第5話 侵入

 翌日の夕方。林道さんは俺に宣言した通り、きちんとバイト先にいた。そのことをこっそりと、遠目に確認した後、俺たちはそさくさと彼女の家に向かった。

 行っていることから生じる後ろめたさだろうか。容赦なく自分たちを照らす太陽の光が、妙に憎らしかった。


 二駅先のマンション手前。汗をぬぐいながら、俺はポケットから例の鍵を取り出す。喉仏を上下させたのは緊張しているからか、自分でもわからなかった。


「よし、行くぞ!」


 先輩の声に促され、エントランスの鍵穴に鍵を挿し、ぐるりと捻る。


「ビンゴ」


 スムーズに開く自動ドアを見ながら、先輩は嬉しそうに呟いた。


 *


 エントランスを開けられる鍵というのは当然、この鍵がこのマンションのどれかの一室の鍵であるということであり、鈴木が持っているとすれば,何号室の鍵であるかは明々白々だ。

 俺たちはまっすぐに三階へ向かうと、三〇二号室の前に立った。


「よし。さっそく突入しようぜ!」

「怪盗よろしくウキウキワクワクであるところすみませんが、さすがに即突撃はちょっと……。一旦ピンポン鳴らして、駄目だったら入りましょう」

「りょ」


 先輩の返事は簡素を通り越して、なにかを欠如しているといえる。

 そんな欠陥品のような日本語を聞いたところで、俺は呼び鈴を鳴らした。ピンポーンと無駄のない音が鳴る。


「うーん、特に反応なし?」


 先輩は扉に耳をくっつけると,固い表情を浮かべながらそう言った。得意げになんの音が聞こえたか言わないあたり,本当になにも聞こえないのだろう。

 ところで,鈴木が中にいなかった場合(俺たちの行為に正当性が微塵も見られない場合)には、その扉についた耳紋を是非とも拭いておいてほしい。


「じゃあ、入りましょう」


 俺は初めて不法侵入を図ることに酩酊のようなぐらつきを覚えながら、その部屋の鍵を開けた。

 がちゃり、音が鳴る。扉は簡単に開き、俺たちの侵入を妨げるものはなにもない。


「ビンゴ、ビンゴ! おーい、鈴木! いるかあ?」


 先輩は無垢(ばか)にも声を出しながら部屋に入る。俺は外廊下にその声が響くことを恐れ、急いで扉を閉め、自分も中に入った。


「……おじゃまします」


 とってつけたかのような断りの文句。俺はずるい性格をしているようで、その声は我ながら随分と小さかった。

 一方、先輩はここが己の家であるかのようにずんずんと入り、廊下の扉を開けた。ここまでくると、大胆不敵を通りこして、ただの狂人である。

 物怖じしない先輩の様子に、悪い意味で助けられながら、俺はその後に続く。


 すると、


「…………」



 いた。

 犬はやはりいない。

 しかし、鈴木がやっぱりいた。



「鈴木!?」


 いるかもしれない、いるだろう。きっといる。そう考えてこんな強行に及んだのだ。いてくれなきゃ、困る。いてくれなきゃ困るのだが――。


 まさか実際に、幼馴染が椅子に縛りつけ、力なさげに項垂れている姿を見ることになるとは思っていなかった。


 鈴木は両足を椅子の足に縄で縛られ、手は後ろ手に結ばれている。結ばれている箇所は手首だから、指先で拍手のような音は出せなくもない。おそらく、昨日もこの状態だったのだろう。床になにかを落としたような音は、重心を揺らし、椅子の足を床に叩きつけたのかもしれない。


 俺は視線を椅子の足から鈴木の顔に移動させる。その口には猿轡がはめられていた。そういうプレイだったらいいのだが、おそらく違うだろう。意識はあるらしく、ゆっくりと上げられた鈴木の瞳には揺れる恐怖と、その中に落ちる安堵が見て取れる。


「鈴木!」


 先輩が嬉しそうに鈴木に近寄る。その声を聞いて,俺の身体は硬直から解放された。


「むー! むー!」


 なにかを喋ろうとしては失敗する鈴木を前に、先輩は突然近寄るのをやめ、立ち尽くした。先輩のことだ、すぐに鈴木の拘束を解くかと思ったが、どうしたのだろう。感動の再開(三日ぶり)だというのに。


 不思議に思いつつも見守っていると、先輩は恐る恐るといった様子で口を開いた。


「……なあ、これなんかのプレイだったりする?」

「んー!」


 先輩の疑問に、鈴木は首を横に振った。眉がつりあがっているあたり、それなりに怒っている。

 どうみても異常事態なこの状況で、先輩の質問はあんまりだろう。たとえ思ったとしても口に出さないべきだ、俺のように。


「ああ、ごめんごめん。今外すなぁ」


 鈴木の怒りは先輩にも感じ取れるものだったようで、ばつが悪そうに謝りつつ、鈴木の背に回り、猿轡を外した。


「ぶふあっ! し、しぬかと思った!」


 解き放たれたその口から出てきたのは、なんとも情けなくも切実な言葉だった。その声が若干枯れているから、悲痛にも思える。

 俺は生死の確認が済んだことで、ひとまず安堵のため息を吐く。空気を出し切った肺が自然に再び酸素を取り込んだところで、鈴木に話しかけた。


「大丈夫か、鈴木?」

「大丈夫じゃないっつーの……。昨日ぐらいから林堂さん、なんにも飯くんねぇの! もう俺、腹が減って……。だあ、もう!」


 良かった。鈴木は意外と元気そうだ。

 もう手遅れかもしれない、なんて俺の心配は杞憂に終わってくれたのだ。


「鈴木。腹減ってるなら、俺のイチゴチョコ食う?」


 腹が減ったと騒ぐ鈴木を見て、先輩はチョコの箱を取り出す。

 しかし、この炎天下持ち運んだのだ。そのチョコ、絶対に半分は溶けている。


「食います……って、もがもがもが!」


 チョコをあげるのは善意ではなかったのか。それとも善意などこの男には端から存在しないのか。リュックから出したイチゴチョコ (大学の生協にて、一箱八十円)の箱を、先輩は鈴木の顔面直上でひっくり返し、その中身を鈴木の口の中に流し込んでいく。


 喉詰まらせて死なす気か?


「げほっげほっ」

「あ、わりわり、詰まったか? 鈴木、今手が使えないだろ? 食べさせてやろうと思って」


 特に悪びれた様子もなく、先輩は口だけの謝罪をする。


 馬鹿を通り越して、ただのサイコパスに見えてきたな、この人。

 もしかしなくても、この期に及んで、まだ彼女先に作られた恨みを持ち続けているのだろうか。


「先輩、ひとまず拘束外してやってくださいよ。ほら、これ飲め」


 俺は鈴木へと近づくと、持っていたペットボトルを鈴木の口に傾け、スポーツドリンクを流し込んでやった。口の中が潤ったからか、鈴木の咳が止む。そのことを確認した俺はホッと息を吐いた。


俺はそのまま膝を床について、その両手を縛る縄を外しにかかった。その結びは想像以上に固く、解くのに苦戦してしまう。


「なあ、鈴木、なにがあったんだよ」


 俺は縄の結び目を緩めるのに尽力する間、ことのあらましを尋ねた。


「…………それがよう」


 おずおずと語りだした鈴木によると、やはり彼に異常事態が起きたのは初デートの日。

 彼が必死に練ったデートプランを終えた後、林さんの方から彼女の家へとお誘いがあったという。


「は? 初デートで彼女の家? 死ねよ」

「先輩、殺意押さえて」


 彼女の家に誘われた鈴木は、かなり浮足立った。当然だ。俺だって同じ立場ならテンションが上がるだろう。それは同じ男なのでわかる。


 なので、テンションが上がるのはいいのだが、


「それがどうして、こんなことになるんだよ?」

「それがさぁ……、俺、見てはいけねぇものっつーか、こえーもん見ちゃって」

「こえーもん?」


 この簡素な部屋で怖いものとはいかに。そう疑問に思いながら、俺は一旦部屋を見渡した。


 そこは淡い色の部屋だった。落ち着いた木目調の机や椅子。参考書が並べられたカラーボックスに、その上に転がっているメモ帳とシャープペンシル。

 どこまでいっても普通の部屋で、もしベッドの上に複数の熊のぬいぐるみが置かれていなければ、女子の部屋とも思わなかったもしれない。

 そんな、さっぱりした部屋だった。


「そ、それ」


 鈴木はどこか怯えた様子で、部屋のある一点を指さした。


「ぬいぐるみ……?」


 指が示す先をみれば、そこにはこの部屋で唯一女の子らしい部分、熊のぬいぐるみがあった。


「そう、ぬいぐるみ! あれがやばいんだんって!」

「はぁ? ぬいぐるみがなんで怖いんだよ」

「いいから見てみてくださいよ! 俺もう触りたくないっす!」


 状況がつかめない俺と、呆れる先輩。


「わけわかんねぇ奴だな。普通のぬいぐるみじゃん」


 先輩は熊のぬいぐるみ群からひとつ手に取り、くるくると回転させて観察する。


「背中のチャック!」

「はぁ? これがどうしたって――」


 鈴木の言葉に従って、先輩はぬいぐるみの背にあるチャックを開けた。


「は?」


 すると、中からスルスルと、糸状のなにかが床に落ちた。先輩は臆することなくそれを拾う。


「…………髪の毛?」

「は!? 髪の毛!?」


 先輩は己が拾った物を髪の毛と分析した。ぬいぐるみの中に髪の毛が入っていたという事実に、俺は驚愕の声をあげる。

 その声をあげたことで力が入ったのか、同時に鈴木を拘束していた縄が解けた。縄の下から、紫に変色した鈴木の腕が現れる。


「大丈夫か、それ」

「ぬいぐるみの中に髪の毛がある光景を見たショックよりは平気」

「ほら、スポドリ飲め」


 鈴木は俺が差し出したスポーツドリンクの残りを一気に飲み干すと、空のペットボトルをこちらに無言で渡してきた。そしてよたよたと椅子から離れる。その足取りは力なく、すぐに足をもつれさせて転んだ。


「ぶぎゃ!」

「おい、無茶すんな」


 ドタンと激しい音と共に、鈴木は撃沈する。痛がる余裕も元気もないのか、鈴木は床に突っ伏した状態から素早く起き上がり、悲鳴を上げるように叫び出した。


「……早く逃げようぜ! 早く! うう、いてぇ」

「落ち着けって、鈴木。林堂さんなら、バイト中だ。シフト的に、少なくともあと三時間は帰ってこない。大丈夫だから」


 俺が言い聞かせれば、鈴木の動きがピタリと止まる。


「ほら、話せよ。なにがあったのか」


 林堂さんが帰ってこないことに安堵したのか、鈴木はホッと息を吐き、こくりと首を縦に振る。そして、事の次第を語り出した。


「俺、デートの日に部屋に通されて……。ご飯用意するからちょっと待って、なんて言われて浮かれて。女の子っぽくていいなぁって、その、熊のぬいぐるみをひとつ拝借したんす。そんで、ちょっと軽い気持ちで中覗いたら……」

「髪の毛イン・ザ・ぬいぐるみ?」

「イエス」


 夢のようなシチュエーションだ。ただし、夢は夢でも悪夢だが。


「いや、でも。この髪の毛、一体何なんだよ。まぁ、ぬいぐるみの中に髪の毛とか、気持ち悪い趣味だけど、それで鈴木を監禁する理由になるか?」

「まぁ、ぬいぐるみの中に名に入れようと個人の自由ですけど、鈴木を監禁するのは犯罪ですね。割りに合いません。……ただし、その髪の毛が誰のものか、によるんでしょうけど」


 俺は鈴木の身体を起こし、そのまま床に座らせる。俺の嫌な予感は残念なことに外れていなかったらしく、鈴木は大きく頷いた。


「そ、そのぬいぐるみ、耳のところに名前が彫ってあるんすよ」

「あー、本当だ、わざわざ刺繍で……。K、A、W、A、I、K、Y、O、S、U、K、E。カワイキョウスケ、か。男の名前じゃん。しかもフルネーム」

「他のぬいぐるみもそうなんすよ! 俺、元カレの名前彫ってるのかと思って……。そしたら、どんな奴らか気になるじゃないですか。それで、ネットで名前できる限り検索したんす。そしたら――!」


 ――ここ数年の未解決殺人事件とか、行方不明者の名前ばっかりだったんす。


 沈黙が、狭い室内に流れる。恐怖が漂い、誰かがごくんと、生唾を呑んだ。


「…………それで、ちょうどそれがわかった時、振り返って彼女がいて。『見ちゃったんだね』って言われて、その後、俺、気絶しちゃったみたいで。気づいたら、椅子に縛られてました」

「気絶って……」

「多分、なにか振りかぶったりとかしてなかったから、多分、スタンガンとか、だと思う……」

「なんで一般人がスタンガン持ってんだよ」


 先輩のツッコミに、俺は同意できない。

 先輩、ここ最近の行方不明者だの死者だのの毛髪をぬいぐるみに入れる奴は、一般人とは呼べません。


「もしかして、その殺人とか、行方不明の事件とか、全部彼女の仕業だったりするとか?」

「は!? お前、正気か!? ぬいぐるみ一、二、三……、五つあるんだぞ! そんなこと言ったら、まるで彼女が殺した男の毛髪を、それぞれ男の名前入りのぬいぐるみに入れて、保管してる殺人鬼みたいだろ!」


 先輩は俺の思い付きを強く否定する。俺だって、こんなことは思いたくない。だが、そう想像してくれ、とばかりに状況証拠が揃っているのだ。


「そう言ってるんです。彼女、見た目はいいですから。鈴木みたいな馬鹿釣って、油断させたところをスタンガンで気絶させて、殺して、その髪をぬいぐるみに入れる。表向きは普通の女子大生。裏の顔は常軌を逸した殺人鬼。それが林堂さんなんじゃないですか?」

「あ、ありえると思う。じゃなきゃ、この状況、説明つかねぇし」


 実際に怖い目に遭った鈴木が、がくがくと何度も首肯する。後輩二人の主張に、先輩も押し黙った。


「なあ、田中、山本先輩。もう俺、立てるんで、ここから逃げましょう。なんだか俺、さっきから寒気してたまんねぇんすよ」

「お前、ろくに食ってないから栄養失調になってるんじゃねぇか? 彼女はまだ帰ってこないから、もうちょい休んで――」

「だれが、かえってこないんですか?」


 肩が跳ねる。冷や汗が止まらず、筋肉は強張り、唇が震えた。俺たちはゆっくり、ゆっくりと後ろを向く。そこには――、


「人の家に勝手に上がって、いけない人たちですね。早退してよかったぁ」

「ぎゃああああああああああ! でたぁ!」

「り、んどう、さん――」


 鈴木が悲鳴をあげる。幽霊を見た時のような甲高い声だが、今俺たちの目の前にいるのは、幽霊よりも実害を出していそうな、この部屋の主。林堂さん、その人だった。

先輩を見れば、彼は俺からサッと視線を外した。


 ――こいつ、ぬいぐるみに夢中で周りに注意払ってなかったな。


なんのための耳だ、その耳は。と、俺は先輩を心の中で責めた。自分を棚に上げている自覚はある。焦りから来る八つ当たりのようなものだった。


「ひどいよ。鈴木君。どうして、私の許可なしに、田中君たちのこと入れたの? そもそもどうやって、縄解いたのかな?」


 彼女はどうやら俺らが合鍵を使って不法侵入したとは思っていないらしい。その辺り勘違いしてくれていれば、俺らは罪に問われないので万々歳だが、今はそれどころではない。


「林堂さん。君は鈴木を殺そうとした。このぬいぐるみのコレクションに入れるためだ。違うか?」


 主導権を握るため、そして鈴木救出の件から彼女の目を逸らすため、俺は推測をまるで確信かのように問う。すると、林堂さんはぎろりと、虚ろな目をこちらに向ける。反射的に、俺の身体は一歩下がり、彼女との距離を取ろうとした。


「……そんなこと、鈴木君にはするつもり、まぁったくなかったよ。だって、まだ彼、私のこと裏切ってなかったし」

「裏切る……?」

「他の女のこと好きになってないし、お母さんのことも自慢してきてないし、電話したら絶対に出てくれるし、私の前で他の女と話してるところ見たことないし、合鍵も迷わず受け取ってくれたし、デートのときにちゃんとプレゼントくれたし、モノマネしてって言ったらちゃんとやってくれるし」


 まさか、それひとつでもやらなかったら、殺されるわけじゃないよな?

 ……嘘だろ? どんな美人でも許されないぞ。


「は? それやんなくても、別に裏切りじゃなくね? 特に後半」

「だって、だって、私がやってって言ってること、聞いてくれないんだよ! それおかしいじゃん! 彼氏じゃん! 彼氏なら、彼女の言うこと聞いて当たり前じゃん! 聞いてくれないってことは、私のこと言うほど好きじゃないってことじゃん。それじゃ、だめなの!」


 先輩の言葉に、林堂さんは勝手にヒートアップしていく。目頭に涙を溜め、ついには泣き出した。マスカラの混ざった黒い涙が、ボロボロと床に落ちていく。


 なんだこの女。こわ。


「うわーんっ。鈴木君が、鈴木君が悪いんだもん! 勝手に私のぬいぐるみ触るから、勝手に私のコレクションに触るから! 人のもの勝手に触るなんて、最低!」

「それは俺も悪かったけど……」


 涙を流しながら語る林堂さんに、それまで恐怖に戦慄き、ろくに喋れなかった鈴木が口を挟む。次の瞬間、林堂さんの目がかっぴらき、ぎょろりと動く瞳孔が鈴木を捕らえた。


「ひっ」

「鈴木君は黙っててよ! 全部、全部鈴木君が悪いんだから! だから、殺そうとしただけだもん! 私、悪くない!」

「いや、そこがおかしい!」


 彼女の言い分の極端な跳躍に、俺は思わず叫んでしまった。彼女の言に、俺の冷静さが吹き飛んだらしい。

 鈴木を睨んでいた目がこちらへと向く。怒りの方向が変わったのだろう。


「うるさい、うるさい! だいたい、なんで田中君たちがいるの!?」

「鈴木に助け求められたから、助けに来た。鍵は鈴木が開けてくれた。今度からはもっと縄きつく締めときなよ」

「え」


 後で不法侵入を訴えられても困るので、彼女の質問に答えるついでに嘘を吐いておく。鈴木が戸惑った様子で俺を見上げていた。


「――――――――っ! このぉおおおおおおおおお!」


 すると、俺の言葉がスイッチになってしまったのか、林堂さんは懐からスタンガンを取り出し、俺の方に向かって突進してきた。


「なっ」


 広めとはいえ、一人暮らし用の一室に俺たちはいる。当然、俺と林堂さんの距離は極めて短い。だから、驚いている間にもスタンガンが近づいてくる。


 ――ちょ、マジでまず……っ!


 己の生に諦観を持つことはないにしても、負傷と戦闘離脱は覚悟したその時、


「ほいっ」


 林堂さんの手首を先輩が横から掴んだ。スタンガンを持っている、手の首を。


「はい、ゴメンねー」

「きゃあ!」


 先輩は彼女の手に空いている己の手を重ね、大きく自身の身を引く。一歩、二歩。それだけで林堂さんの体勢は大きく崩れ、彼女はくるりと半転しながら床に尻を叩きつけられた。


「いっ――! い、いたたたたたたた」

「なぁ、この娘どうする? とりま警察?」


 転がった林堂さんはそのまま腕を彼女の身体の内側に捻るように抑えられ、自然とうつ伏せの状態にさせられる。握っていたスタンガンが床に落ちた。

 一方、彼女を抑えている先輩は呑気に今後の動きを相談してくる。


 ――先輩あんた、実はハイスペックですよね。馬鹿なのに。


 余談になるが、先輩が林堂さんに使用した技は、突きの小手返しというのだと、後で本人から教えてもらった。



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