日本史研究室の午後

清瀬 六朗

第1話 暑い午後

 「うわあっつー!」

 森戸もりと杏樹あんじゅは日本史研究室の扉を開けるなり大声を立てた。

 持ち歩き扇風機などというモダンなものは持っていないので、杏樹は手でばたばた顔をあおりながら研究室に入る。

 入ったところをブロックしている本棚の前を左へとすり抜けると。

 お。

 いつもどおり、涼しい顔をして、その子が座っていた。

 「ちょこん」と。

 「ちょこんと座る」という表現がほんとうにぴったりだ。

 「置き物のように置いてある」というのに近い。でも、杏樹を見上げて涼しい目を送り、目をぱちぱちさせたから、生きているのだとわかる。

 この季節でも上に薄い緑色のカーディガンを着ていて、けっこうそれが似合っている。

 いずみ仁子じんこ

 杏樹と同じ、明珠めいしゅ女学館じょがっかん大学児童福祉学部日本史専攻の四年生だ。

 四年生に見えるか、というと。

 見えない。

 一年生が迷い込んだか、いや、もしかすると中学生が、と感じてしまうくらいに、小さくて頼りない。

 でも、じゃあ杏樹は四年生に見えるかというと。

 見えるのは見えるだろう。

 けど、「日本史の四年生です」と堂々と言い切るには、別の問題が……。

 ……深く追究しないようにしよう!

 そういう小さい仁子が、研究室の、まわりに詰めて座れば十人ぐらい座れる大机に、小さい仁子が一人で座っているので、よけいに小さく見える。

 「いまの杏樹の」

 あ、仁子が何か言うぞ。

 「「うわ」の「わ」と「あっつー」の「あ」が一体化して「わっつー」みたいになってた」

 何それ?

 いや、たしかにそうだろうけど。

 そんなことを指摘してどうする?

 でも。

 この子の薄緑の上着といまの指摘で、だいぶ涼しくなった感じがする。杏樹はあいまいに笑って向かい側に座った。

 いちおう、後ろを向いて、この部屋のヌシ二人がいないのを確認する。

 ほんとうのこの部屋の主人、大藤おおふじ千菜美ちなみ教授と、もう一人のヌシである大学院生の三善みよし結生子ゆきこさんと。

 確認して、仁子の向かいに腰を下ろす。キャリングケースを置いてから、手で顔を仰ぐのを再開する。

 「お」

 仁子のまえにA4版の紙にプリントした文書の山がある。「山」というほどではないが、何十枚かは積み重なっている。

 「何それ?」

 関心を持つと危ないかな、と思う。

 この部屋に存在するものに何か関心があるところを示すと、だいたいややこしいことになるから。

 先生がいれば。

 「あら。杏樹ちゃんも関心あるの?」

と言われて、その文書に関わる手伝いとかをやらされる。

 結生子さんがいれば。

 「あ。杏樹ちゃんも関心あるのね?」

と言われて、その文書に関わる手伝いとかをやらされる。

 つまり、ヌシ二人のどちらかがいれば、必ずそういう展開になる。

 それで、連休前には、半紙なのか何なのか、昔の紙に書いた、杏樹には読めもしない書き物を写真撮影する手伝いをやらされて、バイトをキャンセルしなければならなくなった。

 今日もそんなことになる可能性が……。

 でも、だったら。

 杏樹がその「もの」に関心を示すならば、そのヌシ二人が不在で、泉仁子だけのときのほうが安全だ。

 泉仁子はまたぱちっとまばたきをした。

 「先生がさっき持って来た」

 ということは、ヌシのうち先生はどこか近くにいるのだな。

 気をつけよう。

 「どこか、隣の県の旧家から出てきた文書と、あとは城跡の遺跡かも知れないとこの写真だって」

 はあ……。

 「で、これ、何かするの?」

 「何もしない」

 泉仁子のすばやい答えだ。とりあえずほっとする。

 でもわからない。

 ヌシのどちらかが帰って来たら、ここから仕事が生じるのかも知れない。

 逃げたほうがいいのかも知れないが。

 でも、ここは、いまでは杏樹の居住空間になっている。いや、住んでいるわけではないので「居住」ではないか。でも、大学に来たらここに来て、お弁当やテイクアウトのときはここでお昼ご飯を食べ、一日が終わるとここから帰る。ときには、ここからバイトに出て、バイトからここに戻って来て、ここから帰ることもある。

 文書の整理とか、文書の撮影とか、コピーとか、たまに画像処理とか、書庫まで取りに行ったり返却したりとかいう仕事の手間は、その居住空間を借りている家賃のかわりと考えれば、まあ、納得はいく。

 「見ていいのかな?」

 「わたしも見たから」

 仁子が見たから、杏樹も見てよい、と。

 理論的には、仁子が見てもダメで、杏樹が見てもダメ、という可能性はあるけど。

 ま、ないな。

 そこで、杏樹はその紙を手に取ってめくってみた。

 やっぱり文書をカメラで撮影したものらしい。何が書いてあるかというと。

 さっぱりわからない。

 文字であるらしいのはわかるのだが、それがなに文字かというと。

 わからない。

 文字が大きいもの、小さいもの、何か縁取りがあるもの、机か畳の上に置いて撮ってあるもの、いろんなものがある。

 古そうだな、という「おもむき」はたしかに感じるのだが。

 そのどれも読めない。

 うーん。

 そんなので、「大学で日本史やってます!」なんて言っていいのだろうか?

 「仁子ちゃん、これ読めたの?」

 杏樹は目を上げて仁子にきく。

 「ううん」

 仁子は小さく横に首を振った。仁子も読めないのか、ということで、安心する。

 その仁子が細い声で言う。

 「下のほうに写真あるよ」

 文書が読めないのなら写真を見ろ、ということ?

 ま、そのほうがいいな。

 少なくとも「文字が読めなくて困る」という挫折感は感じずにすむ。

 その写真のいちばん上は、遠くから見た、こんもり山のようになっているところの写真だ。もともとは色がついていたのかも知れないが、白黒でプリントしてある。だから、細かいところはわからないけど、開けたところに、そこだけ木が茂っている。

 「これって古墳?」

 この泉仁子の専門が古墳だ。日本史研究室に来ると決めたときには何をやるかなんて考えていなかった杏樹と違って、仁子は、最初に来たときから「関東の古墳」とか言っていた。

 「古墳じゃないって」

 仁子がことば少なに言う。

 いや、「こふんじゃないって」ということばの、ことばが少ないかどうかはわからない。でも、この仁子が言うだけで、「ことば少な」な感じが生じるのだ。

 「城跡しろあとじゃないか、って」

 「ふうん」

 だとする、ヌシのヌシ、大藤千菜美先生の専門に近い。中世の何かが専門だ。

 いや、中世の「荘園」というのが専門だとは知っているが、「荘園」と言われても杏樹にはよくわからない。

 「荘園」ということばで浮かぶイメージはというと、まわりを白い柵で囲ってあって、大きい門があって、上に「ようこそ荘園へ」とか書いた看板が出ていて、なかにはお花を植えた花壇が果てしなく広がっていて、その向こうに煉瓦れんが造りの洋館がどーんと広がっている、というものだ。

 その向こうには観覧車があって、もしかするとジェットコースターもあって。

 それ、テーマパークとかそういうものじゃない?

 少なくとも、そんなものが中世日本にあるわけがないので。

 ……よくわからない。

 先生の授業では、その中世荘園の文書を読んでいるのだけど、まったくわからない。

 しかし、それが城跡なのだろうか?

 どうも「城!」という堂々とした感じと、その、木が生えてこんもりとした山、というイメージとが、なんか違うのだが。

 いきなり、ばさっ、がしゃっ、と音がして研究室の扉が開いた。

 ヌシのどちらかが帰って来たらしい。

 さあ、はたしてどちらだろう?

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