はじまりの物語

 結局、僕は体中の打撲、擦り傷、出血やらで数日間学校を休むことを余儀なくされた。

 あの後、霧島から毘奈に事の顛末が全て告げられたらしい。あれだけの目に合った毘奈には、事実を知る権利があるってことみたいだ。

 勿論、こんな荒唐無稽な話、あいつが素直に信じたかどうかは確証がない。だが、少なくとも人の秘密を誰かに触れ回ったりするような奴ではないから、そこは安心していた。

 当然、霧島のこともあったので、僕の怪我の理由を馬鹿正直に言うわけにはいかなかった。その為、通りすがりの暴漢にやられたということで、毘奈と口裏を合わせたんだ。そして着ていたワイシャツをパクられたってね。我ながら苦しかった。



 そして僕は、怪我の痛みも完全に癒えぬまま、再び学校へ行く日を迎えた。昨晩の大雨もすっかり上がって、朗らかな日の光が道端の水溜りをキラキラと照らしている。

 まあ、悪くない朝だ。今日は病み上がりだし、このまま穏やかに一日を過ごしたい。僕のそんな淡い期待は、朝から胸焼けしそうな程快活なあいつの鬱陶しい声で、脆くも崩れ去るのだが。



 「あーずま! おっはよー! 相変わらず、朝弱そーだね!」

 「イッタ!! お前な、背中まだ痛いんだから叩いたりすんなよな!」



 毘奈は出会って早々、挨拶代わりに僕の背中を勢いよくパンッと叩いた。やめてくれ、ただでさえ朝から毘奈とか、朝食に卵の乗った濃厚カルボナーラを出されるくらい胃もたれしちゃうんだからさ。



 「もう、そんなに怒らなくたっていいじゃん! せっかく久しぶりに可愛くて優しい幼馴染が、朝から一緒に登校してあげようって言うのに!」

 「本当に可愛くて優しい幼馴染は、怪我人の背中を無神経に叩いたりしません!」

 「ああ、確かに!」

 「確かにって、お前な……もうわざとだろ」



 いつものしょうもないやり取りを交わした僕は、ついこの間までの何気ない日常が再び戻って来たような気がした。

 でも僕らは、ずっと同じ場所にはいられない。或る時は誰も気付かない程ゆっくりと、或る時は全てが様変わりしてしまう程急激に、日々世界は変化しているんだ。



 「ふふん、少年よ、痛みに耐えて、可愛い幼馴染との細やかな朝の時間を楽しみたまえよ!」

 「だー! またお前はそういうこと! ふざけるのもいい加減にな!」



 不意に毘奈はニヤリと笑みを浮かべ、僕の右手にすがり付くように腕を組んできた。振り解こうとしても、中々離れない。もう、何なんだよ、完全におっぱいあたってるじゃないか。



 「お前な! この前も言ったけど、彼氏がいるんだったら、こういう誤解を招くような軽率な行動はだな……」

 「……もう別れたもん」

 「そうだな、もう別れたんだったら……って、はぁー!? 別れた!!?」



 僕が度肝を抜かしていると、毘奈は僕の右手を離し、水溜りの上でダンスでもするように水をバシャバシャと撥ねさせながら、円を描いてクルッと回って見せた。



 「そうそう、私もマリリンみたいに何にも縛られず、自由な生き方を目指すことにしたのです!」

 「いやいや、だからって別れたとか、そんな簡単に……ええ?」



 おいおい、勘弁してくれ。これ以上毘奈が自由になってしまったら、ただでさえ吹けば飛んでしまうような僕の細やかな人権や穏やかな日常は、一体どうなってしまうって言うんだ?

 そんな僕の危機意識など露知らず、毘奈は前方に人影を見つけて物凄い勢いで駆け出した。あれは完全に体力が有り余っているな、誰だよ、陸上部の朝練を休みにしやがったのは?

 そして、朝からフルスロットルの毘奈は、前方を歩いていた二人の小柄な女生徒の後ろから、思いっきり抱き着いた。



 「マーリリン! ヒーカリン! おっはよー!!」



 前を歩いていたのは、霧島と最近少しずつ学校に行き始めている赤石 光であった。案の定、二人は心臓が口から飛び出しそうな勢いで驚いていた。



 「あ、天城さん! こ、こういうのはやめてと言ってるでしょ?」

 「あああああ……天城さん……おおお、おはよう……ございます!」

 「別にいいじゃん! 減るもんじゃあるまいしー、これは二人への愛情表現なのです♪」



 僕はこの光景を見て、少し勇気が出てきたよ。だって、朝からこんな胸焼けするような元気の押売りをされて、困ってるのは僕だけじゃないんだなって。

 僕が後ろからトボトボと歩いて行くと、霧島は僕に気付いて少しハッとした様子で声を掛けてきた。



 「な……那木君、お、おはよう、その……怪我はもう大丈夫かしら?」

 「ああ、まだ少し痛むけど、おかげさまでね。霧島も元気そうだね」



 霧島の微妙な態度に赤石は首を傾げる。流石にこの子は何も知らないからね。そして、少し硬くなった雰囲気をぶち壊すように、毘奈が僕の背中を再び引っ叩いたんだ。



 「大丈夫だよ、マリリン! 吾妻なんて、丈夫なことくらいしか取柄がないんだからさ!」

 「イッタ!! お前、さっきも言った傍から!」

 「ふふん、少年よ、痛みに耐えて、美少女三人との細やかな朝の時間を楽しみたまえよ!」



 毘奈のこのしょうもない発言に、赤石が過敏に反応し、顔を真っ赤にして否定をする。


 

 「わ……私は……マリちゃんと……ヒナちゃんみたいに……可愛くないです!」

 「そんなことないよ、私の見立てではね、ヒカリンは磨けば光輝くダイヤの原石なんだから!」

 「そそそ……そんな……私なんて……」



 励まされて半信半疑の赤石、続けざまに毘奈は油断していた霧島にしがみ付いて絡みだす。



 「そうなんだよ! 私もヒカリンも、目標は高く持たなきゃ! 目指すはマリリンみたいな国宝級の超絶チート美少女だよ!!」

 「ちょっと、天城さん、人に勝手な冠言葉を付けないでもらいたいのだけど……」



 困惑する霧島に対し、毘奈は急に霧島と向かい合って顔をまじまじと見つめながら、何やら不可解なことを口走る。



 「でも私……負けないからね、マリリン」



 霧島は一瞬戸惑いを見せるが、毘奈の言葉の真意を悟ったようで、



 「ええ、望むところよ、私も負けない」



 と、小さな声で囁き、二人は示し合わせたかのように微笑み合っていた。

 一体あの後、僕が怪我で休んでいる間に、この二人の間でどんなやり取りがあったのだろうか? 僕にはそんな高度なこと、詮索できるはずもなかった。



 「何なんだよ、あの二人? 意味がわからん……なあ、赤石?」



 当然僕と同じ立場だと思っていた赤石に、僕は苦笑いしながら問い掛ける。彼女なら素直に肯いてくれはするのだと思ったからね。

 でも、僕が一番過小評価していたのは、この小さくて地味なおさげの少女だったのかもしれない。

 赤石は僕の問い掛けに、溜息を吐いて僕の顔を真顔で見上げた。



 「何なんだよ……じゃないです。あなたが態度をはっきりさせないから、こうなったんですよ!」

 「え……あ……赤石?」

 「まあ、気付いてないなら別にいいですけど……」


 

 いつもと違い、僕に対してだけやたら饒舌な赤石、これは何だ? 二重人格ってやつか? それとも、彼女の中で僕を同類だと認識しているんだろうか?

 そんな僕の想像なんてお構いなく、赤石は僕に釘を刺すように言った。



 「もしマリちゃんを泣かせるようなことがあったら、私……あなたを許しませんから」

 「は……はい? ええ!?」



 そうすると、赤石は何もなかったかのように先を歩く霧島と毘奈の後を追って行った。何なのこの子? いじめられっ子じゃなかったの? 怖いんですけど!



 やはり世界は、僕の理解の及ばぬ速さで、日々刻々と変化をしているようだ。

 だからきっと、今は学園最凶と恐れられる霧島も、誤解が解けて皆んなと笑顔で過ごせる日が来るのかもしれない……。



 「あ……霧島だ! 霧島軍団の登校だ!」

 「お前ら、早く道開けねーと、やべーぞ!!」

 「相変わらず、すんげー威圧感だな!」



 校門を潜って校庭に入ると、やはり旧約聖書のモーゼの如く、人波は真っ二つに割れて昇降口へと続く一本道が僕らの前に示される。

 ああ、こんなに毎日聖書に出てくるような奇跡を起こされたんじゃ、神様のありがた味もあったもんじゃないよね。

 そうして僕らは、何だか複雑な気持ちでこの開かれた道を進んで行く。周囲からは、あることないこと、尾ヒレの付いたしょうもないヒソヒソ話がひっきりなしに聞こえてくるんだ。



 「ついに三頭会の三島をやっちまったって話だぜ!」

 「ああ、三頭会の溜まり場にカチコンで、皆殺しにしたってやつだろ?」

 「うちみたいなパンピー校が、五竜を潰しちまったのかよ!?」

 「あの冴えない男子、弱そうに見えるけど、霧島 摩利香の忠実な右腕らしいよ」

 「五竜と喧嘩した時も、相手の数をものともしないで、一番最初に斬り込んで行ったんだって」

 「へー、人は見た目によらないね……」



 おい、ちょっと待て、霧島だけならまだしも、この善良な男子高校生を絵に描いたような僕に対してまで、有らぬ噂が広がってしまっているじゃないか。

 どうやら、人類が本当の意味で分かり合えるようになるまでには、まだまだ途方もない時間を要するようだ。


 

 僕の細やかな願いも虚しく、今日も霧島 摩利香は学園最凶であった。そんな彼女がふと何かを思い出したようで、振り返りざまに僕に問い掛ける。



 「そう言えば、那木君、あの件なのだけど……行くのは今日でいいかしら?」

 「え……あ? あの件って何?」


 

 色々なことがあり過ぎて、僕はつい余計なことを口走ってしまっていたことを、忘れていた。

 霧島は僕がわざと惚けているのだと思ったようで、やれやれ仕方ないなって感じで僕を窘める。



 「何って、言ってくれたじゃない……一緒に軽音部に入ってくれるって」

 「な……軽音? ……入る?」


 

 そうだ、霧島が狼になってしまった時、僕は確かにそんなことを言った。誤算だった、あんな毛むくじゃらなケダモノだったくせに、しっかり覚えていたか。しかも若干都合よく解釈してるし……。



 どうやら、僕のロクでもなく退屈な高校生活は、刺激的で予測不能な気の休まらない日々へと変貌してしまったようだ。

 冷や汗ダラダラで苦笑いする僕を見つめ、霧島は穏やかに微笑した。

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