焔の獣と移譲の御子3/3(短編として移植済み)
「きゃ」
足を取られて、思わず悲鳴が出る。視線を違和感がある場所へ向けると、そこにはツタ植物のような何かが絡まっていた。
植物ではないとわかるのは、それがあまりにも真っ黒だったから。夜の闇から飛び出してきたような色をしたそれは、ヘビのように動きながらわたしの足首を強く締め付けてくる。
ヤフタレクからもらった爪を枕元においたままに家を出た日に限って、こんなことになるなんて……。
ぞわりとした悪寒が背筋に走り、一瞬で周囲から刺すような視線を感じる。獣のものではなく、人に近い気配。村の人々が盗人や罪人に向ける視線を今、自分が向けられているという恐怖が、ひたひたと胸の内からあふれ出して悲鳴が漏れになる。でも、ここで叫んだら、きっと村の人たちにも声が届くかもしれないし、声を聞いたヤフタレクと村のみんなが鉢合わせして、入らぬ誤解を与えてしまうかもしれない。そう思って歯を食いしばって両手で口元を抑えながら声を抑える。
神様……は、たぶん助けてはくれない。だって、神殿でしかわたしたちと関われない存在だから……。
わたしが死んだとしても、そうしたら次の御子を村人の中から探すだけだと思う。
この一年は移譲の力無しでみんな生きなければならなくて、迷惑はかけてしまうなぁ。そもそも、また村を抜け出してきてこんなことになっているから……みんなわたしに怒って弔ってすらくれないかもしれない。
「……オマエヲ……ダレモアイシテナイ」
囁くように耳元でそんな声が聞こえてくる。
そうだ、御子のわたしを愛してくれているけれど、なんの力も持たないわたしを愛してくれる人なんて……。
「カヤール!」
長くて細い枯れ枝みたいな腕が、首に伸びてくるのがわかっていて、振り払えなかった。
このまま、死んでしまってもいいのかも……なんてことが頭に浮かんだ時、わたしの名前を力強く呼ぶ声がした。
夕暮れ時の陽に焼かれた空に似た毛皮の狼が、こちらに向かって吼えているのが見えて、さっきまで抱いていた後ろ向きな気持ちがパッと晴れていく。
「助けて」
そう言い終わるよりも早く、赤い閃光が黒い腕を切り裂いた。
弓で射られた獣の様な短い悲鳴と共に、わたしの足を掴んでいたツタのようなものも消えて、先ほどまで辺りを取り囲んでいたなにかの気配もすっかり消えてしまったみたい。
いつのまにかわたしのすぐ目の前にまで近付いて来ていたヤフタレクにペロリと頬を舐め上げられてから、ようやく自分が涙をこぼしていたことに気が付いて、少し遅れて自分の頬を両手で覆う。
「……よかった」
ほっとしたように呟いたヤフタレクは、わたしの目を見つめてくれながら溜め息を吐く。
怒られるのかと思って身を竦めたけれど、彼は何も言わないままわたしの肩に大きな頭を擦り付けるだけだった。
「君は忘れっぽいみたいだな」
あんたって呼ばなくなってる……! なんて小さなことを少し嬉しく思いながらも、僅かに呆れが滲み出ている声色に「急いでいたから、つい」と言い訳を返す。
「そういうことにしておこう」
わたしの手が届きやすいように頭を下げてくれた彼の首元に腕を回して立ち上がろうとすると、黒いお化けに掴まれた方の足首がズキリと痛む。
「……気が進まないが、少しだけ待ってくれ」
顔を少し顰めただけで、ヤフタレクはわたしの痛みに気が付いたらしくて、わたしその場へ座らせると、眉間に皺を寄せて難しいことを考えているような表情を浮かべた。
「気が進まないなら、無理しなくても、このくらい」
我慢出来るから……と言おうとしたけれど、ヤフタレクは首を横に振るだけだった。
「いいから待ってろ」
グルルと形だけの威嚇をしたヤフタレクはそう言って目を閉じた。
さわさわと長い毛が風もないのに靡いて、火の粉に似た暖色の光の粉が周りに現れ始める。
小さな声で何かを唱えているヤフタレクをじっと見ていると、彼が瞳と同じ色で包まれた。
彼の燃えるような赤い毛皮は徐々に彼の背中側へ吸い込まれるように集められていき、狼の形をしていたはずの姿がゆっくりとヒトの姿に近付いていく。
「これなら、君を傷付けないで運べそうだ」
彼を包んでいた紅い光が消え、現れたのは、たくましい体の美青年だった。コダルトよりも少し高い身長に、たくましい体……。熱した銅みたいな赤みを帯びた艶やかな肌には、ところどころ裂かれたような形の隆起した傷痕がある。これは……彼が不死になる前に刻まれたものなのかな……なんて考えながら視線を上げていくと、狼の姿だったときと変わらない透き通るように綺麗な真紅の瞳と視線がぶつかった。
なんだか急に恥ずかしくなって視線を横へずらすと、緩く波打つ炎の色をした長い髪が揺れいてる。
「わ」
肩に手を置かれ、膝の裏に腕を差し込まれたわたしの体が浮き上がると、彼の厚い胸板が顔に押し付けられる。
目のやり場に困ってしまいながら、もう一度、彼の顔を見ると心配そうな表情でわたしをじっと見つめていた。
「神の獣になる前は、これに似た姿だったんだ。こめかみに一対の黒い水牛のような角が生えていたんだが……」
ヒトの姿になると、彼の表情がさらにわかりやすい気がする。きりっとしていた眉毛が少しさがって、自信なさげにそんなことを話してくれる。
「こんな醜い姿を見せることになってすまない。だが、君を傷付けずに安全な場所へ連れて行きたかった」
「醜くなんてない」
「変わったやつだな」
ふっと口角を持ち上げて笑うヤフタレクだけど、その目はどことなく悲しそうだった。
きっと、彼のいた世界では角の有無が美醜に関わる大切な要素だったのかもしれない。でも、わたしの目から見れば彼は、人の姿でも十分に美しいと感じる。
男性に対して、美しいというのは正しいのかわからないけれど。
「あなたの姿、わたしは、とっても美しいと思ってる」
その言葉を聞いた彼の目が一瞬だけ大きく見開かれる。切れ長の目に浮かぶ細長い瞳孔が針みたいに細くなって、すぐにまた丸みを帯びた優しい瞳に戻った。
「いつか角を取り戻した俺の姿も見せてやりたいが」
「狼に角があったらかっこよすぎてダメじゃない?」
ぼそりとつぶやいた彼の言葉で、あの綺麗な狼みたいな姿に黒い角が生えている様子を思い浮かべてみた。水牛はみたことがないから、
鹿のように大きくて、立派な角がある狼はすごくかっこよくて、完璧すぎて「ずるい」と思ってしまったのだ。
「ふ……そうか。クク……君にとってはそれが俺の姿なのだな」
ヤフタレクが急に上機嫌になった理由はわからないけれど、それでも、愁いを帯びていたその表情が明るくなったことがうれしくて、わたしは彼の首に腕を回してグッと顔を近付けた。
「よくわからないけれど、その姿で笑っているあなたもすごく素敵」
そう言って彼の頬に自分の唇を触れさせた。
触れた彼の肌が熱かったからなのか、それとも、軽率にしてしまったことに対して自分自身で驚いたからなのか顔中がカッと熱くなったけれど、それでも気持ちはとても幸せで、この時間がずっと続けば良いのにと叶わないと分かっているのに願ってしまう。
「この姿なら……こうして君が常に身に付けられるものも造りやすいからな。少し待っていてくれ」
彼がそっとわたしを下ろしてくれたのは、巨大な木の麓だった。
ここは神殿を通り過ぎた先にある神の領域なので、滅多に足を踏み入れることはない。
木の近くには、透明な角を持つ大きな鹿の骸が横たわっていた。
綺麗に肉が削げているその骨は、風化したものではなく、誰かが手入れをしてそうなったのだとなんとなくわかる。
優しい表情を浮かべながら、その鹿の骸を撫でているヤフタレクを見て、それが彼なのだということも。
赤銅色のたくましい腕が、氷で出来たような鹿の角に触れる。
こちらに戻ってきたヤフタレクは、わたしの足首に角の一部を当ててくれる。ひんやりとして、本物の氷みたいだった。でも、氷みたいに冷たさで肌が真っ赤にならない。不思議な感覚に驚いていると、彼は右手だけを狼のものに戻し、鋭い爪で小さな角を器用に加工していく。
「これって……」
「かつての友だ。この森の恵みと守りになるように、骸を安置していたが……少しばかり力を借りようと思ってな」
「友達を……殺さなきゃいけなかったの?」
「俺がああなっていたら、こいつも俺を殺してくれただろうさ」
あなたが……そうならなくてよかったと言おうとして口を噤む。それから、彼が優しい表情で透明な角を触れる様子を、彼の肩にもたれ掛かりながら黙って見つめていた。
硬いものを削る音が一定のリズムで聞こえてくる。鋭角を丸めて傷付かないように加工された角の根元に僅かにくびれのようなものを付け終わると、ヤフタレクは自分の髪の毛の一房をサッと切り取った。
「あ」
もったいない……と思ったけれど、不思議なことに彼の髪は切った部分を補うようにするすると目の前で伸びていく。
「君は……俺のように髪が伸びたりしないのはわかってるが……髪を少しもらってもいいか?」
「う、うん」
頷いたわたしの髪にヤフタレクが触れる。それから、遠慮がちに一本だけわたしの髪を切ると、彼は切り取った一房の赤い髪にわたしの髪を混ぜて紐を編み始めた。
「すごい……。貴方、そんなことも出来たのね」
「昔、俺にこういうことを教えてくれた物好きな人がいたんだ」
手元をじっと見ながら、彼はそっと言葉を漏らす。
「その人とは、会いたくないの?」
「ずっと前に、天に召された。君みたいに変わった人だった」
何て言葉を返せば良いのかわからないけれど、ヤフタレクが柔らかい表情で微笑むので、短く「そう」とだけ返す。
きっと、彼に取っては大切な人で、この人は大切な存在をたくさん失ってここまで生きていたんだということまで分かってしまう。
そして、わたしが死んだら、彼は、もしかしたら、また大切な存在を失うことになるのかなって考えて、胸の奥がチクリと痛む。
「出来た。仕上げにサラの角を……」
「あの、それが、その氷の角を持っていた獣の名前なの?」
「ん……? ああ、あいつの名を口にしていたか。そうだ」
「素敵な名前ね」
「サラは、歌と踊りが上手い神だった。きっと君のことを守ってくれるだろう」
彼の紅い髪で編み上げられた紐は、木々の合間から零れ落ちる光に照らされて、赤銅のようにきらきらと輝いている。
編んだ紐の中央部分を、角の括れ部分に結び付けて硬く縛ってからヤフタレクは「仕上げをするからよく見ていてくれ」と少し鋭い犬歯を見せて笑うと、ゆっくりと立ち上がる。
わたしに出来たばかりの
さっきまで丸みを帯びていた黒い爪が鋭く変化して、輪郭の顎の鋭さが失われる代わりに、鼻先が伸びていく。徐々に背筋が曲がっていき、両腕だった部分は地面に付いて立派な前脚に変わった。
あっと言う間に、わたしの前にいた精悍な男性は巨大な狼の姿へと戻っていった。
「それを俺の口元へかざしてくれ。危ないから、横から、そう」
彼の指示通り、ヤフタレク大きな頭の真横に立ち、作って貰ったばかりの
ふぅっと彼が口をすぼめて息を吐くと、細くて綺麗な真っ赤な炎が氷のような角を橙色に染め上げた。
「わあ……、きれい」
夕焼けの空を閉じ込めたみたいな色で、思わず感嘆の声をあげたわたしを見て、ヤフタレクがうれしそうに目を細める。
「それなら、ずっと身に付けていられるだろ?」
彼が作ってくれた
炎に温められたからでは無く、角の中に込められたヤフタレクの魔力が少しだけ外に出ているからだってなんとなくわかる。
忘れたりしないように、
「ありがとう。本当に……」
「俺の爪は……そうだな。次会うときに持ってきたらナイフにでも加工してやろう」
「また会ってくれるのね。よかった」
少しだけホッとした。彼は、今すぐにでも森から出ていくと言い出しそうだったから。
わたしを背中に乗せながら、彼は森の中をゆっくりと歩いて行く。
朝からここへ来て、もう夕暮れも近い。心配しないでって書き置きをしたけれど……流石に一晩帰らなければ、コダルトが探しに来るだろう。
悪い人では無いし、優しい人なのは知っているけれど……それでも、彼に領主の義務としてわたしの人生を背負って欲しいわけではない。
だから、つい彼の好意に気付かないふりをしてしまう。
森の出口まで来て、わたしはヤフタレクの大きな背中からそっと降りた。
しっかりと冷やしていたからか、足首はもう痛まない。
「……だから」
「え」
帰り際、消え入りそうな声で、彼が呟いた言葉の一部だけが耳に入る。
よく聞こえなくて聞き返すと、彼が照れくさそうに視線を逸らしながら耳をぺたりと折り曲げて口を開いた。
「俺だって……初めて見たときから、君のことがとても眩しく見えたんだ」
「ほんとに?」
思わず、彼の首元に抱きつきながら、うれしすぎる言葉を確認する。
「俺みたいな化け物を、好きだと言ってくれて、正直、浮かれている」
「ふふ……よかった」
キュウンと犬みたいに鼻を鳴らす大きな狼が愛おしくて、鼻先にそっと口づけると、彼もお返しにわたしの頬に濡れた鼻を押しつけてくれる。
「また会いに行くから」
「無理はするな。俺はいつでも君のことを見守っているから。村のやつらに心配をかけるのもよくない」
「ありがとう」
彼に背を向けて、わたしは村へと急いだ。
胸に微かにあたる
もう少し落ち着いたら、彼を村に連れてきてみよう。狼の姿をしていたら怖がるかもしれないけれど、人の姿なら、きっと彼の良さを村のみんなもわかってくれるはず。
村を囲っている門を開くと、コダルトがわたしのことを待っていた。もしかして、帰りが遅いから探しに行こうとしていたのかな?
「コダルト?」
少しだけ申し訳なくて、わたしは彼が口を開くより先に「遅くなってごめんなさい」と口にする。
でも、彼は困っているような下がり眉を少しだけ下げて「怪我がないならよかった」とだけ言って、わたしに背を向けた。
いつもなら「心配したんだぞ」って一言から始まって、色々とお説教してくるのに……。何かあったのかな? 疲れているだけなら良いけれど。
元気が無さそうなコダルトの背中を見送ってから、わたしは家へと戻った。
ヤフタレクの爪を革のポーチの中にしまって、家の中を片付ける。
明日は、村のみんながわたしに祈りを捧げる日だから、外へは出られない。明日の祈りやお願いを聞き届けて、移譲の儀を行ってからだから、ヤフタレクに会えるのは少し先になるのかな……。
あの綺麗で少し硬いけれど温かい毛皮に包まれることが出来ないのはすごく寂しいけれど……御子としての役割は果たさないといけないから。
寝具に寝転がりながら、じんわりと温かい
「俺はいつでも君のことを見守っているから」
彼の低くて柔らかな声を思い出しながら、わたしは眠りについた。
轟々と燃えさかる大きな炎みたいに揺れる、彼のゆるく波打つ赤い毛皮を思い浮かべて、いつか、彼との間にかわいい子供を授かることを夢見ながら。
―完―
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