第8話 昼食

 レースの結果は大勝だった。

 途中まではせっていたものの、終盤で大差をつけられてしまった楓のクラスだった。

 だが、しかし、誰一人諦めることなく泳ぎ、向日葵につなぐと見事巻き返しての逆転勝利だった。

 たかだか授業のレースなのだが、異様な盛り上がりを見せた。

 勝利の余韻に浸るクラスメイトを途中までは冷静に見ていた楓だったが、周りの雰囲気に流され、クールでいる方が恥ずかしくなり、結果的に渦の中に飛び込んだのだった。

 ハイタッチをし、抱き合い、まるで金メダルでも取ったかのようにその場を楽しんでいた。

 負けたクラスも勝者を称えるように拍手をして、遺恨の残らないいい試合となった。

 そして、挨拶を済ませ片付けをし、授業は終わった。

 それでも、クラスメイトにはまだ熱気は残っていた。

 さすがに、授業後それも着替えともなると楓の熱は冷めていた。準備の時の反省から、そそくさと手際良く進めようとしていた。

 ただでさえ慣れない体に、心理的抵抗を抱えているうえ、水に濡れ、ひっつき具合の増した水着に苦戦することが予想されたからだった。

 元からそうだったが、嫌でも体のラインが浮き彫りになり、女子であることを意識してしまうことを危惧していた。

「約束。忘れないでよね」

 不意打ち的に向日葵に話しかけられ、楓の手は止まった。

 勝った盛り上がりの衝撃で約束していたことを忘れていたのだ。

「う、うん。忘れてないよ。でも、内容は?」

「放課後に話す内容を教えてくれたらね」

 向日葵は意外と根に持っているのか、小悪魔のように笑いながら言うと、そっちも言えないでしょといった感じで指を振った。

「私も放課後に話すよ」

「準備とかは必要ないの?」

「うん。誰でも持ってるものだって言ったでしょ。肩肘張らずに待ってればいいよ」

 楓はそれで頷いた。

 ここでも楓の言い出したことが種となり、後に尾を引くこととなった。

 向日葵はそれだけ言うと、手招きされ会話の輪の中へと入っていった。

 勝利の立役者と言うことで向日葵はすっかり話題の中心だった。

 見た目に、学力、運動能力。おまけに愛嬌まで持ち合わせた向日葵の姿は楓の目には完璧超人のように映っていた。

 自分との能力の格差に、どうして関わってくるのかと疑問にも思った。向日葵と楓の関係はただの隣の席だ。

 もし、病室を訪れていたとしても面識はない。たまたま病院に来ていて、知り合いと同じ名前の人が居て、入ったら別人だったなんてことはそうそうないだろう。

 一体なぜいたのかということは気になるが、何かされた様子もなければ、記憶もなかった。

 たとえ、不審人物だったとしても、すでに楓には向日葵を警戒をすることはできなくなっていた。

 水の克服が大きかった。

 向日葵が隣にいたことで抱いた安心感を手放しがたいと思っていた。

 今日初めて会った人間のはずだが、初対面の気がしていなかった。

 それは、少し落ち着いた気持ちになった今、遠目で向日葵を見ても変わらなかった。

「お疲れ様」

「冬広さん!」

 朝イチで告白されてからは避けられていると思った楓は驚いて声をあげた。

 話しかけられるにしてもトゲトゲしく言われることを覚悟していたため、親しげで嬉しくなっていた。

「こちらこそ、お疲れ様」

「成長してるわね」

「ありがとうございます?」

 足から頭まで徐々に見上げられたものの、なんのことを言われているのかわからず楓は疑問形で返した。

 椿も説明しようとせず、満足したように笑みを浮かべていた。

「夏目さんすっかり人気者ね」

「冬広さんは混ざらないの?」

「私はそういうタイプじゃないの。それよりも秋元さんの方こそじゃない?」

 楓は言われてどきりとした。

 記憶の通り演じなかったことを指摘されたからだ。

「僕も今はいいかな。勝った後は混じったし、それで充分。水泳で疲れたのもあるけど、元から人が多いところは苦手なんだ」

 だが、楓は正直に今の心情を吐露した。

「そうだったの。私も人混みは苦手よ。てっきりパーティとかが好きなタイプだと思ってたのに。朝だって楽しそうに話してたわよね」

 見てたのかと思ったが、楓は言葉を続けた。

「ほどほどがいいんだ。疲れちゃうから」

「そうよね」

 話題が尽きたように沈黙が流れた。

 黙って着替えていると塩素の匂いが鼻を突く。

 好きな匂いではなかったが、今は不思議と嫌な気分ではなかった。

 室内にいてもセミの声は響いてきた。

 外にいる時よりも低い音だけが壁を通り抜けるように、小音でありながら存在感を強く主張していた。

「朝、嬉しかったわ」

 突然、椿は口にした。

「好意を伝えてくれたこと。人が周りにいて、うまく返事をしてあげられなかったけど、気持ちは嬉しかったわ。ありがとう」

 お付き合いには繋げられなかったが、喜んでもらえたならよかったと楓は思った。

 目の前の椿の笑顔も楓には作りものには見えず、安心して笑顔を返すことができた。

「今も大勢いるけどいいの?」

「ええ、今は夏目さんに集中していて私の話なんて誰も聞いてないわ」

 冗談も言えるほどだった。

 完全な拒絶ではなかったことが、楓にとっては寂しさと救いの両方をもたらした。

「だから、これからも仲良くしてね」

「うん。こちらこそ」

 楓は寂しさを取り繕うった笑顔を作ると差し出された手を見、椿の顔を見た。

 頷く椿を見て、楓は手を取った。

 熱い握手を交わすと、二人は頷き、友として関係が続いていくことを確認した。


 更衣室を一歩外に出ると別世界のように地獄が広がっていた。

 うだるような暑さにだらしなく服の中に空気を送り込みそうになった。

 表面上は体の記憶で涼しい顔でいることはできたが、油断すると素の楓が出そうになった。

 周りの女子逹はというと大半は切り替えたようにいつものテンションに戻っていた。

「暑いね」

 なんて言いながら顔をあおいでいるものの、楓は自分が一番暑いと思っていた。

 プールといい教室といい、基本的にクーラーの効いた部屋や冷たい環境で過ごしたことも相まって、教室に戻るまでの暑さが、今まで以上つキツく感じていた。

 おそらく熱中症で病院に搬送されたのだろうということを思い出し、楓は今の体が暑さに弱いのだと確認した。

 今はスカートだからマシなのだろうか、と考えたが暑いものは暑い。

 他の女子達もそれは同じだろう。

「もー置いてくなんてひどいじゃないか」

 少し息を切らしながら、向日葵は楓の背中を勢いよく叩いた。

「ああ、向日葵。どうしたの?」

「どうしたのじゃないよ。どうして置いてくのさ。一緒に戻るって約束だっただろう」

「そんな約束したっけ?」

「したよー覚えてないの?」

 楓とは違い、向日葵は暑さに負けることなく、テンションを維持していた。

「勝利の立役者が最後まで残ってなくていいの?」

「いいのいいの。楓ちゃんと一緒にご飯のが大事でしょ」

 楓は虚をつかれた気分だった。同時になるほどと思った。

 昼食前の体育ほどきついものはない。今の状態は暑さだけによって引き起こされているのではなく、空腹や疲労によっても起こっているのだ。

 いくら女子で体が小さくなったとは言え、人間である限り、変わらず腹は減る。

 あと少しで弁当にありつけると思うと、楓の腹の虫が鳴いた。

「お、はらぺこさんだね。足りなきゃ私の分けてあげるよ」

「べ、別にそんなんじゃないから。大丈夫だから」

「遠慮しない。無理な節制は体に毒だよ」

「うう」

 今までなら気にしなかったようなことに恥じらいを抱いたものの、早歩きをする気力もなく楓は向日葵とともにとぼとぼと教室を目指した。


 ガラガラと扉の音。

 ざわざわとした男子逹の声とともに、廊下へ冷気が流れ込んでくる。

「はあ」

 やっと天国にたどり着いた。

 楓の弛緩し切った顔に、向日葵はさぞ笑ったことだろうが楓は気にしなかった。スタスタと素早く自席に戻り、カバンへと手を突っ込んだ。

 スカ。

 おや、と思い再び突っ込む。

 スカ。

 カバンの口を大きく広げ中を覗き込むも、入っているのは教科書やノートなどのみで弁当は見つからなかった。

 楓は肩をがっくりと落とすしかなかった。

「どうしたの?」

 向日葵は楓の顔を覗き込むように聞いてきた。

「……なかった……」

 ボソリとつぶやいた。

「お弁当?」

 力無く頷く楓。

 思考と行動を分離できるとはいえ、空腹に耐え、授業を受けるだけの気力はもうすでに楓には残っていなかった。

 とほほと思いながら財布を取り出し、なけなしの小遣いが購買に吸い取られるのかと思いながら、席を立とうとしたその時だった。

「ふっふっふ」

 と向日葵が何か企むように笑っていた。

 楓は乗っかろうと思うこともなく、どうしたのとも聞かず。

「購買行ってくるから先食べてていいよ」

 と言って席を立った。

「違うの。そうじゃないの。馬鹿にしてるんじゃないの」

 向日葵の自信は瞬く間にどこかへ吹き飛んだ。

 教室を出ようとする楓に甘えた声で泣きつき、向日葵はすがるように楓の制服を掴んだ。

「じゃあなに?」

 楓は振り払うことなく、ブラーンと両手を下げるとされるがままで聞いた。

 このままでは昼食も買いに行けなかった。

「じゃじゃーん。こんなこともあろうかと思ってね」

 ウインクしながら向日葵が取り出したのは二つの弁当だった。

「どんなことがあると思ったの?」

「いや、単純にこれが一人前なんだけどね」

「じゃ」

 ふざけているのかと思い、向日葵が弁当を出すために離れたことをいいことに楓は教室を出るために歩き出した。

「待って待って、話を最後まで聞いて」

 向日葵に引っ張られ、抵抗むなしく楓は簡単に席まで連れ戻された。

「じゃじゃじゃーん」

 そして、観念した楓を前に向日葵は三つ目の弁当を持ち出した。

「これこそ、こんなこともあろうかとってやつでしょ?」

「どうしてこんなことがあると思ったの?」

 朝の時間で、弁当を準備するのはとても手間だ。

 一人前多くなることもまた、とても手間になるだろう。

 ただでさえ一人前が多いらしい向日葵からすれば、その苦労は楓には計り知れない。

 なぜなら、朝の準備を自動化した楓でさえ、弁当の準備は母がしてくれていたのだ。楓はその事実を思い出すと、弁当を忘れたことが申し訳なくなった。

「今日は体育が昼食前だったからね。多めに持ってきたのだ。ささ、お上がりよ」

「いや、それならもらえないよ」

「遠慮しなさんなって、いつもの分食べれば一応足りるからさ」

 言いながら、向日葵は楓に一箱の弁当を差し出した。

「ありがとう」

「素直でよろしい」

 受け取ろうとしたのも束の間、スッと引っ込められた。

「くれないの?」

 向日葵は指を左右に振りながらチッチッチと舌を鳴らした。

「一つ条件があるのさ」

 待てをくらった犬のような楓の前で、向日葵はパカパカと弁当箱を開け始めた。

 今の楓にはその中身のどれもが、暴力的なまでに食欲をそそった。

 胃袋に直接攻撃をくらったかのように腹が刺激され、萎むような感覚を抱いた。

 もう、手を伸ばして食べ物にありつきかねなかった。

 だが、衆人、ましてや男子の前でそんなことはできなかった。今の楓は女子だった。野生児ではなかった。元々違うが。

 理性がさっさと食べようという気持ちに全力でブレーキをかけていた。

 どうにか欲望を抑えるため、楓は視覚情報を絶とうと目をつむった。

 しかし、逆効果だったとすぐにわかった。目からの情報がなくなると、食材達は鼻から楓の食欲を刺激した。

 たかだか弁当の中身だというのに、唐揚げやハンバーグなどなどの匂いが楓の脳を支配し始めた。

 楓はまだかまだかと向日葵の言葉を待った。

 弁当への期待が最高潮へ達したタイミングで向日葵は口を開いた。

「あーんでなら食べさせてあげるよ」

「わかったから。頂戴!」

「え、いいの?」

「いいからいいから。早く!」

 楓は机をバンバンと叩きそうな勢いで席に戻った。自分が何を言っているのか自覚せずに。

 言い出した向日葵が引くほどの勢いでOKしていた。

 だが、向日葵も一瞬困ったようにしたが、すぐにしめしめといった表情を浮かべると同じように席についた。

「はい。あーん」

「あーん」

 冷えた唐揚げ。食卓では残り物をレンチンし忘れた時にしか出てこないもの。その時の残念感はたまらないが、今の楓には極上の食材のように感じられた。

「うまい」

 楓は目を閉じて味わっていた。その瞳からは思わず涙が流れそうだった。

「えへへ。そんなに喜んでもらえると嬉しいな」

 向日葵は照れたように笑いながら頭をかいた。

「次は? 次っ」

「まあ、待ちなされ、今度は私に」

「わかった。はいあーん」

「早っ、んぐ。んーでも、我ながら美味」

「ほら、次、次っ!」

 そうして、楓と向日葵は交互に食べ物を口に運びあった。

 空腹の楓にはどれも美味しく感じられ、今までの食事の中のどれよりも至福の時間だった。

 しかし、それも長くは続かなかった。

 弁当の食材が減ってきたのだ。つまり、楓が空腹を解消し始めたのだ。それによって、楓は自我を取り戻しつつあった。

 ブレーキの踏みすぎで壊れてしまった理性が回復しつつあったのだ。

 本能のままに食べ物にありついた自分。

 手掴みで食べるようなことはしなかったが、交互にあーんをしていた自分。

 その様子を少し冷静になって思い出し、しかも、現在進行形で進んでいる現実に恥の感情が生まれ始めていた。

「どうしたの? 震えてるし、顔真っ赤だよ? 大丈夫?」

「そ、そろそろ、自分で食べない? ほら、時間も限られてるし」

 楓の声は掠れ、今にも泣きそうになっていた。

「大丈夫だよ。まだまだ時間はあるよ。はい。あーん」

「あーん。うん。美味しい」

「はい、今度は楓ちゃんの版だよ。あーんして」

「あ、あーん」

「あーん。うん」

 向日葵の口に食べ物を運んだ後は、膝の上で両手を揉んで、もじもじしていた。

 楓には周囲のざわめき全てが今の二人を噂しているように感じられた。

 目線全てが、今の二人を監視しているように感じられた。

 セミさえも楓を噂し、嘲笑うように鳴いているのだと感じられた。

 もう逃げたいと思ってもまだ食材は残っている。

「あのさ、もうお腹いっぱいだから残りは食べていいよ?」

「本当?」

 まだ、少し食べ足りなかったものの楓は嘘をついた。

 苦しさを演出するためにお腹を抑え、顔をあおいで見せた。

 暑いのは本当だったが、消化によるものや満腹感よりも恥によるものが大きかった。

「それなら仕方ないね」

 これで切り抜けれたと楓は考え、体から少し力が抜けた。

 油断のせいか、残酷なことに、肉体は正直なもので、きゅるるーと再び腹の虫が鳴いた。

「もー無理な節制はよくないって言ったよね? ほら、まだあるから、食べていいんだからね。はい、あーん」

「あ、あーん」

 楓は必死に笑顔を浮かべ、美味しいことをアピールするために頷いて見せた。

 向日葵はよしよしというふうに腕を組むと満足気にふんぞり返った。

 楓は相変わらず逃げたい一心だったが、食べ終えることで現状に終止符を打とうと必死に食べることに努めた。

「あーん!」

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