きみのせかいへの応援コメント
とても切なくていいお話でした。良い作品をありがとうございます。
夏野さんのコメント返信に書かれたように、仮想空間の璃湖は生の残照だと感じました。
なぜなら、生と死は表裏一体で切り離せないものだと感じているからです。死は生のための最大の機能という人もいます。
この場合、璃湖の肉体は死に至っているので、仮想現実にいる意識はただの模倣なのでしょうね。
ただ、生きている人間の意識がそれと対峙した時にのみ、それは生を与えられたように振舞う。(シュレジンガーの猫のように、観察した時にだけしか形にならないような……)
だとしても、それはとても、とても切ないことですよね。
変に誤読していたらごめんなさい。
作者からの返信
ありがとうございます。
私も、死なくして生はないと思います。だからこそ、生をえがくために死を語りたくなるのでしょう。
璃湖をどの程度“生きたもの”として扱うかは読者の解釈にお任せします。現実においても、脳死が人の死にあたるか、という議論がありますね。意識の本質というものにはまだまだ科学の手が届かないようです。
ひとつ言えるのは、いま現実に対峙している“あなた”というものも、私が解釈したときにだけ“私にとってのあなた”というかたちを取るということです。あらゆる人間はありのままの世界を知りません。友人が、機械に映された残照にすり替わったとして、現実と知覚との差に比べれば大した問題でないのかもしれませんよ。
お読みくださり、コメントを寄せてくださってありがとうございました。おかげさまで、また新しい思索の旅に出られそうです。
きみのせかいへの応援コメント
フォロワー様のレビューより参りまして、拝読させていただきました。僭越ながら筆を執らせていただきます。
泣きました。歳のせいで涙腺が緩いからではなく、この仮想空間で取り交わされた言葉と、その情景に。
他人、それも自分と親しい間柄というのは自分にとっては存外に我儘なもので、それだからこその親しさも有るように思います。
極めて個人的な話しですが、私はずっと「記憶と記録」と言うテーマに注目しています。図らずも、自作のメインテーマの1つに当て嵌まったことも、思わず涙してしまった理由なのかもしれません。「さよなら」が言えてしまうその理由も、もしかしたら璃湖の作り込んだ虚構だったとしたら、とありもしないことを考えて、さらに泣きました。
大変興味深く拝読させていただきました。SFは作りのゴツい作品が多い中で、どちらかと言えば叙情的な本作はエッジが際立っているように感じます。面白かったです。
ありがとうございました。
作者からの返信
ようこそお越しくださいました。コメントとレビューを賜りまして、ありがとうございます。私の書いたものが感情を動かせたとするならば、こんなに嬉しいことはありません。
たしかに、友人という関係性は二人の対話の性質を決定付ける一つの要因であると思います。
「記憶と記録」というものは、私にとっても気になるテーマです。私とは何か、記憶はたんなる記録とどう違うのか。昔から、人間が考え続けてきたテーマでもあるかもしれません。
体内装置が仮想世界を再生するならば、装置から脳神経への入力が行われているはずです。となれば、神経細胞の発火を偽装することも不可能ではないわけで、そう仮定すれば璃湖はより生から遠ざかることになりますね。対話も含めて作品であるとすることもできるわけです。たった今考えたことですが。コメントを頂いてまた想像が膨らみました。
良くも悪くもこうした書き方しかできない私ではございますが、お楽しみいただけたならば幸甚です。ありがとうございました。
きみのせかいへの応援コメント
さよならは「言えてしまう」というタイトルが切ないですね。素晴らしい作品をありがとうございます。
作者からの返信
コメント、そしてレビューをありがとうございます。
この短編はもともと「あいまいなさようなら」というタイトルで執筆しておりました。一度はそのまま公開したのですが違和感があり、いったん取り下げて焦りながら付け直したものが「さよならが言えてしまう」です。
別れがあること自体は二人にとって絶対ですから、合わないと思ったんです。なのでコメントを頂いて、あぁ、絞り出してよかった、と安堵しました。
さよならを告げられることは喜ばしいことなのか。相手が生死すらあいまいな存在であればなおさら悩むはずです。私の問いを汲み取って、物語として楽しんでいただけたこと、大変嬉しく思います。ありがとうございました。
きみのせかいへの応援コメント
あ……すごい……やっぱり、夏野さんは天才です。
語彙が吹きとびました。
まるでテセウスの舟。でもそれとは、明確に違います。だって舟じゃない。にんげんだからこその、物語。こころは何処にあるのか。魂は何処に宿るのか。肉体とは……ほんとうにすごいものを拝読させていただきました。ありがとうございます。
作者からの返信
わ、夢見里さん……!
ちょうど御作を拝読しているところでして、どきりとしてしまいました。お時間をさいてくださり、ありがとうございます。もったいないお言葉を頂戴しまして……すごく、光栄です。
脳は複雑ですが、心ほどには複雑じゃないですよね。考えるにつけて意識というものは不思議だなぁと思います。
テセウスの船。まさにそんな仮定です。じつは脳神経の置き換え、という話は実在する思考実験でもあるんです。「フェーディング・クオリア」で検索していただくと私が読んだ本なども出てきます。
夢見里さんにこのお話を受け取っていただけたこと、本当に嬉しく思います。ありがとうございました。
きみのせかいへの応援コメント
遅くなってしまいましたが、読めて本当に良かったです。ありがとうございます。
どうしてあなたを「あなた」であると信じられるのだろうか。何が失われたらあなたは「あなた」ではなくなるのだろうか。
人を人たらしめているものは何なのだろうか。記憶なのか、思考なのか、感性なのか、本能なのか、肉体なのか。あるいはそれら全てを模倣できる技術が生まれたとして、そこにいるのは私が認識していた「あなた」と誤差のない人物であれるのだろうか。
さよならは「言えてしまう」けど、さよならを伝えられるあなたは本当に「あなた」なのか。
さよならが「言える」ことはせめてもの幸福でもあるけれど、「言えてしまう」ことは穏やかに不幸なことでもあるのかもしれないと思いました。
たとえば誰かのことを愛していてその人にもう会うことが叶わないとき、その人に限りなく近い何かに触れたら、それがオリジナルに近いものであればあるほど、私はたまらなく許せないし、かなしくなってしまいそうな気がしたので。
でも、きっと救いになる人のほうがずっと多いはずだし、ここらへんは難しい問題だなと感じました。
本作に限らずですが、夏野さんの書くものは必然性が感じられてとっても好きです。何かを書こうという気持ちが先に立って題材やテーマを探したのではなくて、切実に書かなければならないと思う題材やテーマの上に言葉が堆積していくような。
人の胸を打つものはまず自分にとって切実なものでなければならないと思います。
いつまでもそのままでいてください(急な告白)!
作者からの返信
読んでくださって嬉しいです。ありがとうございます!
おっしゃることぜんぶその通りで、もうまさにそうなんです、何も言うことありません、という感じなんですが……それだとさすがにちょっとなので真面目に書きますね。
物質から何から全く同じものでつくられた、同じ記憶をもち同じ行動をとるものは、もはや同じ人間なのではないか、とは思うのです。理論上は。でも、紛い物である可能性があるかぎり、人は受け入れられないのだろうなとも思います。自己が複製不可能な唯一のものである、という感覚は消せないでしょうから。(ある意味で、生存のために不可欠な感覚であろうと考えます)
人間には、完全じゃないけれど死者を感じられる、くらいがちょうどいいのかもしれないですね。
>「言えてしまう」ことは穏やかに不幸なこと
この言い回し、とっても素敵で痺れました。
私は筆が速くないので、書けるのはどうしても書きたくてならないものだけなんです。ネタというものは、生まれては古び、打ち捨てられていくものであって、なにか私にとって深い意味をもつものだけが残されて作品として出力されていくのかもしれませんね。ごく短いものは別ですが。
私は私でしかいられないので、これからも私の言葉で私による物語を書いていくものと思います。人間は変わっていくものですから、いつまでも國枝さんの感性にそぐうものを書けるかどうかはわかりません。合わなくなったら、遠慮なく捨て置いてください。
ただ、私にとって切実なことを、多くの人にとっても切実に思えるだろうかたちにしようとあがくことだけは、諦めないで続けていこうと思います。そして、國枝さんは届いてほしい読者さんのお一人です。(書くときに思い浮かべるくらいには)
できそこないのラブレターみたいな返信ですみません。このたびは素敵なコメントをありがとうございました。すごく元気が出ました。