鯨が地球にやって来る

相田舞

#1

鯨を見ていた。月の夜を悠々と泳ぐ鯨。漆黒の摩天楼の中をゆっくりと進んでいく。今日は雲がひとつもないため、闇に紛れる鯨もはっきりと輪郭を捕らえることができる。

そんな鯨をゴミの山の中で見上げていた。



ここは昼も夜も関係なく暑い。人間がワガママな発展を遂げてきた代償だ。俺らみたいな底辺貧乏人には、“普通の人”みたいに冷房の効いた部屋で快適に過ごす権利なんてない。俺は10の頃親父に家を追い出された。


勘当されたからって何も悲しくはなかった。むしろ自分から出ていこうと思ったくらいだった。親父はクズ人間だった。一緒にいた母もだ。

最初からクズだったわけではないと思う。2人がおかしくなったのは、AIチップを頭に導入してからのことだ。俺が小学校に入学してしばらくした頃だったと思う。当時、少しずつAIチップが普及してきた。AIチップは本来、思考を助けるためのものだった。しかし、用途を間違える奴もいた。俺の両親もその一部だ。

AIチップが脳に直接作用して魅せる映画やドラマ、VRなどのエンタメに容易く呑まれていってしまった。最初は“新しい趣味ができた”程度だったが、だんだんとエスカレートしていって、俺の面倒をみなくなり、やがて仕事にも行かなくなった。

親父はずっと家にいて、映画を見ているか、VRで遊んでいるかだった。たまにそれを止めては、イライラしているのか、俺に暴力や暴言を吐いたりしたりした。初めて殴られた時は驚いた。なぜ殴られたのかわからなかったからだ。最初は俺の所為かと思って、父親が喜びそうなことをしたり、いい子になろうと努力したりしたけど、親父は殴るのをやめなかった。そのうち、理由を知るのは諦めた。もう慣れてしまったんだ。

母もそんな感じだった。暴行したりはしないし、最低限食事(コンビニの物や冷凍食品)を出してくれたりしたが、俺とは口もきいてくれなかった。昔はあんなに笑いかけてくれたのに、俺を見るその目に一切の感情はなかった。そのうち、食事すら出さなくなってしまったが。

そして、働き手のいなくなった俺の家は、だんだんと食べるものがなくなり、生活費もまともに払えなくなった。その解決策が、俺を追い出すことだったのだ。

親父に勘当を言い渡された時も、特に悲しくなったり、戸惑ったりはしなかった。むしろ、冷静でいられた。もともと出ていこうと思っていたんだ。しかし、ずっと迷っていた。子供ながらに親父や母はいつか変わってくれると信じていたんだ。親父に出て行けと言われて、やっと決心がついた。そして、俺は夜に逃げ出した。


そして、今ここにいる。俺に家はない。ゴミの山を漁ってなんとか生活している、社会の底辺だ。

でも、


鯨だけはそんな底辺の俺らのことも味方してくれる。鯨は“誰かの”ではなく、みんなの味方だ。

そう思っていた。



誰かの泣き声が聞こえた。

普段なら絶対に無視するのに、その時はどうも気になったんだ。立ち上がって声のする方に歩く。

声の主は、俺と同年代くらいの少女だった。


「どうしたんだ。」

気づいたら声をかけていた。人助けなんてするもんじゃない。そんなことは分かっていた。俺は自分のことだけで精一杯なのに。


もう7年も前のことか。家を飛び出した俺は行く宛もなく、街を彷徨っていた。

「こんな時間に何してんだ、ボウズ」

そんな俺をここに導いてくれたのは、ホームレスのじいちゃんだった。

それだけでなく、彼も生活がキツイのに俺に飯を食わせてくれた。

今思えば、なにか裏があってもおかしくなかった。まだ幼かったから、疑わずについて行ってしまったが。しかし、じいちゃんは俺に何かを要求したり、なにかしてくる訳でもなかった。つまり、正真正銘の“お人好し”だったのだ。

でも、優しいだけの人間は損をする。それが社会のルールだ。

じいちゃんは俺にとって本当に尊敬できる人間だった。ただ、俺がじいちゃんみたいに損得感情抜きで人助けができるかと言ったら、できないだろう。なのに、、、


俺は目の前の少女に手を差し伸べようとしていた。


「もうすぐこの世界は終わってしまうのでしょう?」

そう少女は言った。

「ねえ、死んだらどうなっちゃうの?怖い。私、まだ死にたくないのに。」

もう直ぐ世界は終わる。鯨が地球に近づいてきているのだ。


あの鯨は、あんなに小さく見えるのに、とても大きい。そいつが地球に近づいて、大きな腹で地球を押しつぶしてしまうらしい。そんな情報が出回り始めたのは、二週間ほど前のことだ。

頭のAIチップのせいで、情報が広まるのはとても早い。

この鯨の件は、大混乱を引き起こした。ただの噂話でも、嘘でも冗談でもない。それは確かな“真実”だった。


「私ね、死ぬ前にやりたいことがあるの。」少女は震えた声のまま、呟くように言った。

「何?」

「何故鯨は地球にやって来たのかを知りたい。」

「なぜ私たちは殺されなければいけないのか、なぜ人類が滅ばなければいけないのか、私たちはどうするべきだったのか、知りたいの。」

「それで?」

「え?」

「知って、どうするんだ。それで人類の滅亡をとめて、英雄にでもなるつもりか?原因を突き止めたとして俺たちに過去を変える術はないんだぞ。」

俺たちは英雄になんてなれない。自分のことだけで精一杯だ。自分を守るのもままならないのに、誰かを救う、ましてや世界をだなんて、不可能だ。俺たちは漫画の主人公なんかじゃない。

「そんなわけじゃ、、、。ただ単純に知りたいだけなの。ヒーローになんかなれないのは、私も分かってるから。」

「、、、いいよ、手伝ってやる。」

俺は何をやっているんだ?これから、この子と鯨の謎を解くのか?そんなことして、俺に一体なんの徳があるというんだ。

でも、何故かはわからない。だけど、この子の望みを叶えなければいけない。そう強く思えて仕方がない。

「本当に?ありがとう!」

彼女は笑った、のか。暗くて表情はよくわからないけれど。


空を見上げた。鯨と満月がすれ違おうとしている。

まあ、もう直ぐ世界は終ってしまうし、いいか。

「そういえば、名前は?」

「私、あさひ」

「星夜だ」

(#1終わり)

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