Encaustic Object

白犬狼豺

エンカウスティークオブジェクト

 その話題になったのは一昨日の午後のこと。私は小説を書くことが趣味だったから、友人に小説の題材について相談をしていた。当時私は、絵画を題材にした話を書こうとしていて、自分が調べた画家や絵画について紹介していた時、そこで初めてそれについての言及があった。


「齧るやつもいたな」


 彼が私に紹介してくれたのは、とある絵画についてのことであった。何のことかわからずに困惑した私に彼はつづけた。


「齧られてるんだよ、絵が」


 関心を寄せている私に気付いたのか、彼は「ちょっと待て、調べる」と言ってスマホを取り出したが。


「……出ないな」


 私もスマホを取り出したが、どうにも見つけられず、その日はそれきりになってしまった。翌日、例の絵についてどうしても気になっていた私は、朝から例の絵について調べていた。


『見つかったか?』と彼から連絡があったが、私も見つけられないでいた。

 その絵画について、もう少し絞り込むために私は彼に質問をしていった。素人で何を聞いたら絞り込めるのかわからず、思いついた質問を取りとめもなく投げかける。


 もう一度、それはどんな作品か?

 ・・・絵の具が厚く塗りたくられていて、その真ん中が齧られている。

 海外の作品か?

 ・・・おそらく海外。

 支持体……つまり、何に描かれているものか、例えば、キャンバスとか、紙とか。

 ・・・わからない。ただ、縦長の長方形で、色は深緑色がかった灰色だった。たくさんの数の絵具が混ざってあんな色になったのだと思う。

 その絵が描かれたのはいつか?

 ・・・わからない。中学の頃の美術の教科書か、国語の教科書に載っていた記憶がある。

 作者は存命か死没か?

 ・・・わからない。絵以外はなにも。

 作品自体は近代に入ってからか、それ以前か?

 ・・・わりと新しいと思う。

 抽象画か?

 ・・・おそらく。ただ、絵と言っていいのか微妙な気もする。


 私は「たくさんの絵具」という点について、少しあたりをつけて聞いてみることにした。


 ポロック?

 ・・・いや、ああいう一つ一つの色が分かれているものではなくて、混ざり合って単色になっている感じ。

 使われている色は一色のみ?

 ・・・ほとんどそう、混ざり切っていない絵具のごく一部分の色が違うとかだった。平面的ではなく、3次元的な質量を持った絵だった。

 油彩?

 ・・・多分。


「だめだな、違う世界線の話かと思えてきたよ」

 そう言う彼をかるく叱咤し、調べ続けた。


 とにかく最近の芸術家について調べていくしかないか、彼が話していた情報をまとめると。


 ・厚塗りした絵具の真ん中を齧ったもの

 ・恐らく海外の作品

 ・縦長の長方形

 ・複数の絵具を混ぜたような、緑がかった灰色

 ・美術か国語の教科書に収録されていた

 ・近代の物と思われる

 ・おそらく抽象画


『ああそれと、小学か中学のころに見たんだと』


 私は再び調べ始めるが、これほど探しても出てこないものがあろうとは。またいくつか作品の例を挙げて、似ている作品がないか彼に見せた。しかし、どれも似た雰囲気の物すらないという。


『その絵画をもっと暗くしたような雰囲気だったな……あ、いや、似ても似つかないが』

 海外の作品なら英語で検索したら見つかるのではないかと、二人で拙い英語を駆使してインターネットで調べていた。


 Green Painting

 Green oil Painting

 green abstract painting


『Baited を入れるのはどうか』


 green belted oil painting

 green belted painting


『gnawed painting これではないな、色を指定しない方がいいかも知れない』


 Bitten Painting


『だめだ』と彼が言った。

『作者はきっとまだ生まれてない』

 そんな面白い諦め方をする彼に明日図書館へ行ってくると伝えた。


 翌日。


「あのすみません」

「はい」

「あの、絵を探しているんですが」

「はぁ……」

「ああ、いや、近代の作品だったと思うので、近代の芸術について紹介をしている図説とかってどこにありますかね……」

「ああ、そういうことですか」


 図書館の職員の方に美術の書架へ案内してもらい、一冊ずつ気になったものを手に取っていった。ルネサンスの時代から近代までの作家の、確かにインターネットでも見たことがないような作品も見受けられたが、しかし例の絵についてどうにも見当たらない。


 目ぼしいものに一通り目を通しては見たものの、結局見つけることができず、帰ろうとしたときに、少し離れた場所にある背の低い本棚にある図版ずはんが目に入った。

 図版を本棚の上で広げ、特に期待もせずにページをめくってゆく。


 あった


 長方形のキャンバスに粘り気のある絵具が厚く塗られている。確かに灰色とも緑色ともつかない色であったし、彼の言っていた特徴にどれも当てはまるのであるが、何と言っても特筆すべきは、あの齧り跡である。


『それかも、というかそれしかないな、色合いが記憶と違うが』

『ここで違うって言われてももう探したくない』

『いや、今ここに報われた努力を見た。とてもスッキリしたよ、ありがとう、それしか言う言葉が見つからない。』


 そんなことを言って、齧られた絵をめぐるささやかな調査は幕を下ろした。


 ……そういえば彼は礼を言っていたが、しかし私は、その絵について調べたことは彼のためにはなっていたと思う。しかしこれについて調べたことは半分私のためでもあった。


 私がその絵についてどうしても気になっていたということもある。しかし、以前見たものの名前がどうしても思い出せなかったことは確かに私にもあって、そうして思い出せずに記憶から抜け落ちてしまうこともままあった。


 結局そういうものは自分の知らない間に諦めてしまっているようなもので、そのことにすら気づけないというのが、少しもったいない気がしていたから。

 とはいえ彼は私のそんな気持ちを知るよしもないのだろう。


 しかしささやかではあるが、あの作品について話した彼を、諦めてしまう前の私と無意識に重ね合わせていたのではないかと、今では少しそんな気がする。


 ところで絵を齧るとはどんな気持ちだったのだろう。作者の気持ちはきっとこうだったに違いないということは言えないが、誰でもできる平凡なことを奇抜な発想でやってのけた作者の一見簡単な試みは、きっと近代から現代までの芸術における大きな意義を持った一歩だったのだろう。


 そういえば彼も小説を書いてみたいと言っていた、ワナビだけど。そうしてなかなか踏み出せない一歩もきっとあると思う。

 今回は私自身のためでもあったとはいえ、彼が無意識に諦めかけたものを再びつかみ直せたことが、彼にとって小さな一歩になってくれていたらと思う。


 私は彼の、ほんの少しだけ物書きの先輩として、彼がいつの日か踏み出すその一歩を待っている。



あとがき

 物語に出てくる作品は、ジャスパー・ジョーンズというアメリカの芸術家の「ある男が噛んだ絵」(原題”Painting Bitten by a Man”)という作品です。

 それと少し遅くなりましたが、その絵は私にとてもいいインスピレーションをくれたので、作品を紹介してくれた彼にはこのあとがきをもって謝辞と代えさせていただきます。どうもありがとう。

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