もう、帰ってくれ。
霧野
第1話 漱石になりたいわけじゃない
俺の名前は****。**高校の1年生だ。
「……おぬし、正気か」
頭の上から声が降ってくる。僕はため息をついて、ぐるりと椅子を回した。
「音読するのやめてよ、おじいちゃん」
僕の背中越しに渋い顔でパソコンの画面を睨んでいたのは、立派な口ひげをたくわえ銀鼠色の礼服を身に着けた、銀髪の老人。
「読み物とは、たとえ黙読であってもほとんどの場合は、頭の中で音読するものじゃ。文章を書く際には、音読されることを前提に書くのが当然じゃろう。が、今はそれはどうでもよろしい」
「良いか、フミヨシ。自己紹介で始まる小説など、『我輩は猫である』の時点で終わっておる。あれが最終形態にして至高。あれ以上のものは無い」
「うるさいなあ。べつにいいでしょ」
「うるさいとはなんじゃ! 誰に向かって口をきいとるか!」
僕は思わず耳を塞いだ。おじいちゃん、声が大きすぎるよ。いま、夜中だよ。もし父さんや母さんに聞こえたらどうするんだ。
「試しに、その出だしで続きを書いてみろ。読む方は既にハードルが上がっとるぞ? 仮に夏目漱石の名は知らずとも、日本人のほとんどは『我輩は猫である。名前はまだない』のフレーズは知っておる。読み手の頭の中には自然とそのフレーズが浮かぶわけだ。おぬし、超えられるのか? あの名作を超えられるのか?」
……ほんと、うるさい。
僕はため息をついて、回転椅子の背もたれに寄りかかった。スプリングが軋んで、キィと音を立てる。
「べつに、超えなくたっていいんだよ。そうやって始まる小説だって、数えきれないくらいたくさんある。僕は夏目漱石になりたいわけじゃない。僕は、僕の好きなように書くから」
「皆が書いているものを、またおぬしが書いてどうする。誰も見たことが無いものを書こうとは思わんのか。仮にも創作を志すものとして、その姿勢をだな…」
僕は後ろ手に机の引き出しを開けた。ドラ◯もんが出てくる、あの引き出しだ。手探りするまでもなく、個包装されたブツを取り出す。
「ル*ンド、食べますか?」
滔々と続いていた文衛門おじいちゃんのお喋りが、止まった。
「うむ。いただこう」
食べやすいように半分まで包装を破き、手渡す。おじいちゃんは目を閉じて大きく息を吸い込み、ゆっくりと甘い香りを楽しんでいる。
これでしばらくは静かになるだろう。まったく、年寄りは説教が長いんだから。付き合ってられないよ。
カレンダー付きの卓上時計がカシャッと小さな音を立てて回った。ということは、12時を回ったところだ。
いまだにスーハーと香りを楽しんでいる幸せそうな顔を眺めながら、僕もルマ*ドをひとつ開けた。小さくひとくち齧る。うん、安定の美味しさ。
前に「物を口に入れたまま喋るでない!」と叱られたので、僕はサクサクとした繊細な歯触りと華やかなミルクココアの甘さを堪能しながら、黙っておじいちゃんを観察していた。
相変わらず目は閉じたまま。立派なヒゲに囲まれた口が、ゆっくりともぐもぐ動いている。もぐ、もぐ……もぐ、もぐ……
(食べるの遅いな!!)
お年寄りだから、粗爵に時間がかかるのだろうか。年を取ると唾液の分泌が減ると聞いたことがある。それとも、ただゆっくりと味わっているのだろうか。いくら美味しいとはいえ、ルマン*だよ?
賑やかだったお盆も過ぎて、親戚連中も皆帰っていったというのに、ひと際口やかましいこの人だけ、何故だかいまだに帰らない。いったいいつまで居るつもりなんだろう。別に嫌いなわけじゃないから、いいんだけどさ……喋ると煩いけど。
そういえば、初めて会った時、「ワシの名は文衛門。おぬしの曾祖父じゃ」って言ってなかったっけ。自分だって自己紹介スタイルだったじゃん。あ、でも。あれは小説の書き出しじゃなくて本当の自己紹介だから、それでいいのか。それが普通だ……うん……
「どうせ中身もよくあるやつじゃろう」
突然の声にビクッとして、目が覚めた。うとうとしかけていたのだ。
「え? なに?」
お菓子休憩など無かったかのように、おじいちゃんが前置きもせずにさっきの続きを話し始めたのだ。夢うつつに、お菓子を食べ終えて満足げにため息をついていたのを聞いた気がしなくもない。
「どうせ、中身もよくある『異世界』だの『魔法』だの『悪役令嬢』だの『巨乳』だの『ロリ』だの『ネコ耳』だのと流行の要素ばかり並べ立てたうすっぺらいチート主人公が無双するご都合主義のざまぁなハーレム系なのだろうと言っておるのじゃ!」
「なんで昨今のラノベ界隈に詳しいんだよっ! あと後半めっちゃ早口!」
おじいちゃんはポケットからハンカチを取り出すと、口元を拭いた。丁寧にヒゲも拭い、ハンカチをしまう。
「どうして猫も杓子も同じ物を書く? 何故、皆と同じ物を書いて満足なのじゃ? ワシにはさっぱりわからん。創作に最も必要なのは、個性じゃろう」
「……あのさ」
僕は言葉を探した。言いたいことはだいたい頭の中にある。でも、それを整理して上手く伝えるのって、けっこう難しい。
「僕は思うんだけど、個性っていうのは無理矢理出すものじゃなくて、勝手に滲み出てくるものなんじゃないかな」
「……ふむ。なるほど、興味深い意見じゃ。続きを聞きたい」
「皆と同じような題材で小説を書いたとしても、全く同じにはならない。その違いが個性なんじゃないかな、って」
「ふむ。たしかに、一理ある。じゃが、似たような小説ばかりではいずれ飽きるであろう?」
「でも、おじいちゃんは、ル*ンド好きじゃん?」
「なんと。それと、どういう関係が?」
「何回も、美味しそうに食べるじゃん? ルマ*ドって、ずっと昔から皆に愛され続けてるお菓子じゃん? それと一緒なんじゃないかな」
おじいちゃんは、机の上に転がった空き袋を見つめた。そして小さく頷いた。たぶん、心の中で「ふむ」って言ってたと思う。
「今流行ってるスタイルは、それを求めている人が多いからだ。似たような材料を使っても、味付けとかスパイスでなんとか差別化してる。ルマン*のアレンジレシピみたいに」
おじいちゃんはしばらく黙っていたけど、やがて「そうか」と呟いた。
「新しいもの、奇抜なものを求めるばかりが創作ではない、ということじゃな。よくわかった。フミヨシ、おぬしの説明はとてもわかりやすかったぞ」
「ありがとう、おじいちゃん。でも、僕も新しい物を創り出すのって、すごいことだと思ってるよ」
おじいちゃんはにっこり笑った。そして、分厚い手で僕の頭を撫でてくれたけれど……特に何も感じなかった。
「もうこんな時間か。さすがに、もう眠る時間じゃな」
おじいちゃんの背後に透けて見える壁掛け時計は、12時半に近い。たしかに、もう寝なきゃ。
「ではフミヨシ、ゆっくり休みなさい。またあした、の」
銀色の半透明だった身体が、すぅっと消えた。
机の上に転がった空き袋のとなりに、半分だけ開封したルマ*ドが並んでいる。僕はそれをむしゃむしゃ食べた。さっき食べたのよりも、ちょっぴり味が薄い気がした。
ってか、おじいちゃん。やっぱりあしたも来るんだね……
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