花は葉に
文月瑞姫
文月瑞姫
①
花は葉に。夏の季語であり葉桜の傍題。葉桜との違いは、それがより変化に重きを置いているという点だ。
誰しも時間が経てば変わらずにはいられない。時に良い方向に、時に悪い方向に、時にはどちらとも分からぬ方向に、人は常に変化の中で成長を続ける。
「分かってたんだけどね、だけど、やっぱり辛いよ」
私は枕を抱いてうなだれていた。幼馴染の宗くんは何も言わない。何も言えないのだろう。立場が逆だったとして、私には安易なことなんて言えない。
「だってさ、だって、まだ一次選考だよ。本当はこのあと二次があって、最終選考があって、そこから受賞作が決まるんだよ。なのに最初でつまずくなんて、なんか、やだ」
「…………」
宗くんは何も言わず、私の隣に腰掛けた。その肩に頭を預けると何を言う気もなくなる。
私が書いた小説は、昨年度の文芸部を描いたノンフィクションだった。部長の小原先輩を始めとして、変わり者のルリ先輩、俳句に精通している桜先輩、そして私と宗くん。かつて五人で目指した俳句甲子園の舞台、その過程を一冊の本にしたのだ。
だからこそ、落選を重く受け止めていた。まるで、かつての日々が否定されたかのような喪失感を覚えたから。もう、あの頃の文芸部はどこにもないのだと、そう言われた気がしたから。
「姫」
「……なあに」
返事をするにも口が重い。返事をしたところで、宗くんが次を切り出すまでには時間があった。
「明日、また部室に行こう」
「どうして? 明日休みだよ」
「良いから、行こう」
「……うん」
苦し紛れの提案だ。宗くんも、それが何にもならないことは知っているだろう。ただ、何もできずにいる自分が悔しいんだって、そんな顔。
「今日はもう、寝るね」
枕を離して、布団に潜り込む。
「おやすみ」
「うん。おやすみ」
宗くんは部屋の電気を消して、ドアを静かに閉めた。リビングから少しだけ、テレビの音が聞こえていた。
お母さんが重病を患ってから十年が経とうとしていた。言い替えると、私が宗くんの家で暮らし始めてから、それだけの月日が経ったということになる。お父さんは赴任が多く、付き合いの長い吉松の家に私を託した。親戚の元に預ける予定もあったけど、私が許さなかった。地元愛と言えば綺麗だけど、本当は宗くんと離れるのが惜しかったから。
「桜、もうどこにもないね」
「五月だからな、もうないだろ」
側溝に溜まっていた花弁も、色をなくして土に変わってしまった。暖かな風が足元を通るたび、木々がゆっくりと揺れる。
私が歩く隣を、小学生が三人走り抜けた。
「遅いぞー!」
「待ってよー、みんな早いよ」
遅れて一人の女の子が走る。女の子は両手で抱くようにして水鉄砲を持っていた。水遊びにはまだ早いだろうに。
雲間を太陽が抜け出し、街は柔らかな日差しに包まれた。高校が近くなるに連れて、登校する生徒の姿がちらほらと見え始める。
「ゴールデンウィークだっていうのに、大変だよな」
ふと、宗くんがこぼした。
「部活でしょ。ほら、野球部とか大会近いらしいし」
「それもそうだけどさ、ほら、あの人とか」
宗くんが見る先には、一人の女子が信号を待っていた。
「あの人がどうしたの?」
「緑で、しかも部活の道具とかは持ってないだろ。ってことは、わざわざ勉強しに来てるんだろうな」
橋枝の制服の胸リボン、あるいはネクタイは、入学年度によって分けられる。私たちの代が青、上の代が緑、下の代が赤となっている。つまるところ、緑は三年生、受験生なのだ。
「私たちも、来年はああなってるかもよ?」
「姫のことだから、どうせ勉強せずに小説ばっかり書くだろ」
「…………」
「ごめん」
冗談のつもりだった。宗くんだって冗談のつもりだった。いつもなら笑って終わる会話が胸に痛い。
「ううん、気にしないで。宗くんは……悪くないよ」
どうにか笑おうとするけど、表情を動かすと涙が出てきそうで無理だった。
そうして互いに無言のまま、校門をくぐり抜けた。グラウンドから聞こえる運動部の声は校舎に入ると遠くなる。ローファーが床を叩く音が、長い廊下に反響しては消えてゆく。
部室に行こうというのに職員室に向かうのが、どうにも気持ち悪い。でも、本来はそうなのだ。職員室に鍵を返さないなんて、あの頃の私たちが規則を守らなかっただけ。むしろ、いつから守るようになったのだろう。
「……ない」
「え?」
だから、そんな宗くんの呟きに大きく動揺した。職員室の鍵置き場に、そこにあるはずの鍵がなかった。現実に引き戻される感覚に目眩さえ覚えつつ、息を吐き直す。
「なんで、どうして」
「分からない。分からない……けど」
他の部が間違えて持って行くことも珍しくはない。偶然にも、他の部員が何かをしに来た可能性もなくはない。信じたいような、信じたくないような、そんな葛藤が私を揺らしていた。
「とりあえず行ってみるか。誰か来てるのかもな」
「うん……」
気持ち小走りになっている袖を掴む。自分の指が震えていることも、視界に入るまで気付かなかった。
「宗くん、私……」
「大丈夫だよ」
冷静を繕っても、宗くんの額には汗が滲んでいた。私も彼も、今日何かが起きるなんて期待してなかった。何も起こらない、それでも私のために行動した、私のために行動してくれたという事実が欲しかったのだ。そんな儀式を通して安心を得たかっただけ。共依存と言われればその通りだろう。
一歩、一歩、と部室の扉が迫る度に、それが閉まっていることを願った。きっと鍵は何かの手違いで、部室はあの日々から変わらず、閉ざされたままだと言い聞かせた。
そんな私を押すように、乱暴な風が吹き抜けた。扉は向こうから開かれてしまった。小さな顔が、ひょっこりと顔を覗かせる。
「瑞姫ちゃん……? それに、宗谷くん?」
ピンクの髪リボンが、南風に靡いていた。ハーフアップの黒髪が揺れては横髪を耳に掛け直す。真っ白なブラウスに赤い胸リボン。やけに見慣れた人だと思った。
一年前のあの時、私たち二人が文芸部に来た時と同じ光景がそこにはあった。
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