第4章-5
「――だからさ、わかってくれよ、なあ」
中年男の声が聞こえてきた。女は
「ん? なんだ、君は」
女は顔をあげた。目は見ひらいている。
「蓮實先生?」
「こんばんは。お久しぶりですね」
「ええ」
カンナは正面から見た。――あ、ほんとに指輪を探してた人だ。あらあら、まったくとんでもないこと。顔を向けると彼の表情には見たことがないものが
「蓮實先生?」
無視されたのにも腹を立てたのだろう、男の声は大きくなった。
「なんなんだ君は」
「占い師の先生です。なんでもお見通しの蓮實先生。私がなくした指輪を見つけてくれたの。――ああ、このこともわかってしまったんですね。やっぱり奥さんが相談に行かれたんですか?」
女は泣くのをやめ、目を細めてる。蓮實淳は、ん? と思った。いまの言葉にも違和感がある。ただ、思考は中断された。また大声が聞こえてきたのだ。
「占い師? その占い師がなんの用だ?」
「もう駄目よ。この先生にはなんでもわかっちゃうの」
「なんでもわかる? 馬鹿言ってるんじゃない」
「この人は特別なのよ。ほんとにすごい人なんだから」
カンナはふたたび顔をあげた。
「はっ! 占いなんてのは全部インチキなんだよ。どうせこうやってコソコソと
そう
「――まさか。奥さんが相談って、うちのカミさんのことか?」
「だから、もう終わりにした方がいいのよ。奥さんも気づいてたってことでしょ。それで、先生のとこに行ったの」
女の声は静かな
「そうよ! なんでもお見通しの蓮實先生にかかったら、こんなの
彼は口許をゆるめた。しかし、表情を整えると鼻に指をあてた。
「少しだけ言わせて下さい。あなたと奥さんは学生時代からのつきあいですね。大学が一緒で、旅行が趣味というのも一緒だった。いろんなとこへ行かれてますね。はじめはサークルの仲間と、それからは二人だけで。あなた方が結ばれたのも旅先でのことだ。大学を出てすぐに奥さんは両親を
顎を
「どうやって知った? 流産なんてことまで。うちのが洗いざらいぶちまけたのか? それとも調べたのか? なにが目当てだ? ――ああ、お前も
カンナはムカムカしてしょうがなかった。脅迫ですって? なんてこと言うの? もうこうなったら一発
「どうやって知ったかは問題ではない。これは事実で、あなたはその事実の前で無力だ。奥さんの愛や、不安の前でも無力だ。あなたは非常に
蓮實淳は指先を向けた。目の前――あと二ミリも
「カンナ?」
「え? あ、はい」
「もう帰ろう。これで充分だ。言いたいことは言ったし、俺は疲れた。ありえないほどの疲れだ」
大和田義雄は身体から
次の月曜にやって来た大和田紀子は夫の
「あの人も
「いえ」とこたえ、蓮實淳は目許をゆるめた。風がガラス戸を弱く
「私ども時間をかけて話し合いましたの。夫は別れると言ってきましたし、彼女の方からも
お茶と《
「よかったですね」
「ええ、ほんとうに。傷は残るのでしょうが、乗り越えられるはずです。私、そう信じてますの」
蓮實淳は信頼するに足る人物であるのを示す笑顔をつくっていた。ただ、頭の中はめまぐるしく動いている。気になることが幾つもあったのだ。大和田義雄を
「ほんと、あの奥さんっていい人よね。出した大福にも手をつけず。これ、もらっていいでしょ?」
カンナは大福を
「なに考えてるのよ。これ、むちゃくちゃ美味しいのよ。
「ん? ああ、」
「どうしたの? さっきからぼうっとしちゃって」
「いや、なんていうか、」
「なんていうか、なに?」
大福に伸びる手を
「ほら、前に言ってたろ? 指輪の女が俺のことを話すなんて変だって」
「ああ、そうだったかも。でも、あなたは変じゃないって意見だったんじゃない?」
「そうなんだけどさ。大和田の奥さんも言ってたじゃないか。『あの子はとうから別れたかったみたいだ』って」
「それがどうかした?」
蓮實淳はしばし
「あのとき、指輪の女はこう言ってたろ? 『やっぱり奥さんが相談に行かれたんですか?』って」
「うん、言ってたかも。で?」
「いや、これは想像でしかないけど、こう考えることもできる。指輪の女はわざと奥さんに聞こえるよう話した。それは、俺に相談しに行くのを
「なんでよ。そんなの自分に不利じゃない。私はそう言ってたでしょ」
「だけど、あの女は別れたかったわけだろ? それと、これも想像に過ぎないけど、あの指輪は大和田義雄からもらったのかもしれない」
「は? なんでそう思うの?」
「たとえばだけど、あの女は別れたく思って、一度指輪を
鼻先を叩きながら彼は考えた。他にも気になることがあるのだ。――そういや、あのオッサンはなにか言ってたな。
「でも、だったら、あなたはあの人がそう思ってたのも見えたんじゃないの?」
「いや、」
蓮實淳は唇を
「何度も言うようだけど、俺は相手がなにを考えてるかわからないんだよ。ただ経験が見えるだけだ。――ま、これはいくら考えたってわかりっこないことだ。でも、なんとなく気になる。全体的に気になることが多すぎるんだ」
「ふうん」
カンナは顔を
「なんだ? どうした?」
「ううん。意外にあなたっていろいろ考えてるんだなって思って。ところで、これは気にならないの?」
そう言いながらカンナは大和田紀子の置いていった
「ああ、それも気になる。どんだけ入ってんだ?」
二人はガラス戸の先へ目を向けた。悪いことなんてしてないのに、なぜか気になったのだ。
「どれどれ。――ん、こりゃ、」
「すごくない? 三十万よ。三十万」
「すげえな」
彼も前のめりになっている。ひとつの
「さっきはああ言ってたけど、私がなに考えてるかわかるでしょ」
「まあね。なんとなくわかるよ。でも、聴きたくない」
「なんでよ。こんだけ
「そう、今回は特殊だったんだ。結果的に良い方へ転がっただけだよ。また同じようにできるとは限らない。だから、浮気調査もできますとかは書くなよ」
「うーん、わかった。とりあえずこれは
二人はしばらく見つめあった。口のまわりに
「で、君は俺がなに考えてるかわかるか?」
「は?」
全体を
「まったく。なに考えてんの?」
「これは前から言おうと思ってたんだけどさ、」
「うん。なに?」
カンナは唇を歪めた。はいはい、またこのパターンね――そう思ったのだ。こういうのってよくある。どうせ、猫に関することなんでしょ。
「あのな、」
「だから、なによ」
「キャットフードを
「ごめん。それは無理」
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