魔法使いの弟子の弟子
鏡も絵
弟子入り編
第1話 その箒星は今日の一番星だった
アトランティス大陸のアトランティス帝国。
その帝都の端っこにあるのが、若き侯爵の治めるブルースだ。
帝国の東側から帝都を訪れるとき、まず足を踏み入れるのがこの土地で、隅の隅とはいえ腐っても帝都であるため、人口密度は高く、毎日がお祭りのように賑わっている。
そんなごった返しの町外れ、森へと続く野原に面したあたりは、
萌黄色の丘には、三階建ての塔のような家がぽつんと建っていて、門扉からは市街地へと続く煉瓦の道を綴りながら、煙突からはまばゆい煙が空へと手を伸ばしている。
帝都でも指折りの魔法使いである、サダルメリク・ハーメルンの家だった。
その家の裏手の扉を、行儀の悪い足が蹴るようにして開け放つ。
「やってらんねえ」
洗いたての洗濯物の山を左腕で抱え、そのようにこぼしたネブラは、物干し竿の張られた野原へと出た。伸びっぱなしになった、宵闇みたいな深い青紫の癖毛の隙間から、剣呑な双眸が覗いている。
こんなに天気がよくて、風の心地好い日は、なにか途轍もなく悪いことが起きるに違いない——たとえば、溜まりに溜まった洗濯物の始末だったり、浴槽よりも大きな水瓶に水を満たす仕事だったりする。
その鬱憤を晴らすかのように乱暴に杖を振るった。
二言三言囁けば、ネブラの左腕に抱えられていた洗濯物が、独りでに宙を漂った。陽光を照り返す白妙のシーツがふわふわと靡く。まるで風と踊るように揺らめいたかと思えば、物干し竿へと整列し、自ら干されにいった。
「……魔法使い」
ふと声が聞こえて、ネブラは振り返る。
森へと続く野原の中に、小柄な人影を見つけた。
びっくりした。非常識なほど汗と土埃にまみれたその格好に、声には出さず「なんだこの小汚い子供は」と思った。
もしや奴隷が逃げてきたのかとネブラは訝しんだけれど、その子供の手足には枷も鎖もなかった。自由な四肢を弾ませるように、子供は彼へと駆け寄り、ついにはその目の前まで躍りでる。
「魔法使いだ!」
少年だか少女だかもわからない声は、天に登るように高く、軽やかだった。
ただ、その子供から漂う重たげな臭いには到底我慢ならず、ネブラは後ろから髪を引っ張られたみたいにのけぞって、「くっせえ」と漏らした。
子供はそんな声など聞こえていないかのように、「あの、あの!」と話しかける。
「僕はコメット。僕を君の弟子にしてよ!」
「……は?」
ネブラの声は乾いていた。眉間に深い皺が寄る。
しかし、コメットはそれを少しも気にせず、ただ、どくどくと高鳴る鼓動で感じていた——こんなに天気がよくて、風の心地好い日は、なにか途轍もないことが起こるに違いない、と。
きっかけは本当に些細なことで、コメットはとにかく孤児院を抜けだした。
もしかしたら、その
なにはともあれ、物心ついたときから生活していた孤児院を脱走し、コメットは西へ西へと歩きつづけた。
その道のりは実に険しく、と言いたいところだが、気のいい行商人の馬車に乗せてもらったり、親切な老夫婦の家に泊めてもらったり、偶然出会った熊の隠れ処で雨を凌いだりと、なかなか心温まる旅路をコメットは歩んできた。
そんなコメットが旅の頼りにしたのは、
「僕、魔法使いになりたいんだ!」コメットは言い募った。「生まれてはじめて見たよ。星と歌い、光を奏でる、異能の賢者。魔法使い。君、さっき魔法を使って洗濯物を干していたでしょう? すごいなあ、僕もそんなふうに魔法を使えるようになりたい!」
文字どおり手に汗握って訴えるコメット。ぷんぷんと臭う箒のような蓬髪を、ネブラは左手で鼻を摘まみながら見下ろした。
コメットは華奢な体のあちこちに
麻の紐で絞ったヴィラーゴスリーブの服は質素だし、着古されてはいたけれど、服装としては一般的だ。なにより、あまりに爛漫なコメットの態度。はじめましての相手に名を名乗る行儀のよさと、しかし、突拍子もなく要望を突きつける厚かましさは、安穏と育った人間のそれだ。
逃げだした奴隷でも貧困層の浮浪児でもないのなら、冒険好きなただの子供。お手本として教科書にでも乗っていそうな家出人である。
ネブラはコメットの事情に一切の興味がなかったが、コメットが興奮した様子で己を見上げることだけは気になっていた。
実に不思議なのだ。その澄んだ目の先にあるのは、まるで砂漠の中の泉、野原で探した四葉、ないと思っていた缶の底にあった一枚のビスケット。ネブラに向けるにはふさわしくないものばかりだった。
「……お前、俺のこと知ってんのか」
「ううん。知らないよ。もしかして有名な魔法使いなの?」
「俺はネブラ」
「ネブラ!」コメットは声を弾ませてその名を呼んだ。「僕はコメット。お願い、ネブラ。僕を君の弟子にして!」
名を明かしてもコメットの様子が変わらなかったので、ネブラは得心した——こいつ、勘違いしてやがる。
ネブラは魔法使いではなく、魔法使いの弟子。
つまり、魔法使い見習いである。
この家の家主、サダルメリク・ハーメルンといえば、この帝都でも有名な魔法使いだが、そのサダルメリクに弟子が一人いることも有名な話だ。よほどの田舎から来たコメットはそれを知らないようだが。
多少の魔法は扱えても、ネブラはあくまで見習いであるからして、当然、弟子を迎えられるほどの力はない。それを言ってやるか悩んで、ネブラは違うことをコメットに尋ねてみた。
「……なんでまた魔法使いになろうって?」
「きらきらしてて、かっこよくて、素敵だから」
「思ったより数倍ガキくせえ理由だな……」
「まだ子供だもん」
「生後三ヶ月?」
「ちょっと! 今年で十五歳だよ!」
「お前のようなちんまいのが十五なわけあるか」
「そういう君がのっぽなのは魔法のおかげ?」
「自前だわ」
「背が伸びる魔法とかある? 僕も使えるようになるかな?」
教えてというふうにコメットはネブラを見上げたが、そもそもネブラにはそんな気も暇もない。ネブラは魔法使い見習いだし、師匠にあたるサダルメリクは正午すぎに仕事へ出かけた。サダルメリクが留守にしているあいだの家事を、ネブラは仰せつかっている。民家に下りてきた珍獣を追い返すのも仕事のうちだ。
「森へお帰り」
杖腕で森のほうを指差したが、コメットは「うわあ、魔法の杖」と声を弾ませるだけだった。
「ネブラ、触ってもいい?」
「お前のような破廉恥なガキを他に知らない」
「君にじゃなくってその杖に。僕、魔法の杖なんてはじめて見た」
「いい思い出になったな。森へお帰り」
「ヤーッ! 僕を弟子にして!」
ネブラが追い立てるようにコメットのお尻を蹴る。どんどん森のほうへと流されていくコメットの縋った藁は、ネブラの杖だった。
「離せ!」
ネブラは鷲掴まれた杖腕を振るったが、コメットは絶対に離そうとしない。もっと大きな声で「いーんいーん、僕に魔法を教えてよう」と縋りついた。
そうして取っ組み合いになっていると、ネブラの着こんだ暗い色の
「あっ」
コメットは目を丸めた。さっきまで杖だと思っていたものが、義手だと気づいたのだ。
晒されたネブラの右腕は、肘の下あたりで金属的なそれへと切り替わっている。そこに棒っきれが突き刺さっているのだ。枝のように巻きついた真鍮が鈍く光る。
「ごめん……」
コメットは咄嗟に手を放して言った。
ネブラは杖腕を
気に入らないガキだ。こっちはまだまだ仕事があるのに。相手をしてる暇なんてないんだ。
そう憤慨していたネブラだったけれど——ややあって、したり、と笑った。うねるような癖毛の隙間で、影を落とした瞳が細まる。
「……そんなに魔法を教わりたいか?」
コメットはぱっと顔を明るくして「うん!」と返事をした。そわそわと期待した様子でネブラを見上げる。ネブラはエヘンとわざとらしく咳をして、コメットへ言う。
「魔法使いがその気になれば、この世界をきらきら輝かせることも、火の海に沈めることもできる。魔法とは、歌であり、きらめきであり、凶器であり、戦禍だ。生半可な覚悟では身につけられないし、教えられない」
「覚悟ならあります!」
「俺の言うことに逆らわず、なんでもやりとげるか」
「やりとげます!」
「ならばよし」ネブラは頷いた。「じゃ、残りの洗濯物を干しといてくれ。炊事場に溜まった皿洗いもよろしくな。それが終わったら庭の草むしりだ。任せたからな、コメット」
「……うん? んんん」
「逆らうな。返事ははいだ、馬鹿弟子」
「は、はいっ」
混乱に溺れそうな声で、しかしコメットはしかと頷いた。
ネブラは小躍りしたいような気持ちで、そんなコメットの間抜け面を見た。
もちろん、ネブラはコメットに魔法を教える気などちいともない。ただ、
コメットも嫌な予感を薄々と感じながらも、「じゃあ、この話はなかったことに」なんて言われてはたまらないので、ネブラから押しつけられた仕事をせっせとこなすことにした。
大きな籠三つ分もの洗濯物を干し、まるで立体造形作品のように繊細なバランスで積みあげられた食器を洗い、その小さな手で門扉の前の雑草をむしった。途中、こちらをじっと見上げてきたバッタに「あんた騙されてんじゃないの」と囁かれた気がしたが、コメットは聞こえなかったふりをして、シッシと手で払った。
そんなこんなで、むしり終わった雑草を一纏めの束にしたコメットは、「疲れたあ」と一息ついた。へたりこんだ勢いで背中から寝そべった。
見上げた空が茜色に燃えていて、ずいぶんと時間が経っていたことに気づく。
すぐそばに飢えられた花丈のあるアメジストセージが秋風に揺れている。見た目に似合わず、フローラルな柔らかさよりもミントやスパイスのような独特な香ばしさを感じる匂いだ。
つんとした鼻を啜っていると、頭上で「サボるな」と声をかけられる。寝転んだ体勢のまま首を伸ばすと、ネブラがこちらへと近づいてくるのが見えた。コメットは唇を尖らせて話しかける。
「ネブラ〜」
「先生と呼べ」
「ネブラ先生〜、いつになったら僕に魔法を教えてくれるの〜?」
「言ったろ。俺に逆らうな」
「逆らってないよ、聞いてるんだよ。弟子が先生に聞くのも、先生が弟子に教えるのも、普通のことでしょ?」
ネブラは小さく「こいつ、穿ったことを」と
コメットにはそれが聞こえなかったので、ごろんと反転して、腹を地面につけるような態勢を取るだけだった。肘をついたままネブラに告げる。
「言われたことは全部やったよ。洗濯も、皿洗いも、草むしりも。僕もうすっかり疲れた……」
「ああ。よくやった。残るのは水汲みだな」
「ええええまだあるの?」コメットはべしゃりとその場で突っ伏した。「こうやってずっと、僕を奴隷のように働かせるつもり?」
軽い文句のつもりだった。しかし、コメットの何気なく放った一言に、たった数瞬、ネブラは口を閉ざした。
吐息一つ分程度の、しかし、これまで小気味よく会話をしていた二人にしては、明白な間だ。ネブラもさすがに心が痛んだのか、コメットが目を瞬かせるよりも先に、「来い」と踵を返した。
コメットは起きあがって、先導するネブラについていく。くすんだ若草色の扉を開け、家の中へと入った。
扉を開けてすぐは広々とした居間だ。正面には真四角のテーブル、その奥には
「魔法使いに欠かせないものを知ってるか?」
コメットがネブラの背中を見つめていると、ネブラはそのように口を開いた。コメットは階段を上りながら、「ええっと、」と答える。
「魔力?」
「そうだな」ネブラは続ける。「呪文を唱えれば、杖を振るえば、というものでもない。魔法を使うには魔力が必要だ。人間は誰しも魔力を持って生まれるが、魔力が魔法にまで変質するには、一定以上の量が必要となる。魔法を扱うのに必要な最低魔力量は、55
ネブラに案内されたのは二階の部屋だった。くすんだ若草色の扉を開けて、コメットは目を見開かせる。
小ぶりなオルガンに、壁に掛けられた弦楽器、楽譜の詰まれた本棚。部屋を圧迫するまでの、音楽的な物量。
楽室だと気がついた。
ネブラは、壁に打ちつけられた釘にぶら下がっていた、手の平よりも少し大きい機械を取る。
「まず、お前の魔力量を計るぞ」
「えっ、うわあっ、それはなに?」
「魔力量を見るための計測器だ。なんでもいいから叫べ」
「叫ぶの!?」
いきなり叫べと言われても、とコメットは混乱した。ネブラは少しだけ面倒くさそうな顔をして、「お前、魔法のことなんも知らねえの?」とこぼした。
「本で読んだだけで、いままで実際に見たことがなかったんだもん」
「魔法使いが魔法を使うときは、音に乗せるんだよ。音速で放たれた魔力が変質して、魔法は実現する。だから、さっきのお前の答えも、半分正解で、半分足りない。魔法使いに必要なのは、魔力と音だ」
「音」
「潜在的な魔力量を測るためには、そいつに叫んでもらうのが一番なんだよ。この部屋には防音魔法がかかってあるから騒音だなんだは気にするな。ありったけで叫べ」
そういうことなら、と恥を捨ててコメットは叫んだ。これでもしも魔力量が足りなかったらどうしようと不安に思いながら。とてつもない声量でワアと喚いたため、ネブラは杖腕で耳を塞ぎながら「うるさっ」と漏らしていた。左手に持つ計測器の針がぐるりと動き、あるところの目盛りで止まる。
「……ど、どう? 僕の魔力量」
「72
「やった! 僕も魔法使いになれるんだね!」
「チッ」
「魔法使いは返事をするときに舌を打つの?」
ここで魔力量が足りなければ「残念無念また来世」とコメットを放りだすつもりだっただけに、ネブラの機嫌は目に見えて下がった。
しかし、当のコメットの胸は健気にも小刻みに脈動し、その血流で体は震えた。ネブラの言葉を一言も聞き漏らさんと、コメットは耳をそばだてた。
「とにかく……これでお前にも魔法を扱えることがわかったわけだが」
「チッ」
「おいなんだその態度は。俺のほうが百倍不服だ」
「魔法使いの返事だよ」
「逆らうな。返事ははいだ、馬鹿弟子」
「もしかしてネブラって理不尽?」
「偉大なると先生をつけろ」
「偉大なるネブラ先生って理不尽?」
「先生は弟子に教えるものだっけか。学んでくれてなによりだよ」さて、とネブラは話を切った。「魔力と音が魔法使いには必要不可欠だが、生まれ持った魔力や声の大きさで、魔法使いとしての力量が限られるわけじゃない。たとえ魔力量が少なくたって、身の回りにある燃料……熱エネルギーから補完することで、強力な魔法を操ることはできる」
「熱量が魔力量になるってこと?」
「そういうこった。魔法使いが昼に働くのは太陽の加護を受けるから。夜はその限りでないから、魔法使いはその身に冠した星から力を借りるんだよ。名づけられた星の輝きが強ければ強いほど、その魔法使いの力量もまた然り」ネブラは漏らすように言った。「
そういう星の下に生まれたんだろ、お前は。
ネブラは踵を返す。その後を追いかけるようにして、コメットも部屋を出た。階段を下りて、居間に戻ると、先刻も入った調理場のほうへ足を踏み入れる。
「以上だ」そこでネブラはぶっきらぼうに言った。「お前は水汲みをしろ」
「えっ、魔法は教えてくれないの?」
「さっき教えたろ」
「理屈じゃなくって、もっとこう、魔法を使わせてよ」
「洗濯と皿洗いと草むしりしか終わってねえんだから、教えられるのはここまでだよ馬鹿垂れが。残りは水汲みが終わってからな。この水瓶をいっぱいにしろ」
「理不尽!」
「そうだよ。復習になったな」
コメットはがっかりした。ようやく魔法を教えてくれると思ったのに。
しかも、ネブラに言われた水瓶は、コメットがいままで見てきたどの水瓶よりもずっと大きいのだ。浴槽よりも大きい正円の縁で、見慣れない文様が施されている。水瓶のそばにはバケツがあったので、家の裏にあった井戸から汲んでこい、ということだろう。こんな小さなバケツでこんな大きな水瓶を満たせだなんて、とっくに暮れた日がもういっぺん暮れてしまう。
「そんなの、魔法でどうにかすればいいじゃん」
「俺に逆らう気か」
「魔法じゃないと不可能なことを言うからでしょ。魔法も使わずに人任せにしておくなんておかしくない? ネブラって、本当に魔法を使えるの?」
ネブラの機嫌を損ねるような発言は実に悪手だった。このまま破門にされてもおかしくはないと、コメットは言ったそばから後悔した。
しかし、コメットにとって幸運だったのは、ネブラの沸点が非常に低かったことだ。青筋を立てるほど機嫌を損ねたネブラだったが、破門を言い渡す方向ではなく、コメットをギャフンと言わせる方向でキレたのだ。
「当たり前だ馬鹿弟子め! 見てろ……いや、聞いてろ!」
言うが早いか、ネブラは杖を翳した。
まるで指揮棒のように振るい、魔法を
「“なみなみ震えるバケツのように
あなたと二人で溺れたい”」
ふわりと乾いた風の吹く晴々しい昼下がりのような声。洗濯物を干すときの鼻歌のようにも、揺り籠の中で聞く子守唄のようにも感じられた。
——足元のバケツが独りでに動きだす。
宙に浮かんでどこかへ消えたと思いきや、水を蓄えて戻ってきたのだ。中の水を水瓶へと注いで、また独りでに消えていく。
のどかで牧歌的なのにどこか気障ったらしい詞に合わせて、バケツは水を汲みつづけた。
「“なみなみ注げやバケツよ注げ
みんなと一緒に溺れたい”」
爽やかで、楽しげで、耳に残る旋律。気分がよくなってコメットも歌いだす。
水汲みは順調だった。空っぽだった水瓶にたっぷりと水が蓄えられていく。バケツは水を溢れさせながら働きつづけた。有頂天になるコメットの傍らで、ネブラはなにかがおかしいことに気がついた。
水瓶が満ちるのが速すぎる。ネブラの魔法はそこまで強力ではない。ネブラは歌を止める。それなのに、水瓶の中の水は増幅していく。まるで瓶底から湧きでているように、じゃばじゃばと際限なく嵩を増し、水瓶から溢れでた。円心の波を作りながら調理場の足場を濡らしていく。
靴がびしょ濡れになったので、コメットも「わっわっ」と
「ねえ、もうじゅうぶんじゃないかな。そろそろこの魔法を止めよう? このままだと家が水浸しになっちゃうよ」
「……無理だ」
「え?」
「俺は、魔法を始められても、終わらせられない」ネブラは呆然と告げる。「魔法を止める呪文を知らないんだ」
冠水は瞬く間だった。ぐんぐんと溢れた水は家中を浸食していく。窓も扉も塞がっていたので、コメットとネブラは上階へと逃げていった。凄まじい速さで増していく水嵩に足を取られながら、二人は死に物狂いで逃げ惑った。
「な、なんでこんなに水が湧いてるのに、水が外へ溢れないのっ?」
「この家には魔法がかけられてあんだよ。実験でへまでもしたら大変なことになるから、強い魔法を外へ飛び出ないようにしてんだ。代わりに俺たちも外へ出られない」
家の中は水で溢れかえり、二人の逃げこんだ屋根裏部屋まで浸水していた。部屋のありとあらゆるものが水上に浮かんでいる。水瓶のそばにあったバケツが、力なく流れていった。凄まじい水の量になってなお、窓を食い破る様子はない。
水嵩は二人の腰丈にまで上った。水位が上がるにつれ、いよいよ二人の顔も蒼褪めてくる。
「やべえ、俺、泳げねえ……」
「僕も……」
溺死という文字が二人の頭をよぎる。
ネブラは「俺にはまだやりたいことがある」と思ったし、コメットは「死んだらお星さまになるのかしら」と思った。
いつの間にか、ネブラの肩ほど、コメットの首にまで水位は上がっていて、二人は壁や家具に掴まることで立っているような状態だった。完全に追い詰められていた。焦燥も一周まわって呆然としていたコメットだったけれど、眩しい光が目を焼いたのに気づく。
「ね、ねえ、ネブラ!」
「お前なんべん言わせんだ、呼ぶときは誇り高きと先生をつけろ」
「誇り高きネブラ先生、あの窓から逃げられないかな?」コメットは天井にある小さな窓を指差す。「このまま水位が上がったら、あの窓まで届くと思うんだ。あそこから脱出するっていうのはどう?」
「悪くない案だが、この塔は三階建て、屋根裏部屋ならほぼ四階だ。お前は四階から飛び降りれんのかよ」
「それは……」
そう言っている間に、水はコメットの口元を飲みこもうとしていた。コメットが仰いで逃れようとするのを、ネブラが引っ張りあげる。抱えるようにして、自分の肩にコメットの顎を乗せた。歳の割に華奢なその体は頼りなくて、ひとたび離せばきっと水に沈んだ。
そのとき、波間から一本の箒が浮かびあがるのが見える。
ネブラはその箒を引っ掴んで、穂先を水中へ下ろす。足掛けに乗りあげ、半身で跨れば、箒は水中で浮いた。
そうしている間にも、じりじりと水位は上がり、二人の体は天井へと押しあげられていく。
「箒に乗って飛ぶの?」
「馬鹿弟子よ、ここで授業だ」
「本当にここで? こんなときに?」
「箒を飛ばすのに必要な魔力量は120
もうほとんど水に浸かっていた。汗か水かわからないものが、コメットの前髪から落ちた。箒の柄の先が天井の窓硝子を小突く。このまま全身が水に浸されようと、この鼓動が止まる気は微塵もしなかった。
コメットも箒の柄を握る。二人は窓の外の夕景を睨みつけ、声を重ねた。
「「“飛べ”」」
箒は窓を突き破って飛んだ。
尻に火でも点いたかのように狂ったスピードで上昇する。と同時に、開いた窓から水が放たれた。大きな飛沫をばら撒き、黄昏の光を反射する。それよりもよっぽど鮮烈な光を上げて、またたきながら飛翔する二人。
箒は失速することなく、七色の光を爆散させながら、燃え盛る雲を溶かして宵へと向かう空を、一直線に突き抜けていった。
「ひあっ、あは、はははははっ!」
「やべえやべえやべえ、なんだこのスピード」
「僕、空を飛んだのなんて初めて! 最っ高だね! ふううううっ!」
「まじで最高度まで到達する、なんだこれ、信じらんねえ、151
ネブラは箒を傾けて、なんとか飛行の舵を取ろうとする。すると、箒は急旋回をして、コメットは危うく舌を噛むところだった。ネブラは「おら、言うこと聞け!」と箒を蹴って、なんとか飛行を安定させる。箒は屋根から少し離れたところで停止し、怒涛の滝を見下ろした。
「これ、やべえな。野原のほうに水が流れるのはともかくとして、街にまで下りたら大災害になるぞ」
「元はと言えばネブラのせいでしょ」
「命の恩人と先生をつけろ」
「その命が危なかったのはネブラ先生のせいだよ。君ってば、ずいぶんと間抜けな魔法使いなんだね。自分の魔法も制御できないの?」
「それは、」
「それは彼がまだ魔法使い見習いだからさ」
言い淀んだネブラに被さるように、穏やかな声がそう言った。
コメットがびっくりして振り返ると、自分たちと同じように箒に乗って、男が飛んできたのを見つける。
純白の
その優雅な姿を見て、ネブラは「先生」と漏らした。
「驚いた。ネブラ。いつの間に弟子を取ったの」
「先生……これは……」
「まあいいや。それよりも、僕のいないあいだに、とんでもないことになってるね。蛙の子は蛙というか……さすが、僕の弟子だ」悠長に笑って。「観光名所になっちゃう前に、君の魔法を終わらせようか」
ネブラに「先生」と呼ばれたその男が、小さく息を吸う。
なんてことのないように、薄い唇が旋律を奏でた。
「“からから空っぽバケツよさらば
みんなで一緒に帰りましょう”」
窓から際限なく溢れていた水が、断絶した。最後に大量の水が地面に落ちて、しかし、瞬く間に干上がっていく。三階建ての家に嵌められたたくさんの窓の奥、浸水していた水がどんどん引いていくのを、コメットは見た。あっちこっちに流されていった家具もなにもかも、元の場所へと帰っていく。
自分たちを脅かしたの驚愕の魔法が終わる
魔法を歌いあげた男は「こんなところで飛び話もなんだし、中へ入ろう」と告げた。箒を低空飛行させ、地面に足をつける。
男が玄関の扉を開け、コメットを招き入れた。水浸しになっているはずの居間が、水気の一つもなく、何事もなかったかのように出迎えてくれた。調理場にある水瓶へと視線を遣る——いっぱいに満ちた水が波も立てずに張られていた。
男は椅子を引いて座り、コメットを見た。
「はじめまして。僕はサダルメリク・ハーメルン。この家の主である魔法使いさ」サダルメリクは人好きのする笑みを浮かべた。「この子は僕の弟子のネブラだよ。お嬢さん、君の名前を聞いても?」
サダルメリクの「お嬢さん」という言葉に、ネブラは反応する。水浸しになって乾かぬままのコメットを見下ろした。服が濡れたことで、これまで気づかなかった、女特有のまろやかさが、その輪郭を帯びる。コメットに出会ってからの短い時間、ネブラがその性別を気にしたことはなかったので、指摘されてはじめて、この棒っきれのようにか細い子供が少女であることを知った。
「僕はコメット」
「コメット。いい名だね」
「魔法使いになりたくて、ネブラ先生に弟子入りしたんだけど……ネブラ先生は魔法使いじゃないの?」
「魔法は使えるけど、教えられるほどじゃないかな。誰かに魔法を教えるには、二等級以上の
責めるような言葉尻と視線に、ネブラはそっぽを向いた。
サダルメリクは怒っても怖くないが、先生を怒らせて弟子である自分にいいことなんて一つもない。お仕置きとして、どんな雑用を言い渡されるかわかったものじゃないのだ。
一方のコメットも、サダルメリクの視線を追うことなく俯いていた。
なにやらとんでもないことになってしまった。弟子入りしたと思っていたら、その相手は魔法使い見習いで、そして、もっと上の魔法使いが出てきたのだ。自分はどうなってしまうのだろうとはらはらしていた。その不安が、口を衝いて出る。
「あの! 僕、魔法使いになりたい。僕をここに置いてください!」
ネブラは「こいつ、まだそんなこと言ってんのか」とコメットを見た。サダルメリクは細い睫毛に縁取られた目を瞬かせて、「どうして魔法使いになりたいの?」と尋ねた。
「だって、きらきらしてて、かっこよくて、素敵だから」コメットは濡れた服の裾を握り締める。「僕が毎日がんばって干してた洗濯物が、独りでに竿まで飛んでいったんだ。ネブラが歌うだけでたくさんの水が沸いた。箒で空も飛んだ。夕日が眩しくて、風が気持ちよくて、なにか途轍もないことを僕はやったんだって思った。でも、それは全然途轍もないことじゃなくって、魔法使いには当たり前のことなんでしょう? 僕は今だってどきどきしてるよ、あんなことが僕にもできたらどんなに素敵だろうって。こんなに素晴らしいことを、僕も当たり前のようにやってみたい」
滔々と語るコメットを、サダルメリクは面白そうに見つめている。はっとしたようま顔のまま、コメットの言葉に耳を傾けつづけた。
「僕も魔法使いになりたい。だからどうかここに置いてください」
そう、コメットが言い終えると、サダルメリクは椅子から立った。一歩二歩とコメットへ近づき、止まったところでパンパンと手を打ち鳴らす。
たちまち、コメットとネブラの服が渇いた。髪を伝う一滴すら完璧に蒸発したのだ。
コメットが驚いていると、「いいよ」という声が降ってきた。
「家主として、君がここに住むことを許可しよう」
「本当っ?」
「先生!?」
「なにを驚いてるの、ネブラ。
「いいんですか、先生。こんなガキを弟子にするなんて……」
「うん? なに言ってるの? 魔法を教えるのは僕じゃなくて君だよ、ネブラ」目を見開かせる二人にかまわず、サダルメリクは続けた。「だって、君がコメットを弟子として迎えたんでしょ? 僕の領分じゃないよね。僕が君にそうしてあげているように、君がコメットに魔法を教えてあげなさい」
え、という言葉は誰と誰のものだったか。考えるまでもないけれど、それにも気づかずに、二人は呆然と立ちつくしていた。
すっかり日の沈んだ空は、深い藍色へと染められている。小さく弾けるように星が瞬く。その日の一番星を譲った星々は、くすくすと笑いながら二人を見下ろした。
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