第15話 就寝時間

 歯を磨き、布団を敷く。

 楓は閉じる時間の長い瞬きを繰り返すと、電気のスイッチに近寄り、あくびを噛み殺しながら口を開いた。

「消すよ」

「ちょ、ちょっと待って」

 向日葵は慌てたように言った。

「何?」

「もうちょっと遊ばない?」

「遊ぶなら一人で遊んでていいよ」

「じゃあ寝ます」

 時間は夜10時。

 普段の楓なら布団に入って寝ている時間だった。

 すでに楓の意識は薄れ、立ったまま半ば睡眠状態だった。今でもうつらうつらとしていた。

「じゃあ消すよ」

「待って待って」

「何さ?」

 しつこい向日葵の待ったに、楓は若干の怒りをにじませて聞き返した。

 しかし、向日葵はそんな楓の語気を荒らげた様子も気にせず、ベッドの端によるとポンポンとベッドの空いたスペースを叩いた

「一緒に寝よ」

 向日葵は添い寝をご所望だった。

「わかったから消すよ」

「はーい」

 ご機嫌な返事を確認して楓は電気を消し、いつものように布団に入った。

 布団の中は当たり前だが狭く、自分と同じ匂いが他人の体からして、楓はそこで目が覚めた。

 そもそも、ベッドがいいと言ったのは向日葵だった。楓の匂いで寝たいと言い出したからだった。

 理由に関しては複雑だったが、楓としても向日葵を床に寝かせるわけにもいかず、考えることが面倒くさくなっていたため、他の手を考える前に了承した。

 そして今、向日葵の誘いと、楓の眠気からくるテキトーな返事に加え、いつもの肉体の習慣でさりげなくベッドに入ったことで、楓は向日葵とベッドをともにしていた。

「正直、断られると思ってた」

 向日葵は言った。

 声は反対側を向いているも、楓には充分に大きく聞こえた。むしろ、背中合わせの状態にも関わらず、いつも以上に鮮明に聞こえた気がしていた。

 いつも存在しない人のぬくもりで、落ち着いていたはずの楓の神経は、再び活発に活動を始めていた。

 向日葵の背中から返ってくる感覚は安心感を抱いた昨夜の母のぬくもりとは全く別物だった。緊張の混じる温かさだった。

 振り返れば初めてできた恋人がいるのだと思うと、心臓がハードトレーニングの後のように急激に動きだし、目をつむると心臓が耳元に移ったように心音がうるさく、楓は瞬きしかできなかった。

 自分は一体何をしているんだ。女の子の寝ているベッドに入り込んで、って今は自分も女の子か。でも、何してるんだ。主に何してるんだで構成される楓の思考はまとまらず、あっちこっちへ移ろっていた。

「そっか」

 楓の声は震えていた。

 意識しだすと声が出ず、必死になって絞り出したからだった。

 言葉の中身も、とりあえず何か返事をしなくてはと思って咄嗟に声を出したため、素っ気なくなってしまった。

「怖い?」

「ううん。なんか意識しちゃって」

「私もそうだよ。初めてだから」

 向日葵の声はひそやかだった。

 日中は感じさせなかった不安のような、怯えのようなものを楓は察知した。向日葵もまた気づいているのだろうと思ったが、気持ちが同じだと思うと少しずつ、無闇な緊張はなりをひそめだした。

「ねぇ、質問してもいい?」

「いいよ」

「水泳の後の着替えの時、椿ちゃんとは何を話してたの?」

「見てたの?」

「うん。ずっと気になってたの」

 急な話題の転換に楓は眠りかけの脳をフル回転させた。

 向日葵はあの時、人の輪の中に居た。

 自ら、行ってくるねと言って飛び込んだはずだった。

 しかし、実際は周りの楓のことを気にしていたのだ。何を話していたかまでは聞き取れなかったようだが。

「うーんと。人混みが苦手ってことと、あとは、成長したって言われたかな?」

「それだけ?」

「多分……」

 楓が思い出せた分にはそれしか残っていなかった。

 他にも何か話したような気がしたが、それよりも向日葵が何故椿との会話を気にしているのかが気になった。

「成長って?」

「それはよくわかんない。説明されなかったから」

「そっか、じゃあ私的見解で水泳ってことじゃない?」

「確かに授業の後だからそうかもだけど、でも、あんまりうまく泳げるようになったわけでもなかった気がするけど。向日葵がすごすぎて」

「えへへ、じゃ、今度二人で練習しよっか」

「そうだね。今度授業以外の時に行けるといいかもね」

「うん。約束だよ」

 ふふふと二人で笑いあった。

 楓はこれもデートなのだろうかと考えた。いわゆるプールデートだろうか、名称はわからなかったが約束して出かけるのだ。名前はどうあろうと恋人と二人での初めてのお出かけに楓の胸は高鳴った。

 嬉しさとともに楓の脳に一つの情報が浮かんだ。

「あ、あとは付き合ってって言われて嬉しかったって言われたよ」

「冬広さんに?」

「うん」

「告白したの?」

「うん」

「……」

 返事はなかった。

 ただ、楓には向日葵の呼吸の音だけが聞こえた。

 話していたら寝入ってしまったというには早すぎた。楓は何かまずいことを言ったのだと思った。

 咄嗟になんとかその場を取り繕おうと言葉を考え口を開いた。

「あ、いや、その、別に付き合ってるわけじゃないよ。フラれちゃって、だから、浮気とかじゃなくて、その……」

「……」

 しかし、楓が御託を並べても、向日葵は喋らなかった。

 楓はこれ以上何を話せばいいのかわからなくなっていた。謝るべきことなのか、それとも話題を変えるべきなのか。はたまたもう寝ただけで静かにするのがいいのか。色々な選択肢を検討しては否定するを繰り返した。

「……ねぇ」

 沈黙を破ったのは向日葵だった。

 向日葵はひっそりと言った。

「何?」

「こっち向いて」

 楓は一瞬ためらったが、しかし、聞き入れるべきと判断してゆっくりと体を回した。

 反対側を見ると、向日葵はすでに楓のことを見ていた。いつからだろうと思うより早く、息と息がかかりあい、視線と視線がぶつかる中、向日葵の腕が伸びてくるのが見えた。

 やはり、まずいことを言ったのだと思い、楓はぶたれる覚悟を決め、キュッと目をつむった。

 だが、予想に違い。向日葵の手は楓の後頭部にのせるように置かれただけだった。

 理由はわからないが何故か撫でられるのだ。と思った楓だったが、頭にのせられた手に動きはなかった。その代わり、不意に楓の唇に柔らかいものが当たるとともに、口内に何かが侵入してきたのだった。

 楓は咄嗟には何が起きているのか理解できず、みじろぎひとつせずただされるがままだった。

 その後、楓の予想通り向日葵は楓の頭をゆっくりと撫で出した。

 無限のように長く、刹那のように短い時間の出来事によって、楓の思考はまどろみとは違ったものでとろけ、向日葵しか見えなくなっていた。

 カーテンのすきまから差し込む月明かりで口から伝う銀の糸が反射し、楓はたった今自分がされたことを理解した。

「楓ちゃんは冬広さんが好き?」

 楓はただとろりとした目で、向日葵の両目を見つめた。

「好きだったよ」

「私とどっちが好き?」

「向日葵」

 楓は間髪入れずに言い切った。

 迷うと思っていたのか、向日葵は両目を見開くと、それからすぐに細めた。

「嬉しい」

「向日葵の方が好きだよ」

 自分の言葉でありながら楓は驚きつつも、何度もつぶやいていた。

 今までの楓なら恥が勝っただろうが、今は恥よりも想いを伝えたいという気持ちが勝っていた。

「私も楓ちゃんのことが好きだよ」

 楓も好きと言われ舞い上がった。初めてでありながら、行動で喜びを表現するため、今度は楓から積極的に唇を奪った。

「かわいいよ。向日葵」

「楓ちゃんこそかわいいよ」

 何度か熱い口づけを交わし合い、愛を確認し合うと、二人は夜の闇の中で堕ちていった。

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