はじめてのインフルエンザ

米山

はじめてのインフルエンザ

 敦司はひどくうなされていた。目を開くと時計の針は一時三十分を指している。外は明るくない。未だ敦司の体験することのない、夜気の染み込んだ真夜中の世界だ。

 敦司は喉の内側に何かがへばりつくような感触を覚える。唾を飲み込もうとしても、喉の入り口あたりで絡まってしまう。寝る前にお母さんが置いてくれたポカリスエットを口に含むと、それが極端な喉の渇きであることに気づかされた。二リットルのペットボトルを半分ほど飲み下してしまう。それは特別冷たくはなく、水本来の冷たさが取り残されただけであったが、喉の渇きを潤すには丁度良い温度であった。

 お母さんがいない。眠るまで一緒にいたお母さんの姿が見当たらなかった。栓を抜いたように不安が流れ込むが、お母さんが寝ていた座布団の上の布団がめくれあがっていることに気がつく。お母さんはきっとトイレかリビングに行っているんだろう、と敦司はひとまず泣きだしたくなるような心細さを落ち着ける。

 ベッドの脇のテーブルにペットボトルを置く。お母さんが昔使っていた時計の文字盤が淡い薄緑色に発光して妖しくペットボトルの中身を照らしている。その光は薄い膜のように辺りに拡散した。

 時計の隣にある体温計に手を伸ばす。測定可能になるまで少し待ってから脇に体温計を差しこむ。汗でシャツがまとわりついて気持ちが悪かった。枕も何かを零したみたいに濡れてしまっている。ぽうっとした頭で天井の砂時計のような形をした模様を眺めていると、ピリリリ、と体温計の音が鳴る。解熱剤の効果が切れたらしい。三十九度四分であった。

 脳が溶けちゃう!

 敦司は近所に住む一つ年上の三年生の友だちから聞いたことを思い出していた。「四十度の熱を出すと、脳が溶けちゃうんだぜ」。その友だちはよく嘘をつくものだったから、その時の敦司は気にも留めなかった。「どうせ嘘だ」と思っていたけれど、実際に高熱を出してみると頭はくらくらするし、身体はくたびれた金属みたいに重かった。本当に脳が溶けちゃうのかもしれない。もう一回熱を測ると、今度は三十九度五分になっている。

 ミシミシと痛む腕をあげてもう一度ポカリスエットを飲む。

 大丈夫。「それは嘘だな、四十二度だよ。ほら、見てごらん。体温計の目盛りは四十二までしかないんだ」というお父さんの言葉を思い出す。大丈夫、お父さんが言うのなら間違いない。

 でも僕はまだ四十度を超える熱を体験したことがない、と敦司は思った。敦司は年齢の割には賢く、一回り大人びた考えを持っていたが、それが余計に敦司を恐怖させるのだった。誰だって間違えることはあるし、僕は今まで高熱を出したことがない。敦司は腹筋に力を入れて、再びベッドの上で横になる。天井の模様を見つめている。

 もしかして今眠ってしまったら、僕はそのまま死んでしまうかもしれない。気がつかないうちに僕の脳はヨーグルトみたいにぐるぐるになって、身体はおせんべいみたいに粉々に割れていく。お母さんはおいおい泣くし、お父さんもそうだ。健斗はまだ小さいから僕が死んでしまってもその意味があんまり分からないかもしれない。凪君とダイちゃんも悲しむな。僕だってみんなが死ぬのは嫌だ。

 お母さんを待たずに、さっさと眠ってしまおうと思った。こんなことを考えていると、いつまでも寝られない。というよりも、敦司は高熱の末あまり考えを巡らせることが出来なくなっている。カーテンの模様が人の顔に見えて少し慄きはしたものの、それでも夜の気配は敦司を否応なく敦司を眠りへと導く。ずんずんと夜の底へ微睡んでいく。


 夢を見ている、ということを敦司は理解している。

 そこは浜辺だった。白い砂が地面を覆い尽くしているのに、それを踏んでもジャリジャリとはしない。亀の甲羅の上を歩いているような気分だった。前方に見える海は青黒く、沢山の絵の具を混ぜた時みたいな色をしている。その海の上を、渦を巻くように四角形がコロコロと舞っていた。それは時折ふわりと浮かび上がって、真っ黒な空に吸い込まれていく。よく見ると、それはざあざあという音を立てて海から生まれているもののようだった。丸や三角などの形のものも紛れ込んでいる。敦司にはそれが何故か不平等なものに思えて、ひどく切ない気持ちになった。白い砂浜の上に一人で蹲っていると、激しい無力感が敦司の周りを取り囲んで、胎動し、白い砂を震わせる。風は吹いていなかったが、白い砂は敦司の背後へゆっくりと遠ざかっていく。否、敦司が海に近づいている。海は本当に怖いもののように思えたが、それは感じ方次第では仲違いをした親しい友人のようにも思えた。ただ今は海の恐ろしい一面を垣間見ているだけで、本当は気の良い優しいやつなんだということが敦司には分かっている。彼は立ち上がって海の中へ進む。海は敦司に触れないようにしているらしく、白い砂は身体にまとわりついたままだった。やがて青が視界を覆ってなにも見えなくなる。しかし、敦司の心は落ち着いていた。ゆっくりと口を開いてその青に気泡を浮かべると、それらは互いに反発したのち、一つにあぶくにまとまっておもむろに肥大していった。空が弾けているのか、海の断面が割れているのか分からない。白い塊が黒に亀裂を入れて、世界はもっと複雑な形をなしていく。白と黒は互いに交じり合うことなく、世界を再構築する。気がつくと、僕はその黒と白の世界を走っていた。何かに追われているわけでもないし、何かを追っているわけでもない。ただ、相変わらず地面は亀の甲羅みたいにコツコツとしたままだった。ようやく走ることに慣れてきたころ、突然僕のお尻がふわっとした感じになる。エレベーターが止まるときみたいな感じが突然生えた尻尾みたいに腰のあたりを落ち着かなくさせている。周りの白と黒の箱は、僕が落ちる速さに合わせて零れているみたいだった。大きくなったり、小さくなったりしている。

 お尻の穴にキュッと力を入れる。そうすると、なんだかとても

 敦司は目を覚ます。


 何かモノクロな怖ろしい夢を見た気がするが、敦司は何も憶えていなかった。ただ、天井に白く輝く砂時計のような三角の模様を見つめている。東の窓からカーテン越しに光が射しこんで、お母さんの背中を照らす。身体は少し重苦しかったが、敦司は無事に朝を迎えられたことに安堵する。

 脳が溶けちゃうはずないんだ。

 敦司は時計の側にある体温計を脇に差して、ポカリスエットを飲む。相変わらずシーツと枕は汗でぐしょぐしゃだった。お母さんの丸い背中を眺めながら体温計を見ると、三十七度六分まで熱が下がっている。いっぱい汗をかいたから、早く熱が引いたんだな、と敦司は思った。

 敦司がお母さんを呼ぶと、お母さんはずんぐりむっくりした背中を転がして冬眠明けの熊みたいに起き上がる。そして「体調は、どう?」と眠そうな目を擦りながら言う。「大丈夫だよ」と敦司は言う。


「おはよう」

 敦司は言った。「おはよう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はじめてのインフルエンザ 米山 @yoneyama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ