第38話
「ケビンの血だったなんて……」
と僕はつぶやいた。
トードーが帰った後、僕は夕方の開店時間が迫った店の掃除をしている。僕が盛大に吐いたものだから、店の床は酷く汚れて酸っぱい匂いもしていた。
リズがふてくされてどこかへ行ってしまった後、ボブは僕に店の掃除を言いつけた。
僕は胃の中が空っぽになってしまって、酷く気分が悪かった。それをボブに言うと、店の掃除が終わった後に食事をさせてくれると言った。
とにかく開店時間までに店を綺麗にしなくちゃならなかった。メアリーがどこかへ電話をしている。
「ええ、そうなの。とても新鮮な肉が大量に入荷したの。ですから、どうかとお得意様にはこうしてお知らせしてるのよ。ええ、もちろん。ええ、ええ、そうなの。昨今では肉の入手も難しいですものね。それがねえ、そうなの。日本のお友達が特別に譲ってくれたのよ。素晴らしいでしょ」
メアリーは上機嫌だった。
「さて、ボブ! 今夜はお得意様が三組もお見えになるわ。メニューを考えなくちゃ!」
電話を置いてからメアリーは厨房のボブにそう叫んだ。
「ああ、分かってるさ。だからこうして肉を焼いてるんだろ」
確かにジュウジュウという音と香ばしい肉が焼ける匂いが店に広がっている。
ボブが焼き上がった肉を皿に入れる時には僕は床の掃除を終えて立ち上がったところだった。バケツにモップと洗剤を入れて、店の前の水道で洗ってから外に干す。
雨はすっかりやんで、先ほどまで真っ暗だった空はすでに明るくなっていた。
「トミー! 肉を食わせてやるぞ!」
とボブの声がしたので僕は店の中に入った。
熱々の鉄板に乗ったステーキにポテトとにんじんが乗っていた。
「さあ、食え、うまいぞ。今夜は客が多い。忙しいからな。先に食っといてくれ」
「う、うん」
僕はカウンターの椅子に座った。
「この肉は?」
「肩肉だ。筋肉が発達していて、いい肉だ。うまいぞ」
「バスケット選手だったわよね。ジョーンズは」
とメアリーが言った。
「ジョ、ジョーンズの肉を食べろって言うの?」
ボブとメアリーは顔を見合わせた。
「食わんのか?」
「で、でも、ジョーンズの肉って……」
僕は酷く慌てたように肉とボブの顔を何度も見た。確かに肉はうまそうな匂いをしているが、僕には友達を食べるなんてとても出来ない。
「ねえ、トミー。何故、あなたをこの店で雇っていると思う?」
と、メアリーが言った。
「え? 僕のお祖父さんと知り合いだって聞いてるけど……それでバイト先を探してた僕を紹介してくれたんだよ。パパが」
メアリーは満足そうにうなずいた。
「そうでしょ? そして、今夜のお客様の中にはあなたのお祖父さまもいるのよ」
「え?」
「あなたのお祖父さまはうちの店の上得意客なのよ」
「え……それはつまり……」
「お祖父さまだけじゃないわ。あなたのパパもママも今夜はお客様として来るのよ」
「パパも……ママも?」
メアリーは優しくうなずいて、
「さあ、だから今夜は忙しいの。早く食事を済ませてちょうだい。あなたのママも肉料理は得意でしょ? きっとあなたのママのお料理と同じ味がすると思うわ。あなたのおうちで出ていた肉は肉屋さんでは買えないのよ」
と言った。
「……」
「トードーのレシピ通りに作ってみたんだが、どうだ?」
とボブがグラスに満たした赤い飲み物をくれた。
グラスの縁にはレモンがささっていた。
僕の喉がごくっとなった。トードーに飲ませてもらった、フレッシュ・ブラッディ・メアリーはもの凄く美味しかったんだ。
僕はグラスを手にして一気にそれを飲んだ。
「美味しい……ボブ、これはもの凄く美味しいよ!」
「そうか、そいつは良かった」
僕を見てメアリーが笑って、
「あなたのお祖父さまはルーマニア出身だったものね。トミー、あなたお祖父さまにそっくりだわ」と言った。
その夜は大盛況だった。
僕の家族のみなでボブの店へ来て、おおいに飲んで食べた。
他にも地元じゃ有名な弁護士の先生に、大学の学長まで来てたんだ。僕は成績がいいから学長も僕の事を知ってたし、何よりお祖父さんの知り合いだったって事にもびっくりした。
何だろう。知らなかったいろんな事を知って、僕は変わったような気がするんだ。
今まで自信がなかった事にもチャレンジ出来そうな気がする。
ケビンの血を飲んだから少しは女の子と上手に話せるようになるかもしれないし、ジョーンズの肉を食べたから、運動神経が発達するかもしれないね!
そうやって誰かのいいところを取り込んでいけば、いつかは僕も弁護士になれるかも、大学の学長になれるかもしれない。
そうしたらリズともうまくやっていけるかもしれない、なんて思うんだ。
その夜、僕は素晴らしく満足して、そして眠りについた。
その数分前に思いついた事を明日やってみようと思いながら。
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