異世界でぬるま湯に浸かりながらスローライフを送りたい

向日葵畑

第1話 はじまり

 扉を開けると、そこは一面の銀世界だった。


「……えっ? さむっ…………えっ、雪?」


 実家のお風呂でいつも通り入浴していて、体が温まったところでスウェットに着替えてリビングに移動しようとしていた。いつもと同じ行動のはずだった。だが、脱衣所の扉を開けたその向こうには、雪が降り積もった森が広がっていた。目の前の光景が信じれずに何度も扉を開け閉めしたが、何度開けても雪景色だった。


「俺の頭がおかしくなった? いや、でも息白いし寒いし……」


 脱衣所の扉を開けると寒気がなだれ込んできて、吐く息が白くなる。扉を閉めると何故か寒さは急激におさまるが、ただの脱衣所の扉にそんな防寒対策が施されているとは思わない。


 もう一度扉を開けて、右足を一歩外に出してみる。靴下はまだ履いておらず裸足だった。


「つめたっ! えっ、本当にこれ雪なのか?! ドッキリとかじゃなくて?!」


 右足で踏みしめた雪は、本物の雪の様にとても冷たかった。夢でも見ているのではないかと自分を疑ってみたが、足裏の冷たい感触で自分の置かれた状況が徐々に現実味を帯びてくる。


「よく分からんけど、足洗おう……」


 行儀は悪いけれど洗面所に片足を上げてお湯を出して洗った。既にスウェットの上下を着てしまっているので、風呂場の洗い場へ戻って洗うと服が濡れてしまうのではないかと思って横着をした。


 目の前の鏡には、覇気のない表情をした青年の姿が映っている。黒目黒髪の、平均的な体形をした日本人男性だ。27年間見慣れた自分の顔。



 俺の今いる場所は実家の風呂場のはずだった。家自体は田舎の一軒家でオンボロだが、最近トイレと浴室とキッチンをリフォームしたので、この場所だけ見れば新築のように綺麗な造りになっている。リビングとつながる廊下からこの場所に入ると、目の前に洗面台と脱衣所があり、左手にはトイレに続く扉、右手には洗濯機がありその奥には浴室に続く扉がある。


 試しにトイレの扉を開けてみたが、トイレはちゃんとそこにあり、浴室の扉を開けてみるとやはりちゃんと浴室があった。廊下に出るこの扉だけがおかしかった。


「どういうことだ? 竜巻に巻き込まれて家がどこかの地方に飛ばされた? それともうちの家以外が全部沈没した? いやそれ何十年前の映画だ。そもそも森だし……」


 確かに季節は冬だったが、雪が積もるような地域ではなかった。それに廊下やらリビングやら階段やらはどこへ消えてしまったのだろうか。


 竜巻に巻き込まれたとするならば近くに家の残骸が転がってるかもしれなかったが、頭の中が混乱しすぎていて探しに行く余裕はなかった。見つかったとしてもバラバラだろうし、どうしようもない可能性がある。


 脱衣所をウロウロしながら気持ちを落ち着かせ、もう一度廊下へ続く扉を開けてみた。やはり鬱蒼とした森と一面の銀世界。


 空を見上げると遠くに、月なのか太陽なのかよく分からない球体が十個ほど浮かんでいる。色とりどりのそれらは、いつだったか後輩の女性社員から貰った惑星チョコレートのようだった。あの時ホワイトデーの事を完全に忘れていて、かなり怒らせたんだったな。


「ストレスで頭がおかしくなった説が一番濃厚だな。ちょっと寝るか……どうせ夢オチだろ?」


 独り言を言いながらも目の前の現実を拒否し、脱衣所の片隅にバスタオルを重ねて敷いて寝ころんだ。床が何故かほかほかと温かい。床暖房とか付いてなかったはずなんだけど。そういえば扉の向こうには雪と森しかなかったのに、洗面台の蛇口からはお湯が出ていた。なぜだろうかと考えようとしたが、頭が疲れ切っていたのかそのまま意識が薄らいでいった。




 眠っている間に夢を見た。家のリビングで父と母と俺の三人で食事をしていた。


 新卒で入った会社で五年近く働き、そこで使い潰されて退職した俺を励ましてくれる両親。テーブルには俺の好物ばかりが並んでいた。次の仕事すぐ見つけるから少しだけ世話になるよと話す俺に、両親は奏風かなたが元気になるまでゆっくり休んだらいいと言ってくれていた。


 場面が切り替わり、白い布を顔に被せられた両親に対面する俺がいた。父の運転する軽自動車がトラックに潰されたという説明が耳に入ってくる。だから軽自動車じゃなくて頑丈な普通車に買い替えるように何度も言ったんだ。


 そうだ、これから通夜に葬式に近所への挨拶回りに役所で手続き、親戚や保険会社との連絡とかこの家をどうするかとか、諸々考えないといけないんだった。それ以外には何があるだろう。とにかく俺史上最高に面倒くさい事が目白押しに違いない。一人っ子だから当然それは全部俺一人がすることになるのだろう。


 喪主とかも面倒くさいな。一緒に逝けたら良かったのに。


 タイミングが良いのか悪いのか、今は休職中だから時間だけはある。だけどもう勘弁してほしかった。





 ドンッドンッと響く音に、ふとまどろみから覚める。目を開けた時の見慣れない風景にぎょっとしたが、そういえば脱衣所で寝ていたのだった。


 誰かが扉を叩いている。それもかなり強い力で。部屋全体がその衝撃で揺れていると錯覚するほどだった。救助隊が来たのかと飛び起きて、思わず扉に駆け寄って開けそうになったが、何かがおかしい。脱衣所の扉には鍵なんてついてないし、普通にドアノブを捻って扉を開ければいいのではないか。


 何となく嫌な予感がして扉をじっと見つめていると、視界の端で何かが光った。目線だけを動かすと、7インチか8インチくらいの手のひらサイズのタブレットが起動していた。


 このタブレットは長風呂をする時に音楽を流す為に両親が購入したもののようで、透明のビニール袋を被せて脱衣所に置いてある。脱衣所で音楽を大音量で再生させて、風呂場のドアを少し開けて聞いているらしかった。田舎の一軒家だから近所迷惑にもならない。セットしてある曲は歌謡曲とか古めの曲しか入ってなかったので俺は使わなかったけれど。


 そのタブレットが起動し、マップ画面が立ち上がっていた。そのマップは見慣れた実家周辺の地図ではなく、ドット絵のゲーム画面のような簡素なものになっていた。中央に長方形の四角い建物らしき図があり、その真ん中に黒い丸が重なっている。そしてその長方形の四角の外側に赤い丸と灰色の丸があった。赤い丸は先ほどから動き回っている。灰色の丸には動きがない。


 外からの衝撃は続いていたがそのままタブレットのマップを眺めていると、どうやら赤い丸が長方形の四角に近づいた時にこの脱衣所にドンッと振動が来るようだった。試しにタブレットを手に持ってトイレへ移動してみると、長方形の中央にあった黒い丸が端の方へ寄る。俺が元の位置へ戻ると、黒い丸は長方形の中央に戻った。


「何だこれ……! 精密すぎるだろ。今どきのGPSってこんなに正確なのか? でも俺が黒丸だとすると、外の赤丸と灰丸は何なんだ? 他の人間も表示されるのか?」


 新しいシステムがいつの間にか実現していたのだろうか。そんな便利な機能があるなら、電車に乗る時とかにすいてる車両を選んで乗れるのに。


 タブレットを見つめていると、一際大きな音と振動が来て思わず体が震える。恐る恐る扉が無事かどうかを見ても壊れた様子はなく、すぐに静寂が襲ってきた。マップ画面は先ほどと同じく黒、赤、灰の丸が表示されていたが、動き回っていたはずの赤丸が扉のすぐ近くでピタリと静止していた。


「誰が叩いてたか見てみるくらいは大丈夫かな……? 動き止まってるし、もしヤバイ人だったらすぐ扉閉めよう!」


 どうにでもなれという気持ちで、扉を薄く開く。外は夕方なのか薄暗く、足元には白い雪もあった。やはり元の廊下ではなく、俺が白昼夢を見ていた可能性も消えた。


 もう少し扉を開くと、そこには黒く大きな熊のようなものが倒れていた。大型ワゴン車くらいの大きさがありそうに見える。意識はないようだったがまだ息はあるようで、その姿からは明らかに野生で育ったような獰猛な雰囲気が漂っている。口元がべったりと濡れているようだけど、黒い体なので何色なのかはよく分からない。


 嫌な予感しかしない。たまにニュースで熊が市街地に出没したとかやってるけど、この熊の何分の一かの大きさでも大騒ぎだった記憶がある。


「人間じゃなかった……どういうことだ? 熊の体内にGPSが埋め込まれてるとか? それに何で倒れてるんだ? あっ、もしかして脳震盪起こしたとか?」


 もしも本当にあの赤丸がこの熊ならば、あれだけ建物に頭から体当たりしていれば打ちどころによっては脳震盪を起こすだろう。扉の隙間から首を伸ばしてマップの灰色の丸があった辺りを見てみると、そこには立派な一本角の生えたウサギのような動物がお亡くなりになっていた。首元が血まみれでえぐれていて、明らかに絶命している。いや、血なのかは分からない。赤ではなく紫色の液体にまみれていた。あんな角の生えたウサギ、どこの地域に生息しているのだろう。ここはどこだ。


「まさかまさか、流行りの異世界転生とか? いやこれは異世界なのか? 家ごと? いやまさかまさか。熊がいるって事は北海道に家ごと飛んだとか? どんな飛距離なんだ」


 呟きながらも手元のタブレットを見るが、表示されているのは依然として黒、赤、灰の丸だった。


「もしかして赤丸が敵で、灰丸が死亡? このタブレットそんな機能あるのか。意外と高性能……」


 ここが北海道だろうが異世界だろうが、どちらにせよこの熊をこのまま置いておくと、そのうち意識を取り戻してまた体当たりを始めるだろう。目を覚ました熊が諦めてくれるかどうかは分からないし、次は建物が壊れるかもしれない。


 マップの色の事も知りたいし、とりあえず熊をどうにかする事にした。かといって虫も怖がる現代日本人男性に動物の撲殺や刺殺なんて無理だろう。かろうじて剃刀はあるけれど、武器になりそうなサバイバル的なナイフとか持ってないし。動物とはいえ命を奪う事にかなり抵抗はあったけれど、自分の命を守るための正当防衛だと思う事にして方法を考える。


「そうだ! たしか掃除用にアレがあったはず!」


 洗面台の下の扉を開けて中を探すと出てきた、混ぜるな危険の掃除用具たち。ラベルをひとつずつ見て混ぜてはいけないものを選び出す。これを倒れている熊の鼻先に垂らして混ぜてみたらどうだろう。室外だから効かないかもしれないけど、撲殺よりも罪悪感は薄い。


 もう一度扉をそっと開けて、可能な限り腕を伸ばして眠っている熊の鼻先近くに第一剤を垂らす。起きそうにない。すぐさま第二剤をその上に垂らす。自分の鼻をつまむことも忘れない。第二剤を垂らしてすぐ、扉を閉めてタブレットの画面を見つめた。


「あっ、赤がだんだん薄くなってる……経過も分かるのか? どんな仕組みなんだこれ」


 外から微かに獣の唸り声が聞こえた気がしたが、聞こえないふりをしてマップを見つめる。赤丸の色が薄くなりやがて灰色になった。深く考えずに混ぜるな危険を混ぜてみたけど、効果はばっちり出たようだった。


 付近に漂っているであろう有害な気体を自分も吸い込んでしまわないように、たっぷりと時間をおいてから扉を開けてみると、熊は同じ場所で倒れたままでいた。先ほどまでは息があるように見えたが、今はピクリとも動かない。こと切れているのか、マップの丸は灰色が二つになった。


 マップにはもう赤い丸はなかったので、扉を大きく開けてみる。すると日の沈みかけた遠くの空には、惑星チョコレートのような物体が先ほどとは違う配列で並んでいた。建物の近くに、紫色の血をまき散らしながら横たわる角の生えたウサギ。ここは地球じゃないんだろうと確信してしまった。



 俺はどうなってしまったのだろう。脱衣所ごと異世界に転移したのだろうか。それにこの建物はどうなっているのだろう。洗面所の蛇口からお湯は出るし、風呂場の液晶パネルも操作できたし、トイレも水を流してみたら問題なく流れた。電気は煌々とついているし、ドライヤーや洗濯機といった家電もスイッチを入れてみたら動いた。生命線となり得る水や電気が途切れない事を祈るばかりだ。


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