしっちゃかめっちゃかに咲き乱れる。実をつけて枯れてまた蕾が出て。そんな一年を通して見られる情景が毎秒で繰り広げられた。まるで生と死を司る女神の御業。

 ミラの膝の上という特等席でその歌声を聴いたアメジストセージは、いっそ化け物のように蠢いて、切り落とされたはずの花丈を無限に伸ばしていた。

 鼻腔に塗りたくられるように馨る繚乱の花々に、コメットは夢心地を味わった。コメットもミラの真正面という特等席にいたのだ。魔性の歌声に魅せられて、瞳は微睡む。呼吸が薄れる。聴覚以外の意識が遠い。それなのに果てしなく胸が高鳴って、まるで天国の入り口のようだとコメットは思った。

 コメットが意識を失いそうになるなか、歌を止めたミラの驚いた表情が目に映った。途切れる歌声が切なくて、届かない音がもどかしい。

 どうか魔法をやめないで。

 君の音を知りたい。

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