第2話 わたしの部屋でのID認証

 靴を脱ぎ廊下を歩く。

 ドアを開け、リビングに入る。既に覚悟はできていたので、大きなおどろきはなかった。社会人2年目はこうだったね、という家具の配置とカーテンの色に、わたしは懐かしさを覚える。


 机の上にあるのは、記憶にある通りのオンボロちゃん。研究室への配属が始まった大学2年の秋に、安いけどおすすめと先輩に言われて買ったマウサーのノートPC。何にせよ、このPCで、今いるこの世界のことを知ることができるはず。


 卒論を書いた時にお世話になったPCを開き、恐る恐るレジュームボタンを押すと、懐かしのちょっとポンコツなネズミのアイコンが表示される。

 数秒して、HONOKANというIDが画面に表示された。かつてのように指紋認証センサーにスッと指を通す。認証が終わり、PCの画面が表示される。

 ブラウザを表示させ、躊躇ちゅうちょしつつも、右端のお気に入りリンクをクリックする。三井ハイケミカル株式会社のトップページが表示された。24歳の時までの、わたしの勤務先の会社名だ。

 わたしは通勤バッグを開き黒のIDカードを取り出した。

 登録済の左手の中指を黒のカードの左端に触れさせる。IDカードには、株式会社四葉蛋白質工業まえかぶ・よつばたんぱくしつこうぎょうという表記と会社ロゴ、そして、凪沙野穂香なぎさのほのかと、わたしの名が今朝までと変わらずに浮かび上がる。

 

 わたしが新卒で就職したのは、物産の子会社であった三井ハイケミカル株式会社。けれども、わたしが24歳の時、物産は四葉グループにハイケミカルを売却した。今でも物産は少数株主であり、四葉グループは、蛋白質工業の製品の海外販売を物産に任せているのだけれども。

 会社のPR担当をしているわたしは、物産の名刺も持っているので、今も三井系の企業に勤めている気分も少しある。けれども、三井ハイケミカル株式会社のウェブアドレスは、株式会社四葉蛋白質工業のウェブサイトへの単なるリダイレクトとなっていたはず。それが、三井ハイケミカル株式会社のサイトが健在であった。新着リストに社名変更の告知が表示されていることもない。


 わたしは、三井ハイケミカルのページを閉じて、ニュースサイトへと画面を遷移させた。見ると、今日は3月2日らしい・・・外が割と暖かったので3月の初旬とは思っていなかったな。

 つまりは、明日がわたしの誕生日。つい先月に31歳の誕生日を迎えたばかりだと言うのに。

 

 取り出したままのIDカードに再び触れる。変わらず、四葉蛋白質工業よつばたんぱくしつこうぎょうの表記が浮かんでくる。このIDカードで、三井ハイケミカル株式会社に出勤することはできない。

 IDカードを通勤バックに戻し、代わりに先程外したブラを取り出した。形を整えると、ブラの膨らみに確認するように手をそわせつつ、わたしは目をつむった。

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