垂直落下2032

河岸 悠

垂直落下2032

1.

 世界の底をどこまでも落ちる。

 落下速度はとっくに頭打ちになっていて、虚構の空気が仮初の身体を掠めてゆく。

 何も詩的、文学的な表現ではない。僕は今、本当の奈落を体験している。

 フルダイブ。画面を見るのではなく、画面の中に意識ごと入り込む仮想体験。

 一昔前、いや二昔前の小説やアニメのような世界。それは視聴覚障害のケアから始まった研究によっていつの間にか実現し、やがてインターネットを介したマルチプレイヤー形式のゲームとして、一般民衆の手で触れられるものにまでなっていた。

 またそれを動かすパソコンやグラフィックボードは肥大化の一途を辿り、ユーザーの可処分所得と時間と部屋を更に食い潰す。そんな時代に、僕は生きていた。

 学生時代にバーチャル・リアリティやeスポーツの隆盛を経験した僕が数名の友人らと流れ着いたのは、最初期のフルダイブ端末と同時にリリースされたとあるオンラインゲーム。

 サービス開始から五年が経ち、プレイヤー数は山を越えてゆるやかに下降気味。新規ユーザーは後発の新タイトルへ、また既存ユーザーの流出も止まらない。

 その状態で開発体制を大幅に刷新してから最初の大型アップデートパッチ、そのアーリーアクセスを僕はわざわざ有給休暇を取って体験しに来ていた。

 一晩かけてダウンロードとインストールを終えた後で僕はヘッドセットを装着し、くたびれたベッドに横たわってからそれらを起動する。

 少しの読み込みの後、僕の意識と身体は仮想世界に落とし込まれ、大きな企業ロゴが目の前を通り過ぎてゆく。

 そして今は遠くの実家の部屋よりも馴染んだマイルームへ転送され、現実よりも美化された自分のアバターの挙動を確認する。

 手足は問題無く動く。数年かけて集めた調度品に触れれば、脳が勝手にその感触を再現する。

 傍には、二年前にイベントを走って手に入れた豪奢なベッド。獰猛なボスモンスターの彫刻が施されたヘッドボードは、このゲームに当時携わっていたモデリング班の優秀さを物語る。

 それに立てかけてあった大剣を握る。本来の自分では到底振るえないような金属の塊が、確かな重さを伴いつつも軽々と持ち上がって背中の鞘に収まる。

 眼前にインターフェースを呼び出してフレンドのログイン状況を確認するが、誰も居ない。まだインストールが終わっていないのか、はたまた休みが取れなかったのかは分からない。仕方が無いので一人で新世界へ足を伸ばす事にする。

 まずは体験しに行くべきは新しいマップ。事前情報では相当に広い海と森を擁する場だと発表されていた。転送機能を立ち上げ、解禁場所になっている街へとジャンプする。

 ある程度の混雑は予想されるが、去年夏のボーナスを殆ど全部突っ込んだマシンなら問題無くその雑踏を描写してくれる筈だ。



2.

 いつも通りに有って無いようなストーリーを少し消化した後に訪れた土地は情報通りに広大で、入り組まない素直な海岸線だった。

 その後ろの森林地帯では早速他のプレイヤーがフィールドモブを相手に腕試しをしている。

 既存モデルから色だけを変えた新モンスターから飛んでくる知らない攻撃。四年も続けていればこれも見慣れた光景だ。

 僕は早速、新しいロケーションを探しに走る。焼けた砂浜や陽光の厳しさを直接肌で感じる事は無いが、パラメータ上では諸々が低下してしまう無視出来ない要素となっている。

 それでも、職場と家を往復するだけの弛んだ身体が跳ねるように動く。こんなに気持ちの良い事は無い。その足と長年積んだゲーマーとしての勘を頼りに、さほど時間は掛けずに森の中に石造りの遺跡らしきものを見つけた。

 中にはダンジョンの入り口のように地下へと続く階段がある。下った先の小部屋には本や燭台、頭骨、魔法陣といった何かの儀式跡のようなものがあるだけ。インタラクトが出来るものは見つからない。

 他の追加要素をこなしてから訪れる場所なのか、それともただ有るだけのランドマークか。今のところ、何のための施設かは分からない。だがこういうものは見つけるだけでも楽しいというのは、いつの時代のゲームでも変わらないらしい。

 室内に足を踏み入れると、敷かれた砂利が擦れ合って音を立てる。そこで、ある違和感に気付いた。

 煉瓦造りの壁の一角が、不自然にのっぺりとした黒色になっている。それも直線的に区切られた枠内だけだ。

 寄ってみると、人が一人飛び込めるぐらいには大きい穴が出来ていた。恐らくテクスチャの貼り忘れかメッシュ抜けか何か、3Dモデリング上でのミスだろう。

 何故こんな所が破綻しているのだろうか。オブジェクトをどかしたままなのか、はたまた地形を弄ったまま放置してしまったのか。門外漢である僕にはさっぱり分からない。

 そんな世界の綻びに触れてみる。衝突判定は無く、手は壁を越えた裏側の虚空を掻く。現実ならば積まれた煉瓦の断面なんかが見えるであろう穴の周囲には、テクスチャの貼られた薄皮一枚が鋭利に聳えるだけ。

 ここに飛び込めばどうなるのだろう。ふと、僕の中でゲーマーとしての好奇心が湧き上がった。

 これまでの経験から言えば、世界の外、『奈落』と呼ばれるような場所を落ちて行くことになると思う。

 こうした不具合を運営に報告すれば、ゲーム内アイテムや通貨だったり、粗品だったりが貰えるかも知れない。確かそういう前例がどこかのページで書いてあった気がする。

 万一のアイテムロストは怖い。インターフェースを呼び、装備やアイテムを全て外し、有り金全てと共に倉庫に送る。そうしてゲーム開始時の初心者のように上半身裸の貧相な格好になった後、僕は意を決してその穴に飛び込んだ。



3.

 後は冒頭の通り、ただ無の中を落ちている。

 広大な新規マップは頭上で見る間に小さくなってゆき、砂浜から続く深い海底すらもとっくに追い越してしまった。

 また、落ちている間にインターフェースを開こうとして僕はある致命的な失敗に気付く。

 ジャンプなどの落下中、地面に足がついていない間はインターフェースが呼び出せない。つまりどういう事かと言うと、今はフレンドや他のプレイヤー、あるいは運営に対して助けを呼ぶためのウィンドウが開けないという状態になっている。

 古き良き時代のような文字チャットすら立ち上げられない。もう随分落ちたこの位置から声を張り上げても誰も気付かないだろう。

 普通のデスクトップからアクセスするゲームであれば最悪の場合、強制的にシャットダウンする事が出来る。

 しかしこれはフルダイブ型のゲームだ。現実の僕はベッドの上で寝転んだままで、インターフェースを開けない事にはログアウトをする事も出来ない。

 悪夢は夢であると理解した瞬間に目を覚ます事が出来る。それが出来ない分今の状況の方がよっぽどたちが悪い。

 また、自分で自分を殴って死ぬ事も出来ない。このゲームが始まった頃、自分の武器で意図せずに自分を傷付けるユーザーが多発した時期があった。その上更に、仮想空間での自傷行為が横行した事が倫理的に問題視された事もあってか、フルダイブ型ゲームでの自殺は敢えて出来なくなっている場合が多い。

 そんなゲームの仕様と欠陥の間をすり抜けて、僕は暫く落下し続ける羽目になったらしい。

 体勢を変えて頭から落ちてみても、再度大声で叫んでみても何も変わらない。ジェスチャーによる魔法の簡易詠唱は機能して、炎だの氷だののエフェクトもきちんと発生しているが何にもならない。

 数分もしないうちにやれる事が尽きた。鈍い灰色だけの空間の中で、何か手は無いかと考える。

 上を見上げてみる。落ち続けてたなびく僕の髪を、グラフィックボードによる物理演算が見事に描き切っている。それだけ。

 しかし不思議とこの危機的状況においても浮かぶ焦燥は僅かで、『このゲームの運営ならなんとかしてくれる』という安心が、奇妙な安寧を与えてくれている。

 浮遊感はまるで柔らかな布団のようだ。いっそ少し眠ってみるのはどうだろうか。長時間操作を受けない事による強制ログアウトの線もある。新パッチに向けて前日よく睡眠はとっておいたのだが、何もする事が無いのではそれしか無い。

 目を閉じてみる。仮想世界は見えなくなり、偽物の瞼の裏側は灰色の混じった黒。

 身体此処に在らず。そこにあるべき正しい感覚は無く、電子技術は未だ『現実の完全再現』には至っていない。

 こうした不完全でありながらも生々しさはしっかりと感じるような体験は、夢を見ている時のそれとよく似ている。フルダイブとはつまり、明晰夢のようなものと言っていい。

 そういう訳で僕は今、夢の中で眠ろうとしている。『寝落ち』と呼ばれる行為だ。こんな経験、他の趣味では中々味わえないし味わった所でどうなる訳でも無い。それはもはやただの深い睡眠だ。

 何も無い時間というのは思案の機会を与えてくれる。それはやがて、今の僕が抱えている悩み事へと移り変わってゆく。

 社用車の調子が悪いのに修理や買い替えの話が一向に通らない事。旧友との飲み会の店を予約しないといけない事。それから、こんなつまらないバグに付き合って有給休暇とアーリーアクセスという貴重な時間を浪費している事。

 どれも他人からすれば取るに足らないものではあるだろうが、僕にとってはその一つ一つが大事な日々の営みだ。

 灰色の風景がいつまでも続く。現実でこんな長距離落下が出来る場所は無い。宇宙飛行士にでもなった気分になる。

 しかしこんな味気の無い空中遊泳をするくらいなら、海外デベロッパーの宇宙戦争ものに手を出した方がいい。あちらは作りは粗いが金は存分に掛かっている。

 恐らくこの落下にも終わりはあるのだろう。だが、本当の奈落とはどんなものなのだろうか。

 僕は信心深い方ではないし、死後の世界にも関心は無い。

 目覚めなければこのまま眠ったように死ねる世界。実際フルダイブという技術にはそういった死亡事故や安楽死における実用例もあるにはあるらしい。

 僕のような人間にとって、創作の中で死ねるより良い事は無い。欲を言えば、この現状よりかはもっと楽しい場面を味わいながら死んでみたいものだが。



4.

 落ち始めてからかなりの時間が経った。体感としては炊飯器が米を炊き終えるぐらい、風呂にお湯を張り終えるぐらいの時間だ。

 その間瞼は落としたままではあるものの、意識を手放すまではいかなかった。

 数十分。ゲームをしていればあっという間な筈なのに、何もしていないとこんなにも長いのか。

 通知音がした。昔設定したこの電子音はある特定の友人からのもの。彼ももうこの世界にやって来たのだろうか。しかし生憎、今の僕にはそのメールを開く事すら出来ない。

 目を開くと周囲の空間は変わっていた。鮮やかな青空に、太陽や入道雲が貼り付けられている。

 世界の底の更に底を抜けて、数値の下限を超えた座標は天井へと移っていたのだろう。

 となれば、僕の末路が見えて来る。

 良い眺めだ。新実装のマップが再び姿を見せ、まだ見ていない遠くの土地の様子もうっすらと窺える。シームレス化した現代のゲームが、ここに来て僕の楽しみを少し奪ってしまった。

 あの海岸が見えて来る。水着に着替えた男女獣人森人様々なアバター達が憩い、砂浜を走り回っている。

 彼らが上空の僕を見つけ、指を指している。僕はそれに手を振ってやる。

 空飛ぶアメコミヒーローの気分だ。実際はそんな格好の良い事は無く、あと十秒もしないうちに地表に叩きつけられる事になるのだが。

 この調子だと、穴のあったあの遺跡の上に落下しそうだ。水平方向には一切動いていなかったため、元の座標へ帰ってこれたのだろう。

 木々の合間から石の屋根が見える。ようやくの終着地点だ。

 僕は易々と体勢を変えて、スーパーマンよろしく着地してみせようとする。

 すると、聞き慣れたコミカルな落下ダメージ音が響いた。最大ヒットポイントと同じ数値のダメージを食らって戦闘不能になった僕は、決められたモーションで地面に倒れ伏す。視界は薄暗くなり、蘇生を待つか近くの街にリスポーンするかの選択肢が出る。

 昔のシューティングゲームのようにラグドール化によるバウンドでどこかへ跳ねていったり、現実の飛び降り死体のように頭から落ちて血や脳みそをぶちまけたりもしない。何百回と経験した『このゲームにおける死』だ。

 そんな僕の様子を見にきたプレイヤー達のうち一人から蘇生を貰う。それを受けて起き上がってから、すぐ横の遺跡には入らない方がいいと忠告しておく。

 それでも何人かが面白がって現場を見に行き、少し感動した様子で戻って来た。

 それを眺めながら僕は何事も無かったかのように装備を付け直し、友人らからの連絡を返しつつ次の探索へと歩み出した。



5.

 現実世界では日付変更の時刻が近付き、この手のゲームにとってのゴールデンタイムを迎えた浜辺は人々でごった返している。ゲーム全体としては人口のピークを過ぎたとはいえ、流石は新パッチ当日と言った所か。

 僕はあの後、友人らと共にいくつか新しいマップやダンジョンを探索してきた。そして一旦ここへ戻り、運営が主催する花火大会を見に来ていた。

 浜辺の明かりとは無関係に星が煌めく夜空。そこに、いつくもの花火が上がって弾ける。

 プレイヤー達は揃ってその光景を写真に収めており、それは僕らも例外ではない。

 少し離れた高台はカップルで溢れかえって、期間限定で出ている屋台では様々なグッズが販売されている。

 こうなると酒やつまみが欲しいが、フルダイブの性質上それは叶わないのが口惜しい。

 根っからのゲーマーである友人達は早々に花火や人混みに飽きてしまい、再び新コンテンツの攻略へと戻ってゆく。僕はそれを見送って、パラソルの下に置かれた木製の椅子に深く腰掛けた。

 加齢に伴って体力が衰え、長時間の攻略に頭がついて来なくなった。肉体的な疲労の無いこの世界で味わう消耗は、より一層厳しく現実を僕に突きつけてくる。

 椅子に合わせて設置されているテーブルの上には鮮やかな青をあしらった飲み物が置かれていて、僕はなんとなくそれを手に取って口元で傾ける。

 飲み込まれる液体の感触や味覚などは流石に再現出来てはいないが、側からみれば中々様になっていると思う。

「〜様。お時間少々、よろしいですか」

 ふと、この世界での自分の名を呼ばれた。顔を上げて見回すと、椅子の横にはいつの間にか背広を着た男性アバターが立っていた。白髪に黒いハットを被り、老けた顔にはモノクル。絵に描いたような紳士然とした彼の黒衣は、花火の光を浴びて七色に照り返す。

「私、このサーバーのゲームマスターをやっております」

 この世界で唯一の、現実世界での肩書きを行使できる人間だ。彼は慇懃に、取引相手とのやり取りのように話し始めた。

「今回の不具合についての謝罪と、経過報告という形でお話をさせて頂きに参りました」

「あれ、バグ報告とかまだ出していなかったと思うんですけど」

 あれから新規ボスの攻略に夢中で、バグレポートを書くのは後回しにしていた。今から書こうと思っていた矢先の出会いなので僕は少し動揺してしまっている。

「すっかりコミュニティの方では有名人ですよ。『空から落ちてきた半裸の男』だと。それに皆様忙しい時期ですので、こちらから直接出向いた方が手間が掛からないと思いまして」

 紳士がにこやかに語る。なるほど、プレイヤーと開発者の距離が近くなった今はこういうやり取りの方が合理的になっているのか。

「ああ、わざわざすみません」

「いえいえ、謝罪するのはこちらの方なので。状況から俗に言う『地形抜け』だろうと予想して調査した所、例の遺跡の地形周りに不具合を確認しました。それにより先程まであの辺りは閉鎖して修復と点検作業を行っておりました」

 昔のオンラインゲームなら、こうしたメンテナンスというのはサーバーからプレイヤーを追い出してからするものだった。それを考えると中々凄い時代になったものだ。

「この度はこちらの不手際でお客様にご迷惑をお掛けしてしまい、大変申し訳御座いませんでした」

 紳士は深く頭を下げる。仮想空間ではあまり聞き慣れない、職場然とした彼の言葉と態度。それでも、世界観に合わせた彼の出立ちは没入感を壊さない。うまく出来ているものだ。

「勿論後日、書面にした報告とお詫びの方も運営の方から発送させて頂きます」

「お詫びだなんて。僕としては、あの無限落下は結構楽しかったですよ」

 僕の返答がやや想定外だったのか、彼は漏らすように言葉を返す。

「楽しかった、ですか……」

「もう何年もここに居ますから、たまにはこういう事があっても良いかなって」

「それはそれは。長年のご愛顧誠に有難う御座います。しかしまあ、開発者としては『想定していない楽しみ方』はあまり広まって欲しくないものですが」

 苦笑しながら彼は本音を吐露した。

 この人だって他のゲーム開発者の例に漏れず、会社の内側からもユーザーからも日々要望を受け止めて疲れ切っている事だろう。

 ベテランスタッフを他のタイトルへ引き抜かれてからの無茶なスケジューリング。それは彼一人のせいではないはず。そんな所をわざわざ僕が非難してやることもない。

 学生の頃ならまだしも、今の僕はそういう社会人の営為のままならなさを知っている。

「余計な仕事、増えますからね」

 そう言って僕も笑う。デバッガー気取りの暇人はどんなゲームにでも存在する。例えどんなに再現性の低いバグでも、彼ら開発者にとっては胃に空いた潰瘍と同義だろう。

 オンラインゲームの開発陣は、『創造主』にはなれても『全能者』にはなれない。いくら広大な遊び場を作れても、失策や調整ミス、バグはそこら中から噴出する。

「恥ずかしながら。まだまだ捌き切れていない改善点や要望も多くて」

「大丈夫だと思います。少なくとも僕はのんびり待ちますよ。それにそのくらいでクレームをつけたり、ネットで愚痴を広めるような事をする程、このゲームのユーザーはもう若くないでしょうし」

 彼の心底申し訳なさげな謙遜に、僕は自虐と皮肉を交えた擁護を返してやる。

 新規ユーザーの減少。それはただの一プレイヤーでしかない僕よりも、むしろ開発者たる彼の方がよく知っている筈だ。

「ああでも、空中でメニューが開けないのは流石にまずいかも知れないです。助けも呼べなかったので」

 とは言え、おもねるような意見ばかりでは何も進展しない。今日最も難儀した仕様についてはきちんと伝えておく。

「ええ、それも調整させて頂いております。重ね重ね、ご迷惑をお掛けしました」

 再び彼は頭を下げる。そして、別れを切り出した。

「寛大な御対応痛み入ります。それでは私はこれで失礼させて頂きます。どうか引き続き、この世界をお楽しみ下さい」

 もう何処かへ行くようだ。流石にアップデート直後であるため、花火を見る暇も無いのだろう。

「お会いできて光栄でした。願わくば、また何処かで」

 僕も別れを言っておく。自分が好きなものの製作者のうち一人と触れ合う経験が出来たのは、今日の災難以上に嬉しい。

「私が出張るのは大抵良くない出来事があった事の時ですから、出来れば『この姿』でお目にかかる事が無いように尽力させて頂きます」

「あら、じゃあ普段は」

「ええ。プライベートでは『別の姿』で皆さんの中に紛れ込んでおりますので、きっとまた何処かでお会いする事があるでしょう」

 そう言い残し、ゲームマスターは僕が瞬きする間にその場から姿を消した。

 去り際の言葉は、彼もまた一人のゲーマーとしてここに生きているという事と、何か良からぬ事を企んでも運営側は見ているぞというメッセージだろう。

 花火はまだ上がり続けている。ビーチからは人が減り始め、その分また他の場所が混雑するだろう。

 休憩はもう十分だ。僕はインターフェースを呼んで友人に連絡を取り、彼らの元へとジャンプした。



6.

 後日、僕の手元には謝罪のメールと共に幾ばくかのゲーム内通貨が届けられた。

 そして、とある街では無限に落下しながらアイテムを拾うミニゲームが実装された。そのトレードマークは、半裸の男のモニュメント。体験してみた所、モチーフとなった事故よりも随分楽しいものに仕上がっていた。

 また、地形にめり込んだりすり抜けてしまったりしたプレイヤーキャラを即死させてリスポーン出来るようにした仕様変更も行われた。

 どうやらジャンプ中のインターフェース呼び出しは実装出来なかったようだ。あまりに力技過ぎる代替案の採用を聞き、僕は思わず笑ってしまった。

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垂直落下2032 河岸 悠 @sapporo17

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