緊急事態


「う……?」


 俺はベッドで上体を起こし、薄暗い周囲を見渡す。


 今、何時だ……? 壁に掛かった時計のほうを呆然と見やると、まもなく目が慣れてきて朝の4時を少し過ぎたところなのがわかった。


 まさかこんなに朝早くから目が覚めるとは……。それくらい、興奮していたってことか。


 いよいよ、待ちに待った約束の日がやってきたわけだからな。


 今日、領地を守るルチアードたちに俺の力を認めさせないといけない。


 どんな試練が待ち受けているのかはわからないが、やれることはやったはず。


 とはいえ、まだルチアードたちはまだ起きてないだろうし、もうちょっとレベルを上げておきたいところだ。


 ただ、一人で出かけるとなると、が追いかけてくるから気をつけないといけない。


 さすがにこの時間なら大丈夫だと思うが、一応様子を見てみるか。


「……」


 俺は自室の隣にある小部屋のドアを開け、中をそっと覗き込む。


「シオン様……うひひ……」


 例のメイドは、ニヤニヤした顔で寝言を発していた。一体どんな夢を見てるんだか……。


 まあ、これならしばらくは起きる気配もないし大丈夫だろう。


 そういうわけで、おもむろに玄関のほうへと歩いていったわけなんだが、扉に手をかけようとしたとき、すぐ背後に誰かの気配を感じた。


 ま、まさか、そんな……。


「ほえ……」


「……」


 恐る恐る振り返ってみると、目を瞑った状態のエリュネシアが立っていた。


 おいおい、嘘だろ……。


「ヒオン、しゃま、おでかけれふかぁ……」


「あ、う、うん、早起きしたから、ちょっとだけレベル上げしようかなって。エリュたんも来る……?」


「ひゃい……ふわぁ……じゅ、準備、してきまふ……」


「……」


 エリュネシアは俺に忠実だし、見た目も仕草も可愛いらしいんだが、このときばかりは心底怖かった……。




 恐ろしく澄んだ朝の空気を吸いながら、俺たちはモンスターのいるフィールドへ向かって歩き始めた。


『ギギッ……』


「あれ……?」


「ふわあ……シオンしゃま、どうされましたぁ……?」


「エリュ、今さっき、ゴブリンの声が聞こえてこなかった?」


「えぇ……? きっと気のせいですよ。ゴブリンがこんなところにいるわけないじゃないですかぁ」


「だよな……」


 確かに、ゴブリンがこんなところにいるはずもないし、幻聴か、あるいは近くを通り過ぎた誰かがゴブリンみたいな耳障りな声を発したんだろうか。


 そう思い、首を傾げつつもしばらく歩いていたときだった。向こうのほうに見える道を小柄な人物が通りすぎるのがわかったんだが、小柄で肌が緑がかっていて、フォレストゴブリンのような風貌だった。


「なんか今、あの道をゴブリンが通ったような。見間違いだよな……?」


「まさかあ……。シオン様、疲れていらっしゃるんですよ……」


「だよな……」


 エリュネシアの言う通り、やはり気のせいだと思って歩き始めたものの、どうにも気になって仕方なかった。


 フォレストゴブリンたちがゴブリンエリアから脱出する可能性なんてあるんだろうか? でも、あんな高い壁をよじ登れるはずが……。


「エリュ、ちょっと待ってて」


「シオン様?」


 俺は韋駄天の歌を演奏し、風の音の効果以上の身軽な動きを手に入れると、付近で一番高い家の屋根までスイスイと登っていった。


「なっ……」


 そこからさらに煙突の天辺に跳び上がった俺は、を目撃してしまった。


 ざっと数えても百体以上はいるであろうゴブリンたちが、領民たちの住居の周りを我が物顔でウロウロしていたのだ。


 これは……予期せぬとんでもない事態が発生してしまった……。


「エリュ、あれは見間違いなんかじゃなかった。ゴブリンが沢山湧いてる……」


「えぇっ!?」


 俺はそこで咆哮の歌を演奏しようとして、やめた。


 違う。ここではあれをやるんだ。そう、恐怖の歌……。


 煙突の上でソードギターをかき鳴らすと、近くにいるゴブリンたちが目を剥いて逃げ始めるのが見えた。


 遠くにいるゴブリンも、ゆっくりとした歩みではあるが、仲間の真似をするようにして自分たちの元いた場所へと戻り始めているのがわかる。


 俺は安堵した反面、内心ゾッとしていた。もし俺が起きるのがもっと遅かったら、領内がまさに阿鼻叫喚の巷と化し、住民たちがゴブリンたちの餌食にされていたのは明白だからだ。


 それにしても、一体どこから逃げ出したんだか。誰かが扉を閉め忘れた? いや、そんなことはありえない。スライムエリアに繋がる扉はともかく、ゴブリンエリアの扉は常に兵士が交代制で見張っていると聞いていたからだ。


 まさか、兵士に何かあった? それとも、壁の一部が何者かに破壊されたんだろうか? 帰還していくゴブリンたちを追跡すればわかるかもしれない。


「エリュ、俺は逃げたゴブリンたちを追いかけるから、至急駐屯地へ行ってルチアードたちにこのことを知らせてきてほしい」


「はいっ……!」


 エリュネシアが小走りに駆け出していく。


 こういう、思いもよらなかった緊急事態だ。何かほかにも罠が仕掛けられているかもしれないし、用心するに越したことはない。


 ということで、俺は少し距離を置きながらこっそりゴブリンのあとを追いかけ始めた。やつらは強い人間を本能的に察知する能力があるというから、混乱して別方向に逃げ始めてしまう可能性も出てくるからだ。


「――あっ……」


 まもなく、ゴブリンたちが領地を囲む壁に近付いたことで、やつらが何故この住居エリアに侵入できたのか、その答えがはっきりとわかった。


 壁の一部に人間二人分の大きな穴が開いてて、そこへどんどんゴブリンたちが競うように逃げ込んでいったのだ。


 壁の周辺は赤い血で染まっているのがわかる。それも含めて謎が多い。これは一体、どういうことなんだ……?


 エリアの内側からゴブリンたちによって破壊されたのか、あるいは外側から何者かの手によって壊されたのか……。


「――シオン様あぁっ!」


 エリュネシアの声がして振り返ると、ルチアードやゲラード、領兵らとともにこっちに駆け寄ってくるところだった。


「シオン殿、ご無事で安心しました」


「領主様、ご無事で何より……ふわあぁ……」


 二人ともひざまずいてるが、ゲラードはなんとも眠そうに欠伸していた。まあこれもまだお前のことを領主として認めていないぞという意思表示なんだろう。


「ああ、ルチアード、それにゲラード、よく駆けつけてきてくれた。エリュもおかえり」


「ただいまですっ!」


「この通り、約束の日だったがとんでもないことが起きてしまった……」


「はっ。すべて、エリュネシア殿から聞き及んでおります。ゴブリンどもが住居エリアへ侵入してきたそうで」


「あぁ、自分の演奏の効果で逃げ帰らせることはできたが、危ないところだった。領主として深く反省している……」


「い、いえ、シオン殿に責任はないかと……」


「いや、領地内で起こったことだから、なんであろうと領主にも責任がある」


「シオン殿……」


「そこでルチアードにお願いがあるんだが」


「お願いとは……?」


「あと三日だけ待ってほしいんだ。こんな状態で自分を領主として認めさせることができたとしても、俺は気分が晴れない。だから、三日で事件を解決させてみせる」


「ならば、それをシオン殿を真の領主として認める条件といたしましょう」


「それでいいのか?」


「はっ! 領主に対して幾多の無礼極まる発言、どうかご容赦を。しかし、これもシオン殿のためを思えばこそなのであります……」


「わかっている。ルチアード、もっと厳しくてもいいくらいだ」


「シ、シオン殿……」


「ルチアード、どうした、顔が赤いぞ? 熱でもあるんじゃないか?」


「だ、だ、大丈夫であります……」


「ククッ……」


「ゲ、ゲラード、笑うでないっ!」


「……」


 ルチアードは風邪を引いてるのと心配したが、何故か噴き出したゲラードを叱っているところを見てると大丈夫そうだな。


 とにかく、領民たちをこれ以上危険な目に遭わせないために、そしてルチアードたちに俺を真の領主として認めさせるためにも、必ずこの事件を三日で解決へと導くつもりだ……。

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