四、狸には敵わないもの

 一方その頃、仕事を終えた斎は内裏の南あたりを歩いていた。


「お~い、そこな蔵人少将くろうどのしょうしょうどの」


 蔵人少将、とは斎の官職名だ。呼ばれて振り返れば、向こうの渡殿から丸々とした男が手招きしている。黒い直衣姿の左大臣だった。


「左のおとどさま? 何か御用でしょうか」


 近くまで走り寄って礼をすると、左大臣は引き眉を持ち上げて笑顔を見せる。


「うむ。他ならぬおぬしにしか頼めぬことがあってのう」

「この斎に……でございますか!」


 何やら自尊心をくすぐる言葉に斎の顔が輝く。左大臣は意味ありげに手持ちの檜扇を開くと、小声でささやきかけた。


「ほれ近う……もう少し近う寄ってたも」


 斎がやや頭を下げた姿勢で前へ出たなら、さらに招き寄せる。やむを得ず顔を上げ面を近付けると、左大臣は扇で口元を隠しながら耳打ちした。


「実はな……。我が家の末姫が、近々帝に入内するのじゃ」


 斎の顔が一瞬こわばった。左大臣はまだ検討段階のことを、さも決定事項であるかのように――それも重要な秘密であるかのように斎に告げる。


「さよう、でございますか。それはその……。めでたきことにございますれば」


 斎はさーっと頭の血が引いて、脈拍が早くなるのを感じた。だが自分でもなぜこんなに胸がざわついているのかがわからない。それでもなんとか、祝いの言葉を喉から絞り出す。


「ところがのう、帝がどうにもはっきりしなくてな。入内の日取りがなかなか決まらんで困っておるのだよ。……おぬし、ちぃとばかし帝を焚きつけてはもらえんか? 早く返事をしてくれと」


「おぬしなら帝に物申せよう?」とまくしたてられて、不敬な要求に斎はムッとした。

 実は、帝に取り次いでほしいと斎に寄ってくる者は多くいる。斎は帝と近しい上、蔵人として直に謁見する機会が多いと思われているからだ。しかし彼女がこういった話を引き受けたことは一度だってない。都合の良い伝書鳩になる気はさらさらなかった。

 斎は冷静になろうと深く息を吐いた。そして何度目になるかわからない断り文句を舌の上に乗せる。


「主上の御心は、主上ご自身のものでございます。それを臣下が動かそうなどと、恐れ多きことにございます」


 だが、左大臣は引き下がらない。


「そこをなんとか」

「できませぬ」

「西国の珍しい菓子はいらんか?」

「いりませぬ」

「ええい、たかがおなごごときが偉そうな口をきくな!」

「へっ!?」


 突然怒鳴りつけられて、しかも女だと指摘されたので斎は狼狽した。


「い、いえ、何をおっしゃいます、いいい斎は、立派なおのこですからして……」

「ふん、どちらでもよいわ」


 あわてふためく斎を前に、左大臣はバチン! と威圧するように大きな音を立てて扇を閉じた。


「――蔵人少将よ。おぬし、今、帝にとって一番の重要事は何か知っておるか?」

「…………」


 動揺からすぐに答えられず黙ってしまう。すると左大臣の声が急に低くなった。


「教えてやろう。それはな、御子を残すことじゃ」

「御子を……」

「そうじゃ。御子を為すのはおなごにしかできぬ。つまり、おのこであるおぬしにはできぬことよな」


 お前では帝の役に立てない、暗にそう言われて斎の胸はぎゅっと締め付けられた。


「それでも……御子を為すか為さぬか、それがいつの時機のことであるかは、すべて主上ご自身がお決めあそばすことでございます……」

「ほーう。つまりおぬしは、ようやくやってきた太平の世を乱そうと言うのだな?」

「えっ?」


 急に話の規模が大きくなったので、斎には意味が呑み込めない。左大臣はおおげさに嘆息すると、閉じた檜扇でトントンと己の肩を叩き始めた。


「このままお世継ぎがお出来にならず、春宮が立たねば次代をめぐって世は乱れる。世が乱れれば、お優しい帝はさぞ嘆かれるであろうなぁ」


 斎はどきりとした。花琉帝自身が、次代の擁立をめぐるいざこざが原因で長年不遇の時代を過ごしてきたからだ。

 京の外れの寺に封じられ、訪ねる者もなく、花鳥風月のみを友として――。いつもどこか遠くを見ていた孤独な「入道の宮」の姿を、斎は知っている。


 どくん、どくん。

 斎の胸はふたたび強く締め付けられて、棘が刺さったみたいに痛みだす。


「尊き方の血を繋ぐのは尊き者の役目。先々帝ゆかりの我が末姫こそが適任じゃ。そうであろう?」

「……はい……」

「帝が道行きを迷われるのなら、進んで正しき道を照らし忠言し申し上げるのがまことの臣下というものじゃ」


 肩を叩く左大臣の動きが止まった。かつて並み居る競合を蹴落とし太政官の最上位まで上り詰めた男は、射貫くような目で斎を見下ろす。


「蔵人少将。おぬしは忠臣か? 賊臣か?」

「い、斎は……」

「答えよ!」


 忽然と一喝され、ぴたりと扇を喉元に突きつけられる。その有無を言わさぬ圧力に、斎は思わず唾を呑み込んだ。


「……私は……。主上の、一の忠臣にございます……」

「その忠義に偽りはないな?」

「それはもちろん――」

「ならばく奏上せよ。『左大臣の末姫を入内させ、中宮を立てろ』とな」


 弁論で左大臣の右に出る者はいない。気付けば反論や逃げ道は封じられ、頷くしかなくなっていた。斎はうつむき、小さく小さく首を縦に振る。

 ようやく望む答えを得て、左大臣は老獪に笑った。


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