パンが無ければ

如月姫蝶

第1話

 その日、デュナリスは、魔獣の村コニウムにて、畑仕事を手伝っていた。晴れ上がった空の下で労働に勤しんでいるとはいえ、それは、ある種の潜伏生活だった。

 決して荒事も不得手ではない彼が、いったい何を恐れて逃亡中なのかといえば……

 デュナリスが、額の汗を拭いつつ、ふと見上げた太陽の中に、突如として小さな汚点が出現したのである。

「リスくんみっけ〜〜〜!!」

 汚点は、金切り声を発しながらみるみる大きくなったではないか。なんと、イルルゥが空から降ってきたのである。

 直下に立っていたデュナリスは、一も二もなく駆け出して、重力込みであろう初撃を回避した。

 イルルゥ自身は、墜落寸前に魔力で重力を相殺したのか、爪先からそっと畑に降り立ったのである。かと思うと、脱兎の勢いでデュナリスを追おうとした。

 しかし、そんなイルルゥの前に、別の大きな兎が立ちはだかったのである。

「ちょっと! デュナリスもあんたも泣いてるじゃない! そんな鬼ごっこはやめちゃいなよ、一旦落ち着こう、ね?」

 戦闘形態のミュルスは、腕組みしつつ諭したのである。彼女は、デュナリスが潜伏生活に至った事情なら把握しているのだ。

 しかし、穏便な説諭などイルルゥが聞いていないと見るや、巨大なウサ耳で彼女の手元を強かに薙ぎ払って、鎌を弾き飛ばしたのである。

 空へと舞った鎌の行く先には、しかし、畑仕事の主力たるアベトスがいた。

「オデ、負ゲナイ!」

 アベトスは、巨体にして剛腕。手にした棍棒で、飛来した鎌をすかさず打ち返したのだ。見事自分の身は自分で守ったのである。

 鎌は、結果的に、一層の勢いを得て方向転換した。ついさっきまで実際に鬼ごっこに興じていた子供たちと、彼らを避難させようとするヴァレスに吸い寄せられるかのように飛行したのである。

「伏せろ!」

 ヴァレスの一声に従った、体の小さな子供たちはみな、難を逃れることができた。

 ヴァレス自身も子供たちを庇いつつ身を屈めたが、戦闘形態をとっていたがために、立派な一角が他よりも高々と聳えていた。

 イルルゥの鎌は、その刃は、彼の一角の先端を、ほんの僅かに掠めたのだった。

「カブト鬼が死んじゃったよぉおお!」

 あっけなく斃れたヴァレスを目の当たりにして、子供たちはそう誤解して泣き叫んだのだった。

 煉獄の鎌の恐ろしさは、その刃との僅かばかりの接触であっても、生者の魂が体外へと刈り出されてしまうことにある。

 デュナリスは、亡き妹の、通常よりも脆い魂を預かる身の上であるため、敢えて戦闘に持ち込みイルルゥを撃退することよりは、逃げの一手を、さらには潜伏生活を選ばずにはいられないのだった。

 煉獄から遣わされた追手が、病んだストーカーのごときイルルゥを回収して、魂を取り戻したヴァレスが復活した頃には、デュナリスの姿は、既にコニウムから消えていたのである。


 数日後のとある昼下がり、アルドは、バルオキー村の自宅を出て、ヌアル平原へ向かおうと決意した。村長が、散歩に行くと早朝に出掛けたきり、もう何時間も戻っていなかったからである。

 ヌアル平原の魔物ごときに遅れをとる村長ではないはずだが……

 いつも通り草の香りが立ち昇る平原で、アルドが最初に感知した異変は、聞き覚えのある金切り声だった。

「やだやだやだっ、もう放っといてよ、キクちゃんセンパーイッ、ヒィィィッッ!!」

 声のする方向を見てみれば、空中に、まるで鎌で切開したような裂け目が出現しており、ジタバタと暴れるイルルゥを、同業者たちが寄ってたかって、その裂け目の向こう側へと連れ去ろうとしているところだった。

 アルドは、思わず駆け寄った。

「おい! イルルゥのことだから何かやらかしたんだろうけど、そんなに嫌がってるのを無理に連れて行かなくても……」

 草むらを踏み越えようとした時、アルドの足が、何やら異質なものを踏み付けて、グラついた。それはどうやら、丸みを帯びた物体らしい。

 アルドが驚いて目を落とすと、それはなんと、人間の頭部だった。より正確には、角を生やした魔獣——デュナリスが、踏まれても声ひとつたてることなく、そこに倒れ伏していたのである。さらには、アルドが捜していた村長までもが、すぐ近くに倒れていたではないか!

 アルドは、とりあえず、空間の裂け目にイルルゥを押し込む作業に、黙々と加勢したのだった。


 イルルゥの姿と金切り声が消えて、ヌアル平原に平穏が戻った時、デュナリスは自ずと目を覚ましたのである。そしてアルドに、イルルゥによって生きながら魂を刈られたのはこれで十三回目となったことをはじめとして、これまでの顛末を涙ながらに語ったのだった。

「もうどこでもいい……どこか遠くへ……彼女のいない世界に行きたい!」

 ストーカー被害に懊悩する魔獣の青年は、そぼ降る雨のごとき涙で、泣きぼくろを濡らした。

「デュナリス、少し痩せたんじゃないか?」

 アルドの声も、気遣わしげである。

 先日、煉獄界で一騒動あって、イルルゥが意図せずしてデュナリスに危害を加える格好となった。それ以来絶える間も無く、デュナリス受難の日々は続いているのだった。

 生きながらにして魂を刈り取られる——それこそが、昼夜を問わず彼の身に降りかかる災難なのだ。

「彼女は……イルルゥくんは、どうして、頭を一度下げる間に、煉獄の鎌を何十回も振り回さないと気がすまないんだ!」

 そう。は毎回毎回イルルゥなのだ。

 初回は、犯人の不注意による不幸な事故だった。彼女の鎌の刃が、偶然デュナリスに接触したのである。

 デュナリスは、一時的にせよ魂を喪い、死んだように倒れ伏した。

 イルルゥはイルルゥで、束ね役から膨大な量の反省文を課されることとなり、結果、彼女なりに反省はしたらしかった。

 魂を取り戻して現世に帰還した彼の前に、しおしおとした態度で花束を携えて現れ、謝罪を試みるくらいには……

 ただ、デュナリスとて、それをにっこりと笑って受容するほどのではいられなかった。生きながら魂を刈られたことで、他の何より大切な妹ともども、不可逆の虚無に呑み込まれるような恐怖を味わわされたからである。

 きみの反省は理解した。けれど、だからこそ、当面僕には近づかないでほしい——

 極力冷静かつ率直にそう伝えて背を向けたことが、驚くほど裏目に出てしまったのである。

「リスくんリスくんリスくんリスくん!! 赦してくれなきゃや〜だ〜よ〜〜っっ」

 にわかに火がついた赤ん坊のように全身全霊で泣き喚きながら、彼女は、ブオンブオンと鎌を振り回して追い縋ってきたのだった。

 そして発生した二回目の被害も、決して故意ではなかったのだろうが……

「……避け切れず魂を刈られたのが、今までのところ十三回。襲撃そのものは、百回を超えたところで数えるのをやめたよ」

 デュナリスは、力無く告白したのだった。

 イルルゥは執拗にデュナリスの元を訪ねては赦しを乞い、それでいて鎌をぶん回すという危険行為をやめないのだ。

 デュナリスにしてみれば、赦すこともそういったふりをすることも、もうとても無理となってゆく一方だった。

 煉獄界も決して見て見ぬふりというわけではなく、襲撃されたデュナリスが逃げ隠れしているうちに、数分もすれば、束ね役の命を受けた同僚たちが、イルルゥを捕獲しに現れてはくれるのだ。

 しかし、煉獄の鎌の遣い手の根元的な性質上、通常通り死者の魂を刈り取ることまで禁止するわけにもゆかないらしく、デュナリスにしてみれば、後手後手の対策しか取られていないように見えるのだった。


 デュナリスは、流石は優秀なヒーラーである。悲しい身の上話をする間も、身動きが取れなくなっていた村長に回復魔法を施すことを忘れなかった。

 実は、村長は本日、ヌアル平原で独り、「腰に優しい新必殺技」を開発しようと奮闘していたのだ。

 そこへ突然、月影の森から、全力疾走のデュナリスが出現したのである。ヒィヒィと金切り声を上げて鎌をぶん回す少女に追われながら……

 村長は、職業柄もあって、是非とも仲裁せねばと思い立った。しかし、その直後、腰に激痛が走り、その場に倒れて脂汗をかくこと以外、何もできなくなってしまったのである。

 つまりイルルゥは、村長に関してはノータッチ、直接的な危害は加えていないのだ。

 しかしデュナリスは、村長が倒れた瞬間を目撃してしまった。そして、彼がアルドの育ての親であることは知っていたため、つい逃げ足がもつれたところへ、イルルゥの一撃を貰ってしまったのだった……


「魔獣の。今回もすまなかった」

 村長がなんとか体を起こした頃、女のハスキーボイスが聞こえてきた。

 ちょうどイルルゥが消えた辺りの空中に、黒衣を纏った声の主の姿が、半透明の映像として出現したのである。そして彼女は、詫びの言葉に合わせて、深めに一礼して見せた。

「イルルゥには、おぬしへの接近禁止命令を厳しく言い渡してはおるのじゃが、子供じみたたわけ者ゆえ、ままならぬのじゃ。

 あれは、生前最後の日々を、周囲に見殺しにされつつ過ごした子供の魂じゃけぇ……

 どうやら、そなたに思うように謝罪を受け入れてもらえなんだことがきっかけで、生前最後の辛い記憶がフラッシュバックするようになってしもうたらしゅうてのぉ。あれが本当に刈り尽くしてしまいたいのは、己れのその記憶に伴う痛みらしいんじゃが、どう見てもただひたすら傍迷惑な暴走を繰り返しとる始末じゃ」

 煉獄の鎌の遣い手を束ねるヒナギクは、一礼から顔を上げると、伏せた愛犬に泰然と腰を下ろした。艶やかな漆黒の毛並みと、頭が三つもあることが特徴的な、巨大な犬である。

 デュナリスは、眉間に皺を寄せた。

「貴女は、現状を招いたのは、彼女を突き放した僕の落ち度だとおっしゃりたいのですか?」

 彼の声音や眼差しには、珍しく、埋み火のごとき怒りが宿っていた。

「それは違う」

 ヒナギクは、即座に否定した。

「害を被った者が下手人を遠ざけようとするのは、むしろ当然のことじゃろう。悪いのはイルルゥじゃ。

 しかし、あれほどの大たわけにつける薬もありはせんけぇのぉ……

 魔獣の。おぬしを付かず離れず見守るボディーガードを派遣させてはもらえんじゃろうか。いや、むしろと言うべきかもしれんがのぉ。その許しを請うべく、こうして通信しておるのだ」

 デュナリスが、暫し黙考した後、その申し出を承諾すると、ヒナギクの映像は、謝辞を述べてから消え去ったのだった。


 煉獄界の蓮華堂にてヒナギクは、デュナリスとの通信を終えた後、小さく吐息した。

 実のところ、彼は彼で、イルルゥを引き寄せる要因を抱え込んでしまっている。

 イルルゥの不手際のせいで、妹をという恐怖が、デュナリスの中で極限まで増大したのである。平常心を失ったイルルゥは、彼の中にあるその恐怖までも我が事のように痛感して、鎌で刈り尽くそうとしているのだ。煉獄の鎌で他者の心痛を鎮めることなどできようはずもないというのに……

 しかし、デュナリス相手にそのことを指摘するのは未だ早計にして酷でもあろうと、ヒナギクは結論したのである。

 彼が抱え込んだその恐怖を解決へと導く腹案も、もう暫く温めておくことになるだろう。

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