エス-幾何学的精神紋様-

ガリアンデル

プロローグ



 『それ、、を例えてみろ』

 そう言われて答えられる人間は数少ない。誰もが理解されない類の話ばかりが整然と並んだ本を目の前に開かれ、問われるのだ。

 小さな連鎖の反復、次第に大きくなる歪みは生物にも伝播し、世界をも歪ませた。不完全さは最早愛嬌とも呼べなくなった時代。

 歪んでしまった心に、それ、、は簡単にもう一つの選択肢を差し伸べ、甘く微笑む。

 遠い昔に誰かが言った答えは────

 ただ一言『人間性の限界』である、と。


 ◆


 24区から成る街の第7区。

 外縁に近い辺境へと向かって私は歩いていた。第7区は『アノヤ協会』が取り仕切る区画だ。この街に置いて治安の良い場所など無い。この街で最も諍いが絶えないのは23区、次いで15区、その次にこの7区。

 そこを歩く私の足も小鹿の如く震えまくっている。普通女が一人で歩ける場所では無いのは確かだ。

 なのにどうしてこんな所をわざわざ歩いているのかと言えば、それが私の仕事だからというしか答えは無い。

 仕事があって身分が保証されている。それだけで贅沢な事だが、こんな所をただ一人歩くとなれば話は別だ。もし襲われる様な事があれば全財産を投げ打って、身分を捨ててでも命乞いする。

 それだけ危険な人間や生き物の潜む場所なのだ。ともあれ、そんな心配は杞憂に終わった。

 私の目的地はもうすぐ目の前だった。


探索屋サーチ・フロートブレスタス』


 小さな看板だけがそこが目的の場所であることを知らせていた。所謂いわゆる“店”だが厳密には“事務所”と言う方が正しいかも知れない。外構はお世辞にも立派とは言えないまるで鉄屑の寄せ集めみたいなボロ小屋だった。私だったらここに人を呼ぼうなんて微塵も思わないだろうし、むしろ来ないでくれなんて思ってしまう。

 ──恐る恐る、ボロ小屋のドアノブを回して押し込んでみるも開く気配が無い。


 建て付けが悪いのか。


 そう思い次は力一杯押し込んでみるも、やはり開く気配は無い。建て付けが悪いにも程があるでしょ。

 今度こそは、と目一杯に体重をかけて押し込もうとした────


「馬鹿。外開きだよ」


「ぎゃあ!!」


 背後から掛けられた声に私は自分が女である事も忘れて汚い悲鳴を上げていた。


 ◆


 声を掛けた男は事務所の扉を簡単に開くと、私を簡単に招き入れた。

 7区の住人はみんな警戒心が強いという噂があるけど、彼がそんな素振りも見せずに私を事務所に上げたのが逆に不安を煽る。

 男の体躯は事務所の天井にぶつかりそうな程に大きく、羽織った濃紺のロングコートは袖口が捲られ太い筋肉質な腕が露わになっている。目に掛かる程に伸びた灰色の髪は彼が普通の人間じゃない事を一目に感じさせる。

 ……9区じゃ人攫いと人間料理専門店が流行してるとかも聞いたことがあるし、油断は出来ない。改めて気を引き締めて男に向き直ると、男は私を一瞥だけして背を向けてしまった。

「あんた、フィクサーか」

 背を向けたまま男は私に聞いた。

「一応、そういう風になってます……」

 取り繕う事なんて何も無いのでそのまま答える。

「依頼内容は?」

 淡々と男は続けた。

「えと……」

 なんて説明したらいいか、資料、、を取り出しそう迷っている内にいつの間にか私のすぐ前に男が立っていた。そして、渡そうとしていた資料を私から取り上げてその中身に目を落としていた。

 十数頁ある資料を数分掛けて読み終えた男は顔を上げて灰色の髪の隙間から私を見据えた。

 持ってきた資料の中身はから通達されたまだ何の“指定”も受けていない事案だ。

「一通りは目を通してみたが、他を当たった方がいいんじゃないか? 僕はあくまで探索屋としての領分を弁えてるつもりだ、戦うのは請負人の領分だろ?」

 資料を私へと返すと『さぁお帰りください』とでも言わんばかりに手のひらをひらひらと振って男は椅子へと腰掛けた。


 ……まぁ、私自身もなんだってこんな特殊事案を探索屋に依頼するのかよく分かっていない。そもそも探索屋なんていう絶滅危惧種みたいな仕事をしてる人がまだいたなんて事すら命令されてから知った事だし。だからと言ってすんなり帰る理由にはならないんだけど。


「あのー、こんな事言いたく無いんですけど、この街でフィクサーが直接出向いてきてる事の意味が分からないわけじゃないですよね?」


 フィクサー。依頼人と請負人を繋げる為の仲介人の様な役割を持つが、実際は【都市異聞局】からの通達を送る事だけが仕事であり、直接出向く事など殆ど無い。もしフィクサーが出向くとすれば、【鮮烈なる者カラード】クラスの大物に依頼する時だけだ。そして鮮烈なる者カラードでさえ、その依頼を断る事は出来ない。


「勝手に来たんだろ。悪いが自分に出来る事以上の事はやらない。それに僕は鮮烈なる者カラードですら無い、落ちぶれたその日暮らしの探索屋だ。金は欲しくとも名声なんざ興味も無いね」


 それをこの男は自分の感情一つでこうも簡単に断ったのだ。街の意思である異聞局を舐めているにも程がある。


「ほぉ〜……いいんですね、そんな態度を取って……!」


 大体、断られましたーで私が帰ったらタダで済まないんだから意地でも受けてもらわないとならないんだし。


「なんだ。お前に何が出来るんだよ。フィクサーなんて大層な名だけの事務員だろ。帰ってコピー機とでも戦ってろよ」

 男が馬鹿にした様な笑みを浮かべた。

 若い女だってだけでここまで舐め腐られるのか。なら……もういい、、、、、これ以上下手に出る理由も無い。

「あーもういいや。フィクサーとして対応するのはここまでです」

「は?」

 呆気に取られる男を前に懐から取り出した一対の白い手袋を嵌める。これは私の“武装”に他ならない。

「ここからは請負人として貴方を力づくで言う事を聞かせます。それが“街”のルールですもんね?」

 へぇ、と男は今度は不敵にも笑う。

「まぁここで暴れられても困るんでな。外でやるか」

 のっそりと椅子から立ち上がると早々に男は事務所から出て行く。


 ──依頼で戦うのは嫌がってた割に、私と戦うのはすんなりと受け入れた? この違和感……いや、もしかして試されてる?

 最初から依頼は受けるつもりで悪ふざけしてるってワケか。


「ふん……」


 気に食わない。

 人を試す様なヤツは私は嫌いだ。

 苛立ちを感じながら男を追って扉を開けた────


「はい終わり」


 気付けば頭上からそんな声を浴びていた。

 視界は暗い。声は上から聞こえて来る。未だに何をされたのか、何が起きたのかすら把握出来ていない状況。焦りの感情が足元から急激に迫り上がってくる。扉を開けてわずか一秒。最初からこの男の策に嵌っていたのだと理解するのに更に一秒を要した。


「だからキライ。人を試そうとするヤツは」


 私は右腕を力任せに振るう。視界を奪う類の機械はこの街にはいくらでもある。推測の域は出ないが、『視界を奪う』『三半規管を惑わせる』この二つが同時に使われている────低俗な手段だ。

 全部纏めて吹き飛ばしてやっても良かったけど、私はあくまでこの男に依頼する為に来たのだからそれはやめておこう。

 武装──【ザインの掌握】へと感覚を繋げる。空間圧縮の技巧を有す【ハイデ工房】の特注品だ。手袋内部は圧縮・分割された空間が存在し様々な武装を圧縮ジップしてある。そこから状況に応じて武装を呼び出し戦闘スタイルを変える。


「請負人ラルザ・ホワイティ。『白の血統』を舐めないでくださいね」


 召喚した武装はアルスル工房の【クラレアント】。冷めぬ熱を内包した剣の形をした炎。触れた物は鉄でさえも蒸発させる。柄を握るとクラレアントと私は接続され、使用可能な状態へと移行。よし────


「赤熱波動────」


 固有詠唱と同時に剣先を地面に突き刺す。クラレアントの内部熱が地面を奔り、暴走する。周囲が炎に包まれたであろう熱を感じると同時に現実の私の感覚が戻ってきた。

 視界は赤が広がる炎の広場に変わっていた。男は────無事の様だ。


「いい武器だな。まぁお前がそれなりに場数を踏んだ請負人だってのは分かった」


 男は言いながら懐からペンを取り出した。それが男の武装なのか、警戒を怠れば程の様に簡単な罠に掛かってしまう。


「それが貴方の武器ですか。 ペンは剣よりも強しとでも!? 私の武器はアルスル工房の特注品なんですからね!! 剣の形をした炎──本気を出せばこの周囲一帯消し炭にも出来る程の武器なんだから、そんなちっぽけなペンで勝てるわけないですから! とっとと言う事聞いた方が身の為ですよ!」


「はぁ? 馬鹿か。依頼の契約書にサインしてやるからペン出したんだよ」


「は、はぁ!?」


 この男……いきなり何を言い出すんだ?

 依頼は受けない戦いたくないと言うかと思えば私を試そうとしたり依頼は受けると言ったり────


「ほら、契約書よこせよ」


「あ。はい」


 男は契約書を受け取り、その場でサインを済ませた。


【グラフ・ブレスタス】


 それがこの意味不明男の名前だった。

 

「この火、お前消しとけよ」

 周囲を見渡しグラフはそう言って先に事務所に戻っていった。改めて見ると、大火事なんてレベルじゃない炎が事務所の周囲を炎のドームの様に覆っていた。

 明らかにやり過ぎた。

 今までこんな失態なて無かったのに。

 くそゥ……いつか吠え面かかせてやるからなぁグラフ・ブレスタスゥ────!



 これが、私こと【ラルザ・ホワイティ】と探索屋【グラフ・ブレスタス】の出会いであった。

 

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