第50話
今自分がどこにいるのかも分からなかった。屋敷の中のどの部分なのか?
トードーと一緒に地下の方へ降りてきたはずだったけど、教授は更に階下へ降りる階段を下って行った。ミサトの歩き方はぎこちなかった。人形を歩かせているように関節がうまく動いてないような感じで歩く。
僕もその後ろからついて降りていった。
その先は黒い部屋だった。
壁も天井も真っ黒だった。奥の方には分厚いカーテンが下がっていて、奥行きの広さは分からない。教授がスイッチを入れると、四隅でオレンジ色の灯りがぱっとついたがとても薄暗かった。やはり薬草を炊いている匂いがするがやけに強烈だった。
部屋の隅にテーブルがあり、その上に見たような物が置いてあった。
ミサトの釘打ち機だ。
「ミサト、君の大好きな武器を取りなさい」
教授がそう言うと、ミサトはゆっくりとテーブルに近づき、釘打ち機を手にした。
それから教授はさっと前方の黒いカーテンをさっと開いた。
「トードー!」
トードーが大型犬と格闘中だった。
トードーの服は破れ、露出した肌からは血が流れていた。それ見た瞬間にトードーの作ってくれたフレッシュ・ブラッディ・メアリーを思い出して、喉が渇いたなぁと思った。
ほんの少しの時間、その血をもったいないと思ってしまった。
犬は大きくて強そうだったけど、トードーもなかなかやる。
どこで手に入れたのか、杖のような棒で犬と格闘していた。
やがて襲いかかる犬を殴り殺してトードーは勝利を収めた。そしてそれを眺めている僕たちに気がつき、よれよれの風で僕たちの方へ近づいてきた。
「ミサト!」
とトードーが言った。だけどミサトは微動だにしないんだ。
目線はずっと遠くの方を見ているだけだった。
「ミサト、この男を殺しなさい」
と教授が言った。
ミサトは目の前のトードーに視線を移して、釘打ち機を構えた。
バシュバシュっと音がして、トードーの身体を釘が貫いた。
釘はトードーの左肩と腕に当たった。トードーの身体はその威力に押されて後ずさり、膝をついた。
「ミサト!」
とトードーが言った。
ミサトの表情は変わらない。何の感情もないようだ。ウエディングドレスを着た、豪華な等身大の人形のようだった。視線はただ遠くの方を見つめている。
トードーが立ち上がろうとするとその度にバシュバシュッとミサトが釘打ち機を撃つ。
本当はもっと上手なんだろうと思った。
ミサトの目はトードーを見ているようで、見ていないようだった。
撃っても撃ってもトードーには致命傷を与えない。
ああ、トードーはもちろん傷だらけだよ。
腕にも足にも釘が撃ち込まれているんだから。だけど、トードーはあきらめない。
何度も倒れながらもミサトの名前を呼ぶんだ。
だけど、ミサトは容赦なかった。彼女はトードーの呼びかけに答えることもなく、表情を変える事もなかった。
「ぐっ」と言って、トードーが胸を押さえて倒れた。
一本の釘がトードーの心臓の辺りを貫いたみたいだ。僕は思わずトードーに駆け寄った。 後からしまった、とは思ったんだよ。考えなく行動する癖を直さなくっちゃ。
ミサトの釘攻撃が終わらなかったら、僕まで釘だらけだ。
だけどトードーが倒れてしまったら、ミサトは釘を撃つのをやめた。
僕はトードーの身体を抱き起こした。
「トードー! しっかり!」
いや……まあ、正直な話。僕にはトードーを命がけで救おうっていう気はなかった。
トードーは格好いいし、友達になれたら日本には行ってみたいけど、テイラー教授と敵対してまで彼を助けたいという気はなかった。だって……そうだよね? 前期試験の結果もあるし、僕は成績優秀者で大学には必要な人間なんだよ? トードーと教授のどちらの味方につくと聞かれたら、気持ちは決まっていた。
トードーに勝ち目はなく、ミサトはテイラー教授の花嫁だ。
トードーは即死ではなかった。息も絶え絶えの様子だったけど、まだ意識はあった。
「トードー、残念だけど、ミサトは……もうあなたを愛してないみたいだ」
と言う僕に、トードーは、
「馬鹿な……テイラー教授とは何者だ?」
と言った。
「大学の教授だよ、民俗学を主に教えているんだ」
「民俗学……」
「うん、彼は殺し屋でもあるけど、とても優秀でハワイ大学の名誉教授でもあるんだ」
「そ、その優秀な教授がどうやってミサトを操っているんだ……ミサトに何をした!」
僕は肩をすくめて見せた。そしてテイラー教授を振り返った。
テイラー教授はにやにやとしていた。ミサトの攻撃で傷つくトードーを見るのが楽しくてしょうがないという感じだった。
「世の中には不思議な事例がいくつも存在してね。人を意のままに操るなんて事は割と簡単な事さ」
そう言ってからテイラー教授は舌をだして、
「っと、失礼、ミサトが君を殺すのは、私を愛しているからに決まってるだろう」
と言い直した。
「教授、ミサトに何をしたんですか? どうやったら、彼女があなたを愛するようになるんですか? 本当にそんな事が可能なら……」
教えて欲しい。
テイラー教授はははっと笑った。
「君がもう少し民俗学を真面目に受けるようになったら分かるさ。そうしたら実地研修に連れて行ってあげよう」
「実地研修?」
「ああ、今年度のテーマは『ブードゥー教の秘術、呪法の成り立ちとオカルティズムについて』さ。よく研究しておくようにね」
「ブードゥー教って、ゾンビとかのあの?」
「それは肯定しにくいな。最近ではホラー映画やゲームのヒットでゾンビが流行っているらしいがね。ブードゥーと死者を操る術というのは密接な関係があるのは確かだが。昨今のゾンビと一緒するのは困るね」
「死者を操るって……ミサトを殺したのか!」
とトードーが叫んだ。
「まさか! 私は健康な成人男性だ。花嫁も健康な成人女性を望むね。ただね、少しばかり彼女を自分の好みの女性にしたというだけさ。逆らわず、私にだけ従順で、人間を殺すのが大好きな女性。ブードゥーの呪術は強力さ、彼女はもう君の事など忘れたそうだ」
そう言ってテイラー教授はミサトの肩に手をおいた。
ミサトはそれに反応するでもなく、ただだまって遠くを見ていた。
「ミサト!」
ともう一度トードーが叫んだが、ミサトは瞬き一つしなかった。
教授はミサトに呪術をかけたのか? 呪術なんてものが効いて、人を操るなんて信じられないな。宇宙で暮らそうってこの時代に!
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