神聖の崩壊

藤嶋

神聖の崩壊

「うううう~~腹が立つぅ……!」

「だよねぇ。話聞いててもムカつくわ」



 机に突っ伏しながらビールジョッキを握り締める朝子に、友人の夜乃は枝豆を頬張りながらカクテルを呷る。



「枝豆美味いから食べて元気だしなよ。そんなクソ野郎のことなんて忘れてさ! あらやだワタクシったらお食事の場でクソ野郎だなんてお下品にごめんあそばせ」

「全然気にしない~、あいつマジクソ野郎だもん! だって自分が書類の提出期限守れなかったからって部下に責任押し付けるのおかしくない!? 私はちゃんと守って余裕をもって提出したって―の」

「うんうん」

「ちゃんと確認したのに「うるせぇぞ」って怒鳴り散らしてくるし結局間に合わなくって「部下の提出が遅くて出来なかった」とか馬鹿なの!? 就業時間にスマホでゲームしてるから終わらねーんだよ! 思考回路イかれてんのか!?」


 怒りがヒートアップした朝子は声のボリュームも大きくなりテーブルを強く殴りつける。


「おふっ」


 テーブルに乗せられた料理の皿やグラスが跳ねて甲高い音を鳴らすのを見兼ねて夜乃は枝豆と自分のグラスだけ持って逃す。


「わかる、わかるよ。わかるんだけどもうちょっと落ち着いてー。周りがざわざわしてても机を叩く音は目立つよー御用改めかって思われちゃうよー」

「御用改め……それでアイツがいなくなるならいっそこの手で斬って……」


 脳裏に浮かぶ想像上ですら、あの上司ヘラヘラと笑って嫌味を吐いては理不尽に怒鳴り散らす。脳内では何度殴り飛ばしたことか。

 朝子と同僚との仲は良好であったが、誰も上司と関わり合いたくないため上司の行動に声を上げられずにいた。その空気感が嫌で、辞めていく人も多い。

 考えれば考えるほど存在が煩わしい。


「ちょっと朝子。気を確かに!」


 夜乃が声を張り上げる。朝子はハッとして夜乃を見る。


「あ……ご、ごめん夜乃……言い過ぎた」

「うん。ちょっと時代が違うからね。下手すると朝子がムショに入っちゃう。それは意味ないからね」

「そうだよね。ごめん……」


 不満が溜まっていた所為で悪い酔い方をしてしまったと項垂れる。一緒に飲む人を不快にさせてしまうなど社会人失格だ。

 朝子が話を切り替えようと顔を上げた瞬間に夜乃が口を開いた。


「もっと法に則ったやり方にしないと」

「え? あ、そうだよね……?」

「それかバレないやり方で叩きのめす。腕力では勝てない可能性が高いから人数揃えるのも手だけど関わる人数が多くなるとバレやすくなるしなぁ」

「――――――――ん?」


 朝子は真剣に夜乃の話を聞いていたが途中から物騒な方向に変わり首を傾げた。


「決闘なんて正式なものは向こうが応じる可能性低いし、だからといって急襲したら明らかにこっちに非があるというか、いくら職場での件があったとしても分が悪い。やっぱりやるなら完璧に計画しないと」


 真剣に頭を抱え始める夜乃に開いた口が塞がらない。よくよく見るといつの間にか手に持っていたグラスの中身も枝豆も空になっている。


「や、夜乃……?」

「いや、やっぱり正式な裁判じゃこちらが受けた屈辱を果たせないよね。やっぱりアサシンを雇って闇討ちをするしか」

「待って待って! アサシン!?」

「なに? 雇うならバーサーカーの方がいいって? ちゃんと理性のある奴が来てくれればいいけど」

「急にゲームの話混ざっちゃってる! そういえば夜乃酔っ払うの急なんだよなー! もうどこまでまともだったのかわかんないよ」

「今もまともだよ。ちゃんとクラス相性思い出せるし。つまり一番重要なのはそいつの契約しているクラスだけどフォーリナーじゃない限りはバーサーカーでいけるか」

「あいつマスター確定かい。ってそうじゃないよ! 現実に戻ってきて!」


 テーブルに設置された呼び鈴で店員さんを呼び出す。「失礼します、」と小さな声で入ってきたのは大学生のアルバイトか、ちらちらと個室の中を見ながらオーダーの機械を取り出す。


「えと、烏龍茶二つお願いします」

「はい。ありがとうございます。少々お待ちください」


 やや早口でオーダーを取り、入り口付近に置いていた空のグラスを回収して部屋を後にする。

 どうやら先程朝子が騒いだことがやはり店員の間で『ヤバいやつが来た』という認識になってしまったらしい。酔いが冷めてしまえば恥ずかしさと後悔でまた叫び出したくなる。


 まもなくして烏龍茶が二つ運ばれると朝子が謝る暇もなく店員は戻ってしまい、ますますムズムズした気持ちが残る。


「……ほら、夜乃。烏龍茶で落ち着いて」

「ありがとう。酔ってないんだけどありがとう」

「酔ってる人はだいたいそう言うの」

「難儀な世界だな」


 不服そうに口を尖らせながら夜乃は烏龍茶を飲む。その動作をぼーっと見ていると夜乃の胸元で輝くネックレスが目に入る。夜乃の好きなアニメキャラがモチーフになったもので、夜乃はまるで彼氏にもらったかのように大事にしていた。


「夜乃さ、最近好きな人とかいないの?」

「私は今のところ霧雨くん一筋」


 即座に返事が来る。

 夜乃は愛おしそうにネックレスを撫でる。


「いやいや、二次元の話じゃなくってもっとちゃんと好きな人、なんかこう心の支えになるような」

「まあ特撮とか俳優さんも好きだけどやっぱり心の支えになるのは霧雨くんだよ。正直霧雨くんにお金かけるためにつらくても仕事してる」

「だからそうじゃなくて! もっと現実的な!」


 なかなか話が通じず朝子はテーブルに身を乗り出す。夜乃はまたこの話か、と眉間に皺を寄せる。


「私にとっては全部現実だよ。……ま、朝子が言ってるのはもっと手軽で身近で結婚が出来る可能性がある身の程を弁えた三次元の異性で好きな人ってことだろうけど」

「そうだよ、好きな人って訊いたらそれが普通じゃない?」


 夜乃がオタクであることは知っていたし、朝子もアニメやゲームがとても好きだ。だがアラサーになってもオタクで、まして実在しないキャラに恋をするのはどうかと思っていた。


 いつもは仲の良い二人はこの話題になるといつも険悪になる。

 夜乃から話すことはない。

 決まって朝子が「心配だから」と話し始める。


「何度も言ってるけど、今の私は結婚することを優先にしてないの」

「パートナーがいるって大事じゃない。もうアラサーだし、歳取れば出産もし辛くなるし……」


 何気なく口に出したそれは朝子が、毎月のように親から状況確認という名の催促で言われていることだった。

 夜乃は深くため息をつく。


「言いたいことはわかるよ。朝子がそう思うなら朝子は早く結婚して子供産んで幸せになればいい。でもそれは私の価値観とは違う。いつか、もしかしたら結婚したいと思うかもしれない、子供産むには遅いかもって思う日もくるかもしれないけど、それは私のタイミングで思うことで焦っても意味がない。将来のことを考えた結果、今は趣味が優先事項なの」


 語尾が強まってしまったことにハッとし、気持ちを落ち着かせるように夜乃は烏龍茶を一口飲む。

 置いたグラスはすっかり汗をかいている。


 朝子は、夜乃が自分よりもずっと現実的な思考を持っていることを知っている。非現実的な発言もよくするけれど、それは夜乃なりのユーモアだ。

 行き当たりばったりで、自棄になっているわけでもないこともわかる。


 一方で焦りの抜けない朝子は険悪になるとわかりつつ口を開いてしまう。


「だってそばにいてくれるわけじゃないし触れないし話してくれるわけでもない。寂しくないの?」


 乙女な考えかもしれないが朝子は好きな人とはすぐに触れ合える位置にいてほしい、今日の何気ない話も聞いてほしいと思う。

 アラサーになってからますますそんな欲が強くなった。


「確かに、そうなってくれたら嬉しいと思う気持ちはあるけど、相手が返してくれないとしても私は『私が好きだ』っていう気持ちが一番大事というか、好きって思えるだけで幸せなの」


 さっきまでの厳しい表情ではなく、その存在を信じているような柔らかい表情。

 居酒屋の喧騒の中で不釣り合いにも神聖さが感じられる――と思った瞬間に突然、夜乃が無表情に変わる。


「というか私、仕事つらすぎて不満溜まって言い方も配慮せず吐き出したいタイプだから生身の人間じゃ受け止められないと思う」

「う……」


 朝子は先程までの自分の発言を思い返す。

 酔っていたとはいえ本音のままフィルターをかけずに愚痴った言葉はとても綺麗とはいえない。


「自分の状況が落ち着いてないまま誰かと付き合うとさー、不用意に傷付けたり迷惑かけたりしそうだから怖いんだよね。だからといって我慢して精神的にやられちゃったら元も子もないし」

「ううっ」


 夜乃の話を聞きながら自分も同様のことをしてしまいそうだと思うと胸に鋭く刺さる。


「仕事うまくいかなくなるとやっぱり癒しを求めて誰かといたいなってなることもあるけどさ、都合の良い癒しだけをくれる人を求めたら将来のパートナーとして考えるなら上手くいかないだろうし。なんか、つまり今は避難場所として恋人を欲しただけで結婚したいわけじゃないんだろうなって」

「うわああああああ」


 もうやめてくれ、と胸を押さえてテーブルに突っ伏すと、夜乃は「私の話だよ?」とケラケラ笑う。夜乃の話だとわかっていても自分の頭の片隅にあった憂いが刺激されて情けなくなる。

 朝子は耐えきれずメニュー表に手を伸ばす。


「なにか……酒、酒を……」


 ビールが飲みたい気分だがそんな豪快に飲めるようなお酒では悪酔いしてしまいそうで『シャンディ・ガフ』にすることにした。

 夜乃は朝子からメニュー表を受け取ると再度呼び鈴を鳴らし、店員に『シャンディ・ガフ』と『チャイナブルー』を注文する。

 先程来た店員とは別のアルバイトのようで爽やかな笑顔で「ありがとうございます!」と去っていく。


 突っ伏したまま横目で店員を見送った朝子が呟く。


「眩しい……」

「ん?」

「短髪に程よくついた筋肉……焼けた肌……きっと運動系のサークルに入ってる大学生……眩しい」

「いくら寂しいからって見境なしは後悔するよ」


 夜乃は飲み干したグラスを、朝子のグラスも合わせてドア側に寄せる。手持ち無沙汰になった朝子はすっかり冷めた玉子焼きを頬張りゆっくり咀嚼する。

 出汁が効いていて噛めば噛むほど美味しい。


「失礼します! お待たせしましたこちらが『シャンディ・ガフ』と『チャイナブルー』です!」

「ありがとう眩しいおにいさん」

「はい?」

「あーごめんなさい気にしないで大丈夫ですよー!」

「? はい、失礼します!」


 急に店員さんを眩しそうに見つめ出した朝子を遮り、空いたグラスを渡して退室させる。周りがガヤガヤしていてあまり聞こえなかったのが救いとなった。


「どうした朝子。酔っ払ってんのか」

「朝子はあなたでしょ。自問すな。烏龍茶飲んだのにまだ酔っ払ってんのか」


 夜乃は朝子の手に渡る前にお酒を回収しようとするが、野生動物のごとき動きで『シャンディ・ガフ』を攫っていく。その勢いのままグラスを傾け半分くらいまで飲む。


「……ぷはっ。ああーダメだー! なんか満たされないんだよなー毎日さー!」

「そのようだね。情緒不安定だわ」


 夜乃は優雅に綺麗な水色を飲む。夜乃も不満があることはわかっているが朝子は自分よりも焦らず落ち着いているように思えた。


「夜乃は落ち着いてるなー。現状に焦ったりしない?」

「することも多いよ。でも」


 夜乃は何かを思い出すように虚空を見た。


「どんなに考えたって未来はわからないから今を全力で楽しむことにしたので霧雨くんを崇め奉って結果最高に楽しく生きてる。生きる糧。誰になんて揶揄されても私の幸せは私が選択する。腹立つことも傷つくこともあるけど苦しくなったら、他のやつの価値観なんて知るかボケくらいに思ってる」

「強すぎる……」


 朝子は自然と夜乃に向かって拝み始める。


「と。自分に言い聞かせてる。正直メンタル最弱なので何か信仰出来るものを作って心の支えにしているわけよ。それが霧雨くん」


 夜乃も朝子の真似をして拝み始める。


「つらいとき、自分の好きなものは必ず心の支えになってくれる。特にもキャラは裏切らないから神聖なままでいてくれるのです」

「おお……!」


 教え諭すように話す夜乃に後光を見た朝子は目を輝かせて聞き入る。


「朝子もつらいなら好きなものを崇め奉るのです……心の平穏が保たれたとき、きっと幸せはやってくるでしょう……」

「なんと……ありがたやありがたや」

「失礼します! そろそろラストオーダーの」


 突然開いた扉に驚いて固まった二人を見て店員さんも固まった。

 最後に二人で玉露を頼み、帰宅した。しばらくその居酒屋に行くことはなかった。




※※※




「すみませんお先に失礼しまーす」


 出来る限りの笑顔で朝子は会社を後にする。

 今日は普段の超過勤務に耐えかねて午後半休をとった。前々から申請していたにも関わらず急でもない仕事をギリギリまで押し付けてくる上司に前髪で隠れた位置に青筋を立てながらも必死で区切りをつけた。


 あと少し、もう少し会社から離れたら顔から力を抜ける。それまでは営業用のスマイルでやり過ごす。

 少し歩いた場所から自宅近くを通るバスに乗り込む。いつもは混雑しているこの路線も今の時間帯はおばあちゃんが二人、大きな荷物を横に寝ている若者が一人乗っているくらいだ。


 一分ほど停車してバスが動き出した瞬間に力を抜く。

 元々半目気味の朝子はそのままの状態では睨んでいると誤解されることが多かった。いらぬ争いを避けるように、常に目元口元には気をつけているがやはり疲れる。


 窓の外を見ながら度々映る、愛想も顔色も悪い自分の顔に辟易しながらも今週は終わったのだと、ようやく一息をついた。



 揺られること二十分。

 自宅最寄り停留所の一つ前で降りて商店街を歩く。

 ここは平日の日中でも混んでいるが、道の真ん中に特売エリアが設置されていないだけで大分歩きやすい。


 今日の夕飯、土日のご飯にお菓子、ジュース、日用品などを買う目的はあったが他に見て回る予定はなかった。


「あれ、こんな店あったっけ?」


 見たことのないお店なら新しいはずなのに、そういう趣向なのかレトロな雰囲気のあるお店。控えめに店の前に置かれたカートを見ると


「あ、中古のCDとかDVD扱ってるお店か!」


 透明のラッピングをされた、比較的綺麗な状態のCDやDVDがぎっしり入っている。


「最近買ってないなー」


 学生時代は毎日音楽を聴いて登下校していたし、好きなアーティストのライブにも行った。だが社会人になって一分一秒が惜しくなってくるとゆっくり音楽を聴く機会も失われていた。


 並べられたCDとDVDの背をなぞりながらどんなものがあるのかを見ていく。


「あ、あった!」


 もしかしたら、と思い見ていくと案の定学生時代熱狂的にハマったバンド『ボトム オブ ジーニアス』の作品がまとめられている。


「うわー、懐かしいなー! ライブのためにお金貯めてCD買えなくてレンタルしたり友達からDVD借りたりしてたなー」


 あまりメディアには出てこないバンドで、姿を見るにはライブしかなくそのために死力を尽くした。懐かしさで胸がいっぱいになる。


「これはテンション上がるぅ!」


 ここで出会ったのは運命かもしれない。幸いにも買い物予定だったため多めにお金を持っている。神様が自分に買えとお告げをしている気がして、朝子は勢いよくCDもDVDもまとめて購入した。




 中古屋を訪れた後、大量に食料品やら日用品を買い込んだ結果、持ち切れずに僅かな距離でタクシーを使うという失態を犯した朝子は、色々あって、今。


 ベッドの上に倒れ込みしばらく天井を眺めていた。


 声が出ない。


 体も動かない。


 ただただ、薄く開いた目から涙が流れていく。


 いつの間にか夕焼けももう沈もうとしているのに部屋の電気をつけることも、カーテンをすることも出来ない。


 今日はもうこの状態のまま一日を終えるのではないかという考えが頭を過ったとき。その沈黙を破る着信音が鳴り響いた。


 この聞き慣れた着信音は――。

 僅かな気力を振り絞って通話ボタンを押す。


「も、しも……し」

『ヤッホー朝子元気?』


 夜乃だ。


『今日午後半休だったよね? 私も早上がり出来たから今から』

「や、の……」

『……どした?』


 夜乃はいつもと違う朝子の様子に声を潜めて朝子の声に集中する。


「わたし、もう……」

『え、待ってなになに? 大丈夫? 今どこ?』

「じたく……」

『わかった、すぐ行くから』

「あ……」


 朝子が返事をする間もなく電話の向こうからヒールの音がしたのを最後に電話が切られた。


 時間にして約十五分。日頃の運動不足と走りづらいパンプスの所為で夜乃は息も絶え絶え、セットされた髪も今や乱雑に顔にかかっている。

 アパートの二階角部屋、インターホンを鳴らすと確認もなくドアが空き目を真っ赤に腫らした朝子が顔を出す。


「どうしたの朝子!」


 夜乃にしては珍しく狼狽えた様子で朝子の肩をさする。


「うっ……」


 また涙を流し始めた朝子を庇うように家に入り鍵を閉める。


「むね、くるしい」

「胸!? ちょっと救急車呼ばないと!」


 慌ててスマホを取り出してダイヤルしようとする夜乃の手を朝子はそっと掴んだ。


「まって、ちがう、の……」

「なにが?」

「びょうきじゃない……」

「え? じゃあなに」


 夜乃は理解できずに顔を顰める。


「このむねのいたみは」


 朝子は自分の胸に手を当て


「あい、なのです」


 天を仰ぐ。


「……」

「……」


 沈黙が流れる時間に比例して夜乃の顔から表情が消えていく。その顔を見て、先程まで切なさと儚さを演出していた朝子には焦りが生まれ視線を彷徨わせる。


「そんなよくわからないことをいうためにわざわざ瀕死を装ったのか?」

「あ、いえ……あの、装ったというか事実、愛が溢れ出してもう苦しすぎたというか、もうその余韻の中でお電話いただいたので、ついそのままのテンションで対応してしまったというか」


 身振り手振りで説明しようとするが事実を説明してもくだらないには違いなく、これ以上お怒りであれば土下座も辞さない気持ちで朝子は構える。


「はああ…………」


 聞こえたのは深いため息。「よしここだ!」と重心を低くしかけた朝子の肩を夜乃は優しく叩く。


「ま、無事でよかった」


 その顔は本当に安堵に満ちていて、朝子は違う意味で涙腺が緩んでいた。


「こころの友よぉぉぉありがとうごめんんんん結婚しよぅぅぅ」

「絶対嫌」


 朝子が抱き着こうとしたところ、ベシッと頬を叩かれたがしっかり加減されており夜乃の優しさをますます実感するのであった。


※※※


 部屋に通された夜乃はテーブルに置かれたすごい数のCDとDVDを見て首を傾げる。


「すごい数。これは?」

「そう、よく訊いてくれた!」


 お茶のペットボトルと夜乃のコップを追加で持ってきた朝子はテーブルの端にそれらを置くと食い気味にCDの一枚を手に取り見せつける。


「あ、これボトジニじゃん! 懐かしいね」

「そう。そうなの!」


 『ボトム オブ ジーニアス』通称『ボトジニ』。三人組のバンドで、最初はネット界で人気になり若者を中心に支持を得ていたが、その世代が大人になると度々テレビにも出るようになっていた。

 朝子はネット界時代からのファンで、長年追い続けていたものの、メディア進出で有名になってくると何故だか熱が少しおさまり、忙しさも相まってたまに曲を聞くくらいになっていた。


「一緒に行ったよね、ライブ」

「うんうん! 地元の小ちゃいライブ会場で席も少ないからチケット苦労したよね~」


 夕方からの開演、二人で精一杯の服装でキメて、観客の熱と、音楽と一体になっていた。


「あの時、峰くんと絶対目が合ってさ」

「朝子まだ言ってる。いくら前の方にいたからって峰くん眼鏡外してたし個人は見えてないよ」


 ギターの峰くんが朝子は特に好きだった。

 前に出てくるようなタイプではないが、メンバーを気遣いながらさりげないパフォーマンスをする笑顔が可愛い人。目が悪くて普段は眼鏡をかけているが、ライブの時は邪魔になるため外すことが多い。


「絶対目が合ってたけどなぁ。あと、なんていうかもう全て見られてるって感じ。あの人たちの曲の前では自分という存在は全て見られて暴かれてるの。心の奥底まで浸透して浄化される。決してポジティブな言葉ばっかりじゃないのに最終的に頑張ろうって思わせてくれる、支えてくれるような曲。もう三人の人間性が詰まってるよね。純粋でいい人達なんだよ。ラジオとかも聞いてたけど仲良くって平和。峰くんの笑顔とか間近で見たい」


 次から次へと『ボトジニ』への賛辞と愛が出てくる朝子を見て夜乃はニヤニヤと笑う。


「なるほど、完全に愛がぶり返しちゃったのね。わかるわぁぶり返した愛の方が燃えあがっちゃったりしてね! 私の霧雨くんもそんな感じよ」

「私は別に峰くんと付き合いたいと思ってるわけじゃないからね!?」

「いやいや、どうかなぁ? だってもし峰くんとかどっかお忍びで来て出会ってややあって告白されたらどうする?」

「いや、ないって! ……ない、けど、もし! もしもあったら! まあ、やぶさかでは」

「ほらあ!」

「もしもあったらそうなるかもってだけだから! じゃあ夜乃は霧雨くんが目の前に現れたらどうするの?」

「当然当たり前に即アタックでゴールインよ」

「ちょうガチ恋じゃん!」

「だから前からそう言ってんじゃーん!」


 お酒は入っていないはずなのに自然と声が高く大きくなる。

 お互いにバシバシ肩を叩きつつキャイキャイしている様子は恋バナで盛り上がる女子高生そのものだった。


 急遽、夜乃が泊まることになり一晩中、はじけていた思い出と感情を甦らせると時間はあっという間に過ぎていくもので、気がつくともう月曜日になっていた。



※※※



 今日は残業だ。

 朝子はまた噂の上司の所為で業務が進まず、残業を強いられていた。原因となったその人物は孫が遊びにくるとかでさっさと帰宅し、ちらほらいた残業組も二十時を超えると誰もいなくなった。

 栄養ドリンクは一日に何本も飲む物ではないが、飲まないとやっていられない。三本目の蓋を開けて喉の奥に流し込む。


 朝子の目は今までにないくらい本気でやる気だった。


 一人ならばと片耳にイヤホンをつけ『ボトジニ』の曲をエンドレスで流す。

 荒んだ心を優しく包み込んでくれる優しい歌声、旋律。主張が強くないため聞きながらでも作業が進む素晴らしい作業用BGMだ。


 空腹で腹の虫が鳴いているが、この音楽の一部になれるのであれば本望と言わんばかりに朝子はノリノリでキーを打ち込む。


 側から見れば怪しかろうと今は自分しかいないのだ。自由だ。


 自由 イズ フリーダム。


「ふふ、意味同じじゃーんってね」


 ドーピングしているものの、元からキャパシティが小さい朝子の脳は限界を迎えていた。それでも作業を続けなければならない。終わらせなければ明日に持ち越すだけなのだ。


 新しいCDやDVDを買うため、ライブに行くためなど自分の残業がもたらす褒美、それだけが朝子を動かしている。


 今頃になって飲み屋で夜乃が話していた意味がわかってくる。


 好きという気持ちがあれば、生きていける。




 数日が経ってもボトジニに対する朝子の興味、関心、愛、信仰は深まるばかりだった。

 通勤時間はスマホに取り込んだ曲を聞き、家に帰ればお酒を飲みながらライブ映像を見る。空き時間にはメンバーのSNS、新着の情報がないかを確認する。


 平日の苦行も絶妙な我慢ラインで受け流せるようになってきた。信仰の賜物だ。


 今日はテレビ通話をしようと予定していたため、パソコンを開く。デスクトップにはもちろんボトジニの壁紙が貼り付けてある。


「はあああもう静止画でも尊い……」


 うっとり眺める朝子にはこの三人がキラキラ後光が差して見える。

 まだ夜乃がログインしていないのを確認すると、CDケースから歌詞カードを取り出し文字をなぞる。


「心に染み渡る……どれだけ徳を積んだらこんな素晴らしい存在になれるんだろう」


 胸が暖かくなる。


「私にこんな素晴らしい曲をくれたんだからもうズッ友……いやズッファンでいよう。それが正しいファンの在り方よ」


 決意を胸にCDを流し、何曲か口ずさんでみるが、夜乃は一向にログインしてこない。壁にかかった時計を見ると約束の十九時を十分ほど過ぎている。

 時間に厳しい夜乃にしては珍しいことだった。


「まだ仕事長引いているのかな?」


 今朝、今日テレビ通話することは確認していたため忘れているということはない様に思う。

 不意に嫌な予感がして、もしかして事故にでもあったのではないかという考えが頭を過ぎる。もしそうだとしたら電話に出られる訳もないが、ダメで元々電話をかけてみる。


 ――……、――……、コール音が数回鳴りやはり何かあったのだと立ち上がると、ガチャと繋がる音がした。


「も、もしもし!? 夜乃!?」

『あ、朝子……』

「大丈夫!? 何かあったの?」


 この前とは逆に朝子が狼狽えている。夜乃が元気のないときは、本当に何かがあったときだ。


『いや、〝私には〟何もないんだけど……』


 夜乃が言い淀む。

 夜乃自身ではないなら実家の家族に何かあったのだろうか? だがそれを聞いても良いものか朝子が暫く悩んでいると、


『朝子、今ニュースとか見てない、よね?』


 夜乃が問いかけてくる。


「あ、パソコンしか見てなかった。何かあるの? 待ってて、今つけるね」

『あ、いや違うの待っ……』


 夜乃が制止するよりも先に朝子の手にリモコンが乗り電源ボタンを押す。

 昨日バラエティを見たままのチャンネルで映し出されニュースキャスターが真剣な顔で読み上げていた。

 テロップが目に入る。



【速報 ボトム オブ ジーニアス 峰涼太メンバー 書類送検】



「……………………え?」


 息が、止まる。


『人気グループ『ボトム オブ ジーニアス』の峰涼太メンバーが自宅マンションで女子高生に無理やりキスをするなどした、強制わいせつ容疑で書類送検されていたことがわかりました。捜査関係者によりますとーー……』


 ニュースが流れ続ける。


 聞こえているはずなのに心臓の音の方が大きくて頭に入ってこない。


『朝子……』

「あ……」


 耳につけたままのスマホから心配そうな夜乃の声が聞こえ、我にかえる。

 心配させている、何か話さなければ。


「あ、はは……やだなーもう! 峰くんってば何やってるんだろうね!? バカだね信じられないよ! 今までクリーンなイメージでやってきたのに本当、台無し! 人気バンドだから調子に乗っちゃったのかな!」

『……うん、ほんと、そうだよね! あんなに人気真っ只中だったのにもったいない!』


 夜乃は朝子の精一杯の強がりに同調する。

 朝子がボトジニに心酔していたのを誰よりも近くで見てきた夜乃には、これ以上かける言葉が見つからなかった。


「いやでも、ほら、作品には罪はないし? 曲が素晴らしいことには違いないからさ! まあこれから暫くは活動は出来ないかもしれないけど、その魂は作品に残ってるわけだし? 大丈夫大丈夫!」

『……そっか、うん、そうだね!』

「というか夜乃まだ家に着かないの? 早くオンライン飲み会しようよぉ」

『あー! 時間過ぎてごめんね! 今近くの電気屋の前だったから十分後くらいには出来ます! ごめん!』

「大丈夫、りょーかい! じゃあ準備出来たらよろしく~」

『はーい、じゃあまた十分後に!』


 通話が切れる。


 部屋の中には話題の変わったニュースと空でも歌えるほど聞き慣れた曲が流れている。






 朝子は暫く立ち尽くした後、鳴り続ける音楽プレイヤーの電源コードを引き抜いた。

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神聖の崩壊 藤嶋 @rocoko5

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