カティーアの両親の話
カヤール視点
焔の獣と移譲の御子1/3(短編として移植済み)
深く息を吸うと、周りの空気の冷たさが体の内側に染みこんでくるみたいだった。
目を瞑って、指を組み合わせた両手を額へくっ付ける。目の前に焚かれている香炉へと意識を向けながら、ゆっくりと鼻先を天井へ持ち上げると、金で出来た耳輪と、よく磨いた白狼の骨で作られた頭輪がシャラシャラと透き通った音を立てた。
石造りの祭壇にはわたししかいない。
冬の間に乾燥させた
きらきらとした光をまとった深緑色で半透明の存在が差し伸べてきた二つの掌が、わたしの体を包み込んだ。そして、お腹の底から湧き上がってくるのは、どうしようもなく幸せで満ち足りているという気持ち。
わたしは今年も役目を果たせるという安堵感と、神はわたしたちを見捨てずに愛してくれるということを確かに感じながら、わたしからも神に手を伸ばす。
――愛しい愛しいわたしの御子。今年もおまえたちにわたくしの恵みを譲りましょう。
夏に生い茂る木々の葉が擦れるようにも、優しい女の人のようにも、しわがれた老人のようにも聞こえる不思議なその声は、わたしの体の内側にやわらかく響いてくる。
自分の顔と同じ位ある人差し指の腹でそっと額を撫でられて、わたしの体には陽だまりのような温かな力が流れ込んでくる。
次の春までの間、わたしは神様から譲って頂いたこの力を村のために役立てていく。
山と崖に囲まれた小さな村が、豊かに暮らせているのは、ずっとずっと昔から、こうやってわたしたちの一族が神様から譲ってもらった力をみんなのために使ってきたから。
――愛しいおまえたちが栄えてくれるよう、わたくしも見守っています。
温かさでじんわりと汗ばんできたわたしを、神様は静かに地面へ降ろすと、そのまま空へ溶けるように消えていく。
寂しい気持ちと、今年も無事に力を譲っていただけたことに感謝を込めてわたしは胸元で両手を合わせながら、深く頭を垂れた。
山の向こうにある村では神の御子が途絶えたと聞いた。異界から来たという角が生えた者たちが、御子達をさらっているという噂もまことしやかに囁かれている。
世界の仕組みが変わってきているのだとしても……わたしに出来るのは神に祈りを捧げることだけだから……。こうして、神様に感謝を捧げ、得た力を村のために行使するしかない。
「村に、戻らなきゃ。コダルトが心配してる」
儀式を終え、我に返る。ふと、いつも自分の事をいつも心配してくれる幼馴染みの顔が思い浮かんだ。うんと首を持ち上げないといけないくらい高い背と、短く切りそろえられた綺麗な白金色の髪が綺麗な人。困ったように優しく垂れ下がった眉と、そして冬の空みたいに綺麗な青い瞳。
領主の長子である彼と、わたしはいつか結婚するのだと思う。それから、子を成して、きっとその子のうちの誰かが、村のためにわたしと同じことをするんだと思う。
神の御子として祭壇で祈り、神様から認められたら村のみんなから祝福されて、それから……村のためにこうして祈りを捧げるの。
コダルトも、わたしも、お互いを好きだけれど、それは胸を焦がすようなものではない。義務のためにわたしの人生を背負わせるのは酷なことだとも思っている。
できるなら、コダルトには想っている人と幸せになって欲しい。移譲の御子の血を引くものをたくさん残すために、たくさん育てるためには、領主が娶るべきだという意見を優しい彼は断れないだけだと思うから。
そこまで考えて、溜め息を吐く。
わたしも神の御子として、次の子を残すために誰かの子を孕まなければならない。それなら、好きでもない人と結ばれるよりは、わたしのことを知っている幼馴染みの優しい彼の方がいいのだと思うし、村のためにもそうすべきなのだろう。好きな人がいるわけでもないのだし。
それでも、許されるのなら、身を焦がすほどの恋というものをしてみて、心から好きになった人との子供を残したい。そう思ってしまう。
「こんなへんぴな場所に、急にそんな人が現れるわけないから、考えるだけ無駄なんだけどね」
自分に言い聞かせながら、香炉の火を消して、軽く祭壇を掃除する。
今していたのは神への祈り。神と繋がり、恵みの力を維持するための儀式。
他者の持っている記憶、能力、病気、呪いなどを別の人へ『移譲する』という力。それが、神の御子だった母から、わたしに譲られた力。
神様の気配が完全に消えて、木々の揺れや動物の声がわたしの耳に戻ってくる。
祭壇から降りて、木靴を履いて、上着を羽織る。
春だとはいっても、村から少し離れた森の奥はまだ肌寒い。靴紐をちゃんと結んでから、しっかりと閉じられている石の扉を思い切り体重をかけながら押した。
薄灰色の高い壁で覆われている神殿は、天井が無い。もう一度、開くときと同じように体重を思いきりかけながら石の扉を閉めて、
特に盗まれて困るものはないけれど、獣たちが入ってきて中を荒らすのは掃除が大変で困るから。
「早く帰らなきゃ」
出てくるときは高く昇っていた太陽は、すっかり低くなっていて空を赤く染めている。
まるで焚き火のようだなって思った。ぱちぱちと木が
炎の周りを歌いながら飛んでいる
「みんなも、コダルトも心配してるかな」
祈りを捧げる日、太陽が空に昇っている間は神が認めた一人しか森に入れない。それ以外の人間が来ると森に住む妖精達に連れて行かれたり、迷ってしまったりすると言い伝えられているから。
例外として、御子の代替わりの時だけは神の御子とその子供が入ってもいいとされているのだけれど……。
病で亡くなった母さんと、この道をはじめて来た時を思い出しながら、わたしは帰路を急ぐことにした。
「……クワセロ……クワセロ……ウマソウダ」
最初は風の音だと思った。嫌な気配がして、視線が増えていく。
まとわりつくような視線はいつしかわたしを取り囲んでいて、風の音だと思っていた囁きは、物騒なものに変わっていく。
ガサゴソと薮が蠢いて、獣でも
生温かい息遣いが首元を這い回っても、髪を引っ張られても無視をして帰路を急ぐ。
何度も、何度も通った道のはずなのに、ぐるぐると同じ場所ばかり回っている気がする。
心の中で「無事にわたしを返してください」と神様に祈りながら歩いていると、木の根っこみたいなものに躓いて、わたしは体のバランスを崩す。
もうだめ! そう思ったけれど、わたしの体はふかふかとして温かい何かに包まれた。
次の瞬間、ゴウと風が唸り、体の近くを熱いなにかが吹き抜けた。
わたしの体を受け止めたふかふかしたなにかは「グルルル」と低く唸る。
その声を聞いて、わたしは自分が躓いたものが巨大な狼に似た獣だということをようやく理解した。
轟々と燃えさかる焚き火の炎に似た、波打つように揺れる焔の毛皮……火の輝きを閉じ込めたような鋭い瞳……わたしの頭くらいなら軽々と噛み砕けそうな大きな頭と鋭い牙の並んだ口。
「ご、ごめんなさい」
その美しい獣の姿に看取れてしまいそうだったけれど、唸り声を聞いて、とっさに謝った。言葉が通じるとは思っていないのだけれど。
噛まれる……と感じて身構えたけれど、その獣はわたしを無視して、わたしの後ろにいる何かに向かって威嚇の声をあげているみたいだった。
獣の視線の先へ、わたしも目を向けると、そこには黒い靄をまとったぬめぬめとした球体がふわふわと浮かんでいる。
「グルルル」
低い声で唸ったまま、獣はわたしの横を通り過ぎて、黒いお化けを睨み付けている。
少しだけ開かれた大きな口からは、黒煙が立ち上り、牙と牙の間からは口の中に留めているのであろう炎が吹きだしていた。
ふよふよと浮いたまま消えようとしないお化けが、威嚇する獣をものともせずにこちらへ近付いて来たその時、獣が大きく口を開いたのが見えた。
黒いお化けと一緒に周りの木々があっというまに真っ黒焦げになったけれど、真っ赤に燃えた炎は一瞬で消えてしまった。チリチリとまだくすぶっている炎はあるけれど、それも広がるほどの元気はないみたい。
わたしを、助けてくれたのかな。
「あの、ありがとう」
言葉が通じるとは思っていないけれど、でも、わたしに敵意を向けないどころか、怖いなにかから守ってくれた。だから、きっと怖くない獣なんだろうって思って、わたしは綺麗な炎色の毛皮をした獣に駆け寄ろうとした。
獣は一瞬だけわたしを見て牙を剥きだしたけれど、次の瞬間力なく地面に倒れてしまった。グルルルと力なく唸りながら、獣はこちらを睨んでいるけれど、さっきお化けに向けていた敵意みたいなものは感じない。
「大丈夫?」
腕を伸ばすと、獣の唸り声が大きくなる。でもそんなことは構わずにわたしは獣へ駆け寄ってしゃがみ込んだ。
毛皮が綺麗な夕焼け色だから気が付かなかったけれど、この獣は大きな傷を幾つか負っているみたいで、よく見ると血が毛皮を汚していた。
「……待ってて」
すり潰すと血を止める効果がある薬草と、痛みを和らげる草がすぐ側に生えているのを見つけて、わたしは急いで摘みに行く。
それから腰に付けていた革袋から水を取りだして、丈夫な葉で作ったお皿の上で薬草をすり潰した。
狩りを手伝うときに役に立てるようにって、薬草の煎じ方を覚えていて良かった。
……獣に効くのかはわからないけれど……。
すり潰した薬草を塗るために傷口に手を伸ばしたわたしに対して、獣はもう唸ろうとはしなかった。
処置が終わったので、革袋に残っていた水を獣に飲ませるために頭の方へ近付いていく。
じっとわたしを見つめているけれど、怒ってはいなそうな獣に微笑んでから、わたしは鋭い牙が並んでいる口に革袋を持ったまま腕を突っ込んだ。
目を丸くしながら、慌てたように大きく開いた口へわたしはそのまま獣の口に水を流し込む。
「……俺が人を食う獣だったらどうするつもりだ」
水を飲ませ終わり、空になった革袋を腰に括り付けていると、誰かの声がした。
首を傾げていると、獣が頭をもちあげてこちらを見ている。
「声の主は、あんたの目の前にいる」
溜め息をつく獣の仕草は、とても人間臭くて思わず笑ってしまいながら、わたしは低くて柔らかい声の彼に言葉を返した。
「あなたはわたしを守ってくれたもの。食べられるなんて思わなかったわ」
眉間に深くシワを寄せている獣に対して、わたしは更に一言付け加えた。
「まあ、喋るとまでは思わなかったけれど」
「この世界では獣は普通喋らないのだろう。怖がらせるつもりは無くて黙っていただけだ」
じっとわたしを見つめていた視線を外して、ふうと溜め息を吐く焔色の獣は、ずいぶん人間臭く見える。
きっと、悪い人? 獣? ではないんだと思う。わたしを殺すつもりなら、あの黒いお化けを追い払ったあとにすぐに襲いかかってくるはずだもの。
ケガをしているんだとしても、わたしを殺すなんて簡単だから。
「じゃあ、なぜ急に話をしてくれたの?」
興味本位で、目の前で前脚を組んでいる獣に更に言葉を重ねる。
もう一歩近付いてみても、鋭い牙や爪がわたしを傷付けてきそうな様子はない。
「お前があまりにも無防備で危なっかしいからだ」
その声は、少しだけ呆れているような、怒っているような響きがこもっていた。
「いいな、大きな獣なんて助けようとするな。いつか死ぬぞ」
「それは困るけど……でも、あなたみたいに素敵な獣と仲良くなれたわ」
眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいるけれど、きらきらと燃える炎に似た瞳の中に灯っている光は、とてもやさしいもののように思える。
「変なやつだな。まあいい。家があるならさっさと帰れ。魔物は倒したが……また集まってくるかもしれないからな」
「魔物ってさっきの黒いお化けのことかしら? 困ったわ……。まだ村まで遠いのに」
獣の言葉で、もうすっかり日が暮れていることに気が付いた。
さっきは迷っていたけれど、多分、ここはまだ神殿の近くのはずだ。村まではしばらく歩かなければいけない。
「……俺の爪でも持っていけ。少しの間だけだが、良くないものを退ける効果がある」
そういって、獣は自分の前脚を持ち上げて口元へ持っていくと、あっさりとそれに噛みついた。
「な……」
ぼたぼたと血の滴る音がして、骨の折れる音も聞こえてくる。
なのに、獣は痛い素振りを見せるどころかなんともない様子で、口をもぐもぐと動かしている。
言葉を失っているわたしをみて、スッと目を細めた獣は、ベッとその場に真っ黒な爪を何本か吐き出した。
黒曜石のように綺麗だけれど……でも。
戸惑っていると、生温かい吐息がわたしの頬をそっと撫でる。
「どうということはない。俺は死ねない体だからな。このくらいの傷ならすぐに治る」
「でも……大怪我を」
「なに、ちょっと体が三等分になっただけだ。俺をこんな体にしたやつは食ってやったから安心していい」
「そうじゃなくて!」
会ったばかりのわたしに、治るとは言え、自分の体を傷付けて何かをくれるなんて……。獣は、わたしが神の御子だなんて知らないはずなのに。
言葉が出ないまま、わたしは獣を睨み付ける。でも、わたしが少しすごんでみても、大きな獣にはなんの脅威にもならないみたい。
「早くしろ。俺だけなら、魔物は寄ってこない。さっさと帰れ」
「……あの、ありがとう」
獣は、地面に落ちている爪の欠片を鼻先でぐいっと押した。
黒曜石のように綺麗で鋭い爪は、うかつに触ると手が切れてしまいそうで、わたしは腰に巻き付けていた布を外して、そっと爪を包んで手に取った。
「心配をするな。ほら、もう前脚なら生えてきた」
そういって獣はさっき噛みついて先端が失われたはずの前脚を持ち上げて見せてきた。
じっと見つめても、変な気配も嫌なものも見えたりしない。本当に……この獣は死ぬことがないんだろうか?
あれこれ聞きたくて、爪を胸に抱いたまま一歩前に出ようとしたその時、遠くから誰かがわたしを呼ぶ声が聞こえてきた。
聞き慣れた声は、とても弱々しくて、不安そうで、つい、目の前にいる美しい獣から目を離す。
それから、あらためて空を見上げてみると、月が空高い場所にまで顔を出していることに気が付いた。
「夕方には帰るはずだったもんね……」
「……俺は大丈夫だ。あんたのお陰で痛みも楽になった。怪我ももうじき癒える。魔物共には負けたりしない」
不安げに漏らした声に、獣は呼応してくれる。
「本当に?」
「ああ。本当だ」
ぱたぱたと尾で地面を叩く獣は、逸らしていた視線をようやく戻してくれた。
辺り一面の空気を震わせるような「おおおん」という一吼えだけして、獣は夜の闇の中へと姿を眩ましていく。
目の前で傷が治るところも見たことだし、あの美しく気高そうな獣が嘘や強がりを言うとは思えない。さっきあったばかりだけど、そんな気がした。
「カヤール……どこだ?」
あの獣が放った一吠えの余韻に浸っていると、聞き慣れた声が近くの茂みから響いてくる。
コダルトだってすぐにわかった。きっと御子の帰りが遅いことを心配して、日暮れと共に森の中へ入ってきたにちがいない。
わたしに気が付かないまま森の奥へ行って、黒いお化けにあったりしても大変だし、早く合流しよう。
「ここよ!」
木々の間から、ゆらゆらと松明の炎が見える。それがさっきまで一緒にいた大きな獣を彷彿とさせて、別れたばかりなのにあの獣のことがどうしても気になってしまう。
また、日が明けて少し経ったら森に来てみよう。あの獣は何を食べるんだろう。お肉かしら?
今日のお礼を出来たらいいのだけれど。
「カヤール! 遅いから心配したんだぞ」
「黒いモヤモヤのお化けに追いかけれられて……道に迷っていて」
眉尻を下げながら駆け寄ってきたコダルトが、わたしを抱きしめるので、彼の背中へ腕を回しながら何が起こったのかを彼に話した。大きくて美しい獣と出会ったことは、とりあえず隠しながら。
彼から体を離し、腕を後ろで組むふりをして獣が渡してくれた爪をそっとポケットの中へ隠す。
「……噂には聞いていたが、とうとう村の近くにも出たのか」
「日が暮れてきたら、急に現れて……」
「とにかく、早く帰ろう」
わたしの話を聞いたコダルトは松明の炎で辺りを照らしたけれど、夜の闇に飲まれた森は、光に驚いた生き物が逃げたのか、茂みが揺れたくらいで異変は見当たらない。
遠くからは、聞こえてくる狼の遠吠えが、あの美しい獣のものだったらいいななんて考えながら、わたしは彼に腕を引かれて村への帰路へついた。
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