たとえ全てが終わっても

 街の灯りの届かない深い闇の支配する地、指定された廃倉庫はそこにあった。高水さんの協力で時間にはどうにか間に合ったものの、問題はこれからなんだ。



 「乗せて来てくれて感謝します。危ないので、あなたは早く帰って下さい……」

 「いいや、あたしも行くよ。今回の件、三頭会が絡んでいるとなると、あたしらも無関係じゃないからね」

 「だけど、あなたは三頭会に……!」



 僕がそう心配そうに言うと、高水さんはしゃらくせぇとばかりに僕の胸へ軽くグーパンをした。



 「捕まってる子、姉さんにとってはどんな存在なんだ?」

 「一応、数少ない友達の一人だと……思います」

 「あたしらが名前借りたせいで、姉さんの大事なダチを傷付けられたとあっちゃ、もう姉さんに顔向けできねぇ……あたし一人でも行く覚悟さ、あんま甘く見んな三下!」

 「は……はあ」



 もう断れそうもないし、断っている時間もなかった。あまり気乗りはしないが、僕は高水さんと共に廃倉庫の中へ入ることにした。

 倉庫の入口には、いかにもな感じのドレッドと赤髪のヤンキーが二人立っていて、近づく僕らにガンをつけてくる。



 「あん? 何だてめーら、うちの女子と皇海のシャバ憎か? ここがどこだか分かってんのかよ?」

 「とっとと帰らねーと、ぶち殺すぞ!!」

 「霧島姉さんの手の者だよ、あんたら女人質に取ったんだってな? さっさと三島のとこへ案内しな!」


 

 霧島の名前を出して高水さんが凄むと、二人のヤンキーは怯んで道を開け、廃倉庫内部には数メートル先に階段が見えた。



 「ちっ! 三島さんは上だ。霧島当人はどうした?」

 「ふん、三島なんぞに姉さんの手を煩わせるわけにはいかないのさ」

 「馬鹿が……」


 

 僕らは鉄の階段を音を立てながら一段一段上がっていく。階段の先には古びたドアがあり、隙間からは灯かりが見えていた。

 高水さんは僕に合図をすると、勢いよくその扉を開ける。小さな道場くらいの広さのフロアの奥には、三十人くらいのヤンキー……と言うか、半ばチンピラのような男たちが屯していた。



 「ひ……毘奈!?」

 「吾妻……!?」



 男たちが周囲を囲む古びたソファの上に毘奈は縛られ、寝かされていた。酷く怯えている。僕は今にも飛び出して行ってしまいそうな気持ちを抑え、動向を見守った。



 「あー? こりゃ珍しい客じゃねーか、高水、やっと俺の下につく決心でもついたか?」

 


 集団の中心、赤いソファにのけ反る様に座るアーミーカットの大男が、不気味な笑いを浮かべながら言った。雰囲気からしてこいつが三島 鷹雄だろう。

 あの高水さんが震えているのが分かった。彼女は恐怖を押し殺すように言う。



 「その子を放してやんな、代わりにあたしがあんたの配下にでも、女にでもなってやるよ!」

 「た……高水さん!?」

 「あんたは黙ってな!」



 高水さんが啖呵を切ると、三島は数秒間をおいて馬鹿にするような高笑いを始め、それに呼応するように周囲の男たちも笑い声を上げた。



 「霧島の使いっパってとこか? 俺はよ、霧島本人が来るようにって、伝えるよう言ったはずだぜ? 舐めてんのか?」

 「おめーら、三頭会舐めてっと、ぶち殺すぞ!」

 「霧島連れて来いって、言ってんだよ!!」

 


 ダメだ、これでは全く収拾がつかない。毘奈を助けるにしても、僕が一人で立ち向かったところで、万に一つも勝ち目はないだろう。

 だったらもう、僕に取り得る手段は一つしかなかった。彼女たちから学んだ究極の最終手段だ。僕は徐に数歩前へ進んだ。



 「あ……あんた何を!?」

 「吾妻!?」

 「どうか勘弁してください、僕ができることであれば何でもします! だから、その子を……毘奈を帰してやって下さい!」


 

 そう、僕にはもう土下座くらいしかできることはなかったんだ。案の定、周囲のヤンキー共は嘲笑し出すが、三島当人の反応は意外なものだった。



 「馬鹿か? てめーが頭下げたところで、何も意味ねーんだよ。……なあ、それより霧島 摩利香ってのは一体何者なんだ?」



 僕が顔を上げると、三島は顔を左に向けて壁の隅にいる男を見るように合図をした。長髪で眉毛のないヤンキーが、蹲って何かに怯えるようにブツブツと呟いている。



 「こいつはよー、例の霧島事件の当時者なんだが、あれから廃人同様になっちまったんだよ。霧島って名前聞いただけで、あの有り様だ」

 「……ききき、霧島!? くくくく来るな!!! 殺さないで!!! ……あー!! あぁぁー!!!」

 「おかげでよー、うちの馬鹿どもはすっかり霧島にビビっちまうし、高水みてーな奴らは、霧島の傘下に入りたがる始末さ」



 壁の隅で怯えるヤンキーは、頭を抱えて奇声を上げた。その光景に、僕はさっき霧島から聞いた話の意味を、本当の意味で理解したような気がした。



 「要は目障りなんだよ。だがよ、事件にいた奴らはこの有り様だし、おめーらの高校の奴を締め上げても、誰も口を割らねー。霧島がどんな奴かもわからねーんだ」

 「それで、毘奈を?」

 「……やっと見つけた手掛かりがよー、てめーとこの女なんだよ。どうやら、霧島 摩利香のダチらしいってな」



 そうか、赤石 光はまだ学校にあまり来ていないし、毘奈は無駄にスキンシップが激しいから目立って当然だ。迂闊だった。僕らは不用心過ぎたんだ。



 「だから、俺はこんな女に興味はねー、今すぐ霧島 摩利香をここに呼び出せ!」

 「それはできません。あいつは……携帯、持ってないんです!」



 嘘くさいが本当のことだった。両親とはたまに手紙でやり取りしてるらしいが、交友関係があまりないので必要ないと思っているらしい。金持ちの考えることはよく分からん。

 まあ、そんなこと当然信じてくれるわけないので、三島は激昂して声を荒げた。



 「クソが!! てめーのその態度、後悔させてやんよ! おめーら、その女、ちょっと遊んでやれ!」

 「へへへ……待ってましたー! ちょいとシャバクセーが、結構いい女だもんな!」

 「待てよ、順番だ。こんな上物、中々できる機会はねーからよー」



 縛られ、横たわる毘奈に男たちの魔の手が迫る。今まで気丈に耐えていた毘奈も、経験したことのない恐怖についに取り乱した。



 「い、いやぁぁー!!! やめて!! 吾妻! 助けて!!!」

 「ひ、毘奈!!」



 泣き叫び、必死に助けを求める毘奈を前に、僕は理性のタガも何もかも皆吹っ飛んでしまっていた。僕が飛び出して行ったところで、ただやられるだけなのは分かってる。でも、ここで行かないで……傍観しかできなくて、何が男なんだ。



 「き……汚い手で、毘奈にさわるなぁぁぁぁーーー!!!!!」

 「あ、あんた、無茶だ! やめろ!!」



 高水さんが必死に制止させようとするが、僕はもう我慢できなかった。僕はヤンキー共を掻い潜って、一直線に毘奈の元へ向かって行く。

 その場にいる全員が息を呑んだが、僕には何の勝算もなかった。間もなく僕は顔面や腹に蹴りやパンチの嵐をくらい、勢いよく吹っ飛ばされたんだ。



 「吾妻……!? いやぁぁー!!! ……」



 気が付いたら、僕は薄汚いコンクリートの上に寝そべっていて、揺らぐ視界からは毘奈が気を失うのが目に映る。体中が痛いし、鼻や口からは血が流れているのが分かった。



 「あんた……弱いくせに無茶しやがって!」

 「ち……畜生……」



 高水さんが駆け寄ってきて、ボロボロの僕を抱き起した。毘奈を助けたいという気力で何とか意識を保っていたが、もう反撃する余力なんて残っているはずがない。



 「ちっ! 根性は認めてやるが、弱い奴が出しゃばるんじゃねーよ。……しかし、益々気に入らねーな、お前にそこまでさせられる霧島 摩利香って女がな!」

 「手間かけさせやがって、まあ、この方が抵抗されなくてやりやすいがよー」

 「俺は少しは抵抗してくれた方が、楽しみが増えるってもんだがな」

 「てめーは、安心してそこでお寝んねしてな、いーもん見せてやるからよ!」



 僕の暴走のせいで、一旦膠着していた魔の手が、気を失った毘奈に再び襲い掛かろうとしていた。

 圧倒的な暴力の前に、僕らの力無き正義やキラキラとした綺麗事など、何の意味も成さなかった。僕がどんなに本気になったところで、目の前の女の子一人救うことができないのだから。



 「ク……クソォ!! 僕が……もっと僕が強ければ!!」

 ――いいえ、あなたのせいではないわ」

 「……え!?」



 静かな怒りに満ちた声とともに、地べたに腰をつく僕らの後ろから、コツコツと足音が聴こえてくる。

 僕にはその姿は見えていなかったが、一瞬でそのフロア全体の空気が変わったのが分かった。



 「ああああ……く、来るなー!! 来ないで!!! しし、死にたくない!! あああぁぁぁぁぁーーー!!!!」


 

 壁の隅で怯えていた男がいよいよ表情をを歪め、恐怖のあまりかん高い奇声を上げて失禁をした。

 それは、ヒーローや救世主と呼ぶにはあまりに禍々しく、化物と呼ぶには拍子抜けしてしまう程小さくて美しかった。



 「イギ―・ポップが言っていたわ……“弱いってことは決して悪いことじゃない”って……。那木君、あなたの勇気は称えられて当然のものよ」

 「き……霧島? なんでここに!?」

 「ね……姉さん!」



 突然現れた霧島 摩利香の得体の知れない威圧感に、さっきまで余裕の表情であった三島は眉をひそめる。周囲のヤンキーはそれ以上に動揺を隠せない。



 「てめーが、霧島か? 一体どんなゴリラ女が来るのかと思ってたが、ずいぶんと可愛くてちーせーじゃねーか……の割に、何だ? この不快感……」

 「み……見た目はちーせーのに、バケモンにでも睨まれてるみてーだ!!」

 「こえーはずねーのに、足が竦む……」

 「気味わりーよ! 吐き気すらする……逃げてー」



 そんな三島たちの反応など意に介さず、霧島は高水さんに抱き支えられている僕の元へ歩み寄った。そして、傷ついた僕の頬を優しく撫でながら囁く。



 「様子がおかしいと思って、那木君の匂いを辿って来たけど、まさかこんなことになっていたとはね……」

 「す、すまねー、姉さん! あたしらが姉さんの名前を借りたばかりに!!」

 「違うわ……全ては私のせい、私が自分の立場を弁えず、那木君や天城さんの好意に甘えてしまったからよ。だからいいの……責任は私がとるわ」

 


 霧島は穏やかな表情ではあったが、儚げで遠い目をしていた。そうだ、まるで全てが終わったら、僕らの前から消えてなくなってしまうような。



 「霧島……お前は一体?」

 「那木君、あなたに私の正体を明かすのが怖かった……だけど、もういいの、例え全てが終わってしまったとしても……あなたと天城さんを救えるのなら!」



 立ち上がって、ヤンキーたちの中心にいる三島 鷹雄を見据えた霧島は、体中からドス黒い……いや、不気味な程濃い紫の瘴気を放ち始める。

 さっきまでとは比べものにならない程のプレッシャーが、五感全てを呑み込み、僕は得体の知れない強大な恐怖に捕らわれていた。

 僕を抱かかえる高水さんも同じだ。手がガタガタと震え、必死に何かを言おうとしていたが、声が出せないのが分かった。

 こんな巨大な威圧感を放つ霧島の姿は、相変わらず小柄な少女のままだったが、彼女のその気配は、最早人外の野獣か何かだ。

 そして、息を呑む程精悍で、恐怖すら覚えてしまう程美しい、少女の姿をした最凶の獣が、僕の目の前で初めて目覚めたんだ。



 「……お前ら、女を人質に取ったんだ……そんな卑劣な輩、もう何されても文句は言えないよな?」



 背中に堪えようのない悪寒が走った。言葉を発したのは、確かに霧島だ。だけどもう、その人格は残酷で猟奇的な何かに変わってしまったようだった。

 その禍々しさに金縛り状態であったヤンキーたちは、いよいよ悲鳴を上げて、そのほとんどが蜘蛛の子を散らすように出入口に殺到しようとした。

 流石の三島も、その異様さに目に見えるくらい表情を歪ませていたが、何とかその場に留まり、必死に面子を保とうとしている。



 「うわぁぁぁぁーー!! 来るなぁぁぁぁ!!!」

 「もういい!! 帰るから!! 帰るから!!」

 「違うんだ!!! 俺は、俺は俺は俺は、命令されただけだ!!」

 「俺も、さささ、最初から反対だったんだよ!!! だから!!!」

 「おめーら! いい加減にしろ! 相手は女一人だ!!」



 フロア全体がカオスとなっていた。一旦出入口に向かったヤンキーたちは、向かう方向に立つ霧島の前で立ち止まり、恐怖のあまり高さも顧みずに二階の窓を割って飛び降り始めたんだ。

 その姿をしばらく見つめていた霧島は、ヤンキーたちの姿をせせら笑うように声を上げ、地を蹴った。



 「あんまり逃げてくれるなよ! これは女を人質に取るようなクズ野郎どもへの天誅なんだからさ!!」



 霧島は逃げ惑うヤンキーたちの集団の中へと、目にも止まらぬ速さで、そして人間離れした跳躍力で突っ込んで行く。



 「キャハハハハハ……さっさとくたばれよ! フ〇ッキン〇〇コ野郎ども!!!」


 

 霧島が跳び込んだヤンキーの集団の中からは、屈強な男たちの恐怖の悲鳴、耳を塞ぎたくなるような鈍い殴打の音、そして目を逸らしたくなる程の鮮血が舞った。

 喧嘩? 暴力? 最早これはそんな生易しいものではない。まるでスズメバチがミツバチの巣でも襲うような、一方的で無慈悲な圧倒的蹂躙だったのだ。

 すっかり人が変わってしまった霧島は、その猟奇的な行為を楽しんでいるようですらあった。

 


 「霧島……嘘だろ?」



 ああ、今ならよく分かるよ。霧島のこの姿を見てしまった奴が、或る者は口をつぐみ、或る者は廃人のようになってしまうってことにね。霧島 摩利香という少女の片鱗くらいは知ったと思っていた僕でさえ、こんなにも恐怖を感じたのだから。

 僕と高水さんは、その場から動くことすらもできず、その凄惨な光景を呆然と見つめていた。そう、目の前でその凶行が起こる前までは……。



 「ふ、ふざけやがってバケモンが!!! 舐めてんじゃねーぞ!!!!」



 追い込まれた三島が及んだ最悪の凶行だった。逃げ惑うヤンキーたちに嬉々として制裁を加える霧島の背後へ、三島はポケットから取り出したナイフを突き刺したんだ。

 あれだけ縦横無尽に動き回っていた霧島の動きが止まり、突き刺された下腹部から血しぶきが吹いた。僕と高水さんはカナギリ声を上げる。



 「き、霧島ぁぁぁーー!!!」

 「姉さぁぁぁーん!!! 三島ぁぁ!! てめー何てことを!!!?」

 「は……ははは、て……てめーが悪いんだ!! この俺を……散々コケにしたんだからな!!!」



 正気に戻ったのか、自分の仕出かした凶行に震える三島は、恐れ慄くように後ずさりして床へへたり込んだ。

 僕らは重傷を負ったはずの霧島を危ぶんだが、どうも様子がおかしい。刃物で刺されて多量の出血をしている霧島は、暫くその場に立ち尽くし、溜息を吐きながら振返り言ったんだ。



 「馬鹿な男だ……大人しくやられていれば、命までは取らなかったものを……もうどうなっても知らないからな」



 霧島がそう呟くと、彼女の体から再びあの濃い紫の瘴気が溢れ出し、彼女の姿すら覆い隠していく。紫の瘴気はやがて形を変え、手や足、耳や鼻、それを包む毛皮となって生き物の姿をなした。

 僕はこの時ようやく全てを理解したような気がした。霧島の生まれた地方で伝承されていた大口様とは、おそらく正式には『大口真神』……日本各地で古来より信仰され、その姿は馬みたいに巨大な……。



 「お……狼!?」


 

 そうだ、霧島の本当の正体とは、精悍な毛並み、そして牙と爪、澄んだ美しい瞳を持つ、古の日本で食物連鎖の頂点にあり、熊をも狩る最強の肉食獣……日本狼の化身だったんだ。

 突如僕らの前に姿を現したその巨大な狼は、その場の全ての者を威嚇するように、耳を劈くような大きな咆哮を上げた。



 「がっ……くく、来るなぁぁぁーーー!!!」



 興奮した三島は、床に座込んだままガムシャラにナイフを振り回すが、そんなものは最早何の意味も成さなかった。

 巨大な狼と化した霧島の毛並みは、三島のナイフをおもちゃみたいに弾き、次の瞬間には三島の腹に噛みついて、あの大男を容易く宙へ持ち上げたんだ。



 「い……痛ぇぇー!!! はは、放せ、放せぇぇーー!!!」



 巨大な狼は、三島の巨体を弄ぶように首を上下左右に振り回し、最後には壁に向かって勢いよく放り投げた。

 三島の血が僕の顔にまで飛んできた。当の三島本人は、思いっきり壁に叩きつけられて微動だにしない。少なくとも、複数個所の骨折は免れないはずだ。

 そして、尚も狼と化した霧島は、ピクリとも動かない三島の元へゆっくりと向かおうとしていた。



 「き……霧島!! もういい! それ以上やったら、そいつを殺してしまう!!」



 霧島の耳には全く届いていない様子だった。もしかして、これが霧島から聞いた、人であることの一線を越えてしまった状態なのか?

 であるのであれば、あの時霧島は言っていた。もし自我をなくすようなことがあれば、僕に止めて欲しいって。

 僕は霧島から受取ったイヤホンをポケットから取り出し、まじまじと見つめた。どこからどう見ても、何の変哲もないただのイヤホンだった。

 正直、全く理解の及ばない話だったが、もう考えている暇はない。少なくとも、世界中のどんな陰謀論なんかよりも荒唐無稽な出来事が、今僕の目の前で起きているんだから。



 「あ……あんた、一体それで何する気!?」

 「分かりません、だけど、僕は霧島の言葉を信じるだけです!!」



 僕はそのイヤホンを両手に構えると、もう何も考えず、ただ無心のまま狼と化した霧島へ向かって走り出していた。

 その気配を感じとったのか、霧島は巨大な前足で僕に鋭い爪を突き立てようとする。こんなの普通に喰らったら、一撃で瀕死の重傷もいいところだった。

 だけど、この霧島が魔法の紐グレイプニールだと言ったただのイヤホンは、狼の体に触れた瞬間、その形を変えて応えてくれたんだ。



 「の、伸びた? 拘束するのか?」



 太い縄へと形を変えたイヤホンは、巨大な狼の体に巻き付き、その動きを封じようとする。狼は必死に抵抗して嗚咽を上げる。



 「これで……行けるのか?」



 僕はこのグレイプニールに一定の効果を確認する。しかし、狼は拘束から逃れようとグレイプニールを握ったままの僕を引っ張りながら、窓の方へと突進して行った。

 せっかく突破口が開けたっていうのに。僕は諦めるものかと必死に狼の背中にしがみ付く。

 そして狼は、窓を枠ごと破壊して二階から飛び降り、地面に降り立って尚、僕を振り落としてグレイプニールから逃れようと、デタラメに走り回ったんだ。

 巨大な狼の最後の抵抗に、僕は必死に耐えながら、彼女が人間であった時の姿を脳裏に浮かべていた。



 霧島は幼い頃からいつだって自らの運命に縛られ、自由を求め続けていた。

 だからもう、本当は縛られたくなんてないんだ。例え彼女がこんな姿になってしまったとしても……ましてや、彼女にとって希望を奏でるはずのイヤホンなんかに。



 「霧島! こんな物なくたって、お前は自由になれるはずだ!! ロックはお前を縛るものじゃなくて、自由にするものだろ!!?」



 僕はそう叫ぶと、ふと閃いてズボンのポケットに手を突っ込んだ。だが、こんなときに僕のこの行為は致命的であった。

 あれ狂う霧島に、いよいよ振り落とされた僕は、思いっきり背中からアスファルトに叩きつけられる。激痛で気が遠くなりそうだったよ。

 一瞬、もうダメかと思った。本当に霧島に食い殺されるのかってね。でも、ぶっ倒れた僕の霞んだ目に映ったのは、穏やかに光る月明りで、そして聴こえてくるのは優しくて温かなメロディーだった。



 「ああ……何とか成功……なのかな?」



 体中の痛みに耐えながら僕が状態を起こすと、狼と化している霧島は先程までとは打って変わって、しおらしく座り、僕のスマホから流れる曲に聴き入っていた。

 前に霧島に教えてもらい、落としておいたプライマル・スクリームの『カム・トゥゲザー』だった。

 かつて、蓄音機から流れる亡くなった主人の声に耳を傾け、聴き入っていた犬がいたなんて話を聞いたことがある。彼女はそんな犬を彷彿とさせるように、この懐かしくて美しいメロディーに浸っていたんだ。



 霧島 摩利香は強く気高く、美しくて優しかった。彼女は自らに課せられた運命に抗いながら、ただ一人で本当の自由を求めて戦い続けていた。

 だけど、本当は待っていたのかもしれない。鎖された部屋で四角い空を眺めながら、いつか自らを救い上げ、あるはずのない楽園へと連れ去ってくれる誰かを。

 


 僕はやっとの思いで立ち上がると、座って音楽に聴き入る狼の霧島に歩み寄り、その顔を優しく包み込むように抱きしめた。

 何だか獣臭くて、堅い毛並みがチクチクと頬に刺さって痛かったけど、ただそれ以上に愛おしかったんだ。



 「霧島……今はまだ障害も多いけど、一緒に自由を探そう……そうだな、試しに軽音部にでも行ってみよう、最初は怖がられるかもしれないけどさ、きっと皆んな分かってくれるって……大丈夫、僕も毘奈も、赤石だってついてる」



 彼女はクンクンと優しい声で、僕に答えてくれている気がした。そしてその精悍な毛並みは、いつの間にか透き通るような白い肌へと変わっていき、僕の三倍以上はありそうな巨体は、強く抱きしめたら壊れてしまいそうな程小さな少女のものになっていくのが分かった。

 


 「那木君……ありがとう、あなたを信じていたわ……でも、このままだと少し恥ずかしい……」

 「え……霧島? 元に戻った……って、何故裸!?」



 いつの間にか霧島は、小柄で美しい少女の姿に戻っていた。だけど、あんな大きな狼になってしまったせいで、服やなんかは全部破れてしまっていたんだ。

 それは出るとこ出てるってわけでないけど、しなやかで無駄なのない、まるでアートのような……じゃなくて、僕は慌てて自分が来ていた血のついて擦り切れたワイシャツを脱ぎ、全裸の霧島に差し出した。

 恥ずかしがりながら僕のワイシャツに袖を通した霧島は、これがまたサイズがあってなくて、むしろ着てた方がエチィのではないかとすら思った。

 


 「那木君、私はもう大丈夫よ……天城さんに凄く怖い思いをさせてしまったわ、早く行ってあげて!」

 


 僕の邪念などどこ吹く風、霧島は未だ倉庫の中で気を失っているだろう毘奈の安全を気遣った。調度そんなところに、高水さんも下りてきたようだ。



 「そうだよ、あの子なら無事だ、姉さんのことは私に任せて、早く行ってやんな!」

 「た……高水さん!? えーと、これは……その……」

 「心配すんな、よく分からねーが、姉さんのことは誰にも言ーやしないよ!」

 「は……はい、分かりました」



 そう言って、僕は霧島を高水さんに預けると、最後の力を振り絞って再び廃工場の二階へと向かおうとする。

 いや、待て。何か忘れているような気がする。そうだ、絶対にこれだけは霧島に伝えておかないと。僕は立ち止まって、霧島の方を振り返り言った。


 

 「霧島! 責任感じて勝手にいなくなったりすんなよ!! もしそんなことしたら、毘奈と一緒にお前の田舎に乗り込みに行くからな!!!」


 

 それを聞いた霧島は、ハッとしていたようだったが、すぐに穏やかな微笑みを返してくれた。

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