最終話(下)
俺こと新名内蔵助は正式に御伽衆を引退し、その後は大坂屋敷にて静かに暮らした。俺と関わった人々の人生を見てみよう
まず息子(長男)の幸松、後の新名新兵衛(にいなしんべえ)は新名屋2代目の主となった。孫も連れての見舞いである
娘(長女)のお香は三法師(後の織田信武)に見初められ、側室となり、後継ぎであり、4代将軍となる織田信利を生んだ
娘(次女)のお燐は公儀呉服師を勤める3代目茶屋四郎次郎清次の妻になり、2男2女を儲けた
息子(次男)の福丸、後に新名利次郎(にいなとしじろう)と名乗り、織田信武・信利の御伽衆を務めた
娘(三女)のお風は後に御用達金工(彫金)師の後藤覚乗の妻となり、4人の男子を儲けた
義兄である今井兼久、後の今井宗薫は俺と同じく織田信忠・信武の御伽衆を務めた
舅である今井宗久は1591年に亡くなり、俺や楓、兼久や孫たちに見守られながら静かに息を引き取った。享年73歳
以前から親交があった田中与四郎は、茶道頭としての地位を築きつつも、俺に茶道頭の座を譲った。禁制の品の密貿易がばれ、1591年に切腹となった。俺は信長の許しを得て、田中与四郎に最期の挨拶をした後、田中与四郎から最期のお茶を振る舞われ、今までの礼も含めて別れを述べた 享年69歳
津田宗及は今井宗久、田中与四郎とともに堺を支え、1591年に大坂で亡くなった、享年は不明
小西隆佐は1592年に京で亡くなり、息子の小西行長は九州での宣教師の人身売買を目撃し、これを厳しく処断した。後に日本独自のキリスト教を作るべく、父である隆佐と高山右近と共に立ち上がり、【日ノ本伴天連教】を創設。1625年に京で亡くなった。小西隆佐、享年不明・小西行長、享年67歳
高山右近は九州での宣教師による人身売買を目撃し、厳しく処断した。後に小西隆佐・小西行長とともに日本独自のキリスト教を作るべく、立ち上がり、【日ノ本伴天連教】を創設。ルソンにて布教活動をしていたが、病を得て、1615年にルソンにて病没した。享年63歳
近衛前久は織田と協力し、朝廷改革に邁進し、後に信忠と松姫の娘の入内にも貢献をした。天下統一後、織田幕府は天下平定に助力した功績で近衛家に一国を献上した。1612年に京にて亡くなる。享年76歳
足利義昭は毛利が降伏した際に、織田信長に身元を預けられ、出家の上、厳重に監視された。1597年に幽閉先の寺にて1人寂しく亡くなった 享年59歳
細川藤孝は、明智討伐後、引き続き織田信長に仕え、日本文化の振興に尽力した。後に出家し幽斎と名乗り、京にて悠々自適な風流生活を送り、1610年に亡くなる。享年76歳。息子の忠興は妻の玉を幽閉したが、後に許された。一時は夫婦仲は悪かったが、日本独自のキリスト教【日ノ本伴天連教】に妻とともに入信、後に仲直りした。1646年にて京で亡くなった。享年83歳
織田信忠は信長の跡を継ぎ、2代目征夷大将軍に就任した。国内や植民地支配に多大な手腕を見せ、現代まで続く海洋国家、日本国の礎を気付いた。弟、信雄の不行状に対しては心を鬼にして、改易蟄居を命じた。後に息子の三法師、後の織田信武に跡を継がせ、大御所として権勢を振るった。1625年に大坂にて亡くなった。享年68歳
織田信忠の正室、松姫は信忠との間に男子が生まれなかったが、女子は後に天皇の后となり、次の天皇を生み、織田と武田の血脈を皇室に残したのである。三法師(後の織田信武)を養子に迎え、大坂殿・大坂御前と呼ばれた。1616年に大坂にて亡くなった。享年55歳
徳川家康は織田家に臣従したが、先の松平信康の一件で距離を置かれ、重用されなかった。後に家康は信康を死刑にしたことを後悔していた。家督は徳川秀忠に譲り、隠居した。1616年に駿府にて病没した。享年74歳 家康のやった妻子殺しは後世、【三河の妻子殺し(自分の欲得・野望のために身内を切り捨てる)】という言葉が生まれ、三男、秀忠を後継ぎにしたことで【日ノ本の袁紹・劉表】という不名誉な称号がつけられた
羽柴秀吉は養継嗣である羽柴秀勝亡き後、姉の息子である羽柴秀次が家督を継ぎ、後に織田信忠の側近として活躍した。1598年に大坂にて亡くなった
羽柴秀長は羽柴家の発展のために尽力したが、1591年に病で亡くなる。享年51歳。養子の羽柴秀保、甥の秀次の息子が跡を継いだ
丹羽長秀は1585年に病で亡くなり、息子の長重が家督を継ぎ、丹羽家の血筋を残している
柴田勝家はその後の領地拡大に活躍したが、年には勝てず、1592年で大坂の柴田屋敷で亡くなった。享年は70歳、柴田家は養子の柴田勝政が継いだ
前田利家は柴田勝家の領土拡大事業を受け継ぎ、活躍したが7年後の1599年で大坂屋敷で亡くなった。享年60歳、前田家は前田利長、前田利常が継ぎ、前田家を発展させた
佐々成政は前田利家とともに領土拡大事業を受け継ぎ、活躍したが1595年に亡くなった。享年59歳、佐々家は養子の佐久間勝之が受け継いだ
滝川一益は1586年に亡くなり、息子の一忠・一時・辰政が仲違いし、一時は断絶に追い込まれたが、滝川一益の功績により一国の太守として存続した
堀秀政は信長の側近を務め、【名人久太郎】と呼ばれるほどの博識多芸を見せた。1590年に37歳の若さでこの世を去る。信長は秀政の死を悼んだ
森成利は信長の側近を勤めたが信長の死後に側近の座を返上し領内の発展に尽力した。1630年に領地で亡くなった。享年65歳、森成利の跡を継いだのは嫡男の森成次である
弥助は信長の側近として働き、後に外国人初の城主となったが、経営は家臣たちに任せている。信長亡き後、引き続き信忠の側近として働き、大坂で死去した。享年は不明
清玉上人は明智光秀の謀反を忠告した功績で阿弥陀寺は織田家から庇護され、代々の菩提寺として大事にされた。1600年に京の阿弥陀寺で亡くなる。享年は不明
稲葉一鉄は安土の一件で、信長の息子を養継嗣にし、隠居した。稲葉家は織田家に乗っ取られた事や蝦夷地へ飛ばされた事に心を病み、4年後の1589年に美濃で亡くなる。享年74歳
斎藤利賢は安土の一件で、信長の甥を養継嗣にし、隠居した。斎藤家は織田家に乗っ取られた事や蝦夷地に飛ばされた事に心を病み、利三を絶縁したことを後悔していた。1年後の1586年に美濃で亡くなる。享年は不明
斎藤利治は斎藤道三の末子で織田信長・織田信忠に仕え、絶大な信頼を得た。更に新名内蔵助の義弟であり、交流が深い。1606年に大坂にて病没する。享年65歳
出家した俺の息子の斎藤利康と稲葉利宗についてだが、まず利康は病を得て、1586年に22年の生涯を閉じた。利宗は、その後も生き、1647年に81年の生涯を閉じた。その後、二人は自分たちを捨てた実父を怨み、処罰を覚悟で殺そうとし失敗したが、実父が自分たちの命を救った事で、その怨みが消え、後悔だけが残ったという
新名屋を支えた古くからの働いている奉公人たちはそれぞれ新名屋の支店を全国に広げ、経済を発展させる功績を建て、未来では【新名ホールディングス】としての礎を築き大企業へと発展したのである
堺は後に産業都市、経済都市、文化都市として発展し、現代でも残る大都市へと発展した
日本でのキリスト教の活動については、九州での宣教師による人身売買を目撃した日本のキリシタンたちは、独自で日本のキリスト教【日ノ本伴天連教】を作ろうと決意した。織田信長・織田信忠の許可を得て、日本だけではなく、日本の植民地にも【日ノ本伴天連教】を布教させた。本場キリスト教のローマ・カトリック教会からは東洋の野蛮人が作った似非キリスト教と見なされ、異端視されたが400年後、ローマ・カトリック教会は【日ノ本伴天連教】に謝罪し、同じキリスト教として扱った
あと我が妻である楓は俺をよく支え、2男3女を儲けた。新名屋を共に発展させたが、最近では体の衰えを感じつつ、共に生きていた。そして俺の臨終の席に立ち会っている
「楓、苦労をかけたな。」
「いいえ、旦那様とともに過ごせただけで私は幸せにございます。」
「そうか・・・・新兵衛、新名屋を頼んだぞ。」
「お任せください、父上!」
「うん・・・・お香、妻として母として将軍を支えるのだぞ。」
「はい、父上。」
「お燐、お風・・・・茶屋家・後藤家を生かすも殺すもお前の力量次第だ、決して道を誤るなよ。」
「はい、父上(父様)。」
「利次郎・・・・御伽衆として天下国家をしかと支えよ。」
「はい、父上。」
「義兄上、某のような義弟をもってどうでしたかな。」
「ふん、何を言ってるんだ・・・・楽しかったぜ、義兄弟。」
「お主たちも元気で過ごすのだぞ。」
「「「「「おじじ様!」」」」」
「ううん、皆の者、さらばだ・・・」
「旦那様!」
俺は皆に見守られながら、静かに息を引き取った。我ながら良き生涯であった。新名内蔵助、1617年に亡くなる、享年83歳
※本編は完結し、次回から外伝に入ります
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