今、アスリートに伝えたい事

 雪菜は何日も小説を書いていなかった。それでも透に言われたように、小説から逃げずに、他の人が書いた作品を読んだり、これまで書いた物を読み返したりしていた。


 ある日の朝、雪菜は秘密の場所に座っていた。遠くでキツツキのドラミングが聞こえる。すぐ近くで「ケーン」と大きなキジの声がしたので雪菜は驚いた。

 そこに突然何かが現れ、近づいてきた。

 車椅子に乗った人‥‥‥

 雪菜は更に驚いて、思わず「えっ?」と声が出た。

 その人の姿が大きくなってきて、顔が見えてきた時、雪菜は自分の目を疑った。

「北斗?」

 北斗が雪菜のそばにやってきて声をかけた。

「ごめん、ごめん。久しぶり!」

 雪菜は動揺を隠せない。

「久しぶりって‥‥‥。ど、どうしたの?」


 北斗は、雪菜がなぜ驚いているのか不思議そうに首を傾げた。

「どうしたって? ちょっと伝えたい事があって来たんだけど」と言った。


「だって、車椅子」

 雪菜がポカンとしていると、北斗は不思議そうな顔をした。

「車椅子がどうかした?」

 雪菜が「怪我しちゃったの?」と聞くと北斗は「何言ってんだよ。オレ、もう六年も車椅子に乗ってるのに。この前だって乗ってたじゃないか」と答えた。


 雪菜はキツネにつままれたような気分になった。

「おにい‥‥‥」

 言いかけた言葉を呑みこんだ。


 北斗が言った。

「緊急事態宣言が全国に広がってからも、危機感無い行動しちゃってる人が多過ぎるよな。これから迎えるゴールデンウィーク、本当に試される期間だと思うんだけどな。

 アスリート達がさ、お家で出来る運動とか色々発信してるだろ? だけど、オレの耳には今、凄く不安に駆られている選手達の声も沢山聞こえてくるんだ。スポーツに本気で取り組んでいる東京2020の候補選手やプロ選手は尚更だ。そんな声を聞いて、伝えたいなって思う事があってさ。

 あ、これは選手達に向かって、どうしろこうしろという事じゃないんだぜ。本気で取り組んでいる人達なら必ず自分で見つけていけると思っているから。でも、聞いておいて悪くないんじゃないかなって思ってさ。雪菜、オレの経験、書いてくれるか?」


 雪菜は「やっぱりおにい……」と言いかけて、これは北斗の言葉としてしっかり聞こうと思った。


 北斗が話し始めた。

「東京2020の一年延期っていうのは、それを目指してきた選手達にとって、一般の人達が想像している以上に大変な筈なんだ。選手にもよるけどな。

 例えば、東京2020の開催が七年前に決まって、そこをピークに持っていくように懸命に努力してきて、ここまで最高の状態に持ってくる事が出来ていて、金メダル候補ナンバーワンって言われている選手だっているわけだ。一年の延期、選手達は何とか前向きに考えて、もう一度ピークを作り直す努力をするだろう。

 だけど、それは簡単に出来る事じゃない。まして今現在の思うようなトレーニングが出来ない現状と、ここから一年の練習環境もどうなるか分からないという現実。


 長いスランプや怪我から脱して、ようやくきちんとトレーニング出来るようになった喜びに満ちていた選手もいるだろう。ようやくここからって時に、今度はトレーニング出来る環境が無いなんて、悔し過ぎる。


 今年が最後、今年のオリンピック・パラリンピックを選手生活の集大成と決めて、ここまで踏ん張ってきた選手だっている。痛む身体に鞭打って、その為に手術を先延ばしにしたり、痛み止めの注射を打ちながらやってきた選手だっているわけだ。そういう選手がもう一年頑張れるか? って言ったらそれは分からない。


 東京2020の新たな開催日程が決まって、そこに向かって出来るのは少しはやり易いと思うけど、現在延期や中止となっている大会が、いつになったらちゃんと開催されるようになるかも分からないし、ちゃんとしたトレーニングはいつになったら出来るようになるかとか、目処が立たない事が凄く多い。

 そもそもオリンピック・パラリンピックを本当に開催出来るのかどうかも分からない。


 人生を懸けてきた人達にとっては堪らない事だと思うし、スポーツに限らず、今多くの人々はやりたい事が出来なくて、それを我慢する事が苦痛で仕方無いと思う。

 そんな人達にオレが言えるのは『今我慢しているその先に、好きな事が待っている』って事。

 オレは六年前の事故で、もう自転車には乗れない身体になってしまった。いくら頑張っても我慢してもその事実を変える事は出来なかったし、今も出来ない。

 コロロンウイルスの拡大はみんなで我慢したからといっても、すぐに終結するものじゃない。だけど、時間はかかっても必ず良い方向に向かう。ウイルスは勝手に増殖するんじゃなくて、人間が運んでいる物なんだから。今は我慢しなきゃ。『これ位は大丈夫』と思って行う身勝手な行動は、自分達で自分達の首を締めているようなもんだろ?」


 雪菜の真剣な目に涙が潤んでいた。

「いくら頑張っても我慢しても、もう出来ない大好きだった事‥‥‥」


 北斗が言葉を遮った。

「でも、オレは不幸じゃない。生かされた。そして今を生きている。

 神様はマイナスだけを与える事はしないはずなんだ。その裏に隠されているプラスは、与えられるものなんじゃなくて、その人が気づかなきゃいけないものなんだと思う。

 オレは沢山の気づきを貰って、今を楽しむ事が出来ている。

 オレよりずっと重たい障害を抱えて生きている人達の中にも、その辛さと共に隠されていたプラスに気づいて、今を幸せに暮らしている人が沢山いるように思うんだ」


 雪菜が「北斗は強いね」と言った。

 北斗は「強くなんかないさ。強さともろさは背中合わせだ」と言った。


 北斗が続けた。

「今迄と同じように出来ない期間が長いと『これまでの積み重ねが消える』っていう不安にも駆り立てられるだろうけど、積み重ねてきたものは決して無くならない。今は焦らず、選手として、最低限を保つ努力をしていってほしい。光は必ず見えてくる。


 諦めかけている人がいるならば、もがけるならばもう少しもがいてみてほしい。それでもダメなら仕方がない。どこで区切りを付けるかはその人次第。例えオリンピックに挑戦する事を止めてしまったとしても『やり切った』と思えるならば、競技人生を全うした事になるんじゃないかな。『コロロンウイルスのせいで自分の競技人生が終わってしまった』とだけは思わないでほしい。

やってきた事は無駄じゃない、無駄にするなって事。それが一番言いたい事。


 何かが変わるだろう。コロロンウイルスが終結して、その前とその後と何も変わらなければ、それこそ我慢してきた意味がないんじゃないかな。

 オレは今迄通りのオリンピック・パラリンピックを求めていない。一年後に新しい価値観を持った素晴らしい大会が開催される事を願っている」

 そう言って微笑んだ。


 雪菜は「ありがとう。出来るだけ、北斗が言った事をそのまま書くよ」と言った。


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