物資じゃないのよ涙は

 今日も陸軍衛生兵器研究所は元気だ。その元気な中に、軍医3年目の真田衛生中尉が尋ねてきた。

「どうされましたか?」

「あの……圓山まるやま大佐はいらっしゃいますか?」

「たった今会議に出られました。明日まで帰りません」

「参ったなあ……」

 とそのとき、真田中尉が乗ってきた有塚一等兵が運転している車の方からかすかにすすり泣くような声が聞こえてきた。

「うっ……」

 どうやらその泣き声の主は有塚一等兵らしい。真田中尉は少しイライラしていたのもあって、車の方へ大股に歩み寄った。

「泣くな!それでも軍人か?しばき倒すぞ」

 ドアを開けて怒鳴ると、泣いていた有塚一等兵はすこし戸惑ったようなそぶりのあと涙をふき、鋭角的なデザインのメガネをかけ直した。

「お言葉ですが中尉どの」

 真田中尉は初めて有塚一等兵が泣いているのを見たという驚きと、その有塚一等兵がすぐに泣くのをやめたという不気味さからボソリと吐きすてた。

「なんだ突然泣くのをやめて、気持ち悪い」

 有塚一等兵は、先ほどまでなかった赤い本を抱きしめていた。有塚一等兵はそれを抱きしめたまま語り始める。

「心身を強くするためには悲しいときに泣いた方がよいという学説がありまして、どうやら正しいらしいと言う話であります。ちなみに現在広く支持されているそうです」

「……ほんとか?」

 真田中尉が笑いながら言うと、有塚一等兵は赤い本を真田中尉に手渡した。真田中尉は少し戸惑って、その本をまじまじと見た。

「こちらにNatureという雑誌がありますね?」

「あ、ああ」

 有塚一等兵はページをめくり、ある論文が掲載されたページを見せた。

「こちらは1年3ヶ月前のものであります。此処に……ほら」

 そこには「激しい感情に基づく行動と心身の健康の相関」というタイトルと一ページにも満たない論文が書かれていた。

――泣けば心は落ち着き、叫べば心は晴れ渡る。我々は恐怖映画と血液検査を使用した実験と、泣く前後の血中老廃物量を測定する実験でその理由を発見した。第一の実験では、恐怖を感じると人の血液が凝固しやすくなり血管が収縮することを利用し、恐怖映画を一人で鑑賞する被験者40人を恐怖を感じたときに叫ぶ集団と叫ばない集団に分けて鑑賞前と鑑賞後の血液検査を行った。図表のように叫ばなかった集団の血液は叫んだ集団の3倍以上凝固しやすくなり、叫んだ集団の方が血管が収縮しにくくなるという結果が見出された。ここから、叫ばない方が恐怖を感じた際に怪我をした場合の出血が抑えられることは明らかである。これは現在研究が進んでいるシャウト効果と照らして考察すると、叫ばないことで戦闘態勢が整わないまま戦闘に突入した際の生存率を高めるためと考えられる。次に泣いたあとの落ち着きに関してであるが、泣いた際の涙の成分を調べたところ老廃物が多く出ていることが明らかになった。これらを総合すると、感情に対して素直であることが健康を増進し、心理的な安定をもたらすということは明らかである。――

「へぇ……ならなんでお前は泣いていたんだ?」

「泣けば空腹が落ち着くかなと思いまして」

 有塚一等兵は尻をペンチでつまんでいた。真田中尉はペンチを取り上げ、言った。

「体を壊しちゃまずいだろうが!体と涙は資本だ、よく覚えておけ」

 しばらくして有塚一等兵は地図を見始めた。

「意見具申、近くの旅館に経費で泊まりましょう」

「そうだな。意見を採用する」

 その夜、ペンチでつまんだ尻を撫でながら有塚一等兵は布団に頭を埋めて泣いた。

「涙は資本でも物資でもないんだよなぁ、ただの体に悪い老廃物だもの」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る